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狙われた椅子

 ――午前。

 職員室の電話が鳴るたび、空気が一度だけ硬くなる。

 校長の机の端に置かれたメモ帳が、短い線で埋まっていく。

 《保護者:図書館が通報を扱うのは不安》

 《保護者:誰が閲覧しているのか》

 《保護者:子どもの名前が漏れるのでは》

 言葉は丁寧だ。

 丁寧なほど、刃は薄く、深く入る。

 教頭が咳払いをして、校長に言った。

「……一度、形を整えましょう。監査席は外しではなく、一時停止として」

 校長は言葉を飲んだ。

 一時停止。暫定。

 そういう言葉が、学校でどんな意味を持つか知っている。

「止めれば、戻らないこともある」

 校長は小さく言う。

 教頭は笑う。

「戻すための停止です」

 ――その笑顔を、校長は信じ切れなかった。


 同じ頃、図書館。

 古橋司書は、机の上の紙を一枚ずつ整えていた。

 丁寧に並べる指は、震えていない。

 震えるのは、紙のほうだった。

 そこへ、事務局の女性が来る。

 柔らかい声で、硬い通達を落とす。

「古橋さん。今日から、ログの閲覧権限、事務局に集約します。鍵も」

「……鍵を?」

 古橋が顔を上げる。

「ダブルキーの片方を、事務局で保管します」

「監査席の意味が消えますね」

 女性は目を逸らさない。

「保護者の安心が最優先です。誤解が――」

 古橋は、息を吸った。

 言い返す言葉は十ある。

 でも、十言えば燃える。

 だから、一言だけ。

「誤解ではありません。設計を壊す行為です」

 女性の口元がわずかに動く。

 笑いになりかけて、飲み込まれた。

「……では、よろしく」

 女性が去った後、古橋は静かに書類を閉じた。

 そして、引き出しから鍵を出し、掌に置く。

 重さがある。

 金属の重さではなく、仕事の重さ。

(椅子を外す。それは人を外すことじゃない。責任が流れる道を変えることだ)

 古橋は立ち上がり、窓の外を見る。

 雨は止んでいるのに、空はまだ濡れていた。


 昼。

 教室。

 昨日の紙切れの噂は、もう風になっていた。

 声の出し方だけが違う。

 露骨じゃない。

 それが一番怖い。

「伊勢野さんってさ、先生嫌いなんでしょ?」

「だから改革とか言ってんじゃない?」

「被害者ムーブってやつ?」

 笑いは小さい。

 小さいから、止めにくい。

 巫鈴は、反応しない。

 反応した瞬間、舞台になるから。

 代わりに、ノートに一行だけ書く。

 ――論点すり替え。原因の個人化。

 翔吾がそれを見て、唇を噛む。

「……こっちの空気が揺れてます」

 巫鈴は頷く。

「揺れるのは正常。揺れない空気は死んでる」

 そのとき、萌香が弁当袋を持って、机を寄せる。

 わざと明るい声。

「巫鈴っち、ここ座るね。今日ね、卵焼きが勝ち」

 ズーハンも続く。

「GG。今日はゼリーじゃない。プリンだ」

 シャオが肩で笑う。

「パォ~! プリンは正義!」

 笑いが起きる。

 教室の空気が、少しだけ柔らかくなる。

 巫鈴は、その柔らかさを見ていた。

 味方がいる、ではない。

 酸素が増えた。

 火は、酸素が多いと燃える。

 でも、酸素がなければ、窒息するのは火ではなく、人だ。

 巫鈴は、静かに言う。

「ありがとう。……でも今日は、燃えないようにしよう」

 萌香が目を細める。

「燃えないために、何するの?」

「消火器の使い方を教える」


 放課後。

 生徒会室の前。

 掲示板の紙が一枚増えていた。

 《教育現場タスクの透明性要求/保護者会より》

 署名は、PTA有志。

 巫鈴は足を止める。

 それを見た瞬間、背中に冷たいものが走った。

(来た。教師じゃない顔で、教師の言葉が来た)

