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ソラニワ  作者: 緒浜
13/53

013 追跡者/metamorphose

 人、ひと、ヒトの波。

 ぼろを纏い、嗅いだことのない臭いを漂わせながら、人々が路地を流れていく。

 また肩がぶつかった。これで何度目だろう。背後で悪態が聞こえたが、もう謝る気にもなれない。

 人と物と音がぶつかり合い、ひしめき合い、混ざり合う。

 ひどい場所だ。

 色彩も臭いも得体が知れないものばかり。魔法院中のゴミ箱を一度にひっくり返したとしても、こうはならないだろう。

 本当にひどい場所。

 けれど、と瑞彦は思う。

 初めて足を踏み入れた『彩色飴街』で、最初に瑞彦の胸にわき上がったのは嫌悪感でも憐憫でもない。畏怖の念だった。

 この街の人々は生きている。自らの足で立ち、自らの力で歩んでいる。

 その時、瑞彦は初めて自分たち――魔法院で生まれ、魔法院で育ってきた魔法士たちが、“生きている”のではなく“生かされている”のだと気がついた。

 自分たちは生まれた瞬間から――いや、この世に生まれ落ちる以前から、魔法士となるべく管理育成されてきた。魔法院で必要な教育を施され、能力あるいは家格によって選別された後に、それぞれの役職へ配置される。まるでベルトコンベアに乗せられた工業製品のように、誕生から臨終まで用意された一本道を進むだけだ。

 魔法院での暮らしを不満に思ったことはない。疑念を抱いたことも、ない。決められた人生を、与えられるがままに、ただ、生きてきた。

 “生きてきた”、つもりだった。

 すれ違う人々に目をやる。

 安寧とはほど遠い生活を、興味深い、などと言っては失礼になるだろう。ゴミと見間違えるほどボロボロにやつれ果て、道ばたにうずくまる人間を何人も見た。なかには、子どもらしき姿もあった。

 目を背けたくなるような悲惨な現実。こんな世界、少しも知らなかった。

 ――あなたはなにも知らない――。

 本当にその通りだ。

 貧困、犯罪、暴力、飢餓、疫病、汚染。そして、死も。

 人間が生きる上で発生しうるすべての負の現象を、自分は知らずに生きてきた。

 それはとても幸運なことだと思う。恵まれたことだと、思う。

 けれど、“生きている”という感触も、自分は知らない。

 子どもたちとすれ違う。痩せた体に、すり切れた服。髪も頬も薄汚れ、見るからに貧しい身なりだ。けれどその瞳に宿しているのは、絶望や悲壮ではない。生きることに対する、貪欲なまでの意志だ。

 それとよく似た夜色の瞳を、自分は知っている。

 子どもたちの姿を一瞬だけ目で追って、瑞彦はすぐに視線を前へと戻した。

 うごめく人波の先。

 そこに、路音がいた。

 そのかたわらには、“ヒトガタ”とおぼしき少年。

 溢れ返る雑踏の中、油断すればすぐ見失ってしまいそうな後ろ姿を、瑞彦は必死で追っていた。

 二人を見つけることができたのは、ほとんど奇跡と言ってもいい。

 昨夜、瑞彦たちは桐生導師のあやしげな“伝手”経由で「それらしき二人組」の目撃情報を得たものの、結局その周辺で「それらしき二人組」を見つけることはできなかった。

 新たな情報が入るまでの間の捜索は、人が集まりやすい橋の周辺を中心に、聞き込みと人の目に頼るものとなった。あまりに原始的な方法だ。通常、犯罪者の捜索は街のいたるところに設置されている監視カメラと個体識別システムの役目だが、その設置が第三区の外壁までだということを瑞彦は初めて知った。そこから外側、つまり第四区と『彩色飴街』以東には、公の監視カメラは設置されていない。

 捜索のために院から与えられた人員はさほど多くない。院に知られずに路音と接触するには好都合と言えば好都合だったが、路音を見つけられなければ元も子もない。

 橋から橋へと移動しながら、瑞彦は必死で二人の姿を探した。そんな瑞彦をあざ笑うかのように、何千何万という人間がひっきりなしに路地を行き交う。『彩色飴街』は想像をはるかに越える密度を有していた。この街でたった二人の人間を、確かな当てもなく見つけ出すのはあまりにも無謀だ。

 それでも、瑞彦は走り続けた。足が棒になるまで駆け回り、焦りと疲労がピークに達した頃、端末に連絡が入った。

 “東十三楼三十一層”

