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モンスターのご主人様  作者: ショコラ・ミント/日暮 眠都
2章.モンスターを率いる者
30/321

12. 人形のお願い

前話のあらすじ:

迫りくる人影らしきもの……!

   12



 森の暗がりの中で蠢く影が、こちらに一歩ずつ近づいてくる。

 ただの人間でしかないおれのお粗末な視覚は、数秒経ってようやく、それが人間の輪郭をしていることを認識した。


 腰ほどまでしかない潅木を、前進する体で掻き分けて此方に歩いてくる人影は、全部で五人。

 彼我の距離はまだ五メートルほどある。

 月明かりも焚き火の灯りも、彼らのいるところまでは届かない。


 この異世界の住人か、それともおれと同じ転移者か。

 おれは目を細めて暗闇を見透かしたが、彼らの素性について判別付けることが難しいことをすぐに悟った。

 彼らはすっぽりと頭部を覆い、首の後ろが裾のように広がったかたちの兜を被っていたからだ。

 降ろしたバイザーで目鼻立ちは完全に隠れてしまっている。

 鈍色をした全身を覆う鎧は、映画などで見たことがあるプレート・アーマーというやつだろうか。完全武装の兵士の装いだった。


 面倒なことになった、とおれは小さく舌打ちをした。


 相手の正体がわからない。

 よって相手の出方もわからない。

 此方から先に相手を発見出来なかったのは痛手だった。なるべくなら、接触前に相手がどのような人間であるのか確認しておきたかったのだが。


 ……いや。こうなってしまったことを悔やんでも意味はない。

 いまはとにかく、交渉を試みるべきだろう。


 おれはそう判断して、立ち塞がるリリィたちの前に出ようとした。


「お前たちは一体……」

「ご主人様。さがってて」


 言いかけたおれの行く手を、リリィが細い腕を横に伸ばして遮った。


「そんなことしても、意味ないから」


 兵士たちを見据えるリリィの目は、完全に敵を見る時のそれだった。


「リリィ? なにを……?」

「警戒はしてたんだけどね。ちょっと運がなかったかな。風下にいたのなら、こんなの気付かないはずないのに」


 リリィは伸ばした腕をすっとスライドさせて、こちらに歩み寄ってくる兵士たちを指さした。


「ほら。そろそろご主人様の目でも見えるはずだよ」


 おれはその言葉に従い、徐々に距離が縮まっていく人影へと目を凝らす。

 そこにいるのは、五人の兵士……

 では、なかった。


「……うっ」


 ついに焚き火の灯りが照らし出したのは『五体の兵士だったモノ』だったのだ。


 わかりやすいのは顔面だろう。五人は全員が兜をかぶっていたが、その中に一人だけバイザーが壊れてしまっているものがいた。

 露になった顔面を確認したおれは、思わず呻き声をあげていた。

 焚き火の灯りに照らし出された男の顔は原型を留めていなかった。モンスターにでも噛み裂かれたのか、顎から下が存在しない。辛うじて白人系の顔立ちをしているらしいことが判別できるくらいのものだった。


 全身を覆っているはずのプレート・アーマーも、ひしゃげたり砕けたりしてしまっている部分があり、片方の腕がないものさえいた。きっとこれは、彼らが生前に致命傷を受けた時に壊れてしまったものなのだろう。

