表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/14

最初の実験

 翌週の国語。

 窓の外はうす曇り。湿気が黒板の匂いを重たくしていた。

「この詩を読んで、感想を言える人は?」

 先生の声に、教室は耳を伏せる。鉛筆が机をこする音、浅い咳、ページをめくる乾いた紙の音。

 手は一本も上がらない。

 ――これが、空気。

 巫鈴は思う。間違いを恐れて口を閉ざす沈黙。発言すれば「出しゃばり」と刺さる視線。沈黙に従うのが正解になっている。

 学びの場が、正解の牢屋になっている。

 巫鈴はゆっくり手を上げ、立った。

「この詩は一見、自然の美しさを歌っています。でも、孤独に耳を澄ますと別の層が見える――そこまでは、たぶん誰でも言えること」

 ひと呼吸置き、視線を教室にめぐらす。

「……でも私が本当に言いたいのは、感想そのものじゃない。今、この空気のことです。答えれば浮く、黙れば安全。そんな無言のルールがここを支配している。黙るのが正解なら、ここは教室じゃなくて正解の牢屋です。おかしくないですか?」

 机の天板が、一枚ずつ息を止めたみたいに静まった。

 先生は黒板に視線を逃がし、握ったチョークがきゅ、と軋む。

「……僕も」

 後方で小さな声。宮下翔吾が立っていた。授業でほとんど話さない、目立たない男子だ。顔を赤くしながら、それでも前を見る。

「間違えるのが怖くて……だから黙ってました。でも、本当は言いたかった。伊勢野さんの言葉で、そう思いました」

 ざわ、と空気が揺れる。続けて二、三の声が上がった。

「私も……」「ちょっと思ったんだけど……」

 沈黙に、ひびが入る。

「……何カッコつけてんの?」

 前列の男子が鼻で笑った。

「授業ぶち壊してんじゃん。自己アピしたいだけでしょ」

 隣の女子が肩で笑いを足す。

「そうそう、あえて言う私カッコいいってやつ」

 刺すような声が広がり、緊張がきな臭さに変わる。

 先生は頬を引きつらせ、「……とりあえず今日はここまで」と授業を閉じた。


 放課後。教科書を鞄にしまう巫鈴の耳に、ヒソヒソが刺さる。

「……あの子、イタくない?」

「空気読めないっていうか、自分だけカッコいいと思ってる系?」

「言える私アピ、寒っ」

 巫鈴は聞こえないふりで淡々と本を収める。心は静かだ。怒りでも悲しみでもなく、冷たい分析が流れる癖。

 立ち上がると、教室の入口に大柄な影。

「GG。お前らのほうがダサいぞ」

 ズーハンだった。低く乾いた声。女子たちが肩をすくめる。

「何よ、用?」

「空気を理由に、人の勇気を折るな。空気を汚してるのはそっちだ」

 体育会系の声量と目の強さに押されたのか、彼女たちは舌打ち気味に散った。

「……助けてくれたの?」

「助けてない。事実を言っただけ。GGはGG」

 巫鈴が苦笑したところへ、明るい声が弾ける。

「――巫鈴っち!」

 萌花が飛び込んできて手を掴んだ。

「図書室行く前に中庭! ちょっと話そ!」

 夕風が入り、ポニーテールが光る。

「巫鈴っちが変な空気を作ったんじゃないよ。流されてた子が、自分の弱さを見せつけられて動揺してるだけ。時間が経てばわかる」

 萌花は、ふっと目を細めた。

「……昔の私は、超空気が読める子だった。先生にも友達にも、全部合わせてた。でも、合わせてても誰も助けてくれなかった。だから、立つ子がいたら、怖くても――本当はそっちへ行きたいんだよ」

「じゃあ、私が立った時、怖くなかったの?」

「怖かったよ。超怖かった。でも、カッコよすぎてシビれた、が勝った!」

 巫鈴は吹き出しそうになるのを堪える。

 横でズーハンが無造作に肩を組んだ。

「心配すんな。文化部は、全員味方だ」

 三人の影が、夕焼けに長く伸びた。


 中庭のベンチ。風の音だけがしばらく三人の周りを抜けていく。

 ほんの少しだけ、世界の空気が軽くなった気がした。

 ――カタッ、カタカタ。

 階段を降りる足音。重そうな鞄の揺れる音。顔を真っ赤にして立つ男子。

 猫背、合わない制服の袖が手の甲を覆っている。

 宮下翔吾だ。

「い、伊勢野さん……!」

 息を整える間もなく、浅く頭を下げる。

「ぼ、ぼく……今日の、その……」

 言葉がほどけない。巫鈴が静かに目を合わせた。

「……どうしたの?」

 ぐっと息を呑み、翔吾は言った。

「かっこよかったです! 誰も言わない中で、意見を言ってて……まぶしかった。ぼくには勇気がない。でも、変わりたいと思いました。なにか、お手伝いできること、ありませんか」

 沈黙が、柔らかく揺れた。巫鈴は口元をわずかに緩める。

「……ありがとう、宮下くん。じゃあ今日の放課後。文化部の部室に来て。きっと喜ぶから」

「は、はいっ!!」

 勢い余って鞄を落とし、中身が散った。

「どんまい、GG」

 ズーハンが手際よく拾う。

「うわ……漫画みたいな人だなぁ」

 萌花が笑い、巫鈴は短く言う。

「でも、嫌いじゃない」

 その一言で、翔吾の耳まで真っ赤になった。


 旧校舎の廊下は橙色に沈み、影が長い。翔吾はためらいながら一歩ずつ進む。心臓は早鐘、喉はからから。

 ――やめようか。

 弱気が足を止めるたび、耳にあの声が蘇る。

 おかしくないですか?

