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翌日の日曜日。
「かめきちが死んじゃった」
お母さんの声にぼくは飛び起きた。リビングの窓際にお父さんが立っていて、水槽の中に手を入れてかめきちを撫でていた。ぐったりした顔の先にチィッシュの切れ端を当てて、動くかどうか見ていた。
「ぜんぜん動かなくなってる。息もしていない」
お父さんはそう言うと、ささやくような小さな声で、
「きっと安心したんだね。病院に行って。最後の力を使って。でも結果が分かって、みんなに迷惑掛けないように、って、いってしまったんだ、きっと。本当に最期までいい子だったね」
お父さんの目が真っ赤だった。
「お別れしなさい」
ぼくは恐る恐る近付いて、水槽の中を見る。プラスチックの浮島にガーゼを乗せ、その上にぐったりしたかめきちのアゴを乗せていたけれど、その閉じない目がじっとこちらを見ている。しばらく眺めて見たけれど、もう苦しそうに首をもたげたりイヤイヤをするように動かしたりしなかった。両手両足がだらりと伸びたままだった。本当に死んでいた。
涙が零れたけれど、声が漏れたけれど、その時はまったく恥かしくなかった。後ろでお母さんが鼻を啜っている。お父さんはぼくの肩越しに水槽の中を見下ろして動かない。ぼくは湿らせたガーゼで包んだ甲羅をなでて、伸びたままの手をさすって、伸ばしたままの頭をなでた。そして心の中で言う。さようなら。
「部屋に行っていい?」
「うん」
ぼくはお母さんに場所を譲って自分の部屋に行く。そのままベッドに突っ伏すと、その日は携帯もゲームもやらずにずっと寝転がっていた。
朝になるとお父さんが早起きして、裏庭に掘った穴にかめきちを入れた。お母さんがまた涙を拭っていた。
ぼくは自分の二階の部屋からそれを眺めていた。両親と一緒に埋めるのは何だか嫌だったから。ひとりだったら自分で埋めただろう。でもかめきちは家族だから、両親にも忌う権利がある。
見ている内に穴は埋まって、小さな土まんじゅうが出来た。よくかめきちがひっくり返して遊んでいた、岩もどきのプラスチックのシェルターが墓石代わりに埋め込まれた。両親は線香を一本ずつ立てて祈っている。それを見下ろしていると、なんだかぽっかり穴が開いたような、とても疲れたようなそんな気分がした。もう見ていられなくて、ぼくは学校へ行く用意をする。もう窓の方は見ないでスウェットを脱ぐ。本当はぼくだって線香を上げたい。でも素直に行動出来ないのは何故だったんだろう?
あれから十日経った。何かの拍子にお父さんの撮った元気な頃のかめきち、そのピンボケのとぼけた顔のアップ。それは写真立てに入れて空の水槽の中に入れてある。今もそのパネルを見ると少し目頭が熱くなる時がある。
こういうのをペットロスと呼ぶらしいけれど、そんなへんな名前で呼んで欲しくない。少なくとも寝込みはしなかったし、ちゃんと学校にも行っている。けれど友達にも明かせない。そんなことを言ったら、たかがカメのクセにおかしいやつとか馬鹿にされるし、変なあだ名で呼ばれるに決っているから。自分たちも厨ボウのクセに厨二病とか言われるに決まってるんだ。
大人はいいなと思う。泣きたい時に泣いても誰も何も決め付けない、少なくとも表面上は。でもぼくは泣きたくなったらトイレに行って涙を拭うしかない。それは両親の前、家でも一緒だ。
裏庭にあるお墓。お母さんが周りをきれいな木の柵で囲ってマリーゴールドの種を植えた。もう芽が出ている。きっと二ヶ月もしたら黄色とオレンジの花で囲まれるんだろう。
部活から帰った夕方、出来る時は必ず線香を一本立てる。少しだけ墓石代わりのシェルターに手を当てる。西日を浴びた後でまだほんのりと温かい。また目頭が熱くなり慌てて家に入る。
きっと後一ヶ月もしたら、そんなことはしなくなると思う。またカメを飼いたくなるかもしれない。でもかめきちの想い出はきっと心の奥底に沈んで、ずっとそこにあるんだろう。ぼくが忘れてしまっても、ずっとあるんだろう。それはとても大切なものなんだろう。きっとずっと後になって、ぽんと思い出すこともあるんだろう。
かめきちはペットなんかじゃない。家族で弟だった。
とても大切な何かを無くすと、とても悲しいことを教えてくれた。
大切なものは値段や見てくれで決められないことを教えてくれた。
大切なものは面倒でも、きちんと見ていかなくてはならないことを教えてくれた。
大切なものとは必ず別れがあることを教えてくれた。
そして人ってやっぱり勝手でおかしな生き物だと思う。
たかがカメなのに。自然界では毎日誰にも看取られないで死んでいっている無数の小動物のひとつなのに。
なのに、かめきちを思うと泣きそうになるんだから、ぼくも自分勝手な生き物なんだ。
そんなぼくが願うこと。
カメにも天国があるといいね。
そこで、お父さんやお母さんとあえるといいね。
そこはきっと自由だから、ずっと食べられなかった乾燥エビをお腹いっぱい食べるんだよ。
また会えたら、いいね。
ぼくがきみに会えるのはずっとずっと先のことだと思うけど、
ぼくのことを覚えていて欲しい。
その時はずっとずっと頭を撫でさせてね。
それまでは、さよならだ。
だいすきな、とてもたいせつな、
ぼくのかめきち。