第 9 章 「小屋」
翌朝、コティの捜索に狩り出された直後にもかかわらず、数十人もの村人が広場に集まってきた。
グラスネイクは気を良くし、てきぱきと指示を出す。グラスネイク、ファインコルトとロン、スチム、オルカバの四人は主管部隊としてイレーヌの家を本部とし、かつ周辺の捜索にあたることになった。
コトンフィールドが話していたとおり、イレーヌの家の家具調度品や日用品類はきちんと整頓されていた。
主室の中央には古ぼけた椅子とテーブルが置かれてある。ベッドには皺のないシーツ。かまどには燃えさしの薪。棚には整然と並べられたわずかな調理器具や食器。部屋の隅には麻袋や大小の壷。そして数冊の本と束ねた書類を納めてある小さな書棚や鍵のかかった衣装箱。
それらのものが主の帰りを待っていた。
グラスネイクは垂れ下がった厚いカーテンから顔を突き出し、狭い面談室を覗く。
二メートル四方の窓のない部屋。天井は低い。
漆喰の壁一面に、青い顔料で描き込まれた細かい不思議な模様。四周の壁に取り付けられた棚の上には、桶や木箱やさまざまな金属製品などが並べられてある。
術を頼みに来た客が座るカシの木の椅子と、イレーヌが腰掛けていた柳の枝で編んだ椅子が、昔と変わらず向き合っている。
「あたりを探してくる」
オルカバとスチムが出ていった。
「俺もちょっくら廻ってくるか。ロンは村長のお守りだ」
出て行くファインコルトを見送って、グラスネイクは帽子をテーブルに放り出した。
椅子にゆっくりと腰掛けると、部屋の中を眺めはじめる。グラスネイクは村の移転を決めたことに後悔はない。ウィルストロングの横暴に対して、心に込み上げてくるものがあったとしても、村の今の状況におおむね満足しているのだ。
課題があるとすれば、ウッドスティック村としてのアイデンティティが薄れつつあるという漠然とした不安だけだった。
グラスネイクは村長として計画を練り始めていた。
失われた伝統行事を復活させ、変質した儀式はその意義を改め、これら全てを収める村の物語を組み立て直すという計画だ。
中心となる行事はすでに決めてある。水霊モナエドの加護により、自ら幸福を手に入れるための儀式「タゥザポッ」。
新しい命が誕生したとき、成人したとき、イレーヌが手向ける水霊の水に足を浸けて祝福されるというものだった。婚姻のときには清き水を掛けあい、喜びを分かちあう。
かつては盛んに行われていたこの行事を復活させることによって、ウッドスティック村の住人であることの自覚を、ひいては団結を、なにより互いの愛を再び醸成できる。
そう考え始めていたグラスネイクは、そろそろイレーヌと相談したいと思っていたのだった。
その儀式のために必要なもの。精霊の水差し。
以前、この部屋の天井近くに設えられた棚には、大きな銀の水差しがいつも飾られていた。井戸からその水差しを引き上げるためのロープも。いずれもウッドスティックの村人なら何度も目にし、触れたことのある品物だった。
ロンが窓のカーテンをたくし上げ、退屈そうに外を眺めている。グラスネイクはロンを誘って裏庭に出た。
イレーヌの畑には雑草が生い茂り、畝も崩れようとしていた。人の気配に驚いて、小さな動物が逃げ出した。農具入れの小屋があるが、すでに大方崩れ落ち、中には雑草がなに憚ることなく茂っていた。
ファインコルトが、ひとつの小屋の前で立ち尽くしていた。グラスネイクは足を止め、顔を心もち上げ、息を吸い込む。
懐かしい匂い。バラの香り。
「ウィズパーラ」と名付けられたバラ。パーラ、ファインコルトの妻。
昔、ある農夫が、ひときわ甘く、それでいてさわやかな草いきれの混じったような香りのバラを作り出し、自分の娘にちなんでつけた名前。
やがて村は、このバラの香りに包まれた。まだ幼い伯爵の娘コティが、このバラの匂いには品がないと言い放ったあの日までは……。
そのバラが、誰かが植えたかのように、小屋の残骸の中央に立って、赤い花を咲かせていた。
「もう一本も残っていないと思っていた」
グラスネイクは声を掛けて、振り返ったファインコルトにあいまいな笑顔を見せた。
ファインコルトは、表情を変えずに息子を手招きすると、バラの香りを嗅ぐように促した。
「お母さんのバラだよ」
父の視線を受けて、ぎごちなくバラに顔を近づけるロン。
「おお、この小屋は……」
グラスネイクはつぶやいた。
この小屋は、かつて、祝福を受ける村人がイレーヌにあの芳しい水を振りかけてもらうまで控えている場所だった。