#111:悲しみの結末【指輪の過去編・夏樹視点】
お待たせしました。
今回も指輪が見せる過去のお話、夏樹視点です。
夏樹と祐樹の29歳の誕生日の日の出来事。
ドンドン、ドンドン。
「夏樹、大丈夫か?」
さっき大きな声を出したのが聞こえたのか、廊下で待機していた祐樹さんがドアを叩いて、呼びかけて来た。そして、続いてドアを開け、中に飛び込んできた。
「父さん、夏樹に何かしたのか?」
祐樹さんは眉を吊り上げて、浅沼さんに詰め寄っている。
「大丈夫だから、何も無いから……。私が思わず大きな声を出してしまっただけだから……」
祐樹さんにそう呼びかけると、やっとこちらを振り返って、息を吐いた。
「祐樹、話はまだ終わっていないんだ。もう少しいいかな?」
浅沼さんは、まだ私を追い詰める気なんだ。そんなに真実を暴きたいの? 誰も喜ばないのに……。皆を不幸にするだけなのに……。
「浅沼さん、浅沼さんが何をどう考えていらっしゃるか分かりませんが、その指輪は指に嵌めた事が無いです。私が以前に嵌めていた指輪は、私が買った物です。勘違いしていました。圭吾さん達の結婚式の時に嵌めていたのも、その指輪では無いです。確かに、その指輪は二十歳の誕生日に貰った物ですけど、指には嵌めていません。その指輪は大切な指輪の様ですので、お返しします。もうこれ以上お話する事はありません」
私はそれだけ言いきると、顔を背けた。嘘をこれだけ堂々と言える自分に驚いた。私の話を訊いた浅沼さんは、フリーズしたように言葉も出ずその場から動けずにいた。祐樹さんは、私と浅沼さんの態度を見て、どこかオロオロしている様な感じだった。
その時、軽快に階段を上がって来る足音がした。明るい声が「昼食の用意ができたわよう」と歌うように響いた。客間の入り口まで来た雛子さんは、三人のただならぬ雰囲気に大きく目を見開いたが、相変わらずの陽気な声で「あら、みんなどうしたの?」と問いかけた。
我に返った私は、雛子さんの方を向いて謝った。
「雛子さんすいません。せっかく用意して頂いたんですが、今日は帰らせて……」
ここまで言いかけた時、祐樹さんが「何言っているんだ」と私の手首を掴んで、引き寄せた。私はその反動で、祐樹さんの胸の中に倒れ込む。すぐさま私を抱き取ると、浅沼さんの方を向いて睨みつけた。
「父さんの所為だぞ。夏樹に何を話したか知らないけど、夏樹を追い詰めたんだろう?」
「ああ、私が悪かった。夏樹ちゃん、本当にすまなかったね。もう指輪の話はしないよ。だから、そんな事言わずに、食事をして行ってくれないか?」
浅沼さんは、眉を下げて情けない表情で、謝罪した。
「そうよう。私の作ったお料理、食べて行ってくれないの? 夏樹ちゃん」
雛子さんは笑顔なのに、目だけが有無を言わせない程真剣で、その眼差しに私は捉えられた。
「わ、わかりました。頂きます。変な事言って、すいませんでした」
皆の視線が私に向かう中、これ以上心配をかけてはいけないと、言いなおして謝罪した。
皆で食卓を囲んでも、もう以前浅沼邸で食事をしていた時の様な楽しい雰囲気は無く、一生懸命陽気に話をする雛子さんに、他の皆が作り笑いで答えるこの雰囲気は、全て私の所為だと思うと、余計に落ち込んだ。
雛子さんは気を使って、三時まで待つ事無く、デザートにケーキを出してくれた。
「おめでとう」の言葉が、どこか白々しく聞こえるのは、私のこの気持ちの所為なのか?