 内臓を引きずって歩いてくる者がいることに気付いた途端、喉の奥に胃液が込み上げてきた。


 この異世界にきてから、無残な死なら何度となく見た。しかし、これほど酷く損壊した死体が動いているというのは、一種独特のおぞましさがあった。


「ぁあ、あぁあ……」


 中途半端に開いた死者の口から、意味のない虚ろな呻き声が吐き出された。

 耳を撫でる死の感触に、おれはぞっと肌を粟立たせた。

 ……間違いない。

 これはコロニーで一度だけ発生した、アンデッド・モンスターに違いなかった。

 コロニーではほぼ忌み名に近かった、そのモンスターに付けられた名前を『グール』という。


 リリィが無意味だと言ったのも頷ける。

 たとえ人の姿を辛うじて保っていたところで、彼らがモンスターである以上、どんな交渉も成立する余地はない。


「ぁ、ぁ、あ、あぁアアアアァア――ッ!」


 次の瞬間、森の奥から現れた五体のグールが、獣の速度でおれたちに襲い掛かってきた。


「うっ」


 損壊した死体が向かってくるというおぞましさに、おれの体は竦んでしまう。

 これがチート能力者である探索隊にさえ被害を出した、アンデッド・モンスター特有の恐ろしさだった。

 人のかたちをしている相手に刃を振り下ろすことにはどうしても躊躇するし、既に息をしていない死体が襲いかかってくる不自然さに、ヒトは本能的に怯んでしまう。


 ただし、それは相対した者が人間であればの話だ。

 おれが擁しているのはモンスターの一団だ。相手が人間であろうと何であろうと、彼女たちを怯えさせる理由にはならない。


「――シィイイッ!」


 戦端はローズの投げつけた戦斧が切った。


 飛び掛かってきた一体が胸に斧を喰らって、凄まじい勢いで背後に倒れ込んだ。

 鎧が刃を喰いとめたことで両断こそ免れたものの、ダメージは深刻だ。その上、体に突き刺さった斧によって地面に縫いとめられるかたちになっては動けない。


 残り四体のグールは仲間がやられたことにも構わず突進してくる。そもそも彼らに仲間意識などないのだ。


 距離が詰まる。

 だが、ローズとほぼ同時に動き出した者はもう一体いた。


「死者にあまり近づかれたくはないの。主殿が病気でももらってはかなわん」


 そう言ってガーベラが、その場で蜘蛛の糸を射出した。

 広い範囲をカバーするように糸が撒き散らかされ、兵士の体とその周囲の諸々の物体にまとわりつく。

 べたべたと粘着性の高い蜘蛛の糸は、力の強いグールの動きを完全に阻むことは出来なかったものの、時間稼ぎにはこれで十分だった。


「切り裂け!」


 仲間たちが作った数秒の時間を魔力を集中させるのに費やして、リリィが青色の魔法陣を構築する。


 ――第二階梯の水魔法。性質は三本の剣。


 透明な水の剣が宙を滑るように飛び出し、狙い違わず兵士の兜に突き刺さった。

 完膚なきまでに脳髄を破壊されたグールが地面に突っ伏し倒れる。彼らのアンデッド・モンスターとしての中枢が人間であった頃と同じく脳味噌に宿っていることは、コロニーでも既に確認されていたことだった。


 これで残りは一体――


「ア、ァ、アァああッ!」


 ――その残り一体のグールが、蜘蛛の糸を引き千切って前進する。


「ぎゃお!」


 そこに、あやめの吐き出した火球が激突した。

 攻撃を避けるという発想がないのか、それともカウンター気味だったので対応し切れなかったのか、グールはまともにそれを喰らった。

 小規模な爆発が起こり、グールの足が停まる。


「任せて下さい」


 そこに予備の斧を手にしたローズが突貫する。


「シィイ――ッ!」


 彼女は大上段に振りかぶった斧を振り下ろし、正面から兵士の頭部を粉砕した。


 おれは引き寄せていた大盾を下ろして、詰めていた息を吐いた。

 此処まで十秒と経っていないだろう。五体のグールは、危うげない戦いを経て殲滅されたのだった。


   ***


 最初にローズの斧で動きをとめていたグールにもトドメを刺してから、おれたちはふた手に分かれることにした。

 襲いかかってきた死体の検分をする一方で、もうひとつのグループには、少し離れたところに改めて野営の準備をしてもらうことにしたのだ。

 死後時間が経って腐った死体は衛生的とは言えない。近づかれる前に仕留めたとはいえ、臓物なり何なりが撒き散らかされたすぐ傍で寝るのは健康上よろしくない。肉体的にも、精神的にもだ。


