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 目の前に広がる長い廊下。

 手には雑巾。

 陸上の選手のスタートのように、雑巾を広げ、その上に両手をついて腰を上げれば、一気に駆け抜けるしかないだろう。

 ダダダダダッっとカッコよく走り抜けられたらいいのだが、残念なことに右脚の感覚がまだ馴染めていないようだ。

 途中でころりと転がってしまうのがご愛嬌。

 でも、大丈夫。

 受け身は熟練だから。


 気分転換をしたいときは、この雑巾がけが一番だ。

 うちの廊下はやたらと長い。

 そして、年季の入った木造建築だ。

 当然のことながら、こういった家を守るにはレトロな方法が一番なのだ。

 水拭きの雑巾がけと、ぬか雑巾。

 水拭きの水には決して洗剤は入れないし、使わない。

 洗剤を使うと逆に板を傷めてしまうから。

 イタをイタめるってオヤジギャグとかじゃないです。

 今、私の中で瑞姫さんが爆笑中。

 ちょっと凹みました。

 気分転換するつもりだったのに、酷いです、瑞姫さん。

(ごめんごめん! 瑞姫でもオヤジギャグ飛ばすのかと思って意外でさ。ギャグじゃなくて天然だっただけね)

 天然?

(ああ、こっちのこと。いや、雑巾がけ、いいよね。私も好きだよ。これだけ廊下が長いと思い切りできて気分がいいし)

 そうですよね! 気持ちいいですよね。

 同意が得られたことで、気分が浮上。


 水拭きの後は乾拭き。

 水拭きで汚れを拭き取り、乾拭きで水分を拭き取る。

 必ず水分を拭き取らなくちゃ、意味がない。

 この後待っているのが、ぬか雑巾だ。

 米ぬかを綿素材の袋に入れているだけの単純な作り。

 うちではさらしを巾着型に縫って、その中に炒った米ぬかを入れてます。

 米ぬかを炒るのは、虫が付きにくいようにするためなんだと御祖母様が仰っていました。

 米ぬかの在庫を管理するのは、御祖母様の管轄だから。

 御祖母様お手製のぬか漬けに必要な糠床のため、ある一定量の在庫を屋敷内に置いているのです。

 その一部がぬか雑巾になるのです。

 屋敷のお掃除は、相良家の嫁の大切なお仕事なので、今は家政婦さんたちに一部お任せしているけれど、こういったところは未だに相良の女たちの大事な仕事になっている。

 何でかっていうと、相良家の嫁って一般人が割合的に多いので、手っ取り早い自信つけって言えばわかりやすいかな?