 情報源はよくわからない。おそらく桐生導師の“伝手”だろう。地図を確認すると、今いるところからそう遠くなかった。

 今日中に探し出さなければ、黒瀬と接触できる機会は限りなくゼロに近くなる。

 一縷の望みを胸に瑞彦は路地を駆けた。そして目的の場所へ着くより早く、奇跡に近いことが起こった。

 路地に流れる人波が途切れた一瞬に、そこを横切った人影。目深にフードを被り、ゴーグルで顔を隠してはいたけれど、彼の独特な雰囲気はそう簡単に隠せるものではない。あるいは、魔法院で共に過ごした時間が長い自分だからこそ、気づくことができたのかも知れない。

 見知ったその横顔に、心臓が跳ね上がる。

「黒、……!」

 思わず声を上げそうになって、瑞彦は慌てて自分を諌めた。

 慎重にならなければ。肝心なのはここからなのだ。

 小雪と北見には連絡をした。行動を共にしていた魔法士とは人ごみではぐれてそのままだ。他の連中にはまだ知られていない。

 好都合だった。これなら、何とかなるかもしれない。

 二人のあとをつけながら、瑞彦は必死で思考をめぐらせていた。

 どうやって声をかけようか。できれば、人気のないところがいい。

 問題は“ヒトガタ”……いや、それより黒瀬がどう出るか。

 暗色のフードを見据えながら、幼い路音のまなざしを思い出す。

 鮮烈な意志を宿した、あの双眸。

 そして次に思い浮かぶのは、まだあどけない“ヒトガタ”の顔だ。

 鉛でも呑み込んだように、ずしりと臓腑が落ち込む。

 おそらく黒瀬は、これから自分がしようとしていることを許しはしないだろう。

 それでも――……。

 ふいに目の前が真っ暗になった。人の流れが止まり、辺りが騒然となる。

「くそ、またかよ!」

 近くにいた男が忌々しげに舌打ちする。天井を見上げ、瑞彦は目を細めた。

「停電、か?」

 地上から遠く離れたこの路地に、太陽光は届かない。電灯が消えてしまうと、辺りは夜より深い闇に閉ざされた。

 急いで暗視機能のついたゴーグルを取り出す。魔法士が装備する高性能のゴーグルは『彩色飴街』では目立つからと、外していたのだ。

 すばやく装着し電源を入れると、目の前に緑色の世界が広がった。

「すみません、通して」

 暗闇の中で立ち往生する人々を押し退ける。視線の先にさっきまであったはずの姿がない。

 まずい、見失ったか?

 背中を冷や汗が流れる。鼓動が高鳴った。

 くそ、ここまできて……。

 思わず舌打ちしそうになったその時、すぐ目の前で暗色のフードが振り返った。ゴーグルを外して顔を上げ、辺りを見回すその顔は……。

 黒瀬だ。

 息を呑み、瑞彦はぎくりと足を止めた。

 手を伸ばせば届きそうな場所に、路音が立っている。

 気づかれただろうか?

 心臓が早鐘を打つ。

 暗闇だからと安心しているのだろうか、路音はフードをすべて上げて、隠していた顔を大胆に曝している。背後の様子をうかがうようにしばらく目を凝らしていたが、そのまなざしは瑞彦をとらえることなく、路音は再び“ヒトガタ”をうながして手探りで路地を歩き始めた。

 ほっと胸を撫で下ろす。よかった。この暗闇のおかげだ。

 背後で悲鳴と罵声が上がった。思わず目を向けると、人にぶつかりながら誰かが走り去っていく。

「泥棒! だれか、誰か捕まえておくれ!!」

 女の金切り声が虚しく響く。

 暗闇に乗じて、あちらこちらで同じようなことが起こり始めていた。

「本当にひどいな……」

 思わず呟きながら、瑞彦は再び路音の後を追った。

 停電は市場の一部だけらしく、しばらく行くと灯りのある路地に出た。市場の喧噪を離れるにつれて、次第に人どおりが少なくなる。思い切って声をかけるべきか迷ううちに辺りはますます寂しくなり、路地にはついに三人の姿しかなくなってしまった。

 コンクリートの壁に、こつこつと靴音が響く。

 なにか、おかしい。

 これは、もしかして……。

 転落防止用の柵の前で路音が立ち止まる。そこは『彩色飴街』の大峡谷に面した、小さな広場だった。壁や床、天井にまで猥雑な絵やら文字やらが描きなぐられている。切れかけた電灯は耳障りなノイズとともに不規則に明滅を繰り返し、正面には遠く西側の灯りが星のように瞬いていた。

