最初の実験
翌週の国語。
窓の外はうす曇り。湿気が黒板の匂いを重たくしていた。
「この詩を読んで、感想を言える人は?」
先生の声に、教室は耳を伏せる。鉛筆が机をこする音、浅い咳、ページをめくる乾いた紙の音。
手は一本も上がらない。
――これが、空気。
巫鈴は思う。間違いを恐れて口を閉ざす沈黙。発言すれば「出しゃばり」と刺さる視線。沈黙に従うのが正解になっている。
学びの場が、正解の牢屋になっている。
巫鈴はゆっくり手を上げ、立った。
「この詩は一見、自然の美しさを歌っています。でも、孤独に耳を澄ますと別の層が見える――そこまでは、たぶん誰でも言えること」
ひと呼吸置き、視線を教室にめぐらす。
「……でも私が本当に言いたいのは、感想そのものじゃない。今、この空気のことです。答えれば浮く、黙れば安全。そんな無言のルールがここを支配している。黙るのが正解なら、ここは教室じゃなくて正解の牢屋です。おかしくないですか?」
机の天板が、一枚ずつ息を止めたみたいに静まった。
先生は黒板に視線を逃がし、握ったチョークがきゅ、と軋む。
「……僕も」
後方で小さな声。宮下翔吾が立っていた。授業でほとんど話さない、目立たない男子だ。顔を赤くしながら、それでも前を見る。
「間違えるのが怖くて……だから黙ってました。でも、本当は言いたかった。伊勢野さんの言葉で、そう思いました」
ざわ、と空気が揺れる。続けて二、三の声が上がった。
「私も……」「ちょっと思ったんだけど……」
沈黙に、ひびが入る。
「……何カッコつけてんの?」
前列の男子が鼻で笑った。
「授業ぶち壊してんじゃん。自己アピしたいだけでしょ」
隣の女子が肩で笑いを足す。
「そうそう、あえて言う私カッコいいってやつ」
刺すような声が広がり、緊張がきな臭さに変わる。
先生は頬を引きつらせ、「……とりあえず今日はここまで」と授業を閉じた。
放課後。教科書を鞄にしまう巫鈴の耳に、ヒソヒソが刺さる。
「……あの子、イタくない?」
「空気読めないっていうか、自分だけカッコいいと思ってる系?」
「言える私アピ、寒っ」
巫鈴は聞こえないふりで淡々と本を収める。心は静かだ。怒りでも悲しみでもなく、冷たい分析が流れる癖。
立ち上がると、教室の入口に大柄な影。
「GG。お前らのほうがダサいぞ」
ズーハンだった。低く乾いた声。女子たちが肩をすくめる。
「何よ、用?」
「空気を理由に、人の勇気を折るな。空気を汚してるのはそっちだ」
体育会系の声量と目の強さに押されたのか、彼女たちは舌打ち気味に散った。
「……助けてくれたの?」
「助けてない。事実を言っただけ。GGはGG」
巫鈴が苦笑したところへ、明るい声が弾ける。
「――巫鈴っち!」
萌花が飛び込んできて手を掴んだ。
「図書室行く前に中庭! ちょっと話そ!」
夕風が入り、ポニーテールが光る。
「巫鈴っちが変な空気を作ったんじゃないよ。流されてた子が、自分の弱さを見せつけられて動揺してるだけ。時間が経てばわかる」
萌花は、ふっと目を細めた。
「……昔の私は、超空気が読める子だった。先生にも友達にも、全部合わせてた。でも、合わせてても誰も助けてくれなかった。だから、立つ子がいたら、怖くても――本当はそっちへ行きたいんだよ」
「じゃあ、私が立った時、怖くなかったの?」
「怖かったよ。超怖かった。でも、カッコよすぎてシビれた、が勝った!」
巫鈴は吹き出しそうになるのを堪える。
横でズーハンが無造作に肩を組んだ。
「心配すんな。文化部は、全員味方だ」
三人の影が、夕焼けに長く伸びた。
中庭のベンチ。風の音だけがしばらく三人の周りを抜けていく。
ほんの少しだけ、世界の空気が軽くなった気がした。
――カタッ、カタカタ。
階段を降りる足音。重そうな鞄の揺れる音。顔を真っ赤にして立つ男子。
猫背、合わない制服の袖が手の甲を覆っている。
宮下翔吾だ。
「い、伊勢野さん……!」
息を整える間もなく、浅く頭を下げる。
「ぼ、ぼく……今日の、その……」
言葉がほどけない。巫鈴が静かに目を合わせた。
「……どうしたの?」
ぐっと息を呑み、翔吾は言った。
「かっこよかったです! 誰も言わない中で、意見を言ってて……まぶしかった。ぼくには勇気がない。でも、変わりたいと思いました。なにか、お手伝いできること、ありませんか」
沈黙が、柔らかく揺れた。巫鈴は口元をわずかに緩める。
「……ありがとう、宮下くん。じゃあ今日の放課後。文化部の部室に来て。きっと喜ぶから」
「は、はいっ!!」
勢い余って鞄を落とし、中身が散った。
「どんまい、GG」
ズーハンが手際よく拾う。
「うわ……漫画みたいな人だなぁ」
萌花が笑い、巫鈴は短く言う。
「でも、嫌いじゃない」
その一言で、翔吾の耳まで真っ赤になった。
旧校舎の廊下は橙色に沈み、影が長い。翔吾はためらいながら一歩ずつ進む。心臓は早鐘、喉はからから。
――やめようか。
弱気が足を止めるたび、耳にあの声が蘇る。
おかしくないですか?
