#104:父親としての誓い【指輪の過去編・雅樹視点】
今回は、指輪の見せる過去のお話で、祐樹の父親である浅沼雅樹視点になります。
祐樹と夏樹の29歳の誕生日に二人が祐樹の実家へ行くと父親である雅樹は留守でした。その雅樹の出かけた先での事……
『父さん、今度の日曜日、俺の誕生日の日だけど、会って欲しい人を連れて行こうと思っているんだ。いいかな?』
息子の祐樹が一週間前の日曜の夜、いきなりそんな事を言いだしたので、驚いた。西蓮寺との結婚話を断る時に、他に結婚したい人がいるのかと訊いても、いないと答えていたのに。
会って欲しい人って、やっぱりそう言う人の事を言うんだよな?
この半年で出会って、親に紹介しようと思う様な関係になったと言う事か?
今度の日曜は夏樹ちゃんも招待していたから、祐樹の申し出に少し戸惑った。しかし、夏樹ちゃんから断りの連絡が入ったと聞いて、安堵したのは正直な気持ちだった。
それにしても、クッキーのレシピの事は私に直接言って欲しかったな。
何か手掛かりがつかめるかと思ったが、お菓子の本に載っていたとは……。確かあのレシピは夏子オリジナルだと聞いていたが、三十年近くも経つと舌の記憶もあてにならないのかも知れない。
……あの味だけは自信があったんだがな……。
そして今私は、会長である父親が定宿としているホテルに向かっている。休日の、それも息子の誕生日の今日、朝から呼び出されたのだ。
何もこんな日に呼び出さなくても、明日になれば会社で会えるのに……。
心の中でそんな文句を言いながら、いったい何があって呼び出したのか、見当もつかないから、余計にイライラする。対策のしようも無い。会長はかなりの策士だから、こちらも心して対峙しないと、会長の思惑にはまり込んで、良いように使われてしまうのがオチだ。
西蓮寺の事か……。
一ヶ月程前、西蓮寺の社長に会った時に、遠回しにこちらの意思をもう一度伝えておいた。息子の結婚を取引の材料するつもりは無いと……。
このご時世、西蓮寺も業績が伸び悩んでいるから、余計に必死になっているのだろうが、私にはそれは裏目だ。その辺をあの遠回しな会話からくみ取ってくれるといいのだが。
会長のいるスイートルームへ入っていくと、足立君が「おはようございます」頭を下げた。「足立君、おはよう。ご苦労様だね」と休日出勤の彼を労い、ソファーに座る会長に挨拶しながら向かい側のソファーに座った。
「会長、休日まで足立君を拘束するのは感心しませんね。彼はサラリーマンなのだから、休む権利があると思うのですが……」
「わかっておるよ。今日はたまたまだ。いつもいつも休日に呼び出さないよ。資料を届けてもらっただけだ。足立君、もう帰っていいから。休日に悪かったね。ご苦労様」
会長はちっとも悪いと思っていない声で、足立君を帰らせた。結局は体の良い人払いか……。
そんな事を思いながら、会長に向き合った。
「それで、話とは何です?」
「西蓮寺が祐樹との結婚話を断った件を承諾して来た」
承諾? と言う事は?
