#102:祐樹の過去(17)転職【指輪の過去編・祐樹視点】
お待たせしました。
今回も指輪の見せる過去のお話の祐樹視点です。
今回で祐樹の過去をお終いにするつもりでしたが、
どうしても終わらず、次話まで引っ張る事になってしまいました。
もう少しお付き合いください。
祐樹、夏樹の28歳の1月から5月頃のお話。
夏樹視点の#76・77辺りの祐樹視点になります。
新年を迎え、年初めの慌ただしさも過ぎた頃、今日は少し早めに帰れるなと思った日、夏樹に夕食のお誘いメールをした。もうあれから約一ヶ月が経っていたが、もちろん夏樹からは何の連絡もないし、こちらからもしないままの一ヶ月間だった。今までも一ヶ月に一度のグルメの会に一緒に食事するだけだったし、連絡もそのための連絡のみだったから、特に変わった訳では無かった。でも、今年からはもう一歩近づこうと思っている。だから、平日にも関わらず誘いかけたのだった。
夏樹からの返信は意外な提案だった。
『朝からおでんを仕込んできたので、もし良かったら、ウチに夕食を食べに来ませんか?』
そのメールの文面を見た時、携帯を持つ手がかすかに震えた。
いいのか? こんな夜に……。男はみんな狼だぞ……って、もしかして俺の事、信頼しきって安全パイだと思っているんじゃ……。ある意味その信頼を喜ぶべきなのだろう。それが本意であっても、本意で無くても、その信頼ゆえに夏樹の部屋へ入れる資格を得られるのなら。
午後七時半頃、夏樹の部屋を訪ねると、いい匂いが漂って来た。帰って来てからもずっとおでんを煮込んでいたらしい。おでんの時は二、三日分を何度も火を入れながら食べるのだと夏樹は笑った。
やっぱり夏樹と食べる食事はより美味しく感じる。目の前でこんなに美味しそうに食べられると、こっちまで釣られるし、味も美味しいので余計に箸が進む。時々夏樹の視線を感じて、顔を上げて目で「何?」と訊く。すると彼女はハッとして、頬を染めたまま首を振る。そんな彼女の仕草に、思わず手を伸ばしそうになる自分を必死で抑えるが、妄想だけが膨らんでいく。
こんな風に毎日夏樹の料理が食べられたら……。
「なぁ、夏樹、仕事が早く終われそうな時、こんなふうに夕食を食べさせてくれないかな? 一人で食事するのも味気ないし、外食ばかりも飽きたし……」
俺は頭に浮かんだ願望を図々しいと思いながらも、口にしていた。
夏樹は驚いた顔をしたが、「私が食べるのと同じもので良かったら……」と照れたような顔をしながら言ってくれた。
俺は自分から頼んだのにもかかわらず、夏樹の言葉が信じられなかった。そんな事言ったら、毎晩来てしまうぞと心の中で突っ込みを入れつつ、「ありがとう、嬉しいよ」と、例の極上の笑顔で言った。
その日から俺は、早く帰れそうな日は夏樹にメールをした。まるで恋人同士のように、夏樹の部屋に頻繁に通い詰めた。多い時は週に3日も食事をご馳走になった。それなのに、食事代を払うと言っても夏樹は受け取らないので、代わりに休日に夏樹を外食に連れだした。いつの間にかグルメの会はそんなふうに形を変えていた。
俺達は食事をしながら、たわいもない話をする。でも、自分の事を訊かれるのが怖くて、お互いの事は話題にしなかった。食事をして、後片づけを済ますと、俺はゆっくりせずに帰る事にしている。長居をして夏樹に触れたくなる気持ちを我慢できなくなるのが怖かった。それに、親父と約束した通り、夏樹の部屋を出ると浅沼コーポレーション本社へ入社前の勉強のために通っていたからだった。
浅沼コーポレーション本社へ通うようになって、自分のバックの現実を知るにつけ思う事は、こんな俺の世界に夏樹を巻き込んでもいいのだろうか?と言う事。夏樹は俺みたいなめんどくさいバックがある様な奴と、付き合う事や結婚を禁じられていると言う。もしも、その事を夏樹が知ったら……。夏樹との今の関係さえ続けられなくなるのか。それに、今こうして夏樹の所へ夕食を食べに通っている事を祖父さんに知られたら、きっと勘違いして、俺から夏樹を引き離すだろう。
そんな不安を抱えながらも、夏樹の手料理を食べに行く事を止められなかった。お互いに想いを告げた訳じゃ無かったけれど、いつも夏樹の想いが感じられるこの幸せなひと時が、俺にとっての唯一の楽しみであり、癒しでもあった。
そうして、転職する四月が近づくと、転職する事を夏樹に言うべきかどうか、ずいぶん悩んだ。でも、どこの会社に勤めていたって、夕食を食べに来るのは変わりないのだから、関係無いよな……と自分に言い訳をし、自分に関するデーターを伝える事を極力避けた。今はまだ夏樹に知られたくない。その時はまだ、転職後に夏樹の所へ行く時間が取れなくなるなんて、思いもしなかったんだ。
三月末、高藤化学工業株式会社を円満退職すると、四月一日から、浅沼コーポレーション本社へ出勤した。俺はいきなり専務と言う役職を与えられ、十年ぶりに「浅沼祐樹」に戻った。
出社して社長室で俺専属の秘書の紹介があった。その中に見知った顔を見て驚いた。
なんで、この会社に麗香がいるんだよ?!
