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古都の秋刀魚(後篇)

 そう言ってサンマの皿を覗き込んで来たのは衛兵コンビの片割れ、髭の生えた方だった。確か、名はニコラウスと言ったはずだ。


「まだ食べられるところが残ってますよ」


 顔が近い。

 酔っているのだろう。呼気にはたっぷりと酒精の香りが漂っている。赤味の差した顔が、エレオノーラのすぐ傍にあった。

 年下の男をこれほどの距離にまで近付けたのはいつ以来だろうか。

 顎に生えた髭を見て、不意にエレオノーラは昔のことを思い出す。


 父も、同じような髭を生やしていた。

 教会に届け出ている名義上の父ではない。血の繋がった実の父の方だ。と言っても母から直接聞いたわけではない。女の直感、とでもいうのだろうか。一目見ただけで、これが自分の半身の源であるということは分かった。


 母を取り巻く男たちの中では冴えない方から数えた方がいいような男だ。

 これと言って見どころはなかった。実を言えば、はっきりと顔を思い描くこともできないのだ。ただ、凡庸な顔立ちだったということは薄っすらと覚えている。

 男の趣味には煩かった母だったが、どういう訳かその男を邪険には扱わなかった。それが彼女の示した歪な夫婦の在り方だったのかもしれない。


「でももう、これ以上は毟れないわ。だってこんなになってしまっているのですもの」

「大丈夫、まだ食べられますって」


 皿の上では、かつてサンマだったものがみすぼらしい残骸を晒している。

 エレオノーラの拗ねたような抗議を無視するように、ニコラウスは箸立てから割り箸を取った。

 そのまま、流れるような所作でサンマの身を解していく。

 綺麗だな、とエレオノーラが思ったのはその箸捌きだけだったのだろうか。


 サンマの頭を摘まむと、鮮やかな手付きで背骨をそっくりと取り外していく。エレオノーラがもう毟れないと思っていた部分から、まるで魔法のように身が現われてくる。

 後には頭から尻尾までの一本通った綺麗な背骨と、毟られた身の山だけが残った。


「タイショー、こないだのアレ、作って貰える?」

「ああ、サンマゴハンね」


 毟ったサンマの身をニコラウスから受け取ると、タイショーはそれを平鍋にゴハンと投入した。

 シノブたちがダシと呼んでいるスープに幾つかの調味料を加え、同じ鍋に入れる。サンマの身も一緒に入れて、炊き上げるようだ。


 あまり料理をしないエレオノーラは味の付いた麦粥に似た仕上がりになるかと思ったのだが、ゴハンがダシをしっかりと吸ったのかふっくらと炊き上がっている。


 見た目はウナギ弁当に似ていなくもない。

 ダシとタレの違いはあるが、ゴハンと魚の組み合わせという意味でも近い料理と言えるだろう。

 美容に良いという話をシノブから聞いたので、エレオノーラはこっそり使いの者に買いに走らせていたから、ウナギ弁当ならよく知っている。


 ただ、サンマゴハンが決定的に違っているのは、その見た目だ。

 正直に言ってしまえば、見てくれは良くない。

 上にネギの緑を散らしても、エレオノーラの審美眼からすれば、これは残飯のように見えてしまう。


 だが、食欲をそそるこの香りは、なんだ。

 ニコラウスの解した身がほどよくゴハンに混じり、何とも言えない良い匂いがカウンターまで漂っている。

 目の前に運ばれてくると、香りは益々際立つ。


「あんまり綺麗な食べもんじゃないけど、美味しいですよ」


 屈託なく笑うニコラウスに勧められるまま、エレオノーラはサンマゴハンに箸を付けた。

 サンマの旨みがギュッと詰まったゴハンが口の中でほろりと崩れる。

 これは、食べやすい。

 さっきのサンマは味がしっかりとして酒の肴として美味しかったが、食べ慣れないエレオノーラにはほんの少し脂が乗り過ぎていた。


 それが、このサンマゴハンはどうだ。

 生姜(イングワー)がしっかり効いているからか、煮た青魚の臭みはない。

 ネギも彩りだけでなく食感に変化を与えてくれている。さりげなく添えられたナスの漬物も、箸休めに丁度いい。


 見た目はこんなに悪いのに、どうしてこんなに美味しいのか。

 それも、豪奢な食事の美味さではない。どこか懐かしい、落ち着くような味わいだ。

 いつまでも味わっていたい。そう思った時には、茶碗の中はもう空っぽになっていた。


 この量も、良いのかもしれない。後少し多ければ腹にもたれていただろうし、少なければ何かもう一品頼まなければならなかった。

 何故かエレオノーラは食べ終えた茶碗を見ながら、実の父のことを思い出していた。


「ね、こんな見てくれでも意外と美味しいでしょ?」

「ええ、本当に」


 本当に、美味しい。

 帝都から料理人も呼び寄せてありとあらゆる美食に耽ってきた自分が、こんな見た目の料理に心を動かされていることが、エレオノーラにはまだ信じられなかった。

 これだから、部下に何と言われても居酒屋ノブ通いは止められないのだ。


「お姉さん、美人さんだからまた美味しいもの教えちゃいますよ」


 ニコラウスの言葉に、エレオノーラはやっと得心がいった。

 この男、酔っ払っているのだ。今話している相手が、水運ギルドのマスターであるエレオノーラだということにも恐らく気付いていないのだろう。

 そうでなければ、ここまで馴れ馴れしく話しかけてこられるはずがない。


 納得はしたが、どうした訳か少し寂しくもある。

 あまり美しくない髭を生やしたこの男と、どうして自分はもう一度会いたいと思っているのだろう。


「ありがとう、色男さん。機会があれば、また会いましょう」


 エレオノーラは一瞬父の面影を重ねた女誑しの衛兵に丁寧に礼を述べると、財布を取り出した。

 シノブに支払う銀貨の数は、心付けを考えても十分以上に多い。

 訝しげに枚数を数えるシノブに、エレオノーラはそっと頷きかける。

 するとそれで納得したのか、居酒屋ノブの看板娘は銀貨を丁寧に金庫に仕舞った。


 明日もまた、あの髭の衛兵はこの居酒屋に来るのだろうか。

 そんなことを考えながら、エレオノーラは月明かりの家路をゆっくりと歩み始めた。


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