「もういいぞ」

 路音の手が、ぽん、ととなりのフードを叩く。フードに隠された髪が露になった。

「!」

 薄茶色の髪。小麦色の肌。見知らぬ顔だ。

 “ソラ”ではない。

「脅すようなマネして悪かったな」

 路音が紙幣を差し出すと、薄汚れた少年の顔が途端に輝いた。

「もう行っていいぞ。ありがとな、助かったよ」

 こくんとうなずき、着ていた上着を路音に手渡すと、少年は逃げるように瑞彦の横をすり抜けていった。

 唖然とする瑞彦を、夜色の瞳が振り返る。

「あいかわらず尾行が下手ですね」

 ゆったりと柵に寄りかかり、路音は一度も見せたことがないような艶やかな笑顔で笑った。




「ソラ、振り向かないで聞け」

 雑踏でジインがささやく。その声は唇から出た途端に市場の喧噪にかき消されてしまったけれど、ソラの聴力はそのかすかな息づかいまで鮮明にとらえていた。

「うん……なに?」

 少し距離を詰めて、その横顔を見上げる。視線を前に向けたまま、ジインは言った。

「尾行されてる」

「ええっ!」

 心臓が跳ね上がる。思わず振り返りそうになったところを、ジインの腕に止められた。

「振り向かない」

「あっ、ごめん。でも、どうしよう……どうするの?」

「うん……どうしようかな」

 わずかに頭を傾げて、首筋を撫でる。ジインが考え込む時の仕草だ。

 ソラは声をひそめた。

「まいたりできないの?」

「うーん、できなくはないんだけど……」

 めずらしく歯切れの悪い返事だ。何か問題でもあるのだろうか。

 しばし思案してから、ジインはソラを振り返った。

「おまえ、さっきの靴屋覚えてる?」

「靴屋? ……ああ、お店の人が崩れてきた靴に埋まって騒いでたところ?」

「そう。何楼の何層?」

「ええと、となりの楼の四層下だから……十二楼の三十二層?」

「当たり。で、その通りの端っこに骨董品屋があったの、覚えてるか?」

「骨董品屋?」

「ほら、飛空船の模型が売ってた」

 記憶をさらう。十二楼三十二層の小さな商店街は、屋台や天幕が並ぶ市場と違って、店がちゃんと建物になっていた。道幅が狭くて薄暗く、人通りが少なくて、市場よりも歩きやすくはあるが、何だか寂れた感じだった。小さな靴屋の扉のない入口から突然、ガタガタという大きな音とともに靴と箱がなだれ出てきて、下敷きになった親父がもがいているうちに何人かが靴をかっぱらっていった。ひどいなあと思いつつ前を通り過ぎた、その先。珍しくガラスのはまったウィンドウに、古びた飛空船の模型がぶら下がっていた店。

「……うん。あった。けど、その店がどうしたの?」

「その骨董品屋の裏手に小さな格子扉がある。入ってすぐの梯子を下がると、昨日寝たところみたいなデッドスペースに出るから……そこまで一人で行けるか?」

「えっ? ぼく一人で?」

 思わず足が止まる。後ろから人にぶつかられ、二、三歩よろめいた。

 ジインと別れて、一人で骨董品屋の裏へ。

「行けるか? おまえ一人で」

 突然のことに困惑しつつも、ソラはうなずいた。

「う、うん。たぶん、大丈夫。だけど、なんでぼく一人? ジインはどうするの?」

「ちょっと試したいことがあるんだ」

「試したいこと?」

「うん。本当はなるべくおまえと離れない方がいいんだけど……まあ、すぐ済むからさ。少しそこで待っててくれ」

 うなずいたものの、胸の中では不安が疼く。

 ジインと離れるなんて、思ってもみなかった。

 案ずるのは、不慣れな街で単独行動する自分のことか、それとも傷を抱えたジインのことか。

 きっと両方だ。

 もし離れている間に、どちらかの前に追手が現れたら――……?

