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モンスターのご主人様  作者: ショコラ・ミント/日暮 眠都
2章.モンスターを率いる者
49/321

31. 灯火の世界

前話のあらすじ:


シラン「……」


前々々話のあらすじ:

画面外で死ぬところだったガーベラさん。


シラン「……」

   31



 モンスターならともかく、十文字を敵に回して騎士団にできることはない。無用な被害を出すわけにもいかないため、彼らにはさがっていてもらうことにした。


 念のため、あやめを彼らにつけておいた。小さな護衛はケイに抱きかかえられながら、垂らしたしっぽをぶんぶん振っていた。任せろということらしい。


 団長が折り目正しく礼をして、その隣で幹彦が親指を立てて踵を返す。騎士たちがそのあとに続いた。


 そのなかには、ぐったりと気を失って騎士に抱えられた坂上の姿もあった。

 両足の怪我の痛みに堪えかねて意識を失った彼の身柄を、騎士団は回収していたのだ。

 彼のことを放置してシランを助けにいくわけにもいかなかったから、さっきは殺すほかなかったわけだが、いまはそうではない。生かしておけば、あとでなにか有用な話が聞けるかもしれなかった。


 ともあれ、それも作戦がうまくいったらの話だ。

 騎士たちを見送って、おれは踵を返した。


 これもまた、シランの抱く想いの為せる業だろうか。グールと化した彼女の猛攻に押し込まれるかたちで、十文字はおれたちのいる場所から引き離されつつある。シランの想いは、確かに十文字の振るう理不尽な暴力を封じ込めていた。


 彼女のその尊い想いが、流れ星のように一瞬の燃焼の末に消えてなくなってしまうものであってほしくない。

 ひとつ深呼吸をして覚悟を決めると、おれは仲間たちに声をかけた。


「それじゃあ、行くぞ」


 グールと化したシランにパスを繋げることで彼女の心を取り戻し、力を合わせて十文字を倒す。

 シラン自身の備えていた特殊性に加えて、このような大規模な戦場が彼女をアンデッド・モンスターに変えたことも考慮すると、これほど整った環境は恐らく二度とあるまい。


 おれの仕事はパスを繋げるためにシランに触れること。

 仲間たちは、そのための露払いに全力を尽くす。作戦開始だ。


 先陣を切ったのは、ガーベラだった。蜘蛛脚を折りたたみ、低く沈み込んだ体勢から跳躍する。

 白き砲弾と化した大蜘蛛が、勇者とグールの戦いに割り込んだ。


「シャアァアアッ!」


 驚き振り返る十文字を、ガーベラは強かに蹴り飛ばした。あわよくば、これで決着がつけばと思ったのだが、さすがにそれほど甘くはない。顔面を潰そうと振り下ろされた蜘蛛脚を、すんでのところで十文字は直剣で防いでみせた。


「うぐっ、お、お前……っ!?」


 ただ、十分に距離を稼いだうえで勢いを乗せた全力の突撃を喰らっては、いかに探索隊のチート持ちといえど威力を殺しきれない。蹴り飛ばされた十文字は、おれたちの目論見通りシランから引き離された。


 しかし、これでまだ半分だ。

 言うなれば、ガーベラは争っていた二匹の獣の間に割り込んだのだ。片一方にかまけていれば、もうひとりに対してはどうしても反応が遅れざるを得ない。


 そして、いまのシランには理性がない。敵味方の判別さえつけられないまま、彼女はいまも、おれたちを逃がすため十文字に立ち向かったあの戦いのなかにいるのだ。彼女の隻眼には、十文字に喰らいつく邪魔をする者はすべて障害物としか見えていないに違いなかった。


