翻訳機
マルコがトマト味のカップ麺、ミアがハンバーガーを片手に持って、アレックスのタブレットを覗き込んでいる。
「あ、ほんとだ、x1, x2 をとっても収束した」ミアが言った。
先ほどアレックスが言っていた dw1, dw2の計算式のところだろう。
「よし、じゃあ、それは元に戻して、次は学習率 eta を大きくしてみよう」これは、マルコ。
二人がアレックスのタブレットを使い、先ほどのプログラムを変更しながら色々試していた。
その隣ではエレナとアレックスが話していた。
「この研究所は、重力があるため沸騰水が作れるんです。なのでカップ麺がおいしいんですよ」アレックスが言う。
微小重力状態の宇宙船、たとえば2026年のISS(国際宇宙ステーション)では熱湯を安全に利用することが難しい。
微小重力下では気泡の浮力による分離が起こりにくく、加熱した水の中に気泡が残ったり、液体が予想外の動きをしたりするからだ
そのため熱湯が飛び散って乗組員が火傷をする恐れがある。
なので、当時のISSでは食事に使用する湯は70度までと決められていて、それでもおいしく食べられるようなカップ麺が宇宙食として提供されている。
アレックスのチキン味のカップ麺にはホウレンソウの『おひたし』が入っている。これは『ヒュギエイア』居住棟で水耕栽培されたものだった。
エレナが手にしているサンドイッチも、本体は地球から運ばれてきた宇宙食だが、生のレタスが挟んである。これも宇宙で栽培されたものだ。
種と濃縮液体肥料を地上から持って来ている。
レタスがあるだけで、ハンバーガーが格段にうまくなる。
「アレックス、このプログラム、学習率などを多少変更してもたいてい収束するわね」医師のミアが言う。
「収束するように作ってあるからです」といって、アレックスが微笑む
食事が終わり、アレックスが言った。
「みなさんが知りたいのは、『生成AI』に話しかけると、人間と同等か、人間以上の回答が返って来る仕組みです」
「そうよ」ミアが言う。
「そこにたどり着くには、かなり長い道のりなのですが、たとえ話をしながら、なんとかたどり着いてみましょう」
「まず、機械翻訳機を考えることにします。日本語で話したら、英語で返す、というようなものです」
「翻訳機は、入力も出力も自然言語です。なので、機械翻訳機ができれば、会話の出来るAIもできるだろう、そう考えられてきました」
「そうなの」
「例えば、日本語と英語ですと、語順など、まったく異なります」
「なるほど、ではそうだということにしておこう」
「私はよく、この例を使って話します。『吾輩は猫である<wagahai ha neko de aru>』と『I am a cat.』です。両者は同じ意味ですが、文法的、あるいはレトリックとしては、かなり異なります」
「wagahai が I という意味ですか」
「そうです。ただし、かなり尊大なニュアンスがあります」
「『吾輩』は代名詞、『は』は係助詞、『猫』も名詞、『で』は助動詞『だ』の連用形、最後の『ある』が動詞です」
「動詞が末尾にくるのか」と、マルコが言った。
「そうです。係助詞は副助詞ともいいます。係助詞という分類は日本語の古典文法に寄っています。なにかを特別に示したり、区別したりする助詞です。
「また『だ』という助動詞は『断定』を意味します。連用形というのは、用言、つまり動詞や形容詞などのことを言いますが、に続くという意味です」
「そして、最後の『ある』がまさに動詞になります。この文においては、英語の『am』と同じです」
「ずいぶんと違うのね。不定冠詞の『a』が、係助詞『は』に近いのかしら」
「文法的には異なりますが、そのようにも見えますね」
「『である』の『で』に相当するものが英語には見当たらないな」
「そうですね。単純に単語を入れ替えればいいというものではありません。また『連用形』だから、次に動詞が来る、などの一定のルールも持っています」
「たったこれだけでも、簡単に翻訳できるものではない、ということはわかった」
「さらに、日本語は英語よりも、語順の入れ替えの自由度があります」
「自由度って」
「たとえば、『猫である、吾輩は』と言っても日本人は理解します。そして両者に微妙なニュアンスの相違をとらえるようです」
「まあ、英語でも詩的な表現としてなら『A cat, I am.』と、言おうと思えば言えるけどもね」
「そんな感じです。さらに日本語は主語を除いて話すことも多いです」
「わかった。日本語のことは、それくらいいしておいてくれ」