「そうだ、尾行は? つけてきてる追手はどうするの?」

 動揺を押し隠し、なるべく冷静に聞こえるようにソラは訊ねた。

「それはこっちで引き受ける。おまえは気づかれないように横道に入って……」

「それじゃ、ジインが危ないじゃないか! もしかして、一人で追手と戦うつもりなの? ……それならぼくも戦う!」

 思わず袖を掴む。自分ではたいして役には立たないかもしれないが、ジインの背中を守るくらいはできるはずだ。

 振り返ったゴーグルの奥で夜色の瞳が笑った。

「戦わないよ。戦わないための“仕掛け”を、試しに行くんだ」

「しかけ?」

 ジインがちらりと背後をうかがう。

「詳しくは後で説明するよ。とにかく、おれの心配はしなくていい。どちらかというと、おれはおまえのほうが心配だな……」

 言いながらこちらを見た横顔に、揶揄の色がにじんだ。

「お菓子くれるって言われても、知らないオジサンについて行ったりしちゃダメだぞ」

「は? 何それ」

「あと、迷子になって泣きべそかいたりするなよ?」

「か、かかないよ! 骨董品屋の裏へ行けばいいだけだろ? 道もちゃんと覚えてる。迷子になんてならない。小さい子じゃないんだから、ぼくの心配はしなくていい。全然大丈夫だよ」

 掴んでいた袖を放し、ソラは口早にまくしたてた。わずかな反抗心と、与えられた課題を完璧にこなしてみせてやるというやる気が、不安を押し退けて頭をもたげる。

「そうか。なら、大丈夫だな」

 ジインが小さく笑った。

 ああ、わざとだな、と思う。わざとからかって、不安を払ってくれたのだ。

 離れたくないな。

 そんな単純な感情が、不安とは無関係のところでぴかぴかと光った。

 ジインがフードを被った頭をポンポンと叩く。

「じゃあ、今からおれが灯りを消すから、そしたら上着を脱いで横道に入れ」

「え、これ脱ぐの? なんで?」

 ジインがにやりと笑う。

「尾行対策だよ。べつに寒くはないだろ? 中に着てるパーカーのフードは被ったままでな。緊急用通信機の使い方は昨日説明したな?」

「うん、大丈夫」

 お腹のあたりを押さえる。服の下には廃工場の鍵と一緒に小指大の小型通信機がぶら下がっていた。数分の会話しかできない簡素な代物だが、もしもの時の連絡用にとジインが用意してくれたものだ。

「なにかあったら、それですぐに連絡を」

「わかった」

 離れていても繋がる手段があるのは、とても心強い。

「よし。じゃあザックを手に持って。いいか。3、2、1……」

 ジインの瞳の夜色が、すうっと深くなる。

 ジジジッ、とノイズを発して、市場の天井にぶら下がっていた電灯が一斉に消えた。

「……行け!」

 上着を脱ぎ、ソラはすばやく横道へと駆け込んだ。この暗闇ではほとんど前が見えないのだろう、人々は戸惑い、あらぬ方向へと目を向けている。けれどソラには困惑する人々の表情まではっきりと見えていた。

 立ち往生している人々の間をすり抜けて、路地の先へ。

「なあ、ちょっと頼まれてくれないか……」

 振り返ると、ジインが見知らぬ少年に声をかけていた。

 ジインの“試したいこと”というのはいったいどんなことだろう。

 追手が来てるというのに、本当に一人で大丈夫だろうか。

 ――おれのことは心配しなくていい――。

 そうだ。少なくとも今は、ジインより自分の心配をすべきだろう。

 いま自分がやるべきことは、骨董品屋まで無事にたどり着くこと。

 一応ちらちらと背後を確かめつつ、フードを深く被って路地を急ぐ。一人で行動するなんて、『ハコ』を出てから初めてだ。やる気と不安で胸が高鳴る。今はまだ、やる気のほうが少し多い。

 少し大きな通りに出た。右に行けば東の岩壁側に突き当たり、左に行けば西の街を臨む巨大な谷があるはずだ。まっすぐ進めば十楼へたどり着く。今いるところは東十一楼二十八層だから、骨董品屋のある東十二楼三十二層へ行くには、もと来た方向へ戻り、階段かエレベーターを使って四層下へ降りなければならない。

 追手がいるのなら、もと来た道は避けるべきだろう。

 さあ、どうするか。

 ――谷と岩壁方向の路地には行き止まりが多い――。

 ジインの言葉を思い出す。

 ――最悪、谷なら下層へ飛び降りることができるけど、逃げる時は南北方向、楼から楼へ向かう路地を使うのが鉄則だな。一楼から三十二楼までほとんどの路地が繋がっているから、行き止まりが少ないんだ――。