「があぁあっ!」


 薙ぎ払われたシランの剣が、蜘蛛脚を一本切り落とした。

 そのままの勢いで斬り付けられた二本目は、どうにかガーベラの反応が間に合って、蜘蛛の外殻の厚い箇所に深々と喰いこんでとまる。


 それで剣はとまったが、持ち主であるシランはとまらない。

 力任せに剣を引き抜く力も利用して、彼女の体は前に出る。


 がちん、と歯が噛み合った。


 見ていて血の気のひくようなタイミング。危うく頸動脈を噛み切られるところで、ガーベラの少女の腕がシランの額を掴んで押さえつけていた。

 逆の手は、時間差で繰り出された剣の刃を掴んで、ざっくりと裂けた掌から赤い血液を滴らせている。


「脚一本と半分、ついでに片腕まで持っていかれたか。……まあよい」


 ガーベラはその美貌に、思わず見惚れてしまうくらい艶やかな笑みを浮かべた。

 闘争の熱は、純白の少女をこれ以上なく輝かせている。流された血液でさえ、彼女を彩るものとして目に映るほどに。


「妾も許すから貴様も許せ。なに、頸椎が砕けたところで、今更どうこうなる体ではあるまい」


 顔面を掴んだ腕が、シランの体を力任せに投げ飛ばした。

 ごきんと音が鳴ったのは、負荷のかかった首の骨が折れたのだろう。錐揉み回転するシランの体が、床に激しく叩きつけられる。


 一方のガーベラは、投げ飛ばしたシランには目もくれず、身を翻して十文字に襲い掛かっていた。


「……またお前か」

「おうとも。貴様の相手は妾だ。付き合ってもらうぞ!」


 ガーベラが十文字の足止めをしてくれている間に、おれはおれの仕事をしなければならない。


 投げ飛ばされたシランの墜落点に向けて、おれとリリィは駆け出した。

 床にバウンドして宙を泳ぐシランの体は、激突の衝撃で手足が折れている。

 見たところ、アンデッド・モンスターとしてのシランの再生能力は、ガーベラの自然治癒力をも凌駕している。あれくらいの損傷なら、さほど時間を掛けず修復されるだろう。しかし、さすがにいますぐ体勢を整えることはできない。剣も取り落している。いまがチャンスだった。


「やああぁあ!」


 おれに先行してシランに飛び掛かったリリィが繰り出した槍が、シランを捉える。

 太腿に刺さった槍の穂先が、床に突き立ってシランの動きを縫いとめた――いや、この程度で亡者はとまらない。


「があぁああ!」


 各部の骨が砕けた体を、シランは筋力だけで無理矢理に跳ね上げた。どこか蛇のような挙動で、彼女はリリィに襲い掛かる。

 リリィが人間であったなら、これで勝負は終わっていたかもしれない。あるいは、仮にシランが理性を残していたのなら、こんな安直な攻撃はしなかっただろう。


「これで、捕えた」


 シランに喰いつかれながら浮かべたリリィの会心の笑みが、どろりと崩れた。

 擬態を解いた彼女は、スライムとしての本性を剥き出しにして、至近距離にいたシランをその身のうちに取り込む。


 おれが先行していたリリィに追いついたときには、シランはリリィの半液体状の体組織のなかで、まるで溺れでもしているかのようにもがいていた。

 アンデッド・モンスターとしてその身に備わった非常識な膂力も、手足がへし折れていては十全に発揮することはできない。そう長くは拘束し続けていられないだろうが、いまはそれで十分だった。


