24.殺めるなら優しく優しく、 後編
「誰!?」
振り返った先、背丈ほどある生垣の影から、一人の男性が姿を現した。
「すまない。驚かすつもりはなかったのだが……」
ぱっと見た時、クリスティアナは一瞬、得も言われぬ不安を覚えた。
どんな時でも初対面の相手は、男女の区別はもちろん、年齢も計るものだろう。だが、目の前の男は、若くもあり、ある程度歳を取っているようにも見え、年齢不詳に見えたのだ。あえて言うなら、壮年。背筋がよく伸びているからだろうか。若々しく見える。中肉中背、良くも悪くもとりわけて目立つところはない。あえて目を引くところがあるとすれば少し下がりぎみの目尻と、柔らかそうな薄茶色の髪だろうか。着ている服も仕立てはいい。過度な派手さはないが、あまり目立たない。いや、目立たないようにしているのだろうか。
一瞬、誰だっけ、とクリスティアナは首を傾げた。どこかで見たことがあるような気がする。
その男は、ゆっくりとクリスティアナに近づいてくると、空色の瞳をふと和らげた。
「なかなかいい音がしたと思ったが、やはり赤くなっているね」
自らの頬を指さし、クリスティアナに現状を伝える。
「あなた、聞いていたの……」
聞かれて当然の声量で話していたのだから当然だが、聞き耳を立てられていたのかと思うとあまり気分のいいものではない。
眉間に皺を寄せると、男は平然と言った。
「聞こうと思って聞いていたわけではないが、自然と耳に入ってきたからね」
「それは失礼しました。こんなところに先客がいるとは思いませんでしたので」
どうやらもともとこの男がいたところに、クリスティアナ達が後から来たようだ。だが、いかに年上の男性とはいえ、女同士の会話など、せめて聞かなかった振りぐらいしてもいいだろうに。
「これは機嫌をそこねてしまったかな。悪気があって聞いていたわけではないのだが……場所を移動するにしても、気づかれて彼女たちに恥をかかすと後々君にとっても良くないと思ったし、無駄に注目も浴びたくはなかったのでね」
つまり、隠れていた方が、お互いの為だっただろうと言っているのだ。結果として、クリスティアナには気づかれてしまったが。
言い訳がましい、とは思いつつも、一理あった。
「……他言、無用でお願い致しますわ」
深くため息をつくと、クリスティアナは不機嫌に言った。こんな馬鹿馬鹿しい言い合い、自分にとっても令嬢たちにとっても醜聞でしかない。
「了解した。しかし――君の啖呵はなかなか良かったよ」
思い出したのか、空色の瞳の男は、喉を震わせて笑った。
「最初は一方的に言われっぱなしだったからどうしたものかと思っていたが、いや、まいったよ」
「もしかして、侮辱しているの?」
「いや、褒めているよ。久しぶりに爽快な気分にさせてくれた」
どうやら本心から言っているようで、クリスティアナも一瞬激高しかけた気分が、少し落ち着く。
気が逸れたからか、不快だった気分が少し凪ぐ。令嬢達とやりあった後は、意外と消耗するのだ。口では勝って気分はいいが、内心、愉快な気持ちとは言い難い。
彼女達にどのような事情があるのか知らないが、結婚に対してあれほど必死になること自体、クリスティアナは未だに理解できない。我ながら冷めていると思うが、飛んできた火の粉を払うにしろ、本来ならこのような言い合い、無意味でしかないだろう。無意味に傷つける。それが愉快な気分になるだろうか。
自分のしていることに矛盾を感じるのだが、いつも納得した気持ちになれないので、それはそうと、と気分を変える。目の前の男を、多少の警戒を込めて見やる。
「ところで、あなたはなぜこんなところに?」
このような人気のないところに用があるとすれば、クリスティアナたちのような一件か、逢瀬ぐらいなものだろう。夜会の場ではよくあることなのだが、少なくとも一人でいるのならばそれらは理由にはならない。
「ん? まあ、散歩ということにしておいてもらおうかな」