 死体の検分にはおれとローズとで当たった。

 実際に死体に触れる検分役は、例によってローズが務めている。おれはその作業を見守るかたちだった。野営の設営のための人手は足りているし、それなら実際に死体を検分する人間が多い方がいいだろうという判断だった。

 加藤さんも同じ立場だが、女性である彼女に死体を観察してもらうのもどうかと思い、この場からは外させてもらった。今頃は向こうであやめの相手でもしてくれていることだろう。


「ご主人様の見る限り、彼らはご主人様と同じ転移者ではなく、この世界の住人だということでよろしかったでしょうか」


 桶に準備した水で遺留品を洗っては地面に並べていくローズが、背後に立つおれに尋ねてきた。

 おれは頷いて、地面に並べられた遺体へと目をやった。


「ああ。おれや加藤さんとは顔立ちからして違うだろ」


 裸に剥かれた死体は全て成人男性のものだ。グールとなった者への対処の都合上、どれも顔面を大きく損傷しているものの、彼らがおれたちの世界でいうところの白人系の顔立ちをしていることは辛うじて判別出来た。


「それは勿論、おれたちと同じく、この世界に迷い込んだ西欧人なんて可能性もないではないけどな」


 考え始めれば、どんな可能性だって否定は出来ない。ある程度のところで見切りをつける必要があった。


「少なくとも、おれはこんな言語は見たことがない」


 彼らのうちの一人が懐に携えていた書簡に、おれは目を落とした。

 黒く変色した血で紙面のほとんどが潰れてしまっていたが、一部残っている箇所を見る限り、アルファベットやその近縁の言語ではないことだけは確かだった。

 恐らくは異世界の言語なのだろう。

 どちらかといえば、文字のかたちは漢字の草書に似ている。残念ながら、本当に草書だったところで、知識のないおれではそうだと判別を付けることは出来ないが。


「とはいえ、おれも元いた世界の文字なんてほとんど知らないからな。はっきりとしたことは言えないが」


 これがおれの知らない、おれたちの世界の言語だという可能性は否定出来ない。

 死体は何も語らない。情報を得るにしても限度があった。


 思わず、溜め息が出た。

 ようやくこの異世界で人に会えたと思ったのにこれだ。この世界でのおれは、つくづく人間というものに縁がないらしい。


「ローズは何か気付いたことはあるか」

「そうですね」


 一通り遺留品を洗い終えたローズは、いままでに洗い終えたものの中から掌に掴みとれるサイズのものを幾つか選びとっておれに手渡した。


「指輪か」

「はい。全員が似たものを着用しておりました」


 鎧の下に付けていたらしい。手を握る時の邪魔にならないような、細い金属環の指輪だった。

 飾りに小さな黄色い石が嵌っており、そこにそれぞれ指輪ごとに違う白文字が描かれていた。ひょっとすると、これはこの部隊の証明のようなものなのかもしれない。


「もうひとつ気付いたことがあります」


 横たえられた男たちの遺体をローズは手で示した。


「彼らの死体はあまり腐敗が進んでいませんでした。せいぜい死後数日以内といったところでしょう」


 それがどうしたのかと尋ねかけて、おれはふと気付いた。


「成る程な。ローズが言いたいのは『此処から歩いて数日以内の距離でこいつらが殺されたんじゃないか』ってことだな?」

「はい」


 ふつうの人間とは違って、アンデッド・モンスターとなった彼らには休憩が必要ないことを考慮しても……せいぜい人の足で十日以内の距離ではないだろうか。

 おれたちでも十分に足を伸ばせる距離といえる。


「あるいは、その近くに彼らの拠点があるのかもしれません」

「なかったとしても、其処に人がいたことは確かなんだ。何らかの手掛かりが得られる可能性はあるな。あとは、どうやって其処まで辿り着くかだが……」

「リリィ姉様なら、ファイア・ファングの嗅覚を駆使することで、彼らの足取りを逆に辿ることも可能かもしれません。それに、彼らは『北西』の方角からやってきましたから、元々の進路をそれほど逸れるわけでもありません」

