それは兄の呟きで始まった
午後四時。伊勢野巫鈴のサプライズバースデイが行われている日ノ本文化部の部室には、まばゆい西日が差し込んでいた。
机に散らばった昭和アイテム、鉄板焼きの鉄板、そしてなぜか今日も転がっているファミコンのコントローラー。その中で、少し沈んだ空気が流れていた。
「ねえ、うちのクラスの子の妹……最近ずっと学校来てないんだって」
沙羅の一言が沈黙を破った。
「え、どうして?」琴美がすぐに聞き返す。
「空気が読めないとか、グループに馴染めないとか……勝手に下にされて、無視されてるらしい」
シャオが小さく「パォ……ひどい……」とつぶやき、美優も「かわいそうですねぇ」と声を落とす。
「それ、うちのクラスでも似たようなことあるよ」萌香が腕を組み、唇を尖らせた。
「一緒にいちゃだめリストとか、くだらないのにみんな従っちゃうんだ。あたし、バカバカしくて笑っちゃうけど……笑えなくなってる子もいるんだよね」
ズーハンは黙って鉄板のヘラを動かしながら、「GG……空気ってやつか」と低く漏らした。
「強いほうに流れて、弱いほうを無視する……軍隊でも見た。あれは人を壊す」
部屋に重い沈黙が落ちる。
そのときだった。
「……そもそもさ」
いつもは聞き役に回る真平が、不意に口を開いた。「クラスって……勉強、しづらくね?」
何気ない一言が、空気を変えた。
巫鈴は手にしていたティーカップを乱暴に置く。その瞳に、なにかに気づいてしまった者の光が宿る。
「……そうか。勉強がしづらいのは、空気のせいだったんだ」
ぽつりと漏れた声は誰にも向けられていなかった。
――空気を読むことが正義になっている。
――誰かと同じであることが評価される。
――逸れた者は排除される。
その空気を生み出しているのが、クラスという仕組みそのものなのだと巫鈴は理解した。
彼女の中で、何かが音を立てて崩れ、新たに形を成していく。
(もう、見過ごさない)
そう心で呟いた瞬間、巫鈴の中で確かに何かが始まった。
沈黙の中、巫鈴はそっと立ち上がると、窓際のカーテンを指でいじりながら、ぽつりと語り始めた。
「……私、小学校六年の時、一回学校に行けなくなったことがあるの」
部室にいた全員が、自然と彼女の方に目を向けた。
真平は少しだけ視線を外し、それでも黙って聞いていた。
「その年の担任は、四十代後半の女性。情熱なんて欠片もなくて、授業は教科書を棒読み。職員室でも器がないって陰口を叩かれて、教頭にも校長にも軽んじられていた。……だからこそ、自分より弱い私に、八つ当たりした」
巫鈴の声は淡々としていたが、その裏に鋭い棘が潜んでいた。
「その年の新学期、最初の授業で、担任が言ったの。好きな人と、嫌いな人をノートに書いてって。もう完全に私たちのこと支配する気なのよね……」
巫鈴は乾いた笑みを浮かべた。
「私は手を挙げて言ったの。『それなら先生ランキングをつけてもいいんですか?』って」
「うわぁ……」と沙羅が顔をしかめ、琴美が「それは……巫鈴らしいわね」と小さく呟いた。
「あれは先生ブチ切れるわな……」萌香が苦笑する。
「その瞬間、担任の目が変わった。そこから私は生意気な子にされた。授業で手を挙げても無視。当てられたと思えば黒板に答えを書かされて――『みんな、これが悪い例です』と笑いを取る道具にされた。宿題を出せば机に叩きつけられて、『またお前か』と吐き捨てられる。……ただの小学生を、自分のプライドを守るために潰していった」
巫鈴は一瞬、言葉を切った。まるで、あの頃の空気が今も心を締めつけているかのように、巫鈴の声が震える。
「その先生が笑えば、クラスも笑った。私が何をしても、おかしい子っていう空気が出来上がっていった。……授業が、私を壊すための舞台になっていた」