「西蓮寺は娘との婚姻で浅沼との絆を深める事を、諦めたわけですね?」
私がそう言って会長の顔を見ると、会長は少し顔を歪めて「そう言う事だな」と返した。
「でも、取引を止めると言う話では無いのでしょう?」
まあ、今の西蓮寺なら取引を止めて被害が大きいのは向こうだろう。
「ああ、取引は今まで通りでと言う事らしい」
会長は不機嫌な声で言い捨てた。
「では、祐樹は自分の決めた人と結婚してもいいと言う訳ですね?」
私は、祐樹が今日連れて来ると言う人の事を思った。これで、祐樹もすっきりと結婚に向かえる事だろう。
「だから、おまえは何も分かっていないと言うんだ」
私が一人安堵していると、会長はいきなり雷を落とした。私が唖然としていると、会長は怒りの口調で話を続けた。
「いいか? 祐樹は浅沼の御曹司と言う事表明したのだから、誰も彼もが祐樹と繋がりを持とうとすり寄ってくる。女も同じだ。玉の輿狙いの女から、愛人希望の女、それに娘を何とか祐樹の嫁にしようとする経営者や会社役員達。実際にいろいろ縁談の話は来ているしな。祐樹に嫁選びを任せておいたら、浅沼に目が眩んだ女達に騙されるのがオチだ。それに祐樹は一回騙されているからな……」
「え? 祐樹は騙された事があるんですか?」
私は会長の話の途中で、驚いて訊き返した。
「ああ、雅樹は知らなかったか。祐樹がイギリスにいる頃の話だ」
「イギリスって、高校生の頃じゃないですか?」
「ああ、何も知らないお坊ちゃんだった祐樹だから、騙しやすかったんだろう。祐樹は真剣に将来結婚したい女性だと私に紹介して来たよ。でも、全てその女性の父親の計画で、娘を使って祐樹を誘惑させたらしい。確か日本に販路を広げたいと狙っていたイギリスの会社社長だったと思う。相手にもしなかったが、祐樹にはいい勉強になったと思うよ」
会長は片方の口の端を嫌みに上げてニヤリとそう話した。
私はこれまで祐樹の事を何も知らずに来た事を思い知らされた。だけど、これからだ。改めて、祐樹が今日紹介したい人がいると言った言葉がとても嬉しいものだと感じた。
しかし、会長が祐樹のプライベートをかなり把握している事に驚いた。それに、相変わらず考えを変える気は無いらしい。西蓮寺の事で懲りないのか……。
「そうですか。でも、もう祐樹も二十九歳です。いくらなんでも、もう騙されはしないでしょう。一度そういう経験をしているのなら尚更です。結婚は祐樹の意思に任せましょう」
私は祐樹が今日紹介してくれる人との関係を守りたいと思った。でも、何度言った所で、この頑固頭の会長が考えを改めるとは思えない。それならせめて、新たな見合い相手を選ぶのを阻止しなければ。
「おまえはやっぱり、甘いな……」
会長はそう言いながら、二人の間にあるテーブルの上に薄い冊子を放り出した。表紙には「報告書」と書いてあった。
「何ですか、これは?」
「まあ、見てみろ」
そう言われて、手に取って表紙をめくった。
それは、祐樹のプライベートの調査報告書だった。
「お父さん、何を調べているんですか? 祐樹だってプライバシーってものがあります」
私は報告書を手にしたまま、目の前の父親を睨んだ。
「そんな事、どこの経営者だってしているさ。変な相手に付け込まれたら、会社自体に影響を及ぼす恐れがあるからな。祐樹が私のいない間に西蓮寺に直接断りに行った影に、女がいたんだよ。でも、もうその女とは別れたのか、浅沼へ入った四月以降は会っていない様だ。おまえも何も聞かされていなかったんだろう?」
えっ……?
女? 別れた?
今日連れて来るのは、私に会わせたい人と言うのは付き合っている女性じゃないのか?
私が茫然としていると、会長がもう一度「それを見てみろ」と言った。
私は恐る恐るページを開いた。書いてある文字を目で追っていくと、思わぬ名前に心臓が止まりそうになった。会長に気付かれないよう、俯いたまま読んでいるフリをして、気持ちを鎮める。
なぜ?
なぜ、夏樹ちゃんの名前が……。
たんに同姓同名だろうか?
でも、夏樹ちゃんの勤める会社と同じだし、住所も同じ。何より、夏樹ちゃんが話していた片想いの彼との話が、そのままそこに書かれている。
今年に入ってから、彼が転職する四月までの間、何度も食事を食べに来たけれど、食べるとすぐに帰ってしまうと言うその人は、祐樹だったのか?