やがて、元校長室の扉。小さな札――《日ノ本文化部》。
拳を握り、ノックしようとした刹那。
ガラリと扉が内側から開いた。
「おぉ、来た来た!」
萌花が目を輝かせる。
「巫鈴っちから聞いてる! どうぞ!」
押し出されるように入ると、雑然としてるのに温かい空気。昭和のポスター、紙コップ、鉄板焼き器、隅っこにファミコン。教室の窮屈な静けさとは別世界だ。
「新顔か?」勇馬が缶ジュース片手に言う。
「いや、まだ仮でしょ」沙羅が冷ややかに続ける。
「まあまあ、肩の力抜きなさいよ」琴美が椅子を引く。
巫鈴が一歩前へ。
「……よく来たわね」
短いが強い言葉。翔吾はうなずくのが精一杯だった。
「ここでは空気に従う必要はない。間違っていい。思ったことを言っていい。――それが文化部のルール」
「……お願いします」
ズーハンの大きな手が肩をぽん。
「GG、新兵歓迎だ」
「勝手に決めないで!」琴美が笑って突っ込む。空気が一気にやわらぐ。
窓際から真平が振り返った。
「じゃあ――実験は、二人目からだな」
夕焼けが部室を赤く染め、伊勢野巫鈴の反乱は、もう後戻りできない段階へ入った。
壁のポスター、鉄板、ファミコンを見回した翔吾が、勇気を振り絞る。
「……あ、あの……伊勢野さん……ここは……何屋さんですか?」
一瞬の静止。次の瞬間、琴美が吹き出した。
「ははっ、何屋さん! いいとこ突くじゃん」
「昭和雑貨屋+鉄板焼き居酒屋+ゲームセンターだね!」萌花がテーブルを叩く。
「違う、工場兼研究所」勇馬。
「いや、食堂でしょ」沙羅。
「パォォォ! なんでも屋ですぅ!」シャオ。
「GG、戦場の野営地だ」ズーハン。
美優は湯呑を差し出す。
「お茶屋さんでもいいですよ。翔吾くん、どうぞ」
最後に真平が、さらっと言った。
「まあ、何屋かって聞かれたら……居場所屋だな」
巫鈴が小さく微笑む。
「声の置き場、でもいいわね」
自分のくだらない質問が、笑いと温かさを生んだことに、翔吾は驚き、そしてほっとした。
「……じゃ、じゃあ……ぼ、ぼくも、ここで……居候、してもいいですか?」
間。次の瞬間、萌花が机を叩く。
「出たー! 居候宣言! 採用!」
「採用って何よ」沙羅が呆れ、琴美は「言葉チョイス渋っ」と肩を揺らす。
「客じゃなくて仲間ってことだろ」勇馬がうなずく。
「居候じゃなくて戦友ですぅ!」シャオが腕を掴む。
「はい、居候第一杯目のお茶です」美優。
「GG……仲間入りだ」ズーハン。
真平が夕日を見ながら、ぽつり。
「今日からもう、お前は外じゃない。覚悟しろよ」
胸が熱くなる。笑顔がこぼれる。
「じゃ、居候記念! 歓迎会やるぞ!」
勇馬がクーラーボックスを開ける。ジュースと冷やしプリンがごろごろ転がる。
「待ってました!」琴美が鉄板のスイッチを入れる。
「儀式は鉄板焼きだよ!」
「パォォォーーッ! 新居候翔吾くん、発射ぁ!」
バンッ。紙テープが翔吾の頭に降る。眼鏡を直して狼狽する彼の肩に、萌花が腕を回す。
「カッコつけなくていいって! ここは楽しんだもん勝ち!」
沙羅は肉を並べながら肩をすくめた。
「ほんとにこのノリ、ついて来られるかしら……まあ、食べながらなら悪くない」
「では、翔吾くんの居候生活の始まりに――乾杯ですね」美優が微笑む。
「GG、乾杯」ズーハン。
鉄板の香ばしい匂い、紙テープ、笑い声。
翔吾は確信する。ここが、自分の新しい居場所になる、と。
その夜。巫鈴は部室の窓を少し開けた。外の風が、紙テープをくすぐって通り抜ける。
実験は、二人目から。
測る。揺らす。また測る。
沈黙の牢屋を、学ぶ場所へ。
最初の実験は、確かに動き出した。