部室に、凍るような沈黙が落ちる。
萌花が小さく「……最悪」と吐き捨てた。
巫鈴は当時は思い出すように目を閉じた。
雨が降っていた。
誰もいない放課後の昇降口。巫鈴は傘も差さず、ぬれた上履きのまま、ぼんやりと外を見つめていた。
水たまりに揺れる空。靴の中の冷たさ。肩の重さ。
担任から無視された授業。クラスメートの笑い声の中の孤独。誰もが普通を強要してくる日々に、体の芯がきしむようだった。
もう、行きたくなかった。
でも、行かなきゃいけないと思っていた。
ちゃんとしなきゃ 負けちゃだめ――そんな言葉だけが、背中を押していた。
そこへ、兄が現れた。
「……巫鈴」
いつもは無口で、どこか気弱に見えた兄が、その日は違っていた
ずぶぬれになりながら、巫鈴の前に立ち、低く、はっきりと言った。
「もう、行くな」
巫鈴は目を見開いた。
「え……?」
「行くなって言ってんだよ。……そんなとこ、行く価値ない。巫鈴が壊れるくらいなら、学校なんてどうでもいい」
その声は、命令だった。
優しさの裏に怒りがある、初めて聞く強さだった。
「……でも……私が我慢すれば……」
「我慢する必要なんて、どこにあるんだよ。諦めたくなったら、それは、よく頑張ったってこと。諦めなかったら、それは、もっと頑張ったってこと。どっちも、ちゃんと偉い。」言葉が胸に突き刺さった。
涙が、止まらなかった。
「……お兄ちゃん……っ」
「いいから、帰ろう。巫鈴が壊れるくらいなら、そんな正しさなんて、全部ぶっ壊してやる」
その日から、巫鈴は学校に行くのをやめた。
家族は理由を理解し、市の図書館に通うことを選んだ。
あの日の「もう行くな」という兄の言葉が――彼女の最初の救いとなった。
「だんだん教室にいるのが怖くなって。声を出すことすら、罪みたいに思えて。朝、玄関で立ちすくむ日が続いた。ある日、兄が言ってくれた。もう学校、行かなくていいって」
その言葉を聞いて、真平はわずかに目を伏せた。何も言わず、ただ静かに彼女の記憶を受け止めている。
「その日から、私は図書館に通った。毎日、毎日。静かで、本だけがそこにある世界で……やっと息ができた。ある職員さんが、私の目を見て言ってくれたの。君には、こういうのが合うと思うって、親鸞の本を貸してくれて。それが――最初の、救いだったの」
「親鸞って、あの歴史の?」と勇馬が小さく尋ねると、巫鈴はうなずいた。
「ええ。難しそうに見えるけど、不思議と心にすっと入ってきた。そこから、私の世界は変わった。学校で学べなかったことを、図書館で吸収していった」
「巫鈴さん……」美優の声は震えていた。
「図書館に避難する……それもまた、戦いか」ズーハンが低くつぶやく。「逃げるんじゃない、生き残るための道を見つけたんだな」
「……カッコいいじゃん、巫鈴っち」萌香が鼻をすすりながらも、無理に笑った。「あたしだったら絶対キレ散らかしてたわ。んでもさぁ4人で修学旅行言ったよね」
それは何でもない、ありふれた平日の朝だった。
巫鈴が、居間で紅茶をすすっていると、玄関がバタリと開いた。
「巫鈴、支度しろ! 修学旅行行くぞ!」
リビングに飛び込んできたのは、兄・伊勢野真平。いつものように軽薄そうな笑顔を浮かべていたが、その目はどこか真剣だった。
「……え、何を言って――」
戸惑う妹に、真平はにやりと笑ってチケットをひらひらと振る。
「ほら、電車の時間が迫ってんぞ。黙ってついてこい」
駅に着くと、そこには沙羅と萌花が待っていた。
萌花は満面の笑みで手を振り、沙羅は無言で小さくうなずいた。
「お待たせ、巫鈴っち」
その瞬間、巫鈴の中で何かがほどけたような気がした――
鎌倉行きの電車に揺られながら、四人だけの旅が始まる。
平日、ガラガラの車内。景色はやがて、都心の雑踏を離れ、木々の緑へと変わっていく。