 路地を左へ曲がり、ソラは谷を目指した。方角は、空気の流れと音でわかる。

 ――もし下層に降りたいのに階段も梯子もエレベーターも見つからない時は――。

「――谷側に行けば、壁伝いに下層へ降りられる」

 狭い路地を抜ける。音が拡散した。空気が変わる。

 視界いっぱいに広がる巨大な星空。否、本物の空ではない。

 広がっているのは、西と東を隔てる『彩色飴街』の奈落の闇だ。

 無数に瞬くのは、西側の『彩色飴街』の灯り。闇に浮かぶ光の列は、西と東を繋ぐ細い吊り橋だ。見上げると、遥か遠くに亀裂のような空が光っている。谷がゆるいカーブを描いているので、左右の果ては見えない。

 ――地上四階、地下四十九層。北端から南端まで約40km続く街を三十二の区域に分けて、それぞれの区域を“楼”と呼ぶんだ――。

 ここは東十一楼二十八層だから、街の真ん中よりやや北あたりということになる。

「広いなあ……」

 広大な闇を見回して、ソラは改めて感嘆した。

 地上は遥か遠い。地底も、点々と蠢く光がそうなのだろうが、かなり下のほうだ。一歩でも踏み外せば、そのまま地獄へまっしぐら……いや、でこぼこと突き出した建物の角にぶつかって、粉々になるのが先か。ものすごく痛そうだ。どちらにせよ、自分の人生はそこで終わりということになる。

 きゅ、と気を引き締める。着地点をよく見定めて、ソラは跳んだ。膝を上手く使って、なるべく音を立てないように着地する。

 谷側へ来ることを選んだのは、階段を探して路地をうろうろするよりも、こちらの方が安全だと思ったからだ。もしも追手に見つかって追われるようなことがあっても、自分の体力と跳躍力なら自在に層を行き来できる。迷路のような路地や人通りの多い市場を逃げるよりは、ずっと逃げやすい。

 それに、もしジインに何かあったとしても、この吹き抜けにいればすぐに駆けつけられる気がした。

 上層を見上げ、聞こえもしない声に耳をすましてみる。

 ジインは、大丈夫だろうか。




 ――……。




「あ……」

 また、あの音だ。

 昨日も街で聞いた、澄みきった美しい響き。

 鈴の音によく似た、もっと柔らかで透明な音色。

 それは昨日と同じように、頭のすぐ上から降ってくるようだった。

 始めは一つだった音が、次第に増え、重なりあっていく。

 美しい旋律に、ふわりと心が浮かび上がるよう。

 ああ、なんて心地いいんだろう。

「おい、院からの指示はまだか」

「!」

 ふいに聞こえた声に、ソラはぱっと目を開いた。

 慌てて身を隠したが、声の出所はかなり遠い。何層も下の層からの声だ。

 少し身を乗り出して、全神経を耳に集中する。

「まったく、いつまで待機させておくつもりなんだ」

 不機嫌そうに男が言う。

「軽く見られてるのさ。落ちこぼれの東部巡視隊なんざ、待たせるだけ待たせておけばいいってな」

「はっ、こっちは西部のやつらほど暇じゃないんだがな」

「まったく、院の連中はいったい誰のおかげでのんびり研究していられると思ってるんだか。おれたちがせっせと素体を回収してるからだろう? これで西部のほうが優遇されるんだから、やってられんな。こっちは竜の発生率が天と地ほど違うってのに……」