「祐樹、こちらがおまえと常に行動してもらう第一秘書の刈谷君。そして、会社でおまえと刈谷君の補助をしてもらう第二秘書の篠原君だ」
社長自らが二人を紹介した。刈谷さんは、ずっと社長である親父の秘書をしていた人だったので、面識があったし、現在四十代のベテラン男性社員なので新米専務の俺にはありがたい人選だった。だけど、どうして第二秘書が麗香なんだ?
二人がよろしくお願いしますと頭を下げたので、俺も同じように頭を下げた。そして、頭を上げた時、俺は疑問を口にしていた。
「どうして、ここに篠原がいるんだ?」
麗香は驚いた顔をしたが、フッと笑って言い返した。
「私もお訊きしたいわ。どうして杉本君が、浅沼社長の息子なのかしら? 浅沼会長の遠い親戚だと言って無かった?」
睨みあう二人を見て、親父も刈谷さんも驚いた顔をしている。
「祐樹、篠原君と知り合いだったのか?」
「ああ、大学の同級生。学部もゼミも同じの……」
「それは良かった。気心が知れているのなら、仕事もしやすいだろう。篠原君は半年前にウチの会社に来てもらったんだが、とても優秀なんだよ」
良くないよ。
昔の俺を知られているなんて、弱みを握られているようで、なんとなく落ち着かないじゃないか。
それにしても、麗香の奴、いつの間に転職したんだ。確か以前勤めていた会社は浅沼傘下の会社じゃ無かったのか?
親父が褒めるから、麗香の奴得意げな顔してこちらを見ているし……。
「そう言えば……、浅沼専務は独身だとお聞きしましたけど、去年結婚されたのじゃ無かったのですか?」
麗香の奴、何言い出すんだ。そう言えば、麗香には結婚するからもう俺を呼び出すなと言ったんだったっけ?
「その話は断ったんだ」
俺はもうそれ以上何も言うなと、麗香を睨みつけた。
「おやおや、二人は同級生と言うだけでは無く、そんな話までする間だったのかね?」
親父は面白そうにニヤニヤしながら俺達を見た。
「ただの友達だよ」
俺はそんな親父を睨みながら吐き捨てるように言った。
「そうね、浅沼専務の沢山いる女友達の末席ぐらいのお友達だったかしらね」
ふふんと笑って、さらりと言う麗香を、俺は又睨みつけた。
「まあまあ、これから仲良くやってくださいね」
親父がニッコリ笑って二人の方をポンと叩いて、初めて気づいた。
ああ、俺は又感情を抑えきれなかった。まだまだだな。
麗香もそう言われて我に返ったのか、親父の方を見て少し頬を染めて、素直にはいと頷いていた。
そんなふうに俺の第二の「浅沼祐樹」としての人生が始まった。そのとたん、俺はその人生に拘束されるかの如く、自分の時間を持つ事が出来なくなってしまった。仕事は次々とスケジュールが入れられ、夜は俺を紹介するための取引先との会食や親父と仕事の打ち合わせを兼ねた夕食を取る日々が続き、慣れない事ばかりで付いて行くのに必死だった。
今まで浅沼社長に息子がいる事は公にされていなかったので、突然現れた息子に経済界は騒然となったようだった。その事が余計に俺を忙しくさせる原因でもあった。
麗香は確かに有能だった。俺の忙しい仕事のスケジュールの管理から、先を見越しての資料の整理、いつも言わなくても準備できている事に驚いた。社長に有能だと言わせるだけあるなと内心感心したが、癪だったので口に出しては言わなかった。
会長である祖父さんにも初日に挨拶に行った。祖父さんはにこやかに俺を迎え、俺が浅沼へ来た事をとても喜んだ。けれど、西蓮寺との事を何も口にしない祖父さんに、何か違和感を覚えた。
今度は何を企んでいるんだ? 西蓮寺さんとの事も決着したと言う話は聞いていないから、まだ話はそのままなのだろうと思うけれど、自分からその話を持ち出す事は出来ない。
祖父さんとの再会は身構えていた分、あっさりとしたもので、拍子抜けしてしまった。でも、ここで気を緩めてはいけない。きっと何か企んでいるだろうから。
