#119:繋がった携帯電話【指輪の過去編・夏樹視点】
またまたお待たせしました。
随分産みの苦しみを味わっています。
やっと思った所まで書けたので、更新します。
今回は指輪の過去編の夏樹視点です。
前回の夏樹視点#116:「現実からの逃避行」の続きになります。
今回も少し長いです。
お楽しみ頂けたら嬉しいです。
『夏樹は自分さえ傷つかなかったらいいの? 何も言わずに身を引く事が、どれだけ祐樹さんを傷つける事か考えた事ある? 恋愛は自分一人でするものじゃないでしょう? どうして一人で考えて終わらそうとするの? 私の友達の夏樹は、そんな薄情な女性じゃ無かったわ』
舞子との電話を切った後も、最後に言われた言葉が頭の中でリフレインしている。
(私って自己中な奴だったんだ……)
彼を傷つけたくなくて、何も言わずに身を引こうなんて、おこがましいにも程がある。
舞子の言う通り。
それでも、舞子から聞いた祐樹さんの携帯番号にすぐに電話する事が出来なくて、結局翌日の土曜日の夜まで、悶々と考え続けてしまった。
一度は直接会って話をしなければいけない、よね? 何て言えばいいの? どんな理由で結婚できないって言えばいいの?
会えばきっと泣いてしまう。
こんなに好きなのに……。どうして? どうしてこんなに好きになってしまったのだろう?
それでも、電話をしなければ……。とりあえず今の状況を伝えるだけでも。きっと心配しているだろうから……。
誕生日にあんな酷い別れ方しておいて……。指輪も受け取らなかったくせに……。
電話なんかして相手を安心させておいて、崖からいきなり突き落とすように、裏切るつもり?
頭の中で、誰かが私を責める。それでも、電話するつもり? と……。
『祐樹さん、夏樹の事を心配して、とても疲れた顔していたよ。何も言わなかった自分が悪いって、自分を責めて……。そんな祐樹さんに、何も連絡しないつもり?』
今度は舞子の声が私を責める。
『私の友達の夏樹は、そんな薄情な女性じゃ無かったわ』
舞子のこの言葉は堪えた。そう、私は今まで祐樹さんの事何も言わずに、散々薄情な事をして来たのだった。それでも、それを責めずに祐樹さんとの事を喜んでくれた舞子。ここで、祐樹さんに黙ったまま姿を消したら、私は恋しい人も親友さえも失くしてしまう。
祐樹さん……。
やはり、今のこの現状だけでも知らせなくては……。
神様、もう一度あの人の声を聞いてもいいですか?
「もしもし……」
「……夏樹? もしかして、夏樹か?」
彼の声に、心臓がトクンと跳ねた。彼の余裕の無い焦った声……。
「う、うん。ごめんね、ずっと連絡ができなくて……」
「いや、いいんだ。それより、お母さんは大丈夫なのか?」
え? 知っているの? 舞子が話したの?
「どうして、それを……」
「ああ、圭吾から聞いたよ。舞子さんが夏樹の会社へ電話して分かった事を、圭吾が知らせてくれた」
舞子はそんな事、一言も言っていなかったのに……。
「そうだったの……」
「それで、お母さんは、どんな状態なんだ?」
「うん。足を骨折していて……。でも、体は元気だよ。ただ、まだ車いすでしか動けないの。もうすぐ松葉づえで歩く練習をするみたいだけど……。リハビリすれば歩けるようになるって……」
私は、まだ何処か焦って、しどろもどろに説明した。
「そっか。無事で良かったよ。夏樹も突然で驚いただろ?」
「うん。そうだね。でも、親孝行するいい機会だから……」
「そうか。それで、いつまでそちらに居る予定なんだい?」
「明日の夜、一旦帰るつもり」
「一旦?」
「ええ、母が退院するまで、付き添いと家の事をしたいから、月曜日に上司に相談しようかと……」
そう返事しながら、会社を辞めようと思っている事は、心に秘めた。
この電話での会話の行きつく先はどこなのだろう。
もう、彼に報告しようと思っていた事は、すでに知られていたのだし、これ以上何を話せばいいの。
「夏樹?」
何度か名前を呼ばれていたような気がしたが、ぼんやりと考え込んでいた。
