月面基地『羽衣』
2060年。月面の南極付近。
日本の採氷基地『羽衣』の隊長、田所が自室にいた。
月の南極付近のクレーターには『永久影』と呼ばれる部分が点在している。ここは常に日光が射さないので極端な低温が維持されている。
その温度はマイナス200度以下で、氷がほとんど昇華しない。そこに、太陽風によって月面で生成された水や、彗星などに由来する水が運び込まれると、長期にわたり保存・蓄積される。
量は数億トンから数十億トンに達する可能性あると考えられている。
採氷基地とは、その氷を採取して利用するための施設だった。地球上の主だった国が月の両極にこのような氷工場を建設している。
壁面投影式のディスプレイに文字が流れる。
月地下からの氷の採取量、基地の様々なパラメータ。電圧、消費電力、酸素や食料などの在庫量などが下から上へと流れていく。
簡単なお知らせのようなものも流れてくる。
『……8月10日は衆議院議員選挙の日です。月面で国政選挙に投票する際には7月31日までに『月面選挙人証』発行手続きを行ってください。』
現在はネットにより遠隔地からもオンラインで投票できるのだが、手続きだけは残っている。ばかばかしい。そう田所が思った次の瞬間だった。
ディスプレイに赤い文字が現れ、点滅した。
「X国の月面南極基地がメーデーを発信。医療上のアクシデントが発生」
これは何だ、そう思い田所隊長が画面に目をこらす。と、同時に柔らかい男性の声が響いた。
「田所隊長、ちょっといいかな」
基地の生成AI、『オキナ』の声だった。
「X国の採氷基地のことか」田所が答える。
「そうです。メーデーを発信してきた」
メーデーとは無線による遭難信号だ。人命が危険にされされているような緊急事態の発生と救難要請を意味する。
「メーデーの発信回数と、発信方法も教えてくれ。医療上のアクシデントということだが、どういうことか、それもだ」
「メーデーの回数は3回。月面上の位置座標も発信している。発信方法は中波が1つ、超短波が2つ、極超短波が1つ、それとLunarNetを介したパケット通信だ。正式な遭難通信の手続きに従っている」
『オキナ』が続ける。
「中波は2182kHz、超短波以上は121.5、156.8、243.0MHzだった。無線、パケット通信ともに音声信号で、月軌道上のLunarNet衛星を経由している」
「医療上のアクシデントについては、X国の基地で高病原性のインフルエンザが発生、流行したと言っている」
『オキナ』が録音した音声を室内に流した。
確かに、基地内での高病原性インフルエンザの発生と、大半の隊員の死亡を訴えており、救助を要請していた。
発信者は英語を話していた。
現在の生存者は4名だという。
「メーデー・リレーは行ったか」田所隊長が尋ねる。
「もう行っている。ほぼすべての月面基地、月周回軌道上の『ゲートウェイ』ステーションも受信したとの連絡がきている。地球上からの連絡も来ている」
「JAXAは何と言ってきている」
「日本の『羽衣』基地が、最も近い位置にあるので、防疫体制をとって救助に向かうことを検討しているそうだよ」
「X国の基地だが、採氷のための基地だから、少なくとも数十人は働いていただろう。我々の『羽衣』基地と同様だ」田所が言う。
「そうだろうね」と、『オキナ』
「だとすると、どうして大半の死者を出すまで、黙っていたんだろう」
『オキナ』がちょっと間を置いた。
「それは、わからない」
「それに、インフルエンザというのもなぁ。X国の宇宙飛行士も打ち上げ前の二週間程度は隔離されるだろうし、医学的な検査手続きもあるだろう。インフルエンザを持ち込むなんてことがあるのだろうか」田所隊長が言った。
「それも、よくわからない」『オキナ』が繰り返す。
「メーデーを発信してきた者と会話はできるのか」
「いや、すぐに通話が途絶えてしまっている。現在救援を求めてきた全チャネルを使って機械音声で繰り返し呼び出しているが、反応はない」『オキナ』が答える。
「そうか」