 由緒正しい名家の嫁って、なったはいいが、何をしていいのかわからないっていうお嫁さんが、これなら自分にできるとすぐに自信を持てる仕事のひとつがお掃除だったらしい。

 昔から掃除と料理は女の仕事って言ってたから、雑巾がけなんて彼女たちにとっては当たり前のお仕事だったんだろう。

 できることから少しずつお仕事を覚えていって、そうして相良家の嫁として少しずつ自信を持ちなさいという配慮だったようだ。

 今ではこんな木造住宅なんて少なくなってしまったから、ぬか雑巾を知っている少なくなっているんだろうと御祖母様が嘆いていた。

 ぬか雑巾は、和製ワックスのようなもので、一気にツヤツヤにはならないけれど、何か月も何十年も毎日続けるとそれはもう素晴らしい艶を生み出してうっとりしてしまうのだ。

 水拭きのように駆け抜けるのではなく、きゅっきゅっと音を立て、少しずつ進んでいくので、筋肉痛になることもある。

 屋敷内は、大体そんなカンジで手入れをしているのだが、唯一例外的な場所もある。

 それが当主のお部屋。

 御祖父様の居室は漆塗りの柱や板と黒漆喰の壁に格天井だ。

 一番格の高い部屋だから黒漆喰なんだそうだけど、実はもう一部屋いいお部屋があるのだ。

 こちらも漆塗りの柱に白漆喰なんだけど、通常の白漆喰ではなく中に貝粉が混ぜられているので、陽が当たると壁がきらきら光ってとても綺麗。

 このお部屋に通される方は、おそらくもういない。

 当主よりも上の位にあたる方に過ごしていただくための部屋だとかで、皇室の方々と徳川家当主のみ使用できる。

 この部屋の掃除は、代々当主が行うため、私も部屋の外から眺めただけで中に入ることは許されなかった。

 当主の部屋は当主夫人が掃除の責任者になるけれど、お掃除は相良家の人間ならしてもいいので、私も掃除を手伝ったことがある。

 数十年おきに漆の塗り替えが行われるので、専門の職人さんたちにお願いしているそうだ。

 少しずつぬか雑巾で廊下を磨いていく。

 無心になって鏡のように姿が映る板面を磨くのはとても楽しい。

 きゅっきゅと音を立てながら廊下を磨いていたら、すっと障子が開いた。

「精が出るの、瑞姫」

「……御祖父様」

 声を掛けられて顔を上げれば、そこに御祖父様がいた。

「瑞姫、口をお開け」

 着物の懐に手を入れた御祖父様が、何やら懐紙入れか財布のような物を取り出すと、そこから黄金色の透き通った何かを摘まむ。

 言われた通り、あーんと口を開けると、御祖父様がそれをぽいっと口の中に入れてくださった。

「……美味しいです」

 小さな蜂蜜飴だった。

 この味は、知ってる。

 初等部の時、甘党の御祖父様へ敬老の日のお祝いで差し上げたものだ。

 人工的な甘みが苦手な私が、何とか甘くても食べられるのが蜂蜜と水飴だ。

 和三盆の和菓子にしようか、何にしようかとさんざん悩んだ挙句、普通のキャンディーの半分以下の大きさであるこの蜂蜜飴なら、会議中とかでも誰にも気づかれずに食べれるかもと、子供の浅知恵で選んだ飴玉なのだ。

 ちなみに、水飴なら、小倉藩御用達の豪商水飴屋の水あめが至上だと思う。

 普通の水飴は無色透明だけれど、あちらの水あめは蜂蜜かとうっかり思ってしまうような黄金色なのだ。

 とても綺麗な透き通った金色に、飴色の本来の色を知ったような気がした。

 ちなみにこれは壺入りで、結構なお値段だ。

 いくら私でも、これを簡単に幾つもは購入できない。

 1年に1個、自分へのご褒美のようなつもりで買っている。

 しかし、小さな頃の贈り物だった品を今でも食べていただけていたとは驚きだ。

 目を瞠って御祖父様を見上げれば、御祖父様はにっこりと笑って私の頭を撫でた。

「精神の鍛錬もいいが、時に何もしないことも重要じゃ。それが終わったら、少し休みなさい」

「はい」

 御祖父様の言葉に、頷いて答えれば、御祖父様が私の頭をもう一度撫でて、その場を去っていかれた。

 ストレス解消ってバレてるような気がする。

 でも、やってもいいという意味だよね、あれは。

 終わったら休めってことで。

 よし。続きしよう!

 どうせ、あと少しだし。

 そう思って、私はぬか雑巾を手に、廊下を磨きだした。




 無心になるというのは、実に爽快だ。

 そして、何かをやり遂げるという充足感は、何度経験しても気分がいい。

 ようやく廊下の端へと辿り着き、満足できる仕上がりに笑みを浮かべたら、視界に足が映った。

「……え?」

「………………ようやく気が付いたか」

 呆れたように告げたのは、疾風だった。

「疾風、いたの? 声を掛けてくれればよかったのに」

 私の言葉に、疾風は呆れ果てたといった風に溜息を吐く。

「5回」

「え?」

「時間をおいて、5回、声を掛けた。だが、瑞姫は全然気づかなかった」

「え? あははははは……ごめんなさい」

 気付かなかったと言われれば、確かにそうかもしれない。

 夢中になりすぎると、外から何を言われようとも、気付かないことが多い。

 もう一度、横を向いて溜息を吐いた疾風は、何かを諦めたようだった。

「東條凛について調べいたんだけど、ある程度のことがわかったから、報告に来た」

「東條……ああ! あの、ちょっと変わった人」

「……モノは言い様だな」

 疾風はどうやら彼女を毛嫌いする対象にしてしまったらしい。

 一度、嫌い認定をしてしまったら、疾風の場合、滅多なことではその認識を変えない頑固者だ。

 今のところ、敵認定ではないらしい。

 敵認定をされているのは島津と諏訪だ。

 ファイリングされた資料を私に差し出す疾風が、そんなことを言う。

「周囲の反応を見ないなんて、変わってるとしかいいようないでしょ? これが、その資料か」

 廊下にぺったり座ったままでファイルを受け取り、中を捲る。

 データは、本人のプロフィールから同学年の生徒たちの調書、それから、両親についても書かれてある。

「父親が安倍家!?」

 瑞姫さん、知ってる?