そんな日々が続き、気が付けば一ヶ月近くが経っていた。時々は夏樹の事も思い出したが、日々の仕事に忙殺され、連絡を取る事さえままならなかった。日が経つにつれ、夏樹の所へ行けない事を何と言って説明すればいいかわからなかったし、根本的に約束した関係でもないと言う事が、わざわざ行けない言い訳をするべきなのかと悩んだ。それに、夏樹からも何の連絡もないのに、俺からするのが癪でもあった。そんな思いも日々に忙殺されて行く。
ゴールデンウィークが過ぎた頃、圭吾から嬉々とした電話が入った。
「祐樹、とうとう生まれたんだ。娘だよ」
「そうか、それはおめでとう。良かったな」
「ああ、舞子にそっくりな可愛い子なんだ。今から将来が心配だよ。変な男に引っ掛からないよう、目を光らせなきゃな」
「ぷっ、おまえ、気が早すぎ……。もう、親バカになっているのか?」
「そんな事を言うけどな、おまえだって娘を持ったら、絶対に同じ事を言うぞ」
「どうだかな。まあ、とにかくおめでとう。又そのうちに、おまえの可愛い娘を見に行かせてもらうよ」
娘か……。
俺にそんな日が来るのだろうか。
夏樹に無性に会いたくなった。
そんな俺の願いが通じたのか、その週の金曜日に予定していた会食のキャンセルで、時間が空いた。俺は迷わず夏樹に連絡をした。一ヶ月半ぶりだなんて言う事はもうどうでもよかった。ただ、夏樹に会って、夏樹の手料理を食べたいと思った。それ程俺は夏樹を渇望していたのかと、一人苦笑した。
しばらくすると、夏樹から「わかりました」と言う了解のメールが来て、ホッとする。やはりあまりに時間が経ち過ぎて、もしかしたら拒絶されるかもと言う事は、頭の中に常にあった。何の約束も無い二人の関係が、あまりに頼りなくて悲しくなる。なのに、もう一歩が進めない今の自分に、情けなさ以上に呆れる気持ちさえ起こるのだった。
俺は怖いんだ。
本当の俺の立場を知られたら、夏樹に拒絶されてしまうかもしれないと思うと。
もっと自分が確かな地位にいられたら、周りがなんと言おうとたとえ祖父さんが反対しようと、夏樹を抱きしめて離さないのに。
今はこうして受け入れてくれる夏樹の気持ちに甘える事しかできない。
その夜、いつもの時間に夏樹の部屋を訪ねる。ドアを開けた夏樹が固まったのを見て思い出した。以前の俺と外見を変えていた事を……。二十代の専務と言う事で見下されないよう、少しでも年上に見えるだろうかと伊達眼鏡をかけ、髪形も後ろに撫でつけている。慌てて眼鏡を外すと、夏樹はホッとしたような顔をした。
夏樹は以前と変わらない様子で、俺を迎えてくれた。俺が来なかった一ヶ月半の間に他の奴を部屋へ入れていないかと、思わずキョロキョロと見てしまった。夏樹に限ってそんな安易に男性を部屋へ入れないとは思っているが、押しに弱い夏樹が心配だった。それに、俺が一ヶ月半も来なかった事を夏樹は何も言わなかった。だから余計に説明も出来ず、こちらもその事に触れる事が出来ない。
変わらぬ美味しさの夏樹の料理とお喋りを堪能する。やっぱり夏樹の作る料理は美味しいなと、思った事が口に出ていたようで、夏樹はその言葉にどんな揶揄が含まれているのかと訝しんでいるようだった。そんな夏樹さえ今の俺には愛おしくて、自分でも気付かぬうちに夏樹を見つめていた。
たわいもない話の中で、どうしてその話題になったのかは忘れたが、いつの間にか会社を変わった事を夏樹に告げていた。夏樹が驚いたように「転職したんだ」と訊き返してきて、初めて言ってしまった事に気づいた。今までいくらでも言う機会があったのに、今頃ポロリと言ってしまうのなら、もっと早く言っておけばよかったと後悔した。俺は仕方なく、四月から今の会社に移った事を話した。
夏樹は今まで転職の事を話さなかった俺の事、どう思っただろう。
そんな事も話してくれないと悲しんだだろうか?
それでも、そんな俺を責めるでもなく、夏樹は愁いの含んだ笑顔を返すだけだった。
2018.2.20推敲、改稿済み。