 やがて、元校長室の扉。小さな札――《日ノ本文化部》。

 拳を握り、ノックしようとした刹那。

 ガラリと扉が内側から開いた。

「おぉ、来た来た!」

 萌花が目を輝かせる。

「巫鈴っちから聞いてる! どうぞ!」

 押し出されるように入ると、雑然としてるのに温かい空気。昭和のポスター、紙コップ、鉄板焼き器、隅っこにファミコン。教室の窮屈な静けさとは別世界だ。

「新顔か?」勇馬が缶ジュース片手に言う。

「いや、まだ仮でしょ」沙羅が冷ややかに続ける。

「まあまあ、肩の力抜きなさいよ」琴美が椅子を引く。

 巫鈴が一歩前へ。

「……よく来たわね」

 短いが強い言葉。翔吾はうなずくのが精一杯だった。

「ここでは空気に従う必要はない。間違っていい。思ったことを言っていい。――それが文化部のルール」

「……お願いします」

 ズーハンの大きな手が肩をぽん。

「GG、新兵歓迎だ」

「勝手に決めないで!」琴美が笑って突っ込む。空気が一気にやわらぐ。

 窓際から真平が振り返った。

「じゃあ――実験は、二人目からだな」

 夕焼けが部室を赤く染め、伊勢野巫鈴の反乱は、もう後戻りできない段階へ入った。


 壁のポスター、鉄板、ファミコンを見回した翔吾が、勇気を振り絞る。

「……あ、あの……伊勢野さん……ここは……何屋さんですか?」

 一瞬の静止。次の瞬間、琴美が吹き出した。

「ははっ、何屋さん! いいとこ突くじゃん」

「昭和雑貨屋+鉄板焼き居酒屋+ゲームセンターだね!」萌花がテーブルを叩く。

「違う、工場兼研究所」勇馬。

「いや、食堂でしょ」沙羅。

「パォォォ! なんでも屋ですぅ!」シャオ。

「GG、戦場の野営地だ」ズーハン。

 美優は湯呑を差し出す。

「お茶屋さんでもいいですよ。翔吾くん、どうぞ」

 最後に真平が、さらっと言った。

「まあ、何屋かって聞かれたら……居場所屋だな」

 巫鈴が小さく微笑む。

「声の置き場、でもいいわね」

 自分のくだらない質問が、笑いと温かさを生んだことに、翔吾は驚き、そしてほっとした。

「……じゃ、じゃあ……ぼ、ぼくも、ここで……居候、してもいいですか?」

 間。次の瞬間、萌花が机を叩く。

「出たー! 居候宣言! 採用!」

「採用って何よ」沙羅が呆れ、琴美は「言葉チョイス渋っ」と肩を揺らす。

「客じゃなくて仲間ってことだろ」勇馬がうなずく。

「居候じゃなくて戦友ですぅ!」シャオが腕を掴む。

「はい、居候第一杯目のお茶です」美優。

「GG……仲間入りだ」ズーハン。

 真平が夕日を見ながら、ぽつり。

「今日からもう、お前は外じゃない。覚悟しろよ」

 胸が熱くなる。笑顔がこぼれる。

「じゃ、居候記念! 歓迎会やるぞ!」

 勇馬がクーラーボックスを開ける。ジュースと冷やしプリンがごろごろ転がる。

「待ってました!」琴美が鉄板のスイッチを入れる。

「儀式は鉄板焼きだよ!」

「パォォォーーッ! 新居候翔吾くん、発射ぁ!」

 バンッ。紙テープが翔吾の頭に降る。眼鏡を直して狼狽する彼の肩に、萌花が腕を回す。

「カッコつけなくていいって! ここは楽しんだもん勝ち!」

 沙羅は肉を並べながら肩をすくめた。

「ほんとにこのノリ、ついて来られるかしら……まあ、食べながらなら悪くない」

「では、翔吾くんの居候生活の始まりに――乾杯ですね」美優が微笑む。

「GG、乾杯」ズーハン。

 鉄板の香ばしい匂い、紙テープ、笑い声。

 翔吾は確信する。ここが、自分の新しい居場所になる、と。


 その夜。巫鈴は部室の窓を少し開けた。外の風が、紙テープをくすぐって通り抜ける。

 実験は、二人目から。

 測る。揺らす。また測る。

 沈黙の牢屋を、学ぶ場所へ。

 最初の実験は、確かに動き出した。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