古城の月
―――あの月は父上が亡くなられた時のものだ。
つい先日父の法事が終わったことを、本多上野介正純は池に映し出された月を見ることで思い出した。
さっきまでの彼はそんなことさえも脳裏に浮かばなくなるほど、自分の思索に浸っていたのだった。
水面に映っているのは、見覚えのある下弦の月。
その隣に逆さまになった自分の姿がある。
亡くなった父正信に似て痩せてはいるが、打ち立ての鋼のように引き締まった肉体の持ち主であった。
端整な顔つきに切れ長の目をもち、いかにも頭脳面においては切れ者という印象の通りに、正純自身は根っからの官吏だ。
まともにいくさの場には出たことがない。
そのため、長い放浪暮らしのときに、多くの戦場で生き抜いてきた父に比べれば迫力で劣ることは理解していた。
偉大な先達を持ったことによる重圧を受けて苦しんだこともあったが、齢五十をこえればそれもどうということもなくなっている。
今の彼は父に関することにおいては、すでに虚心坦懐の域に達していた。
その父もすでにいない。
彼の父である本多佐渡守正信の死は病いによるものではあったが、限りなく殉死であると正純は考えている。
主君徳川家康の死は元和二年四月十七日、正信の死は同年六月七日。たった二か月の差で跡を追うように死ぬなど最初から企んでいなければ難しすぎる偶然だからだ。
だから、正信の死についての真相は、証拠こそないが殉死で間違いなかろうと考えていた。
そして、それ以来、父親が主君の後を追って殉死したであろう命日になるたびに、正純は深夜に庭にでるのが常であった。
「……来年になれば七回忌か」
不意に正純はつぶやいた。
尊属の三回忌と七回忌は基本的に盛大に執り行うのが、現在に限らず、当時においても変わらない風習であった。
事実、家康を大権現として日光に祀っている幕府は、来年のこの時期に当代の将軍秀忠の日光参詣を予定している。
その往復の際、今正純が入府している宇都宮城に宿泊するということが決まっているので、彼が元和五年に入封して以来増築工事が続いていた。
最近の幕府の中枢から遠ざけられ気味の彼にとって、この大普請はやや退屈ではあるが大切な仕事となっていた。
ちらりと北側を見る。
彼と家族の住む二の丸の御殿曲輪からは、宇都宮城の本丸の一部が見えた。
精魂込めて建築している天守閣は残念ながら見えない。
予定よりも工事の進捗状況が遅れていた。
去年から続く面倒なもめ事のせいだ。
果たして、あのもめ事をどのように解決すればいいのか、正純のここしばらくの最大の頭痛の種であった。
いつものように、彼のやり方を押し通せばいいとはわかっていた。
だが、そのやり方を貫いてきたせいで、ついに彼は政の中枢である江戸から遠ざけられ、この宇都宮にまで離されてしまっているのだ。
彼が江戸を発つときの、二代将軍のどことなく嬉しそうな顔が忘れられなかった。
ついに目の上のたん瘤を追い出したと快哉を叫ばんばかりの喜びようであった。
(そこまで憎まれていたのか)
正純は思う。
もちろん、彼の側には二代将軍徳川秀忠に対する恨みも憎しみもない。
ただ、幕閣の一員としていつも通りに、父から教わったように政務をこなしてきただけなのに、それが秀忠には気に食わぬらしい。
視線をあげ月を仰ぎ見る。
大御所家康と正信とともに徳川の世の土台作りに励んだ時代が懐かしい。
同時に秀忠の青黒い、なんともいえない翳のある顔が思い浮かぶ。
ふと、埒もないことを考えてしまう。
秀忠などにつかずに、もっと家康の次男秀康を推すべきであったと。
(太閤秀吉に養子に出されて、結城家の養子となった秀康をこそ将軍にするべきであったかもしれん)
長幼の序列を乱すまいという家督相続の原則だけでなく、後継者の資質についてももっと主張すべきであったのだ。
あの頃、すでに秀忠のもつ将軍家にふさわしからぬ人柄はわかっていたというのに。
しかし、家臣としては主君が後継者を決めたのならば従い、人柄はどうあったとしても心底忠義を尽くさなければならない。
そして、大御所様は秀忠を選んだのだ。
正純はそれに従うほかはない。
「是非に及ばずか……」
結果として、本多正純はここにいる。
江戸から数日とはいえ、十五万五千石と引き換えに中央の権力から引き離され、一大名として領地の経営に勤しむだけの人生となりそうであった。
それはそれで良しと思えるのは、一度でも天下を自分の才覚で引き回すことのできた高級役人の誇りであろうか。
ふらふらと二の丸内の庭を歩む。
一人の供も連れていないというのは、この頃の大名にはまだ暗殺の危険があったことを考えると度を越えた大胆さである。
わざわざそんな真似をしでかすのは、幼き頃に三河を出奔した父と諸国を放浪していたときの名残りがあったのであろう。
ある意味では息子である正勝あたりと比べると比較にならない豪胆さを正純は有していた。
だが、その豪胆さが裏目に出る場合もある。
それがこのときであった。
正純は背筋に冷たい氷柱が差し込まれたことに気が付く。
氷柱の名は人の視線という。
誰かが彼を観ているのだ。
そして、彼の一挙一動を窺っている。
(忍びか……?)