転職した四月以降、全く連絡も無いし来なくなったと言っていたよな。この報告書にも、四月以降は、女性の所へ行っていないと書いてある。でも、確か、一度来たと言っていたけれど、調査員が見逃したのか。それとも、夏樹ちゃんの片思いの相手は祐樹じゃないのか……。
「その女は、一人暮らしのOLだ。祐樹とはどんな関係かは分からないが、泊まったりはしていない様だから、恋人と言う訳では無かったのかもしれない。四月以降、その女の所へは行っていないみたいだからな。でも、祐樹が仕事が忙しくて行けないだけで、連絡は取り合っていたのかもしれないしな……」
「祐樹が誰と付き合おうが不倫じゃないのなら、いいじゃないですか。祐樹には私の様な思いはさせたくないんです。私は、祐樹が選ぶ人を温かく迎えようと思っています」
「雅樹、おまえは雛子と結婚した事を後悔しているのか? そう言えばおまえは、雛子と結婚したいと言った女と二股かけていたんだったな。そんなおまえが今更綺麗事を言うなんて、笑わせるな」
会長は嫌みな笑いを口の端に表し、嘲るように言った。
私は、グッと堪えた。今は祐樹の話だ。私の過去などもう今更話題にして欲しくない。
それにしても、二股だなんて……。お父さんは、私をそう言う目で見ていたから、祐樹もその事で私を責めたんだな。
「私と雛子は幼馴染であり、兄妹のように育ちましたから、結婚して家族になった事は後悔していませんよ。私の事はいいですから、祐樹には、祐樹の選ぶ人と結婚させます」
私は会長を睨んだ。この件については譲るつもりは無いとの思いを込めて。
「そんなただのOLに、浅沼の社長婦人が務まるか? 玉の輿だと浮かれて贅沢三昧では困るんだよ。やはり、それなりの生活レベルも、付き合いのレベルも同程度じゃないと、祐樹自身が困る事になるだろうからな」
確かに会長が言う事は、正論だと思う。だからと言って、そこに愛情がなければ、やはり温かい家庭は成立しないだろう。愛情があれば、相手のために努力もできるだろうし、生活も付き合いも慣れれば何とかなるものだと思う。
「どんな女性でも、祐樹を心から愛してくれて、祐樹も愛せる人なら、私も雛子も協力しますから、大丈夫ですよ」
「おまえは自分が失敗しておきながら、息子にまで愛だとか恋だとかで惑わすつもりか?」
「お父さん、あなたは祐樹を信じてやれないんですか? 祐樹の選ぶ人を全て否定していたら、一生結婚するなと言っているようなものですよ。祐樹を信じて見守ってやればいいじゃないですか」
「愛だとか恋だとか言っている段階で、周りが見えなくなるんだよ。冷静な判断ができるはずが無い」
この頑固頭!と心の中で罵った。
いつまでいっても分かり合えるはずの無い関係だ。私は私の考えで動くしかない。
「話はそれだけですか? この件は、折り合えませんから、もう二度としないでください。私は親として、祐樹の選んだ人と祐樹を結婚させます。もう法律的にも自分の意思で結婚できる年齢ですから……。それに、後継者はまだ祐樹と決めた訳ではありませんし、祐樹の結婚ぐらいで浅沼は傾きませんよ」
私はそれだけ言うと立ち上がった。もうこれ以上話し合う事は無い。立ち上がった私を、会長は驚いて見上げた。
「おまえは何を言うんだ。祐樹に継がすために浅沼へ入れたんだろう? 私は諦めんぞ。祐樹を後継者にする事も、祐樹の結婚相手も……。祐樹がふさわしくない相手と結婚しようとしたら、浅沼のためにも阻止するからな」
会長は私を睨んでそう言うと、顔をそむけた。
会社のためなら、孫は不幸になってもいいのか。
会長がその気なら、私は断固として会長の企みを阻止してやると、心に誓ったのだった。
*********
私は家路へと車を運転しながら、大きく溜息をついた。
なんて事だ。夏樹ちゃんの好きな相手は祐樹なのか?
祐樹が今日連れて来るのは、夏樹ちゃんなのか?
それでも、たった一週間前にもう諦めると言っていた夏樹ちゃんを、祐樹が今日連れてくるとも思えない。もしかして、夏樹ちゃんとは別に付き合っていた人がいたとか……?
もしそうなら、祐樹を許さないし、今日連れてきた人とも会うつもりは無い。夏樹ちゃんをあれほど翻弄しておいて、別な人と付き合っているとしたら……。
自宅の敷地に車を乗り入れると、駐車スペースに祐樹の車が停められていた。もう来ているんだと思いながら、自分の車をその隣に停め、玄関へと急ぐ。心の中の不安が妙に焦らせる。玄関前まで来た時に、光る物が落ちているのに気付いて、拾い上げた。
それは、チェーンに指輪を通したものだった。
何だ? 雛子のかな?
急いでいたので、そのままズボンのポケットへ入れると玄関のドアを開けた。
「おかえりなさい。思ったより早かったわね」
雛子がキッチンの方からパタパタと小走りでやって来た。
「ただいま。祐樹はもう来ているんだね」
「そうなの。祐樹が連れてきた人を見たら、あなた驚くわよ」
雛子がいつもの悪戯っぽい笑顔で言う。
驚く? って言う事は、やはり、夏樹ちゃんだろうか?
「もしかして、夏樹ちゃん?」
「ええっ? どうしてそれを!!!」
雛子は目を二倍ぐらいの大きさに見開き、思いもよらない私の反応に驚いて見せた。
やはり……。それにしても、この一週間であの二人に何があったんだ?
