親子丼(前篇)
いったい誰に似たのかね。
空になったシチュー皿を見ながら、ローレンツが考えるのは息子のことだ。
悔しいが、美味かった。
息子の作った料理にまさか唸らされる日が来るとは思っても見なかったが、これならそこいらの酒場で出すものよりも余程上等だ。
だが、それでも胸の中に蟠ったものは粗熱の残った炉のように燻っている。
窓の外では雪が雨に変わっていた。夜の暗がりに降る雨は、あまり気持ちのいいものではない。
皿に木匙を投げ入れて、椅子の背もたれに身体を預けた。腹がくちくなったが、しばらく眠気は訪れそうな気配はない。
職人街に程近い小さな三階建ての家でローレンツは二人の息子と暮らしていた。
遍歴硝子職人として諸国を旅しながら稼いでいたローレンツが腰を落ち着けたのは結局が故郷である古都だったというのは自分でもおかしなものだと思っている。
腕にだけは自身があったが、まさか硝子職人ギルドの名誉マスターの地位に就けるとは思ってもみなかった。
幼馴染で親友でもあり、飲み友達で喧嘩仲間のホルガーが色々と運動してくれたと言うことは風の噂で知っている。だが、礼は言っていない。本人も言われたくないだろう。男友達の仲というのはそういうものだとローレンツは理解している。
お陰で二人の息子も無事成人させることが出来た。
長男のフーゴは、ローレンツの下で硝子職人の修業中だ。今のまま順当に鍛え上げれば、自分が引退する頃には工房を任せてもお客さんに迷惑を掛けない程度の職人には育つだろう。
ローレンツが頭を悩ませているのは、次男のハンスのことだ。
料理人を目指すという。
宣言した数日後にはそれまでの仕事を辞めてさっさと居酒屋に勤めることを決めていた。
誰に似たのかね、と口の中でもう一度呟く。
考えるまでもない。自分自身に似たのだ。
本当は次男のハンスにこそ、硝子職人を継いで貰いたかった。兄のフーゴにはそこそこの才能があるが、それだけだ。山の八合目までは上手く登るだろうが、山頂へ到ることはできないだろう。
今のままでは、殻を破ることができない。そういう性質をフーゴは抱えている。
ハンスは、違う。
ハンスは職人が競うべき相手が自分自身だということを、直感的に知っている。負けん気の強さは人に負けたくないのではなく、負けている自分を不甲斐ないと思うからだ。
衛兵になるときも、随分と反対した。
向いていないとは思わなかったが、もっと向いているものがあると父であるローレンツは知っていたからだ。硝子職人になれば、ローレンツを越えるマイスターになれる。衛兵として腐らせるには惜しい才能だと、欲目ではなく本心から信じていた。
指先の器用さも、色彩の感覚も、フーゴではなくハンスが受け継いだ。それなのに。
ハンスが料理人を目指すことをどうしても認められないのは、衛兵に職を奉じた時に諦めたつもりになっていた何かを掘り返されてしまったからだ。
どうして料理人なのかというより、どうして硝子職人ではないのかという怒り。
莫迦莫迦しいとは思っていても、莫迦莫迦しいからこそ抑えきれないということはある。
フーゴが厚手のグラスに湯冷ましを注いでくれた。
ありがとうではなく、いたのかという言葉が口を突いて出そうになったのを、咳払いで誤魔化す。フーゴもハンスも愛しい息子だが、どうしても今の自分にはハンスの方が気にかかってしまう。
「ハンスのシチュー、美味しかったね」
「まぁまぁだな」
「二杯もお代わりしておいて、まぁまぁってことはないでしょ」
「……腹が減っていたからな」
鼻で笑って肩を竦め、フーゴが皿を片付け始める。
ハンスはとうに自室に戻り、篭っていた。このところ直接言葉を交わした記憶がない。
フーゴの後姿に申し訳ないと思いながら、グラスの湯冷ましに口を付ける。
グラスは、フーゴの作ったものだ。造りは厚手だが、飲み口の部分だけが少し薄くなるように仕上げられている。こうすることで、飲み物の口当たりが良くなるということもローレンツが教えたことだった。
存外によく出来ている。家に持ち帰るのは出荷できない粗悪品で、それはローレンツが決めていた。このグラスも今朝フーゴが持ってきたものだったが、どうして没にしたのかが思い出せない。
汲み置きの井戸水で皿を洗う音が聞こえる。今時分の水は、身を切るように冷たいだろう。
「……上手くなったな」
「そうだよね。こんなにすぐに料理って上達するものなのかな。まだノブって居酒屋に通い始めてそんなに経ってないよね?」
「違うさ。お前の作ったグラスのことだよ」
水音が止んだ。
窓硝子を、雨が強く打つ。それ以外の音は、聞こえない。
随分と長い沈黙の後、皿洗いの音は戻った。だが、フーゴは無言のままだ。
「なぁフーゴ、明日、行ってみるか?」
「行ってみるって、親方、居酒屋ノブに?」
「……家では父さんでいい」
思い返せばハンスには父さんと呼ばせている。フーゴの背中が、小さく震えて見えた。