どこか空とぼけた調子で、のらりと躱そうとするので、ますます胡散臭さは募るというもの。
会場からは程よい距離だが、クリスティアナが悲鳴でも上げたら聞こえない距離ではないだろう。一応、至らぬ一件を見られたこともあり、相手の素性を確認だけでもしておいた方が後から後悔しないですむかもしれないと思った。
不信感もあらわにうろんな眼差しを向けると、あらためて男を観察する。
「不審者……、にしては身なりはきちんとしていらっしゃるようですし、お名前をお聞きしても?」
不躾ながらじろじろと視線を向け、単刀直入に聞いてみる。
紳士ならば普通、名乗って当たり前である。
がだ、逆に男は衝撃を受けたように、呻いた。
「……不審者――。いや、そうだな。こんなところで一人でいると、不審この上ないか。最近は若い人と、あまり面識を持っていなかったし……」
かなり意表を突かれたように呟くと、一人でなぜか納得している。
「あの?」
答えにならない返答に、渋面を作ってしまったのは仕方がないだろう。
クリスティアナの苛立ちが伝わったのか、男は、実は――とようやく素性と目的を語った。
「フラムスティード公爵とは縁戚にあたってね、たまには機嫌を窺っておかないと色々と不都合があるんだよ」
これまた上手い具合に躱されたことに、さすがのクリスティアナも溜息を隠そうとしなかった。
「縁戚と言っても、それを証明するものなどありませんわよね」
「……困ったな。名前を言っても、それが本名かどうか分からないと言われそうだね」
「……」
「当たりかな」
さすがに年配なだけある。クリスティアナごとき子供の手をひねるようなものなのだろう。
口が達者であると自負しているクリスティアナのさらに上を行く雄弁さである。
口をへの字に曲げると、男は愉快そうに目じりに皺を寄せ、提案をしてきた。
「では、こうしよう。公爵とは縁戚だが、本名を告げることは少し……憚られてね。困ったことがあれば、レイという男を知っているかと公爵に尋ねたらいい」
「レイ?」
「そう言えば公爵なら分かるだろうから」
それ以上、空色の瞳の男は口を割りそうにないと理解したクリスティアナは、諦めと同時に深く息を吐きだした。
「……その言葉を、信用するしかないのね」
念のためと思ったが、おそらく困ることはないだろうから、これ以上聞く必要もないのかもしれない。あまり聞きすぎて、逆に興味があると思われても嬉しくないことである。
「分かりましたわ。もうこれ以上お引止めいたしません。どうぞ会場へお戻りください」
屋敷への道を譲り、庭木の側に身を寄せると、男は怪訝な顔をし、かすかに身をかがめて視線を合わせてきた。
「きみは戻らないのかい?」
「頬の赤みが引かないと、友人が心配をしてしまいます」
先ほど令嬢に打たれた頬が未だに熱い。本当なら冷やすなりした方が赤みも早く取れるのかもしれないが、痛みはかなり引いている。もう少しだけ、ここで時間をつぶそうと思っていた。
それに婚約者のことを思い出すと、広間に戻ってもあまり楽しいことはないだろうから。
「――女性がこの暗闇で一人というのも危ないと思うのだが」
少し頭を傾げて呟く男に、すかさずクリスティアナは冷ややかな笑顔で答えた。
「見知らぬ男性と二人きりというのも危ないような気がしますけど?」
「……やはり君の中ではまだ、私は不審者のままなのだね」
「……」
確認とも取れる言葉に、笑顔を固めたまま無言を貫いた。
先ほどのやり取りでどうやって信用すればいいのか疑問だ。
それにしても、と、クリスティアナは先ほどからずっと頭の奥で、この男のことが引っかかっていた。不審者、というか、どこかで見たことがあるような気がして仕方がない。どこかの夜会で見かけたのだろうか。公爵の縁戚が、どういう関係だったかと思いを巡らせる。
貴族社会は辿っていけば、遠い血縁関係でつながっていると言っても過言ではない。だから公爵の縁戚なんて言葉で誤魔化されるのは癪ではあったが、一つだけ教えてくれた名前に鍵がある。
――レイ?