「しかし院の人間までわざわざ出てくるなんて、その黒瀬って奴はいったい何をやらかしたんだ?」

 息を呑み、ソラは体を強張らせた。

「さあな。『ハコ』に侵入したとかなんとか……まだ十五歳の院生らしいが」

「ああ、聞いたことがあるぞ。“天然”なんだよ、そいつ」

「へえ、ナチュラル・バースの魔法使いか。めずらしいな。おれが院生の時はひとりもいなかったぞ。もしかしたら、笹原長老以来じゃないのか」

「黒瀬……聞いたことのない氏だな。もしかして第三区民以下か?」

「さあな。あの桐生が後見だとかなんとか……」

「相当な『裏懸賞金』がかかったって話だぞ」

「それならおれたちが動かなくても、この街の連中が血眼になって探し出してくれるだろう」

「小さな酒場にまで噂が広まってる。いぶり出されるのも時間の問題だ」

「それより、本部から特別編成部隊が派遣されたっていうのは本当か?」

「ああ。どうやら院は何がなんでもそいつを捕まえたいらしいな」

「だからって院生一人に一部隊を? ……上層部の考えることはよくわからんな」

「まあ、本部まで出てくるのなら、おれたちが動く必要もないだろう」

「そうそう。落ちこぼれは落ちこぼれらしく、こうやって隅でサボっていればいいのさ」

 男たちが笑い声を上げる。

 気がつくと、白くなるほど手を強く握り込んでいた。くるりと踵を返すと、ソラは跳躍し、もと来た層を目指して建物の側壁を登り始めた。

 ジインの元へ、戻らなくちゃ。

 壁を登る作業は、降りる時より時間がかかる。ソラは懸命に手足を動かしながら、おそらく魔法士であろう男たちの会話を頭の中で反芻した。

 自分たちに高額な『裏懸賞金』がかかったこと。小さな酒場にまで噂が広まっていること。“本部”というところから何だかすごそうな部隊が派遣されたこと。

 そして、魔法院は何がなんでもジインを捕まえたいらしいということ。

 先ほどの尾行は、『裏懸賞金』目当ての賞金稼ぎだろうか。あるいは本部から来た部隊か、それとも魔法院の……?

 また鈴の音が聞こえる。

 本当は言われた場所で大人しく待っているべきなのだろう。もし行き違いにでもなれば面倒だし、自分がそばにいることでジインの邪魔になる可能性だってある。

 けれど、もしジインが捕まってしまったら。

 そう思うと、居ても立ってもいられなかった。

「あ……そうだ」

 小さな屋根の上で立ち止まり、ソラは慌てて襟首を探った。

 銀色の小さな端末機を服の中から引っぱり出す。

 この緊急用端末で、ジインに連絡を。

 とにかく、すぐそこまで追っ手の部隊が迫っていることだけでも伝えなければ。

 ふいに鈴の音が近くなった。本当にきれいな音だ。

 けれど、いまは少しうるさい。

 心地よい旋律が頭の中に入り込み、思考の邪魔をする。

 うっとりとまぶたが落ちかかり、ソラは慌ててかぶりを振った。

 とにかく、早くジインのところへ。ああ、違う。その前に、端末で連絡を。

 それにしても、本当に、なんて美しいんだろう。

 どこからともなく降る澄んだ音の連なりに、心が、体が、軽くなる。

「……あれ?」

 けれど、おかしい。

 最初に耳にした時からずいぶん移動したというのに、音はいつでも頭のすぐ上で鳴っているようだった。

 時々、耳元で鳴っているのではないかというほどに近くなる。

 この音はいったい何なのだろう。

 耳をすますと、幾重にも重なる響きが急に大きくなった。

「う、わ……!」

 頭の中が音でいっぱいになる。まるで脳みそ全体が揺れるようだ。

 とっさに耳を塞いだが、音は少しも弱まらない。

 そこでソラはようやく気がついた。

 この音は、空から降ってくるのではない。

 自分の頭の中から響いているのだ。

「……っ!?」

 ざわりと細胞が騒ぎ、ソラはとっさに体を押さえた。

 なんだ?

 鳴り響く音に細胞が震え、全身が熱くなる。

 コードから外した緊急用端末が、手からこぼれてトタンの屋根を転がった。

 けれど、それに手を伸ばすことすらソラにはできなかった。

 地面が揺れ、体が傾ぐ。平衡感覚を失って、足元がふらついた。

 なんだ、これは。

 体の一番深いところから、何かが変わっていく。

 自分の意志では制御できない何かに、ソラは戦慄した。

 意識がふいに遠のく。自分ではない何かが、脳を支配し始めていた。

 鈴の音に引き出され、溢れ出る何かが、ソラを内側から急速に侵していた。

 言いようのない恐怖に悲鳴を上げる。

 押し出される。消えてしまう。

 意識、記憶、理性、感情、ソラをソラとして留めるものが、すべて。

 消えてしまう。

 そして恐ろしいことに、心のどこかでそれを望んでいる自分がいた。

 待ち望んでいた解放に、全身が狂喜する。

 このまま身を委ねて、すべてを解き放ってしまえば――……。

「……――っ!!」

 違う。だめだ。やめてくれ。

 必死で意識をたぐり寄せるが、それは雲を掴むように指をすり抜けていくばかりだ。

 いやだ。助けて。誰か。

 ――ジイン。

 虚空に伸ばした腕から、めき、と嫌な音がした。

 悲鳴が咆哮へと変わり、腕が、顔が、体が形を変えていく。

 失われていく、“ソラ”という形。

 ああ、ダメだ。

「……――ジ、イン」

 ジインのところへ、行かなくちゃいけないのに。

 遠のく意識の端で、ソラはジインを強く想った。




 ジイン。いま、そこへ行くから。



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