「は、はい。なに?」
我に帰って慌てて返事すると、苦笑交じりの溜息が聞こえた。
「この電話、新しい携帯?」
そう訊かれて、自分の心の中で「あっ」と声を上げた。いつもの調子で、携帯から電話していた。
やはり、携帯の事も知っていたんだ。
「え? ええ。……あっ、携帯を水没させてしまって、データーが全部消えちゃって、電話できなくてごめんなさい」
私はまた焦って言い訳をした。彼は責めている訳じゃないのに、どこか罪悪感が付きまとう。
「いや、いいんだよ。不可抗力で仕方のない事だし……。でも、どうして番号を変えたの?」
あ……、それを言われるとは思わなかった。
「新規の方がお得だったから……」
こんな時にこんな言い訳しかできない自分を情けなく思う。間抜けにも携帯から電話して、新しい番号を相手に知らせている様なもので、携帯を新しく購入する時の私の決心はどこへ行ってしまったのか。
「そっか。夏樹らしいな」
私らしい? 私らしいってどういう事だろう? と思いながらも、この話にこれ以上突っ込まれたくなくて、その疑問はスルーした。
「あ、あの……そう言う事で、しばらく母の入院に付き添いたいと思うから、実家の方に居ると思うの」
私は締めくくりの言葉を言うために、話しのまとめに入った。
「でも、明日は帰るんだろう?」
「ええ、一旦帰って、会社へ出ないと……」
「それで、一旦帰った時、俺に会う予定は無いの?」
これはいつもの彼の攻め方だ。ジワリと私を追い詰める。私はゴクリと唾を飲み込んだ。そして、今にも踵を返して逃げ出そうと、タイミングを計る。
「今回は、時間が取れるかどうか……。時間が取れそうなら電話するから……」
私はあての無い約束を口にする。それがどんなにずるい事か自覚しながら……。
「明日は何時頃帰って来るの?」
「まだ分からないけど、母の夕食が済んでからだから、遅くなると思う」
「じゃあ、駅まで迎えに行くよ」
え?
いきなりの彼の申し出に、戸惑った。
「とても遅くなるから、悪いよ。タクシーで帰るから、大丈夫だよ」
「夏樹」
彼は諭すように私の名を呼んだ。
彼の言おうとしている事は、わかる。でも、会ってしまったら……。
私は怖かった。彼のあの眼差しに見つめられたら、真実を洩らさずにいられる自信がない。
「夏樹、俺が会いたいから、迎え行く。帰りの電車の時間が分かったら、メールか電話して」
そして、彼は言葉の出ない私の返事を待つことなく、「じゃあ、明日」と言って電話を切った。
私はしばらく携帯電話を握り締めたまま、呆然としていた。
*****
翌日の日曜日(誕生日から一週間後の7月21日)、いつものように簡単に掃除や台所の片付けを済ませ、病院へ行く用意をする。洗濯は夜の間に済ませておいたのが、朝からの暑さと日差しで朝のこの時間でも、薄物はもう乾いていた。
今日は病院からそのまま、私の日常があるあの街へ帰るため、その用意もして、一つ溜息をついた。
帰る用意と言っても、すぐに戻ってくるつもりなので、持ってきていた服などは置いていくので、用意らしい用意はしていない。それよりも、一週間ぶりに祐樹さんに会う心の用意の方が、できそうにない。
『それなら、帰る時間を連絡しなければいい』
頭の中で、また誰かが囁く。
私は首を左右に振ると、徐に息を吐き、出かけるために鞄を持って立ち上がった。
急な仕事が入って休日出勤をする佐藤のおじさんと、いつもの様に病院へ向かう。気を抜くと溜息が零れてしまいそうになる自分を励ましながら、いつもの笑顔を貼り付けると、玲子おばさんの病室のスライドドアを明るく挨拶しながら開けた。
「おはよう、今日もいい天気ね」
玲子おばさんは優しい笑顔で挨拶を返して来た。
窓際に近づいて病室のカーテンを開けながら、「ホント、いい天気」と今更ながら気付いて呟く。
仕事のあるおじさんが会社へ行った後、玲子おばさんの朝食の用意をすると、二人のここ数日の穏やかな時間が始まった。
「夏樹ちゃん、今日帰るんだったわね」
