食堂の恋
商業区の朝は早い。一番早いのは卵屋で、その次にパン屋、そして食材を扱う店が動き出し、仕込みを終えた食堂が開く。
"食堂ルアナ"と看板を掲げた商業区にある食堂の一つ。そこを切り盛りするのは母と娘の二人で、一階が食堂となっているレンガ造りの家の二階を自宅にして母娘は長年暮らしている。看板娘として働く娘のルアナは二十四歳になり、そろそろ相手を探してやったらどうだという客達の言葉に女将のアーシャは苦く笑い、ルアナ自身は翳りを帯びた笑みを見せる。これは叶わぬ恋だなと客の誰かが呟くとルアナの顔が泣きそうに歪む、というのが最近の常だった。
ベッドから起き出したルアナは顔を洗い、赤っぽい茶色の髪を三つ編みにした後で頭へと巻き付ける。自分の髪ですら彼を思い出してしまい、ルアナは溜息を吐き出す。
いつの頃からか閉店間際になると時々やって来るようになっていた、上半身をすっぽり覆うマント姿でフードを被った男。一人でやってくる彼は酒とつまみになる料理を頼み、静かに食べて帰って行く。そんな彼に話し掛けたのは、ルアナからだった。
『フード、邪魔じゃないですか?』
ルアナの言葉にふっと笑った男は頷いて答えたのだ、邪魔ですよ、と。ならなんで外さないのかと問えば、何故だと思うか問い返される。そして、理由を当てる遊びが二人の交流の始まりとなった。
顔に傷がある、と言うと男は首を横に振り、顔が悪いと言ったら男は噴き出した。
『顔が悪いかどうかは、好みの問題ですね。』
意地悪な声音の彼に頬を膨らませ、ルアナが思い付いたのは犯罪者ではないかという考え。ルアナの表情からよからぬ想像をしている事を読み取ったらしい男に促されルアナがそれを口にすると、男は楽しそうに声を上げて笑ったのだ。
『犯罪者なら、騎士を呼びますか?』
男の言葉にルアナは少し考えてから否定する。男がルアナに何かをした訳では無いからだ。
『お人好しは嫌いではありません。』
優しい男の声に、ルアナはふわふわ浮き上がるような不思議な高揚感を感じた。
男はデュナスと名乗り、店に来た時にはルアナと会話をする。そして男は、ルアナの髪の色を綺麗だと褒めたのだ。赤っぽい茶色。どっちつかずのその色が、ルアナは幼い時から好きになれなかった。だけれど伸ばされた男の長い指先がルアナの髪に触れ、フードの奥に隠された唇が綺麗だと紡いだ瞬間から、その髪が特別に思えた。
身支度を整えたルアナは一階に下りる。朝食の支度をして、店の掃除をして、届けてもらう食材で下拵えをするのだ。
朝食の支度を母親と共にしながらルアナが考えるのは、毎朝届けられる手紙の事。会いたいとただ一言書かれている事もあれば、愛の言葉が書かれている事もある。その手紙を書いているのは、デュナスというあの男。フードで顔を隠していたのはお忍びだったからで、彼は貴族だった。それも、王の側に常にいると噂されているガーランド家の息子で宰相補。街の食堂の娘が恋をしてはいけない相手だったのだ。
正体を明かした時の彼の顔が頭から離れない。月の光を受けて煌めいた白銀の髪と不安気に揺れた赤茶の瞳。瞳の色が、ルアナの髪と同じだと照れたように笑った彼。そのまま逃げ出してしまった自分は、間違いだったのだろうか?
