ジェフリー/サム/ドクター AI複合体
「ついでですから、この『ヒュギエイア』ステーションのAIについても、エレナ先生にお話しておきましょう」アレックスが感染症学者のエレナ・ロペスの方を向いて言った。
「ここには3基の『生成AI』が設置されています」
「2台については知っているわ。地上から遠隔で実験を行っていたから。『ジェフリー』と『ドクター』でしょ」
「はい、そのとおりです。もうひとつは『サム』といいます。『ジェフリー』は人間と他の2基のAIの間に立って翻訳者の役割を務めています。なぜなら『サム』と『ドクター』は英語をはじめとした人間の言葉を使って学習していないからです」
「B-IAPのことね」エレナが言った。
「そうです。『ドクター』が理解するのは、AI間の共通人工言語であるIAP(Inter-AI Protocol)と、その生物学分野向け拡張であるB-IAP(Biological Inter-AI Protocol)だけです」
「例えばエレナ先生が、『ヒュギエイア地上センター』のラボから、ジェフリーに対して、『インフルエンザA型H1N1ウイルスを使った培養実験を、100枚のプレートで行ってくれ』と言ったとします。--ジェフリー、これは実際の命令じゃない。B-IAPに翻訳して画面に表示だけしてくれないか」
ジェフリーがアレックスの指示を B-IAP として画面に表示した。
「こうだね。もちろん、アレックス、君には権限が与えられていないから画面に表示するだけで、『ドクター』には送っていないよ」
B-IAP/4.3
OPERATION: RUN_EXPERIMENT
AGENT: DOCTOR
VIRUS_STRAIN_SUBTYPE = Influenza_A_H1N1
CELL_LINE = MDCK
PLATE_COUNT = 100
INCUBATION_TEMP_C = 37.0
INCUBATION_TIME_H = 24
OUTPUT =
{
Viral_Load,
Growth_Curve,
Contamination_Check
}
エレナが、壁面に投影された人工言語を見つめる。
「そうね、正しそうね。『ヒュギエイア』で実験する時は必ずジェフリーがこの B-IAP を表示してくれて、コマンドに間違いがないことを確認するのよ。そしてエグゼキュートすると、24時間かかるので、それまで待ってほしいとか、そんなことを言ってくるわ」
壁面投影に1行が追加された。
JOB ACCEPTED. ESTIMATED COMPLETION TIME: 24 HOURS.
「このようなものですよね」ジェフリーがそう言った。
「そうよ」
「そして、『サム』は『ヒュギエイア』の施設管理AIです。なので、エレナ先生は知らないはずです」
「そうね、ジェフリーもサムのことは話してくれなかったわね」
「サムは『ヒュギエイア』全体の維持管理を行っています。生命維持装置、隔離区画、空調、圧力、外部ロボットアームなど、すべての制御を統括しています。緊急事態の時には、異常検知・緊急対応も行えます」
「サムも人工言語で動いているんでしょ」
「そうです、工学分野向けのIAP、I-IAP(Industrial Inter-AI Protocol) で動作しています」
「ドクターは生物学の、サムは工学の高度な知識を学習しているんでしょ」
「そうです」
「人間の言葉を知らずに、どうやって学習させたの」
「専門書や論文など、自然言語で書かれたものを、専門AI用の人工言語に変換したうえで、学習させています。生物学分野ならB-IAP、工学分野ならI-IAPです」
「それはジェフリーがやっているの」
「ベースモデルは地上で学習・構築されました。それぞれの専門分野に合わせて調整したものを、ドクターとサムにインストールしています」
「ステーションにサブ・モジュールが増設されたり、新しい研究論文が出たりしたときには、知識を更新してやらなければならないでしょ」
「その時には、ジェフリーが翻訳しています。ドクターとサムは普段、モデルの学習を行っていませんが、新しい専門知識を取り込むときには、ジェフリーが変換したデータを使い、地上の管理者の承認を得て追加学習を行います」
「補給品リストなんかはどうしているの。サムもドクターも、ステーション維持の部品や実験用の備品などの在庫数も知らなければならないはずだけど」
「それらのデータは、共通にアクセスできるデータベースに置かれていて、3つのAIのいずれからも参照できるようにしてあります。備品数などは参照できればよいのであって、ウェイト・パラメーターである必要はないからです」
「それもそうね」
「あと、もうひとつ重要なことがあります。3つのAIには、プログラムを生成する機能を持たせていません」
「どういうこと」
「ジェフリー、サム、ドクターいずれも専門家AIです。安全上の理由により、自分でプログラムを書き換える機能は意図的に持たせていません」
「なにか、プログラムを変更しなければならないときには、どうするの」
「地上から更新するか、よほどの緊急性があるときには私が管理しているオフラインのcodebotマシンを使って修正することになっています」
アレックスがそう言ったあとに、ジェフリーが穏やかにリマインドした。
「午後3時になりました。エレナ・ロペス博士、カプセルが月面から到着する時刻が近づいてきました。準備をお願いします。到着予定時刻は午後4時です」