「進路はそう変わらないんだから、失敗したら失敗したで、元の通りに『北』へと向かえばそれで構わないと」


 どうせ曖昧な方角しか指針のない旅なのだ。

 試すだけの価値はあった。


「リリィに話をしてみよう。よく気付いてくれたな、ローズ」

「いえ。たいしたことではありません」

「謙遜することはない。他に何か気付いたことはないか」

「いえ。他には特にありません」

「そうか。……そういえば、こうして彼らの遺留品が手に入ったわけだが、何か有用そうなものはなかったのか」

「携帯食がありましたが、痛んでいましたので手は出さない方がよろしいかと」

「武器はどうだ? 鎧はどれも壊れてしまって使えそうにないが、腰に剣をさげていた奴がいただろう」

「検分いたしましたが、あえてお使いになるほどの品ではないと思います」

「そうか。だったら処分して……いや」


 言いかけたおれは、その途中で考え直した。


「この指輪だけは持って行くことにしよう」

「指輪、ですか?」

「ああ。こいつらを知っている奴にもしも会うことがあれば、渡してやるのもいいだろうと思ってな」


 それで相手の出方が好意的になってくれれば恩の字というものだ。

 おれは手にしていた指輪だけ、まとめてズボンのポケットに突っ込んだ。


「それじゃあ、さっさと墓を掘って埋めてやろう。流石に死体が転がっている近くで眠るというのも落ちつかないからな」

「はい」

「剣や鎧も処分するとしたら、それなりの深さの穴を掘る必要があるか。……人手を増やした方が良さそうだな。そろそろ向こうの準備も終わっただろうし、ちょっと行って呼んでこよう」


 おれはリリィたちのところへ向かおうと歩き出した。

 この森の中で互いにあまり離れてしまうのも危険なので、彼女たちは大声を出せば聞こえるくらいの近場で今日の寝床を用意してくれている。

 とはいえ、万が一のことを考えれば、たとえ短い距離であろうとおれが一人になるのは得策ではない。当然、護衛であるローズはおれの後ろをついてくる――はずだった。


「うん?」


 なのに、足音が聞こえない。

 おれは足をとめて振り返った。


「どうした、ローズ?」

「ご主人様……」


 そこには、立ち上がりこそしていたものの、もといた場所を動かずにいるローズの姿があった。


「その、申し上げたいことがあるのですが、よろしいでしょうか」

「……? それは勿論、構わないが」


 彼女の物腰に迷うような空気を感じて、おれは怪訝に眉をひそめた。

 そもそも、おれが求めたわけでもないのに、ローズが自分から意見を言おうとすること自体が珍しい。

 というか、これが初めてではないだろうか。

 その上、このような態度を取られてしまえば、不審も抱こうというものだった。


 ともあれ、まずは話を聞かなければどうしようもない。


「なんだ、話をしたいことっていうのは」


 おれが促すと、躊躇いがちながらもローズは言った。


「ひとつ提案をさせていただきたいのです」


 提案? と、おれは内心首を傾げた。

 ……いま調べていた兵士たちについてのことだろうか?

 しかし、もしもそうならさっき言えばいいことだ。

 それに、それが話題ならローズが言い淀む理由がなかった。


 けれど、だったら何を……?