「シラン……」


 駆け寄ったおれは、すぐさまシランに手を伸ばした。

 リリィに取り込まれたシランは、唯一、顔だけを表面に出していた。触れようとしたのは、その頬だ。近くで見ると、紫に変色した肉で埋められた顔面の傷が痛々しい……。


 と、考えたそのときには、翻る金の色彩がおれの視界を覆うように広がっていた。


「避けて、ご主人様!」


 その悲鳴は、上半身だけを急造したリリィがあげたものだ。

 ぴしゃりとリリィの体液が頬にかかった。視界を覆う金色が、シランの長い金髪であることにおれは気付く。まさか、あの体でリリィの拘束を振り切ったのか――


「ぐぅ、が!?」


 ――と、考える間もあればこそ、おれは咄嗟に身をよじった。

 度重なる損傷に加えてリリィに拘束までされていては、さすがのシランも動きが鈍っていた。攻撃は狙いが逸れて、それでも、おれの首と左肩の間あたりに喰いつかれる。


「ぎぃ……ぐ、くっ……」


 激痛が脳髄を殴りつけた。

 魔力による身体強化など、モンスター相手では脆いものだ。筋が切れて、血が溢れる。生きながら喰われる悪寒が、ぞっと肌を粟立たせた。


 悲鳴を呑み込む。歯を食いしばる。

 引き攣る顔面の筋肉を無理矢理に動かして……おれは、唇を吊り上げた。


 なんてことはない。作戦は、大成功だった。


 シランとパスを繋げるためには、最低限、触れ合えば良い。

 とはいえ、触れ合いが深ければ深いほど、彼女との間に成立する繋がりは強くなる。であるならば、なるべく深く触れあったほうが都合がいい。


 おれのなかにシランが喰いこみ、おれの一部が彼女に嚥下される。それはもう、単に触れ合うのとは比べものにならない流血の交わりだ。

 抱き合うよりも尚深く、おれとシランの存在が触れ合う。これ以上ないくらいに、心と心が近づいた。


 そして、おれの意識は暗転する。

 どこか深いところに、おれという存在は沈んでいく。


 ――さあ、失われたものを取り戻しに行こう。


   ***


 ふと気づけば、おれは暗闇に漂っていた。

 まるで深い海に沈み込んでしまったかのように、周囲は真っ暗で息苦しい。


 なにも見えないし、触れられない。

 なぜなら、そもそもいまのおれには自分の体さえ存在していないからだ。自分の体が存在しない以上、目が見えるはずがないし、なにかに手を伸ばすことだってできやしない。


 だけど、それはちょっと困る。

 おれはここに迷い込んできたわけではない。探し物をしにきたのだ。だから、まずは見えなければ意味がない。


 おれは深い暗闇のなかを、どうにかして知覚しようと努めた。

 それはつまり、自分自身が灯火となって闇を照らす行為に等しい。


 気付けばおれは青白い炎になって、暗闇のなかに浮かんでいた。

 人間大の火の玉は、めらめらと揺らめいて、四方八方に火の粉を散らす。

 そうして初めて、近くにいくつかの火の玉が浮かんでいることに気が付いた。


 静かに燃える赤い炎、それより小さいが元気な炎、赤に青が混ざった二色の炎、白みがかった大きな炎……。


 暗闇には他にも無数の灯火が浮かんでいる気配があったが、残念ながら、おれが照らせない範囲は見えないし感じられない。要するに、おれ自身であるこの灯火は、この場所における視覚であり触覚だということなのだろう。


 不思議な場所だと思う。

 試しに両手を伸ばしてみれば、ごおっと火の粉を散らして、炎が暗闇の先に延びた。

 二重写しに、おれの手がそこにあるのが見える。


 それは奇妙な感覚だったが、もとより実在するふたつの眼球で捉えているわけでもないのだ。そういうことがあってもおかしくない。


 だから、そのときおれが、「おや?」と首を傾げたのは、二重写しの知覚の奇妙さに疑問を覚えたからではない。そうして見えた自分の像に、気になる部分を見つけたためだった。


 ――左手に、小さな罅が入っていた。


 いいや。よく見てみれば、おれの体には目を凝らさなければわからないような微細な罅がいくつか走っているのだった。

 そうして自分の存在を凝視しているうちに、おれは自分自身である青い灯火に、別の赤い炎が混じっていることにも気が付いた。


 ……これはどういうことだろうか。

 疑問に思わないでもなかったが、考え込んでいても埒があかない。そんなことを言い始めたら、この場所がなんなのかさえ、おれは把握していないのだ。


 この場所がなんなのかわからずとも、目的のためにここに来る必要があったことは理解している。だったら、それで十分だ。いつまでこの場所にいられるかわからない。のんびりと考察をしている時間はなかった。