朝食を食べながら、ふとおばさんが口にしたその言葉は、頭の片隅に押しやられた考えたくない現実を思い出させた。
「うん。一旦戻って、明日会社へ出て、しばらくお休みを貰って来るつもり」
「そんなに休めるの? 私の為だったらいいのよ。ここは完全看護だし、自分で動く事も必要だし……」
「玲子おばさん、心配しないで。どちらにしろ辞めるつもりだったから、丁度いいのよ。おばさんの怪我を辞める口実に使って申し訳ないけど……」
私はそう言いながら、相手の反応を見る様に上目使いで玲子おばさんの顔を見ると、優しく微笑む顔がそこにあった。
「夏樹ちゃん、何があったか知らないけど、あなたが本当に仕事を辞めて帰って来ようと思っているのなら、私の事を口実にした方が辞めると言いやすいのなら、いくらだって使ってくれていいのよ。この一週間、夏樹ちゃんと一緒に過ごして、思ったの。娘って良いなって。夏子には悪いけど……」
玲子おばさんは、楽しそうな表情でそう言うと、クスリと笑った。
おばさんは私が何か嫌な事があって仕事を辞めたいって思っている事、分かっているのだろう。だから、そのためにおばさんの怪我を口実にして辞めると言う事に、私が罪悪感を持たないよう、先回りしてあんな風に言ってくれたのだろう。おばさんの優しさに胸が痛くなった。
現実からの逃避の為に、おばさん達を巻き込んで……。母も私もおばさん達に世話ばかりかけて……。
「ありがとう、玲子おばさん」
私達は朝食の後、お茶を飲んでまったりとしながら、お喋りをしていた。今日は日曜日なので回診も無く、いつもは慌ただしい午前中も病棟全体がどこかのんびりとしている感じがした。その時不意に病室のドアをノックする音が聞こえ、私と玲子おばさんは顔を見合わせた。
誰だろう? こんなに朝早くから……。時間はまだ八時半過ぎだ。お見舞いにしては早すぎる時間だ。
「どうぞ」と声をかけると、病室のスライドドアが音も無く開き、この一週間で聞き慣れた声が「おはようございます」と入って来た。
おばさんのベッドは二人部屋の窓際で、隣のベッドに無人のため、ほとんど個室の様に使っているにもかかわらず、ベッド回りのカーテンの間仕切りを、隣のベッドとの間だけ閉めたままだった。だから、おばさんからは入口が見えない。ベッドの横に置いた丸椅子に座っている私も、少しからだを乗り出さないと入口は見えなかった。
それでも狭い部屋の事、聞き慣れた声のその人は、数歩で私達の視界に入って来ると、「佐藤さん、変わりはありませんか?」と尋ねた。そして私はその人を自分の視界に入れる度、心の奥がキュッと締め付けられる気がしていた。
「相沢先生、おはようございます。変わりありませんよ」
玲子おばさんが、にこやかに挨拶を返す。私は彼の笑顔を見る度に締め付けられる胸の痛みの所為か、ワンテンポ遅れて「おはようございます」と返した。
玲子おばさんの担当医師である彼は、長身の爽やかな好青年だった。タイプは全然違うのに、笑顔がどうしようもなく祐樹さんを思い出してしまう程、似ている気がした。
「相沢先生は今日も当直だったんですか?」
玲子おばさんが聞いたことは、私も思った事だった。この一週間、彼は自分の回診当番以外にも毎日様子を見に、この病室を訪れていた。確か当直明けのような時間にやってきた事も二、三度あった。医者は本当にハードスケジュールで、自分の時間を持てないのじゃないだろうか? と思ってしまうほどだった。
「ああ、昨日の手術した患者さんの様子が気になったものでね。でも、もう落ち着いたから、今から帰って寝ますよ」
そう言って相沢医師は、頭をかきながら笑った。
「この一週間、毎日先生のお顔を拝見できて嬉しかったですけど、自分の体のことも考えて、きちんと休んでくださいね。それでも、そんなに仕事ばかりしていたら、デートもできませんね」