 考えながらおれが見詰める先で、ローズは躊躇うようにやや顔を俯きがちにちした。


 だが、それもほんの数秒のことだった。

 ローズは軽く拳を握って顔を持ちあげた。その仕草には、決然としたものが宿っていた。


「提案というのは他でもありません。加藤さんの先程の『お願い』のことです」

「……なに?」

「彼女に魔力の扱いについて教える役目を、わたしに務めさせていただけないでしょうか」


 白いアラクネとの戦いでの破損によって作り直した、マネキンじみて白みがかった質感の胸部パーツへと、ローズは指先を揃えた手を当てた。


「あくまでも魔力の感覚を掴むための訓練だけなら、わたし程度でも相手を務めることは可能なのではないでしょうか」


 ……そういえば、リリィは加藤さんがまず行うべきステップとして『魔力を扱っている誰かに接触して、魔力の流れを掴む』ことを挙げていた。

 このステップだけなら、確かに教師役が魔法を使える必要はない。

 ローズでも十分に先生役を務めることは可能だろう。彼女の提案は的を外したものではなかった。


「わたしが魔法道具を造る際には、当然魔力を扱っています。そうした作業の最中に、加藤さんには魔力を感じ取る訓練をしていただけばいいのではないでしょうか」

「お前の作業に支障はないんだな?」

「それは勿論です」


 このあたりはあくまで確認だった。

 ローズが自分の仕事を放り出すとは、まさかおれだって考えていない。

 彼女は自分に与えられた仕事に忠実すぎるくらいに忠実だ。それだけに、加藤さんのためにあえておれに意見を申し立てるという彼女の行動に、おれは驚きもしたわけなのだが。


「最初はわたしについていてもらい、然るべきのちにリリィ姉様に頼むかたちを考えております。その頃にはご主人様の訓練も進んでおり、リリィ姉様の手もあいているのではないでしょうか」


 ……悪くない。

 それが、ローズの提案に対する、おれの正直な感想だった。


 彼女の提案は加藤さんの件について生じていたデメリットを綺麗に打ち消していた。

 おれとしても恩人である加藤さんの小さな要求を叶えてやりたい気持ちはあった。それは彼女に対する疑いとはまた別のところに息づいている、おれの中の正直な気持ちだった。


「……」


 しかし、おれはそこまで考えていながら、許諾の台詞を舌に乗せることを躊躇ってしまっていた。


 ――本当に大丈夫なのだろうか?


 そんな思いが湧きあがってきて、おれに決断を躊躇わせていたのだ。


 理屈で言えば、大丈夫のはずだった。

 加藤さんが習得するのは回復魔法だけだ。回復魔法では何者も傷つけられない。武器を与えたことにはならないし、よっておれが反対する理由もない。

 そうなったのは、加藤さん本人があくまで習得する対象を回復魔法だけに限定したからだ。


 まるでおれの心を読んだかのように……だ。


 実際のところ、加藤さんの性格を考慮すれば、彼女は事前にきちんとおれの反応を予想した上で『お願い』を口にしたに違いなかった。

 おれが疑うことがわかっていたからこそ、彼女は魔法の種類を回復魔法に限定したのだ。それはつまり、おれの中にある彼女に対する疑いをきちんと把握しているということに他ならない。


 恩知らずな態度をその本人に知られてしまっていることに羞恥を覚えると同時に……おれの中でひとつの疑問が芽を出していた。


 おれはどうしても人間である加藤さんのことを、根本的なところで信じることが出来ない。それはとても不実なことで、彼女本人にとっては不愉快なことのはずだった。

 なのに彼女は一度は命を賭けておれのことを助けてくれた。いまはおれたちの助けになるために、回復魔法を覚えたいとまで言い出してくれている。


 ……どうして?

 何故、彼女はそうまでしてくれるのだろうか。

 おれには加藤さんが何を考えているのか、まったくわからなかった。


 ――この異世界で孤独だから?

 ――他に頼れる相手がいないから?


 以前におれは、彼女の内面をそう推測したことがあった。実際、そうした一面がないわけでもないのだろう。

 けれど、それだけでは彼女の態度は説明できないように思うのだ。


 たとえばリリィはおれに『力足らずでもいいんだよ』と言ってくれた。

 おれだって彼女たち眷属に対して、『たとえ役立たずであろうと見捨てたりはしない』と言い切れる。

 おれたちにとって互いの存在は特別で、掛け替えのない大切なものだ。だから迷惑を掛けられることを苦痛になんて思わないし、苦しい時に頼りにしてくれなければ、むしろそれを悲しく思いさえする。