正純は即座に相手の正体を見破った。
気配の消し方、視線の強さ、息のひそめ方。
すべて彼がかつて感じたことのあるものだからだ。
(だが、あまり達者ではないな。……大御所様配下の奴輩には到底及ばぬ)
正純が相手の存在を見抜いたのは、彼が並ならぬ忍びの術者と遭遇したことがあるからである。
彼を観察しているものは、本来ならば並の武士ならば気づきもしないであろう。
戦国大名としては破格のうまさで忍びを活用していた大御所家康の側近であった正純ならばこそ、なんとか察することができたという腕前であった。
しかし、問題なのは監視者の目的である。
わざわざ宇都宮くんだりまで飛ばされた正純の様子を窺う必要性はない。
ならば、どうして。
それと、忍びを送り付けた相手の正体。
忍びが依頼主なしで動くことなど、よほどのことがなければありえない。
(わしの命でもとりにきおったか……)
あり得ないことではない。
現在、江戸で彼に代わって幕府の実権を握りつつある土井大炊頭利勝、古老として睨みを利かせる酒井雅楽頭忠世、井上主計頭正就。
この三人のうち、誰の差し金であっても不思議はない。
彼らにとって正純は最大の政敵であり、目の上のたん瘤であるからだ。
そして、最悪の想像をすると、もしかしたら将軍自身からの命令であるかもしれない。
主君に諫言をする家臣は、その主君に憎まれることが往々にしてある。
秀忠ならばとくにありうる。
正純は自分の置かれている立場をわかりきっていたから、殊更に感慨は抱かなかった。
そして、この忍びの目的が彼の暗殺だとすると、いつまでもこんな場所にいるわけにはいかない。
すっと出来うる限り自然に見えるように後ずさってみた。
次の瞬間、正純の身体は隣にある茂みの中から飛び出してきた何者かによって突き飛ばされていた。
同時に、ぷしゅっという気が抜けたような音がする。
「ぬっ!」
正純を突き飛ばしたものがなにやら呻く。
倒れた地面から見上げた先には、威風堂々と周囲を睥睨する大男がいた。
最初、野のオオカミが二本の足で立ちあがり、着物を着こんでいるのかと勘違いするぐらいに精悍すぎる顔つきをしていた。
突然現れた大男は自分が押し倒した正純のことをまったく見ようともせず、仁王立ちのままどこやらを睨んでいる。
「なんだ、今のは?」
敵ではないと判断し、大男に声をかける。
それに対して大男は、
「狙撃でござる」
と、まったく油断をしない様子のまま答えた。
もっとも内容の方がはるかに驚くべきものであったが。
狙撃とは物騒極まりないではないか。
「何者の仕業だ?」
「わかりもうさぬ。拙者、鼻がよう利きますゆえ、遠くより火薬の臭いを嗅ぎつけ、ここで大殿が狙われているのに気が付いたのでござる」
「鉄砲にしては音がしなかったぞ」
「長筒の先に、さらにけったいな筒をぶらさげておりました。あれがきっと音を消すからくりなのでございましょうな」
「……なるほどな。では、おぬしは何者だ?」
「それを語るのは後回しということで。拙者は、今の忍びをぶった斬りに行ってきます。この宇都宮のお城で大殿の命を狙うなどという暴虐をなしたこと。断じて許すわけにはまいりませぬ」
そういうと、大男は腰に佩いていた刀の柄に手をかけた。
鞘や柄は意外と値の張りそうな直刀であった。
「……それはならぬ」
「なにゆえでござるか?」
「おぬしが何者かは知らんが、わしの味方をするというのならば、かの刺客を捕らえて差し向けたものを突き止めよ。無闇に成敗するよりもそれこそが肝要だ」
「さすが。……この巳之助、ぶへんものゆえ大殿ほどには知恵が回りませぬ。その仰せに従いまする」
そして、大男は問答の間にすでに立ち去っていた鉄砲持ちの刺客の後を追うべく、膝をたわめた。
おそらく一足飛びで何尺も頭上にある木の枝に達するであろうことは明らかだ。
この大男も、また忍びなのだ。
「待て。おぬしの名だけでも教えてゆけ」
正純が言うと、
「伊賀月ヶ瀬の住人、服部巳之助。――おおっと、そういえば今は荒木でござった」
「伊賀だと?」
「それでは、大殿。さっきの刺客をひっとらえてきますので、少々御免」
大男は申し訳なさそうに、ひょいと頭を下げる。
熊かオオカミのような野生そのものの男のくせに、ひどく可愛げがあった。
それから天を舞う魔鳥のように羽ばたいて、正純の問いに答えることもせずに、大男は宇都宮城の二の丸から消え去って行った。
あれも並々ならぬ忍びの術者であると正純は感じた。
大柄で、どうみても熊のような体格であるにもかかわらず、跳躍するときには一切の音を立てなかったからである。
「いい腕をしている。……しかし、さて、月ヶ瀬だと?」
正純は首をひねった。
その地名には聞き覚えがあった。
奈良の伊賀路の途中にある村のはずだ。
そしてその先には伊賀の国がある。
これまで数多くの忍びを輩出してきた土地柄であった。
「あの男、伊賀か、それとも柳生の忍びか……。だが、但馬守宗矩の息のかかったものが、なぜ、このわしを助ける?」
将軍秀忠の側近中の側近であるはずの柳生に連なるものが、自分を助けたということが腑に落ちなかった。
柳生但馬守宗矩とは反目こそしてはいなかったが、完全な味方というわけではなかったからだ。
むしろ、彼にとっては敵と考えてもいい相手なのだ。
だからこそ、なぜ、なのである。
本多正純の智謀をもってしても、すぐにわからぬことは世の中にたんとあるということだけがその場に残っただけであった……。