萌花は座席でパンフレットを広げ、嬉しそうに言った。
「まずは円覚寺! 巫鈴っち、禅とか好きそうじゃないですか?」
「……あら、見くびられたものね。好きじゃないわ。深いの」
巫鈴がすっと目を細めると、沙羅はすかさずぼやいた。
「はいはい、始まりました」
真平はただ、車窓の景色を見つめながら笑っていた。
やがて、円覚寺の山門をくぐった瞬間――空気が変わる。
湿った木の香り、遠くの鐘の音。全てが、静かに心を洗うようだった。
巫鈴はしばらく無言のまま、石畳をゆっくりと踏みしめる。
「この寺はね、鎌倉幕府が蒙古襲来で傷ついた兵士や民を弔うために作られたの。だから円覚――すべてを悟るの名を冠している」
「……そういうの、やっぱり覚えてるんだな」
「教室には行けなかったけど、本から教わったことは山ほどあるもの」
本堂の前、四人は手を合わせた。
風が吹き抜け、木々のざわめきが響く中、萌花だけが小さくつぶやいた。
「家族が健康でありますように……」
沙羅はその言葉に、優しく微笑んだ。
観音像の前に立った巫鈴は、そっと目を閉じた。
ただ静かに、長い時間をかけて祈る。
その横顔は、どこか悲しげで、でも、何かを受け入れたような柔らかさがあった。
真平はその姿を見つめ、黙って隣に立つ。
「……巫鈴」
「……あのとき、祈ることもできなかったの。苦しくて、怖くて、感情の名前すら持てなかった。……でも 今は、ようやく感謝って言葉が浮かんできたわ」
巫鈴の声は風に溶け、観音像の前で静かに響いた。
沙羅と萌花は、少し離れたところでお守りを選んでいた。
笑い声が、境内に穏やかに染み渡る。
巫鈴はそれを聞きながら、心のどこかがじんわりと温かくなるのを感じていた。
賑やかな通り。ソフトクリームに、煎餅、チョコバナナ――
「知の巨人巫鈴、まさかの全て完食!」萌花がびっくりしたように叫ぶ。
「ふっ……消化が速いのは、知性の循環よ」巫鈴が涼しい顔で答えると、沙羅が吹き出した。
「はいはい、なんでも知性にすればいいってもんじゃないでしょ」
そうして一同は江ノ電に乗り込む。
ゆっくりと揺れる電車。夕暮れの海が、窓の外に広がっていた。
「電車ってさ、教室と違って誰が隣でもいいし、途中で降りても怒られないじゃん」沙羅がふと、ポツリと言った。
巫鈴は、はっとしたように沙羅を見つめた。
「……いい喩えね、沙羅姉。逃げたんじゃない。私は、途中下車しただけ」
それを聞いた真平は、何も言わずにうなずき、ポケットからカメラを取り出した。
夕暮の暮れの海。
波の音が静かに響く中、四人の影が長く伸びていた。
萌花は靴を脱ぎ、キャッキャとはしゃぎながら貝殻を拾っている。
沙羅は手をポケットに突っ込みながら、遠くの空を見つめていた。
真平は黙ってその光景をカメラに収めている。
巫鈴は、足元の波にそっと手を伸ばしながらつぶやく。
「……思い出って、与えられるものだと思ってた。でも……こうして、自分たちで作るものだったのね」
真平が振り返り、優しく言う。
「……巫鈴、お前が今、笑ってるのが、一番の思い出だよ」
巫鈴はふっと微笑んだ。
波が足元を洗う音だけが、しばらく続いた。
「この旅行、思い出の補講って感じでいいですね!」
「違うな。人生の本番だよ」
沙羅がまっすぐな声で返す。
巫鈴はその二人を見ながら、やわらかく、しかし確かな声音で言った。
「……じゃあ、私たちの修学旅行ということで」
車内に、静かな笑いが広がった。
カメラの中には、きっとこの旅が、永遠に残るのだろう。
巫鈴は、当時の僅かな楽しい思い出を思い出していた。
「私は――教師に傷つけられたけど、同じ先生に救われたこともある。だからこそ、今の教育の在り方が、我慢ならないの。運や相性で、子供の人生が壊されるのは……もう、終わりにしたいの」