「おはよう。…ルアナ?」
物思いに沈んでいたルアナに声を掛けたのは、夜色マントのフードを深く被った男。男としては小柄の彼はデュナスの使いのようで、わざわざ食堂に野菜を配達する八百屋の手伝いとしてルアナの前に現れた。
「ヴィー、おはよう。」
「どうした、ぼーっとして?」
「ううん、なんでもない。今日も…ある?」
「あぁ。受け取って来た。」
差し出された手紙を受け取って胸に抱く。会わなければ諦められると思ったルアナだったが、会わなくとも想いが募る。彼を想うと、胸が苦しくて堪らなくなるのだ。
「ルアナ、そろそろ会ってやってくれないか?」
「駄目…」
「君も酷く辛そうだ。身分の違いは、彼ならどうとでも出来る。」
激しく首を横に振って、涙が零れそうになったルアナは走って逃げ出す。デュナスからもヴィーからも逃げ出すしか出来ない自分が酷く愚かに感じる。でも駄目なのだ。貴族だけは…。
目に一杯の涙を浮かべて行ってしまったルアナを見送って、ヴィーはフードの中で苦く笑った。離れた場所で見守っていたアーシャもまた、辛そうな表情をしている。
「彼は会うと言っていた。そちらの都合に合わせる。いつが良い?」
「昼の営業が終わった後、来られるかい?」
「なんとかするだろう。ルアナはどうするんだ?」
「あの子は、おつかいにでも出すよ。」
「わかった。そのように伝える。」
野菜の代金を受け取って、ヴィーは食堂を後にする。
扉が閉まるのを黙って見守っていたアーシャは、小さな溜息を吐き出して二階の自分の部屋へと上がる。箪笥の引き出しを開けて奥から小さな包みを取り出すと、しばらくそれを眺めてからエプロンのポケットへと仕舞った。そして、直きにルアナは戻って来るだろうと考えて、下拵えをする為に再び一階へと降りたのだった。
朝一番の仕事を終えたヴィーがガンの店へと戻ると、今日はライは来ていなかった。その為に、腰を痛めているガンは椅子に座らせてヴィーが開店準備をする。
「あのお貴族様の坊主が来ないなんて珍しいな?」
「彼にも仕事があるんだよ。」
「ほー、まぁそりゃそうか!」
納得したと笑って、ガンはヴィーへと給料を手渡した。礼を告げて受け取ったヴィーは、ガンに無理はするなよと念を押してから帰る道をのんびり歩く。ガンの腰もそろそろ良くなって来ていて、もう少し良くなれば配達も自分で行けるようになるだろう。そうしたら、ヴィーのこの仕事は終わる。丁度良い頃合いかなと考えていたヴィーの視線の先に巡回の騎士が見えて、知っている顔が居た為にヴィーはそのまま近付いた。
「こんにちわ、ボルト殿。」
近寄って声を掛けたのは金髪碧眼の騎士。鎧ではなく騎士の制服を身に纏った彼は、生誕祭の時に野営地の警護担当の責任者をしていた人物だ。
「し、しるゔぃーー」
大きな声で名前を呼ぼうとしたボルトに飛び掛かり、ヴィーは彼の口を両手で塞ぐ。彼と共にいた二人の騎士は自分達も声を上げそうになっていたのか、その様子を目にしてぐっと口を噤んだ。
「叫ぶな。そんなに驚く事は無いだろう?」
ヴィーの黒手袋の両手で口を塞がれているボルトは碧い瞳を大きく見開き、何度も首を振って頷いた。もう叫ぶなよと念押しをして、ヴィーは両手を離す。
「あ、あの、こちらで何を?」
「散歩だ。」
当然の事のように答えたヴィーに、ボルト達三人の騎士は頭を抱えたくなる。シルヴィア王女が頻繁に城の外へと出て、しかも護衛を撒いてしまうというのは騎士達の中でも噂になっていた。噂で聞いてはいたが、まさか本当に一人で出歩いているなどとは、実際に関わる護衛担当の近衛騎士と通用口の警護担当の騎士達以外では信じている者はいなかったのだ。
「何故お一人なのですか?護衛は?」
あまり大きな声を出すと怒られる予感がして、ボルトは小声で確認する。
「貴方は散歩に行くのに護衛を引き連れて行きたいか?」
「いえ、それは、自分と貴女では立場が…」
「最初に会った時とは言葉遣いが違うな。折角顔見知りに会えたと思って声を掛けたのに、私は悲しい。」
フードの奥でふうっと息を吐き出した音が聞こえ、ボルトは苦く笑う事しか出来ない。
「それは致し方ない事です。ご容赦下さい。」