玲子おばさんは、この担当医師がお気に入りだ。確か私より二つほど年上の彼を、息子のように思っているのかと訊いたら、いくつになってもカッコいいイケメン男性を見れば、心がときめくのだと言う。確かに彼は、仕事もでき、顔もいいし、おまけにいつも笑顔を絶やさず、性格もいいから、患者から病院スタッフにまで人気があるらしい。そりゃあ私だって、相沢医師は素敵な男性だと思うけれど、如何せん彼の笑顔は今の私には毒でしかない。
彼がこの病室を訪れる度、私があまり彼の方を見ないようにしているのを、玲子おばさんは変に誤解していた。私が彼を意識して、恥かしくて顔を背けていると思っているのだ。だから、こんな風に彼の私生活に探りを入れてみたり、看護師達に訊いてみたりするのだ。
「本当に医師の不養生とはよく言ったものです。僕が倒れたら、患者さんにも迷惑をかけてしまいますからね。気をつけます。でも、デートどころか、相手さえいませんよ。仕事が忙しすぎて、出会いも無い状態です」
そう言って彼は恥かしそうに笑った。
「またまた、ご謙遜を。相沢先生は患者さんから看護師さんまで人気があるって聞いていますよ。先生がその気になれば、いくらでもお相手はいるでしょう?」
今日はやけに玲子おばさんは、先生に突っ込んでいる。
「いやいやいや、佐藤さん。患者さんは病気や怪我を治しに来ていらっしゃるのだし、看護師は真剣に仕事をしています。そんな不埒な事、考えたら罰が当たります」
彼は苦笑して、気真面目な返事を返す。
不埒な事、って……と、思わず私は俯いたまま、プッと吹き出してしまった。
「何かおかしなこと言いましたかね?」と彼がこちらを向いて問いかけた。私は「いえ」と言って顔を上げると、相沢医師と目があった。途端に彼は恥ずかしそうな笑顔を綻ばせた。私はその笑顔をまともに見てしまい、頬に熱が集まるのを感じながら、慌てて俯く事しかできなかった。
「相沢先生は真面目なんですね」
玲子おばさんは、私と相沢医師の様子を見てニヤリと笑った。
それから相沢医師は、爽やかな笑顔を残して病室を去って行った。彼が病室を去る後ろ姿を見送った後、私と玲子おばさんは顔を見合わせて、噴き出した。
「なんだか、相沢先生らしいと言うか、真面目と言うか、天然ぽいね」
玲子おばさんはそう言って、クスクス笑った。
「もうー玲子おばさんったら、相沢先生を揶揄うから……」
私はさっきの相沢医師の笑顔を見た時に感じた頬の熱さを、玲子おばさんの所為にした。あの時、胸の奥で感じた痛みも……。
「それにしても夏樹ちゃん。相沢先生と目があって真っ赤になっちゃって、相当意識しているでしょう?」
玲子おばさんがそんなふうに思った事は、気付いていた。だから、相沢医師の笑顔は毒なのだ。見ない様にしていたのに……。
「もう、おばさんは……。勝手に想像しないでくれる? 全然そんな気持ちはありません」
「でも、仕事を辞めてこちらで再就職先をさがすよりも、結婚相手を探した方がいいんじゃない?」
分かっている。もう二十九歳だから、玲子おばさんもおじさんも心配している事ぐらい。でも、今はそんな事、考えられない。そして不意に又、今夜の事を思い出して、胸が苦しくなった。
「とにかく今は、結婚なんて考えられないの。ごめんね」
せっかく養子にしてもらったのに、期待にこたえられない自分が不甲斐無かった。
少し湿っぽくなった空気を入れ替えるように、玲子おばさんを車いすでトイレへ連れて行く。日曜日の午前中の病棟は、本当に静かだ。時折見舞客らしい人とすれ違う程度で、看護師の姿もいつも目にするより少ない気がする。この一週間で馴染んだこの環境が、今は私の心を癒してくれていた。
病室に戻ると玲子おばさんは、昨日お見舞いに来てくれた彼女のパート先の同僚の人が持って来た雑誌を見始めた。私も読みかけの単行本を開く。しばらくして、またドアをノックする音が聞こえた。時間は午前十時過ぎ。お見舞客だろうか?
「どうぞ」と声をかけると、少し躊躇しているのか、一拍してからスライドドアがゆっくりと開き出した。私は誰だろう? と立ち上がってドアに近づく。
ドアが開いてそこに立っていたのは、私があの街に置いて来た現実だった。
2018.3.1推敲、改稿済み。