 思わず、私は瑞姫さんに問いかけた。

(いや、知らない。父親については、一般人で、車の事故で死亡ってことくらいしか、データはなかった)

 ありがとうございますと、彼女の言葉に礼を述べ、データとにらめっこする。

「瑞姫は、安倍家のことを知ってるのか?」

 疾風が意外そうな表情で問いかけてくる。

「その表情だと、疾風は調べきれなかったんだね」

 確認の為に問えば、疾風はバツの悪そうな表情で頷く。

「まあ、しかたないよ。安倍家だから」

「そういうもの?」

「そんなものです。あそこは、名前だけが有名で、中身がわかるのはあまりいらっしゃらない。私だって七海さまに教えていただいたから知ってるようなものだし」

「七海さま、ね……」

 ああと納得したように頷く疾風の表情は渋い。

 大伴家は、古い家で、常に中央にいた家柄だから、情報として手に入れるではなく、元々知っている当たり前のことというものが多い。

 歴史の表舞台から消えているように見えて、常に朝廷の中央部にひっそりといたのだ。

「安倍家は、ちょっと特殊でね、長子が神官職について、次子が財閥の後継者、三子は上2人の控えということで、男女問わずに役目が決まっているんだ。4番目以降は好きにして構わないっていう家だから、それ以降は割と自由に育ってるんだ。当代様の4番目のお子様は、ものすごく自由な方で冒険者になったと聞いている。そうか、東條凛の父親は5番目だったのか」

「離縁はしていなかったから、何でこんなことになっているのか、わからないんだが」

「そうだよね。安倍家の直系男子が娘婿になることを喜ばない東條家ではないからね。ああ、わかった」

 ファイルを眺め、ある仮説を思いつく。

 おそらくは、それが事実に近いであろうことも予想がつく。

 この間、この屋敷まで押し掛けたあの東條夫妻なら、多分そうだ。

「安倍のかたは、多分、ご自分の出生を仰らなかったのだろう。東條夫妻は、彼のことを調べず、一般人と思い込んだ。だから、結婚を許さなかったんだ。東條家から見れば、あの2人は駆け落ちしたように見えるけれど、安倍のほうでは5番目の方が選んだ人に文句はないので、自由にさせていたということだろう」

「……は?」

「安倍家は5番目以降の人生には干渉しないんだ。必要だと言われたら手を貸す程度なんだ。元々、あの家は自分の力であそこまで上り詰めたという矜持があるからね」

「なるほどな。言われてみれば、確かに。世間知らずの御嬢様が駆け落ちしたにしては、質のいい暮らしをしているしな」

「自家用車を持っている程度には、というよりも、一戸建ての家で暮らしているにしては、ってことだね?」

「うん。一戸建ての家と自家用車って、あの年代では結構な収入が必要だと思う。ローンを組むにしたってね。ところが、あの家は完済している。安倍氏の就職先も、安倍家の系列の会社だった。つまり、安倍家からは特に反対されていないってことだな、確かに」

 がしがしと髪を掻き毟るように乱暴な仕種を見せた疾風は、胡乱な目つきになる。

「じゃあ、何で東條凛は安倍家の親族からの申し出を蹴って東條家へ身を寄せるようにしたんだ? 母親はそれを望んでいなかったにも関わらず」

 当然の疑問が疾風の口から洩れる。

「………………見極める必要があるということだね」

 私が言えることはそれだけだった。

 瑞姫さんが残してくれた資料と、疾風が調べてくれた資料、そして、東條凛本人の動きをつぶさに見ることで、これから何が起こるのか見極めなければならない。

 彼女の思惑とは別方向で、私が望んだ道に進むためにも。

「あ。疾風、部屋に行ってて。後片付けしてくるから」

 そう言って、私は掃除道具一式を片付けるために座り込んでいた廊下から立ち上がった。

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