 気持ちを切り替えて、おれは行動を開始した。

 向かうべきは、より深い階層だ。おれはゆっくりとこの闇の奥底へと潜行していく。


 この空間はあまりにも広大だ。どこまで続いているのか想像もつかないくらいに。……ひょっとすると、果てなどという概念自体、存在しないのかもしれない。


 目指すものがどこにあるのかわかっているのは幸いだった。蜘蛛の糸のように細く赤い血の繋がりが、おれを目的の場所へと導いてくれている。

 痛い思いをしただけの甲斐はあった、ということらしい。とはいえ、この繋がりもいつ切れてしまうかわからない。急がなければならなかった。


 沈む。沈む。沈んでいく。

 そうするうち、あたりに他の灯火の気配はなくなった。

 ますます濃くなる闇に、おれは物理的な重圧さえ覚えた。ちっぽけなおれの灯火など、ふとした拍子にこの圧倒的な闇の質量に押し潰されてしまうのではないか……そんな恐れを噛み殺しつつ、すぐにでも浮上してしまいたい衝動をぐっと押さえつけて、おれは潜行を続けた。


 やがておれは目的のものを見つけ出した。


 そこにあったのは、激しく燃焼する黄色い灯火であり、燃え盛る炎と二重写しになった少女の像だった。


 発見の喜びも束の間、おれは思わず眉を顰めた。

 膝を抱え込んで瞼をおろした少女の像が、酷く傷んでいたからだ。

 十文字につけられた深い傷を起点として、ほとんど全身を覆うように罅が走っており、亀裂と呼ぶべき深さに達しているものも少なくない。


 傷ついた少女の像は、いまこのときもこの暗闇の奥底へと沈みつつあった。

 ゆっくりと、しかし、確実に……。

 それに従って罅は増え、亀裂は深まり、剥離した小さな破片はこの広大な暗闇に漂って、まるで水に溶ける塩塊のように細かく砕けて溶けていく。


 それに抗うかのように、少女の灯火は激しく燃え盛っていた。

 その燃焼の煌めきこそが、彼女の意志の表れに他ならなかった。


 ――まだ消えるわけにはいかない。自分には守るべきものがある。

 その一心が、本来なら一息に沈んで砕けてしまうはずの彼女の像を、この場に留めているのだ。


 それだけではない。

 よくよく観察してみれば、少女の灯火にはなにか別のものが混ざり込んでいた。


 ひとつひとつは微量で、少女の像ほど明確なかたちをとれない膨大な数の欠片たちが、シランの灯火と同じように激しく燃焼している。そこには、少女のそれとは独立した意志が感じられた。


 ひょっとすると、それはチリア砦の防衛のために命を失った数多の人々が遺した『想い』なのかもしれない。

 シランは砦に充満していた魔力を喰らって、アンデッド・モンスターと化した。そのときに喰らった魔力というのは、砦を守るために戦って死んだ兵士や騎士たちの魂が散華した際に、そこから漏れ出したものだ。そこに死者の想いがわずかなりとも残留していたとしても、不思議はないのではないだろうか。


 だとしたら、いまのシランは人々を守ろうという尊い願いの結晶のようなものだ。あのような哀れなグールの姿のままで、失われてしまっていいものではない。


 決意も新たに、おれは燃え盛る少女の像に手を伸ばした。


 どうすれば目の前の彼女を取り戻すことができるのかは、本能的な部分で理解していた。コロニーではチート能力と呼ばれ、この世界では恩寵と呼ばれる転移者の力は、どういうわけか当人にはその使い方が自然とわかるからだ。それは、こんなわけのわからない場所であっても変わらない。