「ああ、ちょっとな。上がってゆっくり話すよ」
そう言いながら靴を脱いで上がると、リビングへ向かった。
「そう言えば、祐樹達は?」
振り返って、後ろからついて来る雛子に訊いた。雛子は私の問いかけにハッとした顔をした。
「そ、そうそう、今二人は二階の客室に居るんだけど……。夏樹ちゃんがね、祐樹が私達の息子だと知ってショックを受けて、気を失ったのよ。今客室で寝ているわ」
「なんだって? それで夏樹ちゃんは大丈夫なのか? 祐樹は夏樹ちゃんに何も言わずに連れて来たのか?」
「夏樹ちゃんは眠っているみたいだから、大丈夫よ。祐樹が看ているし……。祐樹もね、夏樹ちゃんがお母さんに言われている事を知っていて、本当の事を言えなかったらしいの……」
ああ、そうだった。
夏樹ちゃんは、私達の息子だったら好きにならないと言っていたんだ。浅沼の家にはお嫁には行けないんだと。
「祐樹はそれを知っていたのに、何も言わずに連れて来たのか?」
「拒絶されるのが怖くて言えなかったって……。ここへ連れてくれば私達が受け入れてくれるだろうから、それで何とかなると思っていたみたい……」
呆れた。あいつもまた、他力本願な。
話しながらリビングへ入るとソファーに座った。雛子が冷えたウーロン茶を出してくれて、ソファーに向かい合った。とにかく落ち着こうと、ウーロン茶を飲む。雛子は少し心配顔で私の様子を窺っていた。
私は会長との話を全て雛子に話して聞かせた。そして、雛子から祐樹が今日、夏樹ちゃんを連れて来る事になったいきさつを聞いた。
「それにしても、祐樹も付き合いもすっ飛ばしていきなり結婚って……。夏樹ちゃんも訳が分からない内にここへ連れられて来たんだろうな……」
私は一週間前に会った夏樹ちゃんを思い出した。
夏樹ちゃんの恋が実って良かったはずなのに……。その相手が息子だと思うと、会長の事もあり、気が重くなる。
「そうなのよ。祐樹には今までの事を含めて叱っておいたけど、祐樹が私達の息子だと知った夏樹ちゃんがどんな答えを出すのか、心配だわ。それに、お義父様にも、夏樹ちゃんの存在を知られていると思うと、余計に……」
いつも明るく前向きな雛子が、暗く落ち込んでいるのを見て、二人で落ち込んでいても始まらないと、自分に活を入れた。
「何にしても、私達が気に入っている夏樹ちゃんを息子が選んでくれたのは、嬉しい事じゃないか」
私はそう言って雛子に笑いかけた。
「そ、そうよね。夏樹ちゃんにお嫁に来て欲しかったんだから、祐樹がそれを叶えてくれるのは、嬉しいわ」
雛子もやっと安心したような笑顔を見せた。
「とにかく、私達で二人が結婚できるように協力して、夏樹ちゃんが安心して浅沼家へお嫁に来られるよう、しっかりとフォローしていかなくてはな」
私は自分に言い聞かせるように言った。雛子も覚悟するように「そうね」と頷いた。そして二人で、微笑みあった。
その時になってようやく、さっき玄関前で拾った物の事を思い出した。ポケットから出して雛子に問いかけた。
「これ、帰って来た時、玄関前で拾ったけど、雛子のかい?」
私はそのチェーンを指にぶら下げる様にして持ち上げながら訊いた。立ち上がってキッチンに向かいかけた雛子が振り返る。
「ネックレス? 私のじゃないわ。最近ネックレスは付けていないから。夏樹ちゃんのかもしれないわね。玄関前で倒れたから……」
雛子の返事を聞いて、思い出した。
そう言えば、夏樹ちゃんがこんな指輪を嵌めていた事を。
指輪をつまんで観察した。そして、その指輪の内側に刻印されている文字を見て、私は驚愕した。
どうしてこの指輪が、ここに……。
次回は現在編に戻ります。
アメリカにいる祐樹から、今からイギリスへ行くからいつ帰れるか分からないと言われ、電話の向こうから女性の声も聞こえて、一緒に行く事を知り、不安になった夏樹。不安のあまりトリップをしてしまった夏樹は、目覚めてどんな行動を取るのか……その続きからになります。
2018.2.20推敲、改稿済み。