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密偵と串かつ(前篇)

 この世で最も近づきたくない店。

 それがジャン=フランソワ・モーント・ド・ラ・ヴィニーにとっての居酒屋ノブの嘘偽らざる評価だった。

 東王国の抱える密偵組織である奇譚拾遺使。そこに名を連ねるジャンは名うての密偵として一目置かれる存在だ。いや、だったという方が正しい。


 今では閑職に回され、危うく奇譚拾遺使からも除名されかけるという体たらく。それもこれも、全ては古都の探索に失敗したことが原因だ。

 居酒屋ノブで食べたサラダから、帝国の実力を実態以上に強大なものと誤って評価してしまった。


 新鮮な野菜の歯触りに少し酸味の利いたドレッシングの素晴らしいシーザーサラダ。

 シャキシャキとした食感と絡まるタラの魚卵ソースが堪らないダイコンサラダ。

 そして、愛すべきポテトサラダ……


 どのサラダの味も、ありありと思い出すことができる。

 常識で考えれば古都で手に入るはずのない鮮度や種類の食材がふんだんに使われたサラダを供されたのだ。騙されるなという方が無理ではないか。そう訴えても、全く理解してもらえない。

 奇譚拾遺使の主である王女摂政宮セレスティーヌ・ド・オイリアから直々に叱責を受けたことによって、ジャンの組織での命運は決まった。


 能無しや嘘吐きと罵られながら泥水を啜るような屈従の日々。

 そんな中、降って湧いたようにジャンに仕事が与えられた。

 古都の探索である。

 名誉挽回、汚名返上、の機会とばかりに帝国北部最大の都市へ乗り込んだジャンが情報の収集先として選んだのは……居酒屋ノブだった。


「いらっしゃいませ!」

「……らっしゃい」


 ノレンを潜るといつか聞いた挨拶がまたジャンを出迎えてくれる。

 三白眼で油断なく店内を見回しながら、ジャンは会釈を返し、カウンターに座を占めた。あの時ジャンの正体に気付いていたと思しき老僧も今日はいない。これで心置きなくこの店を調査できるというものだ。

 居酒屋ノブ。この店には、何かある。

 長年、奇譚拾遺使として奉職してきたジャンの研ぎ澄まされた感覚がそう告げていた。


「ご注文は何になさいますか」


 オシボリとオトーシを持ってきた黒髪の給仕がそう尋ねる。今日のオトーシは白身魚の切り身を炊いたものらしい。これはなかなか美味そうだ。ジャンはずっと心の中で繰り返してきた言葉を澱みなく返した。


「トリアエズナマと何か適当に摘まめるものをお願いします」


 女給仕が、おやという顔になる。

 だが、ジャンが以前ここに来た客だとまでは気付かないだろう。

 奇譚拾遺使でも信頼されていたジャンの特技は“顔変え”だ。

 様々な方法を使って、顔の印象を全く変えてしまうことができる。並の人間はおろか、他国の密偵にさえ正体を見抜かれたことはない。

 だから、場末の居酒屋如きで正体が露見することは決してありえないのだ。


「サラダ好きのお客様ですね!」


 給仕の言葉に、ジャンは思わず言葉を失った。

 何故だ。何故ばれた。そんなことがあるはずはない。様々な難局を切り抜けてきたジャンの背中を油汗が伝う。だが、ここで妙な取り繕い方をすると余計に怪しまれるかもしれない。ここは認めてしまうのが得策だろう。


「や、やぁ。お久しぶりですね」

「あの時は急用を思い出したとかですぐに帰られましたけど、大丈夫でしたか?」

「ああ、心配をおかけしました。実はあの後、どうしてもここのサラダの味が忘れられなくて、もう一度来ることにしたんですよ」

「それは良かったです。今日は前回の分もゆっくりして行って下さいね」

「え、ええ。そうさせて頂きます」


 冷や汗を拭いながら、ジャンにはそう答えるのが精いっぱいだった。


「あ、そういえば」

「ま、まだ何か?」

「今回はお酒をお出ししてもよろしいんですか?」


 その質問に、ぎくりとする。前回来た時のジャンは僧形だった。今は短いが毛が生え揃っているので、旅人という設定で店を訪れたのだ。


「きょ、今日は私的な用事ですので。頂きます」


 どうやって見抜いたのかは分からないが、この女給仕は曲者だ。注意して接する必要がある。

 ひょっとするとこちらの素性に気付いて警戒しているのかもしれない。奇譚拾遺使の身元は絶対に明かされないことになっているが、情報がどこかから漏れている可能性は常にある。


 嫌な予感がジャン=フランソワ・モーント・ド・ラ・ヴィニーの脳裏を過ぎった。

 東王国の奇譚拾遺使と対立する帝国の硝石収集局が動いているのではないか。

 代々の帝国皇帝からの勅許により、平民の家屋だけでなく貴族の邸宅の床下にも入ることを許された彼らの情報収集能力は侮りがたい。帝国で活動中の奇譚拾遺使が最も留意すべき敵対組織こそ、硝石収集局だった。


 しかし、目の前にいるこのあどけない女給仕が果たしてあの悪名高い組織の構成員だなどということがありえるだろうか。本人が密偵でないとしても、誰かの手引きを受けているという事もあり得るかもしれない。

 速断は避けねばならなかった。

 仮にこちらが密偵であるという事が分かったとしても、どこから派遣されたかまでは気付かれていないという事も考えられる。

 慎重に事を運び、今はこの難局を乗り切ることだけに集中すべきだ。


 精神を落ち着かせるために、オシボリで顔を拭う。

 先程の給仕とは違う、別の女給仕がトリアエズナマを運んできた。

 リオンティーヌと名乗った女給仕がジョッキを置きながら耳打ちする。


「お客さん、今日は運がいいね」


 ざっくらんとした口調のリオンティーヌには何処となく東王国の訛りがあった。南部の海沿いの出身だろうか。古都で見かけるのはとても珍しい。


「運がいい、と言いますと?」

「今日はね、クシカツがあるんだ。トリアエズナマにもよく合うよ」

「クシカツ、ですか?」


 聞き慣れない料理の名だ。或いは、食材の名前かもしれない。古都よりも北方のものだろうか。


「フリットみたいなもんだよ。年越しに食べるだろ」


 フリット、と聞いて思わずジャンはリオンティーヌを睨みそうになった。

 年越しに余った保存食を揚げて食べるのは東王国では一般的な風習だ。だが、どうしてこの女はそのことをジャンが知っていると見抜けたのか。やはり、気付かれていると見た方がいい。


「あ、ああ、あの揚げ物料理ですね」

「そうそう。これがまたトリアエズナマに滅法合うんだよ」


 情感を込めてそう言われてみると、確かにそんな気がする。

 ジャンも年越しに食べるフリットは大好物だ。

 保存の為に塩漬けにした豚肉にさっと衣を付け、鍋底に敷いた油で揚げ焼きにする。食べることに喜びを見出しにくい冬場の食卓では貴重な味だ。

 それに、トリアエズナマを合わせる。

 考えただけでも、堪らない。


「で、では、そのクシカツというのを頂きましょう」


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