 伸ばした指先が、少女の肩に触れた。――ぴしりと音をたてて、その指先に微細な罅が走った。


 息を呑む。

 ……やっぱりそうか、という思いが脳裏に過ぎった。


 おれが硬直していたのは、ほんの一瞬のことだったと思う。

 衝撃はあったが、驚きはなかった。なぜなら、これもまた最初からわかっていたことだったからだ。


 これはおれの力だ。できることとできないことくらいは、本能的に把握している。

 もちろん、それ以外のことについてもだ。


 シランの心を取り戻すと決めたそのときから、嫌な予感はしていたのだ。

 それでもおれはシランの心を取り戻すと決意した。

 迷わず進むと決めた。たとえ、おれのなにがどうなろうとも……。


 だから、こんなのは今更だ。手をとめる理由にはならない。


 躊躇うことなく、おれは少女の像を抱きしめた。それは同時に、自分の炎を広げて、彼女の灯火を覆う行為でもあった。

 そうすることで、少女の像の崩壊が目に見えてゆるやかになる。


 おれは、ほっと胸を撫で下ろし……全身からあがる、ぴしぴしという悲鳴のような音を聞いた。


 負荷に耐えかねたかのように、おれの像の表面がひび割れていく。本来なら触れ合うことのないものが触れ合っているのだから、あるいはそれは当然の現象であったのかもしれない。


 それは決して致命的なものではなかった。

 シランとは違って、ひび割れはあくまで浅いもので、像の崩壊が起こることもない。これがおれの命を脅かすようなことはあるまい。


 けれど、たとえ致命的ではなかったとしても、取り返しのつかないことはあるものだ。


 言うなれば、これは片道切符の道程だった。段差を一段降りたところで振り返ってみれば、そこにはもう帰る道が存在しない。

 おれの身に起こったのは、そういう類の出来事だった。


 それでもおれは、シランから手を離そうとは思わなかった。目の前の少女が失われてほしくない。そう、強く思ったからだ。


 ……しかし、どうしておれは、彼女のことを取り戻したいとこんなに強く思うのだろうか?


 彼女がこの世界の異物でしかないおれのことを信じてくれたから……だろうか?


 ああ。確かにそれも、理由のひとつではあるのだろう。

 しかし、それだけが理由ではなさそうだった。


 まぶたを閉じれば、十文字に立ち向かうシランの姿が思い浮かぶ。

 誰かを守りたいという想いを胸に、死して尚、戦い続ける騎士。その在り様こそが、この世界がただ力に支配されるものではないことを示す、ひとつの証明だった。


 チリア砦にやってくるずっと前から坂上に虐げられ続け、挙句の果てには、彼が加担した企みによって無残にも命を奪われた『いじめられっこ』の工藤陸は、この世界を『強い者が好き勝手に振る舞える』ものだと表現した。