何かを思い出しそうで、小骨が喉にかかったような気持ち悪さに眉をひそめた。
それを不機嫌と取ったのか、男は一つ溜息をつくと、苦笑した。
「これは、仕方がないな。……では、あとで屋敷の者に冷やした布を持ってくるよう伝えておこう。次会うことがあったら不審者などと思われることがないように気をつけなくてはな」
そう言うと、素直にクリスティアナの前を通り過ぎ、広間の方へと足を向ける。だが数歩進むと、顔だけを向け、穏やかな笑みと共にそれを口にした。
「では、また――クリスティアナ嬢」
名乗ったはずのない名を、その男は知っていた。
しかしよく考えてみれば、令嬢達との会話から、エイドリアンの婚約者であることや、王太子の婚約者が友人であることを吟味すれば、おのずとクリスティアナがエヴァンス伯爵家の娘であることは知れるというものだ。
あれからしばらくすると、屋敷からお仕着せを着た女性が冷やした布を持ってきてくれた。クリスティアナの頬を見て、すでに赤みが落ち着いてきているのを見やると、共に広間に戻るよう進言してきた。
確かに、人気のない庭にいつまでもいる趣味はない。
タオルを彼女に渡して、熱気のこもる広間へと戻り、パメラを探しながら人波を歩いていた時、ようやくクリスティアナは喉の小骨が取れたようにすっきりした。
同時に、額に手を当てるように頭を抱えた。
「なんてこと……」
視線の先には、パメラとエドワーズ王太子。
誰かに似ていると思ったのは、王太子だ。
夜の闇に紛れて薄茶色の髪だと思ったが、あれは蜂蜜色の髪だ。瞳も、顔立ちも、よく似ている。当然、年齢は違うが。
そして公爵家の縁戚。王妃の実家。レイと言う名。――レイモンド国王陛下。
つながる証左が事実を述べている。
「――……なんでこんなところに一人でいらっしゃるのよ……」
怨嗟のごとく呻くと、自らの行動を振り返る。
今更考えても仕方がないのだが、失礼極まりない言質を取ったのは言うまでもない。
国王陛下を不審者などと――。
乾いた笑いを一人浮かべると、パメラとエドワーズがクリスティアナに気づいたのは同時だった。
「クリス?」
「どうしたんだい?」
二人は一人百面相をしているクリスティアナに近づいてくると、怪訝な顔で見つめてきた。
「……エドワーズ様は、御存じでしたの? その、陛下がいらっしゃっていること」
戸惑いながらも、違うと言ってほしいことを願いつつ、頭のどこかでそんなことはないと理解している自分が嫌になる。
胸にせりあがるざわつきを飲み込み、一縷の望みをかけてエドワーズを見つめる。
「ああ、会ってしまったのかい? 夜会の雰囲気を壊さないよう、目立たないように公爵と会うとおっしゃっていたけど」
別段気にした素振りも見せず、明るい空色の瞳を向けてくるエドワーズに、聞かなかったことに出来たらどんなに良かったかと、深々とため息を吐き出した。
天を仰ぐクリスティアナは浮かない表情を浮かべつつも、興味津々のエドワーズをちらりと見やる。パメラも心配という二文字を顔に張り付けている。
内心、どう言ったものかと悩みつつ、令嬢たちのことはだんまりを決め込み、庭であった出来事を正直に話すことにした。
「いえ、その、ちょっと――不審者と間違えてしまって……」
会話のやりとりを簡単に説明する。
自分の迂闊をさらけ出すようで恥ずかしかったが、エドワーズとパメラは顔を合わすと楽しそうに噴出した。
「珍しいわね。クリスがそんな失態をするなんて」
「いや、父上が悪いだろう。庭で女性を驚かせて名乗らないなんて、私がクリスの立場でも不審者扱いをしてしまう」
伯爵家の令嬢ごときが、そうそう国王に謁見できるわけではない。王宮での夜会も年に何度もあるわけではないし、実際クリスティアナも社交界に出てからというもの、遠目から片手で足りるほどしか見たことがなかったのだ。
まして、普通の貴族に混ざっても分からないような出で立ちをしていれば、直結する方が難しいだろう。
「クリスは気にしなくても構わないよ。父上もこの度はお忍びで来られているようなものだし、この会場にいる者たちも気づいても、気づかないふりをして遊んでいるだけだから」
「そのようなものですか?」
社交の場の礼儀はある程度知っているつもりだったが、どうやら国王陛下は意外と身軽に外出しているようだ。それは偏にこの国が平穏である証拠ともいえる。
それにこの夜会は、公爵が留学する孫のために開いたものでもある。そこに顔を出さないわけにもいかなかったのだろう。
「母はあまりいい顔をしませんけどね」
そう言えば、と思い出す。
王妃はしきたりを大切にする方だと聞いたことがある。その後エドワーズから聞いたところによると、今回も実家である公爵家に顔を出していないようだった。
つまり舅に一人で会いに来たわけか。機嫌を伺っておかないと、とか何とか言っていたところによると、国王と言ってもなかなか辛い立場である。
「エドワーズ様がそうおっしゃるなら、気にしないことにいたします」
失礼を咎められる心配はなさそうだと思うと気持ちが軽くなった。
これでも一応、伯爵家の跡継ぎである。婿を取るとはいえ、失態はない方が好ましい。
婿――。
頭に思い浮かんだ婚約者の顔に、いやこの際、迷惑をかけてもいいかもしれないと思ったクリスティアナだった。