それなのに、こんな時でも、やっぱり評判のケーキは美味しいなぁと、無意識にニンマリしていたのか、祐樹さんはホッとした顔で「夏樹はやっぱり甘い物を食べている時が一番幸せそうだな」と言った。その言葉に、浅沼さんも雛子さんも、やっと安心した様な笑顔を見せた。
デザートも済んだ後、片づけを手伝い全てを終えると、これ以上長居していられる心境じゃ無い私は、今日はありがとうございましたと帰る事を伝えた。祐樹さんは当たり前の様に一緒に帰ろうとしたが、私は少しでも早く一人になりたかった。
「祐樹さん、せっかくご両親と一緒にいるんだし、誕生日だから、ゆっくりして行った方がいいよ。私はここに何度も来ていて、帰り道は分かっているから、大丈夫」
「何言っているんだよ。夏樹を送っていくのは当たり前だろ?」
そう言って祐樹さんは、少し怒った様な顔をしながら、私の肩に手をかけて引き寄せた。
「父さん、母さん、ご馳走様。誕生日、祝ってくれてありがとう。また、いろいろ相談したい事もあるから、近いうちに来るよ」
そう言う祐樹さんの横で、私も「ありがとうございました。ご馳走様でした」と頭を下げた。
「夏樹ちゃん、これバースディプレゼントなんだけど……。渡すタイミングが無くて、遅くなっちゃったわね……」
帰り際に、雛子さんが、手作りのパッチワークのトートバッグとポーチのセットを誕生日プレゼントだと渡してくれた。それは、とても手が込んでいて、欲しくても高くてなかなか手が出なかったものだ。
「わぁ、嬉しいです。ありがとうございます。これとても欲しかった物です」
私は、あまりの嬉しさにそのプレゼントを抱きしめて、お礼を言った。祐樹さんも私を見下ろして「良かったな」と微笑む。
「祐樹には何もプレゼントを用意してないんだけど、あなたは好みがうるさいし、何が欲しいか分からないから……」
「プレゼントなんていいよ。母さん達が夏樹を気に入ってくれれば、それが一番のプレゼントだよ」
祐樹さんの言葉に、心が震えた。これ以上何かを考えたら、涙が出てしまう。私は思考を止めた。
「あら、夏樹ちゃんなら、あなたより先に気に入っていたわよ。そうね、私にできる事と言ったら、あなた達の結婚を後押しするぐらいかしらね?」
いくら思考を止めても、言葉は私の耳から入り込み、心をえぐっていく。今日初めて目の前で聞かされる「結婚」と言う言葉に、ビクリと肩を震わせてしまったのを、祐樹さんは気付いたに違いない。それでも彼は、何も言わずに、口の端を上げて作った様な笑顔を母親に向けた。
自分がプレゼントをもらって、やっと思い出した。祐樹さんへのプレゼントを渡していない事を……。いろいろあり過ぎて、誕生日だと言う事を忘れていた。ケーキを食べて、おめでとうと言われながらも、どこか他人事の様だったから、今頃になってやっと私と祐樹さんの誕生日だった事を実感した。
帰りの車の中、お互いに言葉を出せないまま、ただ過ぎてゆく景色を目で追って、思考を追い出そうと試みる。しかし、手を伸ばせば届くところにいる彼の存在は消す事が出来なくて、嫌でも今日のいろいろな事が頭に蘇った。
好きな人の隣にいると言うのに、その事がとても罪な事に思われて、怖くなる。そんな事を思ってしまう自分が悲しい。でも、まだ泣いちゃだめ!
「夏樹、今日はごめんな。何も言わずに、実家へ連れて行って……」
突然、口を開いた彼から出たのは、謝罪だった。
いいえ、あなたは悪くない。
悪いのは……、巡り合った運命なのか……。母と浅沼さんが別れた事なのか……。
ああ……、いくら自分が辛いからと言って、母を責めちゃいけない。一番辛かったのは、母なのに……。
結局は、母の言いつけを守らなかった私が一番悪いんだよね。私がこの街に来なければ……。
「いいえ、祐樹さんは悪くない。もう、謝らないで……」
私はしばらくしてから、前を向いたまま、答えた。
「なあ、夏樹、何を考えているんだ? もしかして、結婚を止めるとか考えてないよな?」
祐樹さんは信号で止まると、私の方を向いて尋ねて来た。
なんと答えたらいいのだろう……。
結婚なんて……、できるはずが無い。もしも、浅沼さんが父親なら……。
今日の浅沼さんを思い返したら、もう間違いない事の様な気がした。
浅沼さんはあの指輪で、何を確信したのだろうか? 私を娘だと気付いたのだろうか?