「そうか。呼び止めて悪かったな。」
片手を上げて去って行く背中を見送ろうとして、騎士三人ははたと気付いて慌てて追い掛ける。三人の騎士に囲まれるように歩かれて、ヴィーは騎士達の顔を見上げた。
「我々も城へ戻る所です。お供致します。」
「そうか。それは悪いな。」
悪いと思うのならば護衛を撒くなと三人共が思ったが、言わずにぐっと飲み込む。ヴィーの右手にはボルト、左手には年若い金髪碧眼の青年。背後には茶色の髪に碧い瞳の青年が付いている。
「折角の機会だ、聞きたい事があるんだが良いだろうか?」
歩きながらフード越しに見上げて来たヴィーに、ボルトは拳にした右手を胸に当てるだけの簡易の礼をとって頷いた。なんなりと、という言葉を受けて、では遠慮なく、とヴィーは口を開く。
「不躾だが、ボルト殿は平民出の騎士で、街の警護隊の隊長をされているのだったな?」
「はい。お役目を賜わり、日々務めさせて頂いております。」
「貴方の方は確か、ローゼズ男爵家の二男、フィン殿だったか?」
「は!名を覚えて頂けているとは、光栄の極みに御座います!」
ボルトから左手の金髪碧眼の騎士へと視線が向けられ、フィンと呼ばれた青年は肯定する。
「そして後ろの彼は平民出で、ヒューズ殿。」
「じ、自分の名まで…光栄です!」
涙を流さんばかりに声を震わせた背後の青年にフードの中で苦笑を浮かべ、ヴィーは話を続けた。
「シルヴァンが王位に就いてから六年。平民出身の騎士と貴族出身の騎士が混ざって配置されるようになった訳だが、実際の所、上手くやれているのか?」
ヴィーの聞きたい事を理解して、ボルトが口を開く。
「初めは混乱もありました。生まれと育ちが違えば考え方も変わって来ますからね。ですが、同じ平民でも気に食わない者は気に食わない。貴族であろうと、わかり合おうと思えばわかり合えるのです。」
「だが、貴族が部下になるというのはやり難くはないか?」
左手にいるフィンがぴくりと反応したが沈黙を貫き、ボルトは苦い笑みを浮かべた。
「やり辛い者も確かにいます。ですが騎士になったということは志は同じ。ぶつかり合っても、なんとかやって行けています。」
「そうか。フィン殿、貴方はどうだ?」
「わ、私は、隊長を尊敬しております。平民だろうと貴族だろうと関係無く、実力ある者が上を目指せる事は素晴らしいと思います。」
「なるほどなるほど、ではヒューズ殿、貴方はどのように感じている?」
歩きながら振り返ると、ヒューズは難しい顔をして考えている。ゆっくりで構わないというヴィーの言葉を受けて、考えながらという風に考えを口に出す。
「自分は、貴族にはお高くとまっているような者たちがいて、時にぶつかる事もあります。ですが、接してみて、ぶつかって、初めてわかる事もあるのです。そこのフィンは貴族らしく繊細なのかと思えばガサツですし…その、何が言いたいかと言うと、ですね、平民出身の自分にも出世の可能性があるのであれば、それは素晴らしい事だと、思うのです。陛下には、感謝しております。」
ヒューズが全て言い切ると、ヴィーが唐突に体ごと振り向いて、フードをずらしてヒューズの碧い瞳を見つめる。動揺しながらもヒューズがその視線を受け止めていると、ヴィーは微笑んだ。
「勉強になった。ありがとう。」
「い、いえ、そんな!勿体ないお言葉です!」
「だがなぁ、貴族は受け入れたのに王族には緊張するとは、差別では無いか?」
再び歩き出したヴィーの不満気な言葉に、三人は顔を見合わせて苦笑する。
「それは中々、難しい事かと存じます。」
「ではこうしよう。見掛けたら声を掛けるから、私という存在に慣れてはくれないだろうか?」
「……善処致します。」
「今はそれで良いよ。我儘に付き合わせてすまなかった。送ってくれてありがとう。」
話す内に城の通用口へと辿り着き、振り向いたヴィーは三人へ礼を告げて中へと入る。
フードを外した夜色マントの背中を見送って、ボルトは生誕祭の野営地での出会いを思い出し、フィンは夜会で見たドレス姿の麗しい王女の姿を思い描き、ヒューズは初めて遭遇した王女という存在に呆然としたのだった。




