第 1 章 「館」
ファインコルトは、招待客が万が一、庭園の作業小屋を覗いたときにも平然としていられるように、スコップを磨き上げ、肥料袋やロープなどを片付けていた。
何日もかかって園路沿いの枯れ枝を払い、絡まった蔦をあくまで自然風に整えていた。
そして遺跡にさえも足を向けていた。
ファインコルトが遺跡に立ち入ることはめったにない。
ウィルストロング伯爵が使用人や村人が立ち入ることを好まなかったからだし、ファインコルト自身もあえてそこを歩きたいという気がなかったからだ。
しかし今回は違う。
残された建物を覗き、小道では大きな瓦礫を脇にどけ、ぬかるみに砂利を入れ、古い井戸を覗いてみた。
午後にはウィルストロング伯爵とその次女ガリーが遺跡を巡回し、ファインコルトの息子ロンがその供をする予定になっていた。
ガリーが出かけるときには必ずロンが呼ばれる。双子の長女コティと違って、ガリーは小さい頃から草花に興味を持ち、庭師であるファインコルトの話を聞くことが好きな少女だった。
身分は違うが、ガリーとロンはいわば幼馴染である。
ロンがウィルストロング伯爵の供をして遺跡に入るのは初めてのことだ。
ガリーが一緒とはいえ、ファインコルトは不安を感じていた。息子の手に負えないことを言いつけられるのではないか。あるいは村の者として許されないことをさせられるのではないか。
ファインコルトは念のために、午前中に自分もひと回りしておこうと思ったのだった。
ファインコルトは館への帰りを急いだ。
腰につけた鎌や鋏がぶつかり合って派手な音をたてる。たくましい腕から汗が噴き出している。
ハッとして立ち止まった。
見ると、少女。
潅木の茂みの中から顔を出し、ファインコルトを見上げていた。
「やあ、マリー」
ファインコルトは口ひげの中でフウッと小さく息を漏らした。村のよろず屋の娘だ。
「おじさん、こんにちは!」
「珍しいね、こんなところで会うなんて。家族はみんな、お屋敷でお手伝いかい?」
「うん。私もさっきまでお屋敷にいたの。ねえ、これ、採っても叱られないでしょ?」
「もちろんだよ。お母さんがおいしいジャムを作ってくれるよ」
少女はキイチゴでいっぱいになった籠を掲げてみせた。
「ハハ、がんばったね。気をつけて帰るんだよ」
「ありがとう。でも、もう怖い目にはあったわ」
ファインコルトは歩きかけた足を止めた。
「さっき、大けがをするところだったの。暴れ馬よ」
「暴れ馬?」
「パープルサンダよ。いい気なものね。みんなが忙しく働いているというのに」
マリーは頬を膨らませて、大人びたことをいった。
「そうか……。けがはないかい?」
「平気。ちょっと転んだだけ」
「見せてごらん」
マリーは右足を投げ出した。膝にまだ乾ききっていない血の跡がある。
「たいしたことはない。大丈夫だよ」
ファインコルトの太い指が、腰につけた皮袋から小さな木箱を取り出し、ぎっしり詰められた葉の中から一枚抜き取った。
「あっ。ホブリイの葉ね。これ、しみるんだなあ」
「そうだよ。よく知っているね」
ファインコルトは葉を少し揉んで、マリーの膝に押しつけた。
「ありがとう。ファインコルトおじさん」
「それで、お嬢様は?」
「そのまま行ってしまわれたわ」
「ふーん、お供は誰も?」
「うん」
「でも、これくらいのけがですんでよかったね。さ、そろそろ村にお帰り。また暴れ馬に会わないうちにね」
ファインコルトはニコリとする。マリーも笑った。
太陽は天空に登りつめていたが、汗は引いていた。
「今度また、お屋敷に遊びにおいで。果樹園を見せてあげよう」
少女と別れ、ファインコルトは歩き始める。
先ほどまでとは違い、ゆっくりとした足取りだ。
やがて小道は広い道に合流する。数キロ離れた主街道から館へと向かう道だ。
周囲には耕作地や牧草地が広がり、スズカケの並木が続く。二つほど緩やかな丘を越えるほかは、ほぼ平坦な道である。
ファインコルトは道から外れて、小川に降りて行き、念入りに顔や腕の汚れを洗い流した。
館は近い。まもなく並木は途切れ、緩やかに弧を描くサンザシの緑廊が館の北へ大きく迂回して、メインエントランスに導く。
ファインコルトは腰から鋏をはずし、目についた枯れ枝を切って背中の籠に入れ始める。
籠がいっぱいになると、道から外れた林の中に、中身をまき散らして捨てた。
緑廊を抜けると、眼前に館が全容を見せた。
象徴的な整形庭園の名残を留めるフラットな円形の芝庭。その中央を、直線的なアプローチが貴族のカンツリーハウスに向かって伸びている。
建物は東西約百メートルの規模を持つ石積み造。
屋根に立ち並ぶ尖塔や飾り煙突が荘厳なリズムを刻み、バロック建築の初期の様式を表現している。
エントランスには幅の広い十数段の石段。
基壇には大庇を支える太く飾り気のない列柱。
多くの金属装飾が埋め込まれた巨大な木製の扉。
明後日、数年ぶりにこの扉が開け放たれるとき、高い吹き抜けのあるエントランスホールとレセプションホール、すなわち数百人の老若男女がいっせいに踊れるほどの広さを持ち、贅を尽くして飾り立てられた空間が、ウィルストロングの客達があげる哄笑で満ち溢れることになる。
アルツミラー伯爵家。
西部湖水地方の旧家。
ロイ・ウィルストロング・アルツミラー伯爵は、十二年前にこの地を相続し、ロンドンから移り住んでいた。
一七五三年春、館では盛大な祝賀会が催されることになっていた。
ウィルストロングのグレイトチェル財団常任理事就任が認証されたことを祝って、ウィルストロング自身が開催するものである。また昨秋に概成となった大庭園の披露を兼ねるものでもあった。
館の外壁改修や汚れ落しといった大規模工事から、床タイルの欠けや目地の補修、日焼けたカーテンの掛け替え、カーペットのほつれ直し、傷んだ扉や腰壁の補修、シャンデリアの架け替えなどの小工事に至るまで、祝賀会の準備はここ数ヶ月の間、休むことなく続けられてきた。
今日、祝賀会の前々日ともなると、どこもかしこも慌ただしく人々が行き交い、熱気が立ち昇るかのような緊迫感に溢れていた。
使用人達や臨時に雇われた村人達の手によって、手すりやドアハンドル、窓枠や洗面ボウルなどが磨き上げられ、すべての寝室のベッドカバーがぴんと張られ、家具調度品が置き直されつつあった。
そしてさまざまな食材やスコッチやワイン、果物や珍しい氷菓子、花や贈り物など様々な品物が次々と運び込まれていた。
数十人の貴族や百人を超える各界の名士、そして彼らの従者らを迎える準備が大詰めを迎えていたのだ。
ウィルストロング自身も、ぬかりなくホストを勤めるために、館内はもちろんのこと、広大な庭園をくまなく廻り、すでに練りに練ったアトラクションプログラムを修正しては、使用人たちに自ら指示を出していた。