それとも、御堂夏子の娘だと気付いただけだろうか? それとも……。
何も答えずにただ俯いていて考え込んでいた私に、しびれを切らしたのか、祐樹さんはもう一度私の名を呼んだ。しかし、すぐに信号は青になり車が動き出して、彼の視線は前を向いた。
彼の視線が怖い。今の私の心の中まで見透かしそうで……。
「ご、ごめんね。今は何も考えられなくて……。一人でゆっくり考えてみたいから、時間が欲しいの……」
真剣な顔で運転している祐樹さんの横顔にそう言った。彼は何の反応も示さないまま、運転を続けている。
そして、そのまま車は私のマンションへ着いてしまった。付いた途端、祐樹さんはハンドルをバンと叩くと、いつに無い真剣な顔でこちらを向いた。
「夏樹が一人で考えたら、悪い方にしか考えないだろ? 自信が無いとか、身分が違うからとか、私では釣り合いが取れないとか……」
祐樹さんの剣幕に怯んでいると、彼はそこまで言うといきなり私を引き寄せて抱きしめた。
「一人でなんか、考えるな。二人の事なんだから、二人で話し合おう」
祐樹さんは私の耳元で、急に優しい声になった。私は突然の事に、頭が真っ白になって、呆然としたまま彼に抱きしめられるままになっていた。そして、彼は私の頬を包み込むように手を添えて少し上を向けると、顔を近づける。ハッと我に返った私は思わず両手で彼の胸を押していた。
私のとっさの行動に、祐樹さんは驚いた顔をした。そして、その後、とても辛そうな表情になった。
「ご、ごめんなさい。今日は本当にありがとう」
私は祐樹さんから体を離すと、謝罪とお礼を言った。そして、車から降りようと思った時に、プレゼントをまだ渡していなかった事に気付いた。鞄の中から小さな包みを出す。そして、彼の方へ差し出した。
「祐樹さん、誕生プレゼントなの。どんなのがいいか分からなくて……。祐樹さんはセンスがいいから、気に入らなかったら使わなくてもいいから、後で開けてみてね。誕生日おめでとう」
祐樹さんは驚いた顔をして、その小さな包みを受け取った。とまどったように「ありがとう」と言うと、ふんわりと微笑んだ。それは、私の好きなあの笑顔ではなかった。きっとさっきの私の態度にショックを受けた所為だ。そう思っても何も言えなかった。
「夏樹、俺もプレゼントを用意しているんだけど……、受け取ってくれるかな?」
祐樹さんが遠慮がちに尋ねた事が、妙に辛かった。本当なら、幸せの絶頂にいるはずの二人なのに……。私が全てを壊してしまった。
私は頷いた。祐樹さんからの最初で最後のプレゼントだから……。今だけは、神様許してください。たとえ、彼と血が繋がっているとしても……。
彼は後部座席に置いた小さな紙袋を取り、その中から小さな包みを出した。それを見ただけで、中身が想像出来た。
もしかしたら……。ううん、きっとそれは指輪。受け取っても良いのだろうか?
祐樹さんは黙ったまま、プレゼントの包みを解き、ベルベッドの小さな箱を取り出した。
心臓がドキドキと大きく打つのが聞こえるんじゃないかと思う程で、手にじんわりと汗をかき出した。
祐樹さんの手元を凝視したまま、私の頭の中はどうしたらいいのかとグルグル回転していた。
彼は蓋を開けると、指輪を取り出し、私を見つめた。
微笑んでいた顔が、私の顔を見て歪んでいく。
私は、笑顔を作る事さえ忘れて、祐樹さんが持つ指輪を、ただ見つめていた。
祐樹さんは小さく息を吐くと、指輪をケースに戻した。
「夏樹、そんな顔するなよ。……もう、俺の事まで嫌になったのか?」
私は思い切り首を振った。
いいえ、いいえ、いいえ……。嫌になるはずなんか無い。ずっと想い続けて来たのに……。
でも、この想いは、もう口にできない。
「夏樹、泣くなよ。……どうして……俺が浅沼の息子だと言う事が、そんなに辛いのか?」
祐樹さんの手が伸びて来て、私の涙をぬぐった。いつの間にか涙がこぼれていた。祐樹さんの前では泣きたくなかったのに……。
私は又小さく首を振った。そうじゃない。そうじゃないの……。
何も言えない。心の中の沢山の言い訳は、出口を求めて騒いでいるのに、出口はどこにもなかった。
私は鞄を掴むと、ドアを開けた。
「今日は、ありがとう。ご両親にもよろしく言っておいてね。本当に、ありがとう」
「夏樹、待てよ。二人で話し合って、解決しよう」
「今日は一人で考えたいの。ごめんなさい」
それだけ言うと、私は踵を返して駆け出した。心の中で何度もごめんなさいと繰り返しながら……。
祐樹さんは追ってはこなかった、自分の部屋の窓から外を見ると、もう車は止まっていなかった。
もう二度と彼に会えない予感がした……。
私はベッドにもたれて座りこんだ。
祐樹さんの事を思い出しては、涙がこぼれた。
ずっと忘れる事が出来なくて、やっと実った恋だったのに……。
どうして? こんな結末って……。昼メロでもベタ過ぎてドラマ化しない様なストーリー。
笑っちゃうよね?