誰も、すぐには言葉を返せなかった。
その想いの重さと深さに、全員が自然と胸を打たれていた。
ふいに、真平がそっと呟く。
「……あの日、泣きながら歩いたことを、恥ずかしいなんて思うなよ。それは、誰よりも強かった証なんだから」
巫鈴は、驚いたように兄を見た。
そして、目を細めて笑った。
部室に部室に沈黙が広がったまま、西日の色がだんだんと深みを帯びていく。
巫鈴はカーテンから手を離し、机の方へとゆっくり歩み寄った。その歩みは、もはや迷いを含んでいない。
「……やっぱり、私は見過ごせない」
声は静かだった。けれど、その響きは全員の胸に真っ直ぐ突き刺さる
「空気に支配されて、勉強するための場所が生きづらさの牢屋になる。そんなのおかしいよ。誰もが自分のペースで学べるはずなのに、クラスっていう枠組みがそれを奪ってる」
巫鈴の視線が、仲間たちを順に捉える。
琴美は息をのんで、沙羅はまっすぐに見返し、萌香は唇を噛み、ズーハンは眉をひそめて深くうなずいた。
「……私は、学校を変える。いや、壊してでも作り直す」
「巫鈴っち……!」萌香が小さく声を上げた。
「先生や制度に潰されていく子を、もうこれ以上出さない。そのために、私が立つ」
真平は、妹の決意を見つめながら、そっと呟いた。
「……そういう顔すると思ってたよ」
巫鈴は微かに笑みを浮かべた。
「お兄ちゃん。今度は――勝てるかな」
「勝てるさ!今のお前には日ノ本文化部がついている」
部室に流れる空気は、もう元には戻らなかった。
巫鈴が放った決意の言葉が、全員の胸に重く沈み、同時に不思議な熱を宿していた。
「……よしっ!」琴美が勢いよく立ち上がる。
「じゃあ、決意表明も聞けたし――次はサプライズケーキの出番ね!」
「パォォォ! クラッカー発射タイムですぅ!」シャオが両手を広げる。
「GG! ケーキ冷えてるぞ!」ズーハンがヘラを置き、クーラーボックスを指さす。
パンッ、パンッとクラッカーが弾け、甘い香りのケーキが机に並ぶ。
萌香が「はい、ローソク点火~!」と騒ぎ、沙羅が「煙感知器、鳴らさないでよね」と冷静につっこむ。
部屋の明かりが落とされ、ローソクの小さな炎が西日と溶け合って揺れた。
巫鈴は炎を見つめ、胸の奥でそっとつぶやく。
(……私は、もう止まらない)
クラッカーの音がはじけ、ケーキが運ばれてくる。
だが、仲間たちの胸の中には、さっき巫鈴が放った言葉がまだ熱を残していた。
「……やっぱり、巫鈴らしいよね」琴美が肩をすくめて笑う。「普通の誕生日会で終わらせてくれないんだから」
「でも、いいと思うわ」沙羅は真剣な目で巫鈴を見据える。「あなたが動けば、本当に何かが変わるかもしれない」
「パォ……!」シャオは胸の前で拳を握りしめた。「わたし、巫鈴ちゃんの革命、応援するですぅ!」
「GG……」ズーハンは短くうなずいた。「軍でも見た。理不尽な空気に潰される仲間を。……お前がやるなら、俺も支える」
「……あたしも!」萌香が声を上げる。「巫鈴っちが本気でやるなら、絶対おもしろいし、絶対止めない。いや、止めらんない!」
美優は胸の前で両手をぎゅっと握りしめていた。「巫鈴さん……その勇気、すごいです。わたしも一緒に、見届けたいです」
勇馬は少し照れたように頭をかきながら、「……なんか僕まで背筋が伸びました」と笑った。
それぞれの声が重なり、巫鈴を取り囲む。
仲間たちの反応は違えど、その根っこには同じ思いがあった――一人じゃない。
巫鈴は静かにみんなを見渡し、笑みを浮かべた。
「ありがとう。みんながいるなら、きっとやれる」
その言葉を合図に、再びクラッカーが鳴り、ケーキのローソクに火が灯された。
革命の宣言と誕生日のお祝いが、同じ場所でひとつに重なったのだった。