 諦めたような口調で告げられたその言葉を、おれは否定してやることができなかった。


 なぜなら、おれ自身、そうした力に蹂躙された側の人間だったからだ。そういう意味では、工藤は鏡に映ったおれ自身のようなものだったのかもしれない。


 けれど、シランの存在は、この世界が決してそれだけの無情なものではないことを証明してくれた。


 降って湧いたように与えられた、なんの想いもこもらぬ力によって、かつてのコロニーは、そしてチリア砦は、無残に破壊されてしまった。

 暴走した力は確かに多くのものを台無しにする。それは事実だ。

 だが、想いもただ蹂躙されるだけの無力なものではない。


 それを証明してくれたシランを取り戻すために、おれの力が役に立つというのなら、これくらいの代償がなんだろうか。


 おれはシランを抱いたまま、暗闇の奥底から浮上し始めた。

 ぴしぴしという音は続いている。

 昇っているはずなのに、どこかに堕ちていくような錯覚があった。もう二度と引き返せない階段を、一歩、一歩、下っていく……。


 ――わかっておるのか、主殿。


 いつか投げかけられた台詞が、不意に脳裏に過ぎった。


 ――それはとても危険な考え方だぞ。こんな妾にでも容易に想像がつくことだ。そんなふうになにもかも背負い込んでいては……。


 ……ああ、確かにそうなのかもしれない。

 けれど、それでも譲れないものがあるのだ。


 思えば、かつて加藤さんを保護すると決めたときも、こんな感じだったかもしれない。

 たとえ不都合があるとわかっていても、おれはおれのなかにある『なにか』を守るために彼女を保護すると決めた。今回もそれと同じなのだ。


 おれも十文字と同じで、降って湧いたように力を得た。

 自分にモンスターを率いる力があることを自覚した当初は、この残酷な世界でおれがひとり生き抜くための力だと思いもしたものだった。


 けれど、おれはこの力のお陰でリリィたちと出会うことができた。

 これまで彼女たちと育んできた絆は、おれにとって他のなにより大事なものだと断言できる。


 だからこそ、思うのだ。


 確かにこの力は本来、なんの想いもこもらない空っぽなものなのかもしれない。

 けれど、少なくともおれにとってはそうではない。この力には、おれと眷属たちの想いが込められている。おれはそう信じている。信じたいと思うのだ。


 そして、その力で取り戻したいと痛切に願うものがここにある。

 だったら、その願いを裏切ることは、おれのこの力に込められた想いを否定することに等しい。

 それはできない。絶対に。


 ――孝弘殿?


 浮上を続けるおれの耳に、少女の声が届いた。

 胸に抱いたシランのことを見下ろしてみれば、うっすらと片方だけの目が開いていた。


 茫漠とした光を宿す瞳が、おれのことを認める。その瞬間、おれと彼女の間にあるパスが、確固たるものに変わった。

 いいや。逆か? 繋がりが確固たるものになったからこそ、彼女は目覚めたのだ。それが証拠に、おれの体に起こっていた変調は収まって、シランの崩壊も落ち着いている。そして、シランの灯火の色は、黄色から赤色へと変化していた。


 ――ここは? ……いえ、わたしは?


 シランの口調はどこか夢現だった。意識も曖昧なようで、視線はふらふらと波間に漂うように揺れている。

 彼女にしてみれば、これは夢のなかの出来事としか思えないのかもしれない。ここはそういう場所であり、また、目覚める前の彼女はそういう境遇にあった。


 ――ああ。そうでした。わたしは力尽き、敗れたのでしたか。


 片目を失った彼女の顔に、乾いた笑みが浮かぶ。

 亀裂の入った頬に、一筋の涙が伝った。


 ――またしても、わたしは守るべきものを守れなかったのですね。


 剥き出しになった彼女の心から、パスを介して、ひとつのイメージが流れ込んできた。


 それは、深い森のなかで事切れたエルフの青年の姿だった。

 シランとの血縁を思わせてよく似た彼の亡骸のその前で膝をつき、幼い少女は慟哭する。


 見えたシーンはそれだけだったが、その瞬間に彼女が抱いた胸が張り裂けそうな悲哀の情は、十二分に感じ取ることができていた。

 恐らくこれが、他人を守るために剣を取ったシランの戦いの始まりの記憶なのだろう。自身の経験した大きな喪失を起点として、この世界からひとつでも悲しみを減らそうと少女は歩き出した。


 しかし、彼女の道は半ばで途切れ、己の無力にシランは再び涙を零している。


 始まりも涙ならば、終わりもまた涙。そんなの悲し過ぎるだろう。


 ――諦めるな、シラン。まだ終わってない。

 ――孝弘、殿?


 浮上を続けていたおれは、振り仰ぐ先に、さっき見たいくつかの灯火の存在を確認した。

 あと、もうちょっとだ。


 ――戻ろう、シラン。ケイが待ってる。


 おれが告げると、シランは呆気にとられた顔で、おれのことを見詰めた。

 おれの言葉が信じられなかったに違いない。


 しかし、いまのおれたちにはパスがある。おれが真実を告げていることは、彼女にも伝わったのだろう。まるで湖面のように、ひとつきりの瞳が揺れた。


 シランの目から、悲しみではない涙がひとつ、ぽろりと零れる。

 それだけで、おれは自分の選択が決して間違っていなかったと思えた。


 おれとシランは、揃って他の灯火に合流する。意識が反転する。光がおれの意識を眩く埋め尽くし――おれは、現実世界へと帰還した。



◆大体、定期更新。いつものです。


前回分の感想返しは、今日か明日くらいの夜までに活動報告で。

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