 翔吾が小声で言う。

「これ、誰が動かしたんでしょう」

「動かしたのは誰かじゃない」巫鈴は答える。

「不安だよ。不安は、操縦できる」

 巫鈴は生徒会室に入り、扉を閉める。

 中には花園凌央(総生徒会長)と、副会長の今井律人がいた。

 机の上に、同じ紙。

 花園が言う。

「伊勢野さん。今日、監査席の件で理事会から連絡が来た。図書館の監査を一時停止。事務局に集約。……ほぼ決定」

 律人が苛立った声を漏らす。

「ふざけてる。監査席を外したら、意味が変わる。都合のいい数字だけ残る」

 巫鈴は座らない。

 立ったまま言う。

「だから、こちらが先に公開する」

 花園が眉を上げる。

「公開?」

「ログの形式を。個人情報は伏せる。でも、形式と手順は公開する。

 誰が鍵を持ち、誰が立ち会い、いつ開封し、どこに保存するか。

 その全てを紙と掲示で出す」

 律人が息をのむ。

「それ、先生たちが嫌がる」

「嫌がるなら、守りたいものがある」

 花園が静かに言う。

「……それは戦争になる」

 巫鈴は首を振る。

「戦争じゃない。消防訓練。燃えやすい場所に火が来た。

 だから、燃えない素材で囲うだけ」

 花園は一拍置いて、頷いた。

「やるなら、生徒会が名義を持つ。伊勢野さんの個人名だと、私怨にされる。

 生徒会の透明性方針として出す」

 巫鈴は、ほんの少しだけ目を細めた。

「……助かります」

「条件がある」花園は言った。

「君も過去を語ることになる。狙われる。そのとき、弁明しないと約束して」

 巫鈴は即答する。

「弁明しない。説明する。過去は私の傷じゃない。制度の欠陥の実例」

 花園が笑った。

「……君は、やっぱり怖い」


 その夜。

 旧館二階。再教育研究会。

 佐藤が苛立って机を叩く。

「監査席を外す前に、公開される。生徒会が名義を持つなら、叩きにくい」

 岸田が薄く笑う。

「なら、叩く場所を変える。集計者の椅子を狙うんだ」

「司書か」大河原が言う。

「司書だけじゃない」岸田は首を振る。

「翔吾だ。あの男子が集計してる。生徒が教師を監視しているという恐怖の顔になる」

 早乙女が頷く。

「弱いところを揺さぶる。家庭、成績、居場所。人は数字より先に、孤独で折れる」

 村山が、初めて強く言った。

「それは……教育じゃない」

 大河原が冷たく笑う。

「教育だよ。余計なことをした者に、結果を教える。それが現場だ」

 村山は言い返せなかった。

 言い返した瞬間、自分が敵になる。

 沈黙が同盟を強くする。

 その構造が、ここにもあった。


 翌日、朝。

 翔吾の机の上に、封筒が置かれていた。

 差出人なし。

 中には、コピーが一枚。

 《注意:学内の録音録画・監視行為は校則違反です》

 《違反が確認され次第、生活指導対象となります》

 《進路に影響する可能性があります》

 翔吾の指が、紙を握り潰しかけて止まった。

「……僕、録音なんてしてない」

 巫鈴は封筒を受け取り、紙を見た。

 そして、淡々と折り畳み、ファイルに入れた。

「してないから大丈夫、じゃない。してないのに脅せることが問題」

 翔吾が唇を噛む。

「僕が、椅子なんですね」

 巫鈴は頷く。

「そう。集計者の椅子。椅子を抜けば、数字は倒れる。だから狙われる」

 翔吾の声が震える。

「……怖いです」

 巫鈴は、そこで初めて、目線を合わせた。

「怖いままでいい。でも、座り続けて。座るっていうのは、戦うことじゃない。逃げないこと」

 翔吾が小さく頷く。

 その背後で、萌香が机を叩いた。

「はいはい。怖いなら、こっち来な。翔吾、今日から昼休み文化部席固定ね。

 勝手に抜けられないようにするから」

「監禁みたいに言うな」沙羅が呆れ、でも目は優しい。

 ズーハンが短く言う。

「GG。椅子を守る。座る奴を守る」

 シャオが拳を握る。

「パォ! 集計者、守護対象!」

 翔吾が、ほんの少し笑った。

 笑ってしまった自分に驚いて、また笑った。

 巫鈴は、その笑いを見て言った。

「――これが消火器。燃える前に、笑いで温度を下げる」


 放課後。

 掲示板に、貼り出された紙が一枚。

 《生徒会:教育現場タスクの透明性方針》

 《ログの形式・開封手順・保存形式(改変不可PDF)を公開します》

 《個人情報は扱いません。扱うのは仕組みです》

 署名:総生徒会長 花園凌央/副会長 今井律人

 協力:教育現場タスクチーム

 人が集まる。

 ざわめく。

 でも、ざわめきは燃料ではなく、確認の音だった。

 巫鈴は遠目に見て、息を吐く。

「椅子を守った。……でも、次は」

 翔吾が言う。

「次は?」

 巫鈴は、掲示板の隅にある小さな落書きを見た。

 ――《透明性って言えば何でも正義?》

 巫鈴は小さく笑う。

「次は、正義の奪い合い。一番燃える」

 そして、心の中で決める。

(燃えるなら、燃え方を制御する。火事じゃなく、灯にする)

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