 だが、加藤さんはリリィたちとは違う。

 彼女はおれの眷族ではないし、おれもまた彼女の主人ではない。

 それはつまり、おれは彼女にとって特別な存在では有り得ないということだ。

 彼女にとってのおれは、ただ偶然、あの山小屋で出会っただけの行きずりの保護者に過ぎない。

 そのはずなのだ。


 だとしたら、加藤さんは見返りを求めないまま、ただの他人でしかないおれのために命を張ってくれたとでもいうのだろうか。

 ……そんなはずがない。もしもそうなのだとしたら、彼女はモンスターであるリリィたち以上に、人間らしさというものに欠けている。


 此処までおれの考えていることが正しいのなら、必ず見返りはあるはずなのだ。

 彼女の考えていることがわからないおれには、それが目に見えないというだけのことで。


 そう。彼女が何を企んでいたとしても、おれにはそれが見抜けない……


 ……ああ。くそ。

 だから、これがいけないというのに。


 おれのなかの加藤さんに対する『何を考えているのか』という疑問は、何時の間にか『何か企んでいるのではないか』という疑念にすり替わってしまっていた。

 おれのこれはもう病気のようなものだ。

 というよりも、心の病気そのものだった。


 自分が疑心暗鬼に陥っているだけなのだと、いまのおれは自覚している。

 自分の中の病的な部分については、ガーベラのお陰で把握が出来ている。

 こんなの考え過ぎだとは思うし、これが酷い考え方だと認識もしている。


 しかし、たとえそうだとわかっていても、おれにはこれをどうしようもなかった。

 だからこそ、これは病気と呼ばれるのだ……



「ご主人様」



 その時だった。

 完全に固まってしまっていたおれのことを、女性のものにしてはやや低めの声が呼んだ。

 聞き慣れたローズの声だ。

 そうとわかった途端、おれの意識は思考の淵から引き上げられた。

 おれは何時の間にか地面に落ちてしまっていた視線をのろのろとあげた。

 そうして思わず、目を見開いた。

 頭を深々と下げたローズの姿が目に入ったからだ。


「お願いします、ご主人様」


 頭を下げたローズが言った。


「どうかお願いします。わたしは彼女の願いを叶えてやりたいのです」

「……」


 おれはただ呆然としていた。

 まさかローズがこんなことを言うなんて、思ってもみなかったからだ。

 どう反応すればいいのか咄嗟には判断がつかない。


「……」


 結果として、おれは沈黙を返すことになった。

 それをどう勘違いしたものか、ローズはますます深く頭を垂れた。


「出過ぎた真似をしていることは理解しております。お怒りになるのは、ごもっともです。お叱りは謹んでお受けいたします。しかし、しかし、どうか……」

「ちょ、ちょっと待て。おれは別に怒ってなんてない!」


 おれは慌てて、ローズの早とちりを否定した。

 怒るなんてとんでもない。

 こんなことでおれが、彼女に怒りを覚えるわけがなかった。


 ……そう。そんなはずないのだ。

 だってこれは、以前におれが願ったことだ。

 まだ話をすることも出来なかった頃のローズにおれは『彼女がおれに何をしてほしいのか、何をおれに望むのか、その口から聞きたい』と願った。


 まさかそれが『加藤さんの『お願い』を叶えてやりたい』なんてことだとは思ってもみなかったが……だからといって、それが喜ぶべきことだという事実に変わりはなかった。


「ローズが自分の意見を持つどころか、願望を口にするようになったんだ。それがどんなことであろうと、おれにとっては嬉しいことだ」