好きになった人が、母の愛した人の息子で……。私も同じ父を持つなんて……。
恨みたくないのに、母の事も、浅沼さんの事も……。
どうして? どうして出会ったの?
祐樹さんにどうして出会ってしまったの?
彼の前からも、彼の頭の中からも消え去りたい。彼の悲しむ顔なんて見たくない。私の涙ももう見せたくない。
どうすればいいかなんて、何も思いつかなくて……。どうして、ばかり頭の中で繰り返す壊れたおもちゃみたいだ。
気が付くといつの間にか日が沈みかけていた。
それでも夏の夕方は明るくて、もうすぐ夜の七時だと言うのに、まだ薄明るい外の風景に目をやった。祐樹さんが良く食べに来ていた冬の夜、二人でこの部屋の窓から街の明かりを見つめたっけ……。そんな些細な記憶もまた涙を誘うだけだった。
その時、お腹がグーと鳴った。
こんな時でもお腹がすく自分に呆れて、笑ってしまった。
まだ、生きている。生きているから、お腹がすくんだ。生きていれば、いつか良い思い出にできる日が来るのかもしれない。
お腹がすくから、何も考えられないのかもしれないと、私は食事の用意をするために立ち上がった。
冷蔵庫の中を見て、夏野菜のパスタにしようと決める。野菜を出して、パスタを用意して、鍋にお水を入れようと流し台の蛇口の下に深鍋を置いた。水を出すためにシングルレバーを上げようとしたその時、携帯が鳴っているのに気付いた。そのまま流し台を離れ、ソファーに置いた鞄の中から携帯を出すと、佐藤のおじさんからだった。
珍しい……。ほとんどかけて来る事の無い人からの電話に、少し戸惑いながら通話ボタンを押した。
「おじさん、こんばんは、珍しいね」
私は話しながら、流し台の前に戻った。片手に携帯を持ち、もう片方でシングルレバーを上げた。水は鍋に勢いよく溜まっていく。
「夏樹ちゃん、あ、あのな、玲子が事故にあったんだ」
一瞬背中がヒヤリとした。
「え? 玲子おばさんが? 何の事故? 車? それで、どんな状態なの? 今どこにいるの?」
私は、驚きのまま勢い込んで、質問を続けた。
「あ、車同士の事故だよ。 対向車が居眠り運転でぶつかって来たらしい。玲子は今手術中なんだ。市民病院にいるから……」
「わかった。市民病院だね。今すぐに行くから」
私はそう言うと、電話を切った。その時初めて、目の前の流し台の鍋に水道の水がどんどん注ぎ込まれ、溢れているのに気付いた。慌ててシングルレバーを下げる。その時、もう一方の手に持った携帯電話が、焦った拍子に、水を一杯に湛えた鍋の中にポチャリと落ちて行った。
え? と思った時には携帯は鍋の底だった。
えっ? ウソ?! 水没?
一瞬頭が真っ白になったが、玲子おばさんの事を思い出して、慌てて出かける用意をした。2、3日分の着替えを鞄に入れ、水没した携帯も取りあえず拭いて、鞄に入れた。そして私は駅に向かって走り出した。頭の中は、母の死ぬ間際の姿をずっとリピートしていた。
駅に着くと、一番早い故郷行きの列車に乗った。車窓から見える眩しい街の灯りは、どんどんと後ろに過ぎて行く。そしていつか山の中を走る列車の車窓は、不安げな顔をした自分を映していた。
私は思わず胸元に手をやった。その時になってようやく、あの指輪を手放してしまった事を思い出した。いつも、どんな時でも、私の胸元で勇気づけてくれた指輪。私にとっては母に繋がる指輪。
あの指輪もいつか、別の真の所有者を見つけるのだろうか?
2018.2.23推敲、改稿済み。