異世界へ
タイトルセンスがない・・・絶望した!
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その日、その時、その場所。
事故。奇跡。災害。偶然。様々あるが、めったに出合うことがないものに出合ってしまう。中にはひと目惚れなんて幸運な人もいるだろう。
しかし、今日、この瞬間。この場所に居合わせた彼にとって、それは幸運との出会いであったのか、不幸の始まりだったのか…。判断は彼に委ねられることになる。
日比野 直時。三二歳。
身体的特徴。平均的日本人男性としては少し小さい(165センチメートル)。痩せ型。顔、並。悪くもないが秀でた点もない。普段から特に運動するでもなく、お酒を飲みながらネットや漫画やアニメをだらだらと楽しむのがなによりの幸せという、世間一般的には無害だが残念な印象の男性である。
直時は上機嫌で愛車である3980円の折りたたみ自転車を駆っていた。何しろ久し振りの休みである。実家が自営業とはいっても内実は家内制。家族なぞ賃金のいらない労働力と捉えている両親のもと、ひと月に一日あるかないかという休日である。彼はこのささやかな一日を、慎ましい買い物という散財で得た戦利品で、まったりと過ごす贅沢を満喫しようと家路へと急いでいた。
今、彼のショルダーバッグには、本屋で立ち読みの末購入した文庫本五冊新書三冊と、古本屋でまとめ買いしたシリーズもの漫画二一冊と文庫本十二冊。煙草屋のばぁちゃんに頼んでおいた、キセル用刻み煙草と、新品のキセル(煙草の増税を契機に試したらハマってしまった)、今夜飲む予定の安いテーブルワイン(赤)一本が入っている。
肩に掛かる重さはかなりのものだが、彼はその重さも幸せの重さであると、上機嫌でペダルを漕いでいた。合計金額を考えると何とも安い幸せである。
書店で斜め読みした文庫本の粗筋に、早く本編が読みたいなと心弾ませながら、家への最後の曲がり角でハンドルを切った。その先にあったのは『白色の靄』だった。
「誰か変なもの燃やしたんだろか? まあいいや。突っ切るべし!」
危険な刺激臭も無く、休日と買い物でテンションが上がっていた彼は実に良い笑顔のまま『靄』に愛車を突っ込ませた。
その途端、『靄』は渦を巻き、周囲を暴風が吹き荒れる。いや、大気ごと前方へと途轍もない勢いで吸い込まれているのだ。
「うぁい!」
奇声を上げてブレーキを掛けるが、凄まじい風には逆らえず直進すると…。
彼の予想通りすぐに抜けられた『靄』の先には、予想通りのいつも通りの町並みはなかった。
「樹ぃ?」
彼の眼前に突然現れた森の一角。そのまま直進すればひときわ大きな樹に直撃する。ハンドル操作も間に合わないと判断した直時は、見かけに似合わない反射神経を見せた。倒れない程度にハンドルを左に切りながら、右足で思いきり地面を蹴った。
前輪に衝撃。大木の幹に直撃こそしなかったものの、地上に張りだした大樹の根っこに車輪を捕られる。前方に大きく投げだされた。自転車からも放り出された彼は、咄嗟に鞄を抱え込み背中を丸めて宙を飛ぶ。
「ごふっ」
背中から落ちた衝撃と痛みに耐えて地面を転がった。
「痛っつーっ。あああ! 本! ワイン! 煙草!」
痛みに顔を顰めているが、それでも慌てて戦利品の無事を確認する。安堵の溜息をついている様子を見るに、荷は無事だったようだ。
しかし、彼は直ぐに混乱する。それはいきなり変化した周囲の光景のためではなく、眼前に顕われた存在が原因だった。
自分が突っ込んだものとはまた違う、突如現れた眼に見えるほどの空気の渦。あまりの回転の速さに雲さえ引いている高さ五メートル幅二メートルほどの紡錘形の竜巻。
(あんな竜巻にちょこっとでも触ったら錐揉みしながら弾き飛ばされそうだなぁ)
などと直時が暢気に眺めていると、その竜巻から『緑色』の光が溢れ出した。
「プラズマ? プラズマか!」
突然の現象に混乱し見当違いな事を叫ぶ。彼の前に、緑光が弱くなるにつれ竜巻は激しさを減じた。光が完全に消え、顕われたのはこの世の者とは思えない美しい女性だった。緩やかに周囲を風が舞っている。
腰の下まであるオリーブ色の髪を風に漂わせ、魂を吸い込まれるような翠瞳。神々しい美しさ…。純白の薄衣を纏った姿に呆けていた彼は、陽に透けて視える肢体に気付いた。赤面しながら慌てて視線を逸らす。
《戻りなさい! 急いで!》
「え?」
直時の耳からは理解不能な言語が、そして明瞭な意味が頭に響く。
《時間が無いのです! 早くしなさい!》
彼女は切羽詰まった様子で彼の背後を指さす。
細い指先が示す先を見た直時が思わず目を見張る。
『穴』が開いていた。それも空中に! そこから猛烈な勢いで風が吹き込み、彼が自転車で突っ込んだ『白色の靄』が噴き出している。
「なんじゃこりゃあ!」
眼を白黒させる直時へ『声』は続ける。
《疑問も混乱も今は置いておきなさい! 帰れなくなります!》
有無を言わせぬ調子に焦燥と若干の怒りが感じられる。直時には何が何やら判断がつかないが、このままでは不味い状況に陥りそうだと直感した。
「了解しました!」
鞄を左手で抱えたまま、直立、敬礼してしまった。地元消防団での癖で、威厳のある声に反射的に反応したようだ。命ぜられるまま『穴』へと走る。しかし、逆風が激しく思うように前に進めない。
《あと少しだけ維持します! 頑張って!》
後ろからの『声』に押されるように、吹き飛ばされないようにと、腰を低くし一歩ずつ進む。向かい風はもはや呼吸するのも難し程で、とても走れそうにない。
でも、あと一息。
《少しでも亀裂の向こうへ身体を入れることが出来れば帰ることが出来ます。さようなら、一瞬の客人さん》
直時は、優しそうな『声』に多少の後ろ髪を惹かれつつも『穴』へと手を伸ばし…。
「あっ!自転車っ!」
振り返り愛車を探した瞬間のことである。暴風は、不用意な姿勢の変化を見逃さず、彼の小柄な体躯を地面から引き剥がした。
「ぶふぅっ!」
吹き飛ばされ転がっていく直時に件の女性が驚きに眼を見開く。
《――っ!》
風が止んだ瞬間、辺り一帯に声にならない怒りとも悲鳴ともつかない罵声が響きわたった。
なかなか進めない・・・