 それはおれの本音だった。

 ただ、その一方で疑問にも思った。


「差し支えなければ聞かせてもらえないか」


 おれは尋ねた。


「どうして加藤さんのために、お前は頭を下げようと思った? 何がお前にそうさせるんだ?」


 おれの知らない何かが、ローズを変えたのだ。

 それが何なのか知りたいと思うのは、おれにとって極々自然な衝動だった。


「それは……」


 何処となく恥ずかしげに、ローズは言い淀んだ。

 そんな彼女の心が無機質な人形のものだとは、たとえ此処にいるのがおれ以外の誰であっても、思わなかったに違いない。


 恥じらう彼女の態度は、何処か年頃の少女めいてさえ見えたのだ。

 だが、それも道理だったかもしれない。


「それは彼女が、わたしの友人だからです、ご主人様」


 胸の前で拳を握りしめたローズは、おれの問い掛けにそんな答えを返したのだ。

 そして、彼女が返したその答えは、不思議なくらいすとんとおれの胸のなかにおさまったのだった。


「友達か」


 最近よく話をしていたローズと加藤さんの二人の姿を、おれは思い出していた。


 あれは仲の良い友達同士の会話だったのだと、今更に気付いた。

 そうすることで、ローズの変化についても納得がいった。

 良くも悪くも人は人によって変わる。

 それはきっと、一方が意思を持って動き回る人形であっても変わらない。

 こうして意見や願望を表明するようになったことなんて、ローズの身に起こっている変化の、ほんの氷山の一角に過ぎないのだろう。


 ローズの姿を見る限り、加藤さんの存在は彼女にとっていい方向に働いているように思える。

 それはつまり、少なくともローズにとって、加藤さんは良い友達だということで――


「わかった」


 ――そんなことを思った瞬間、これまでのことが嘘みたいに、おれはあっさりと口をひらくことが出来ていた。


「ローズが加藤さんに魔力を操る手ほどきをしてやってくれ」

「よろしいのですか?」

「ああ」


 驚きを隠せない様子でローズが尋ねてくるのに、おれは頷きを返した。

 そうしながら、汗ばんだ掌をぎゅっと握りしめていた。


 ……おれの脳裏には、崩壊するコロニーで目の当たりにした、クラスメイトの引き攣って歪んだ醜い笑みが映し出されていたのだ。


 やはりいまのおれには、過去の亡霊たちの悪意を乗り越えることは出来そうにない。

 情けないことではあるが、わかっていたことでもあった。

 おれという人間はそこまで強く在ることは出来ない。

 だからおれが人間である加藤さんのことを信じられないのは、いまでも変わらずそのままだ。

 けれど……


「ローズのことなら信じられる。きっと、悪いようにはならないだろう」


 多分、それはローズには別の意味に聞こえたはずだった。

 ローズならきちんと加藤さんを教え導くことが出来るだろうと、そんな風に解釈されたはずだった。

 だが、それならそれで構わなかった。

 それは彼女へと伝えることが目的の台詞ではなかったからだ。


 それはおれ自身の中にある、おれだけではどうしようもないものを屈服させるための言葉だった。


 おれはローズのことなら信じられる。そのローズが、加藤さんは友達なのだという。初めて出来た友人の為に、してやりたいことがあるのだという。

 だったら、ローズの主としておれがそれを応援してやることの、何処に躊躇うことがあるだろうか?


 それだけではない。

 おれにとっても加藤さんは、大事なローズの友人だ。

 そんな彼女に便宜を図ることは極々当然のことじゃないか?


「加藤さんのことはローズに任せる。それでいいな?」


 これがいまのおれが加藤さんに報いるためにしてやれる、精一杯の理論武装だった。


「……」


 気付けば、脳裏の亡霊たちの姿は見えなくなっていた。

 おれはゆるゆると息をついた。

 そんなおれに、ローズは再び頭を下げた。


「ありがとうございます、ご主人様」

「気にするな。礼を言うのはこちらの方なんだから」


 おれが告げた言葉の意味がわからなかったらしく、顔を上げたローズは不思議そうにしていた。


「……? 申し訳ありません、ご主人様。それは一体、どういうことでしょうか」

「わからないのならそれでいい」


 ほんの少しだけ笑って、おれは踵を返した。墓穴を掘るための人手を確保するために、リリィたちを呼んでこなければいけない。

 今度こそ、うしろからローズも付いてきた。


「……そうだ」


 数歩進んだところで、おれはふと思い立って足をとめた。体半分だけ振り返る。


「加藤さんのことはこれでいいとして、ローズ自身には何か望みはないか?」


 ローズがわかっていない以上、今回の一件で彼女に礼を言っても仕方がない。

 だったらせめて行動で、彼女の無自覚な働きに応えよう。おれはそんな風に考えたのだった。


「これまでお前は、本当によくやってくれている。求めるものがあるのなら、おれはそれに応えたい」

「わたしは別に……」

「言っておくが、遠慮する必要はないからな。おれのためだと思って、我が侭を言ってくれ。何かないか?」


 遠慮されるところまでは想定内だ。おれは重ねて尋ねた。

 ローズはそれでも遠慮していたが、おれがひくつもりがないことに気付いたのだろう、数秒考え込んでから答えた。


「……それでは、ひとつだけ」


 自分のこととなると勝手が違うらしい。先程までとは打って変わったおずおずとした様子だった。


「一日にほんのわずかでも構いませんから、武具以外のものを作成するための時間を下さいませんか」

「自由時間をくれ、ということか?」


 ……考えてもみれば、出会ってからこの方、昼夜を問わずローズにはずっと働いてもらっていた。

 他の眷族だと、リリィにはわずかとはいえおれと親密さを確かめ合うための時間があるし、ガーベラはあやめの相手をしている時間を楽しんでいる。

 なのにローズだけが、そうした息抜きをしていない。これはおれが迂闊だった。


 ローズにも自由な時間は必要だろう。幸い、いまは最初期の切迫した状況ではない。加えて言うなら、移動のことを考えるといまはあまり武具を量産してもかさばるばかりで意味がなく、時間には余裕があった。


 その自由時間にさえ何かを作ろうとしているあたりが、何ともローズらしい話だが。


「構わない。好きにするがいい」

「あ、ありがとうございます」


 おれが許可を与えると、人形の彼女に表情はないながらも、声色から嬉しそうな気配が伝わってくる。


 彼女の反応を嬉しく思いつつ、おれは世間話のつもりで何気なくローズに話を振った。


「ところで、何を作るかは決めているのか」

「そ、それは……」

「うん?」


 おれは不思議に思った。

 おれの問い掛けに、ローズがぎくりと身を強張らせた気がしたのだ。しかし、いまの問いに彼女が動揺する理由がわからない。


「それは、その……可愛らしいものを?」

「なんだ、それは」


 続く説明も、ローズにしては要領を得ないものだった。

 ひょっとするとこれは……恥ずかしがっているのだろうか。

 だとしたら、おれに知られたら恥ずかしいようなものを、ローズは作ろうとしているということになる。ヒントは『可愛らしいもの』だ。


「可愛いお人形さんでも作ろうっていうのか?」

「え、ええ。その通りです」


 おれは冗談のつもりで言ったのだが、返ってきたのは肯定の返事だった。

 これには驚いた。

 今夜のローズには驚かされっぱなしだ。

 とはいえ、どれも嬉しい驚きなので悪い気はしない。


 いまだっておれは、ローズの新しい一面を知れたようで何だか嬉しかった。


「ローズも女の子だってことか」

「は、はい。その、だいたい合っております……」


 珍しくローズは挙動不審だ。

 それほど恥ずかしがるようなことではないと思うのだが。

 確かに謹厳実直なローズのイメージではないかもしれないが、そんな彼女もおれは決して悪くないと思う。


 とはいえ、本人が恥ずかしがっているのなら、あまりこの話題を引っ張るのも可哀そうだ。

 そう考えて、おれはそこで会話を切り上げることにした。


 ただ、最後にひとつだけ付け加えた。


「出来あがったらおれにも見せてくれ」


 ローズが作りたいというものに、おれは興味があったのだ。


「は、はい。わかりました。必ずやご覧にいれます」

「楽しみだな」


 ローズの返答におれは笑みを返して、とめていた足を再び進め始めた。



 ――この時のやりとりをおれが思い出すのは、もう少し経ったあとのことになる。

◆迫りくる人影らしきもの……!

だが、人間だとは言っていない!


◆もう少し先まで書くつもりでしたが、見直しの時間切れです……

まあ、一万字くらいなので長さ的には丁度いいんですけど。


◆次回更新は4/4(金曜日)を予定しています。

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