093
「先輩、お先にしてます」
「温まってるよ! シロエ」
地上数十メートルに突き出た空中の荒れ果てた庭園がそこには広がっていた。コンクリートはひび割れ、細くてひょろひょろとした雑草がその隙間から姿をのぞかせている。暮れかけた真紅の空の中にぽっかり浮かんだ、それもやはりひとつの廃墟の姿であった。
頬を叩く強い風は四方から吹き寄せてくるようだ。高層ビルなどほとんど現存しないこの世界において、〈呼び声の塔〉からの景色は圧巻だった。旧世界でいう東京のほとんどすべてが視野に収められるのではないかというほどはるか彼方まで見通せる。
方形のこの建築物屋上は、柵や段差のような安全措置がないために、切り立ったような形状を持っていた。高所恐怖症の人間であれば動けなくなりそうなほどの圧倒的な広がり。
シロエたちがその中にまろび出たその時、想像通りソウジロウたち第二が〈召喚の典災〉との遅滞戦闘を継続していた。
「助かった! 後続はクリア、報告を」
シロエは叫びながらを片手で後続に合図を送る。
そのハンドサインで、直継を先鋒とした大規模戦闘チーム残りの十八名が大蛇のようにタリクタンへと進み陣形を形成してゆく。
第二は遊撃防衛を目的とした編成の六人組だ。敵首魁と完全に組み合って長期間拘束、殲滅戦闘を目指すための第一に比べて汎用性能は高いが、防御能力、回復能力、継戦能力において劣る。防御にせよ攻撃にせよ、瞬間的な能力に秀でるのが〈武士〉という職業なのだ。ソウジロウはプレイヤースキルで今までの時間、戦闘を維持してくれた。さすがというほかないが、それでもこれ以上の負担は避けるべきだろう。
前方へ駆け出すメイン防衛役にマリエールから支援が飛ぶ。〈反応起動回復〉だ。レベルは低いもののミノリの〈禊の障壁〉と合わせれば初撃は持つだろう。
「レベルはそう高くない。通常攻撃は予想の範囲内。属性は物理、あの杖だ。厄介なのはふたつ。わけのわからない集団攻撃がある」
「範囲形状は?」
ナズナは意識をしないでも継ぎ足せるほどに習練をした〈禊の障壁〉をソウジロウにかけながらシロエに答える。風が強いため、どうしても互いの会話は怒鳴り声になりがちだ。
「判らない。誘導するような紫色の雷撃が暴れまわった。うちで助かったのはわたしだけ。でもソウジとほとんど同じ位置にいたんだ!」
(距離とは無関係? ランダム攻撃?)
シロエは〈フォース・ステップ〉で戦列を調整しながら思考を続ける。
「ダメージはでかい。切り札を切ったソウジでさえ沈みかけた」
それは悪いニュースだった。
〈武士〉という職業は、戦士としての基本性能では〈守護戦士〉に劣る。盾を装備できないし、属性防御も低くなりがちだ。しかし、そのかわり瞬間的な対応能力では大きく上回る。〈刹那の見切り〉は短時間ながらすべての攻撃を完全回避する強力な特技だし、〈叢雲の太刀〉は攻撃そのものを相殺させてダメージを半減させることができる。〈茶会〉での戦闘を知るシロエは〈受け流し〉発動中のソウジロウが沈みかけたというだけで、敵の攻撃の苛烈さを思い知ったのだ。
同じ攻撃を受ければ前線が崩壊する可能性は低くない。
(どおりで後衛要員のHPがあんなにも減少しているはずだ)
あえてマリエールと競わず後方に待機していたてとらが重傷者を中心に回復を開始した。〈反応起動回復〉は高性能だが、その名前の通り敵の攻撃に自動反応して失われたHPを(もちろん完全にではないが)回復する呪文系列だ。すでにダメージを追ってHPが大きく低下している後衛相手には、通常の回復呪文でケアを行っていくしかない。てとらは〈ヒール〉や〈ヒーリングライト〉の呪文を組み合わせることによって、傷ついたメンバーをいやしていく。
その対応は正しい判断だったといえるだろう。
「眠りにつけ、すべてのもノよ」
「どうしてそんなことするんですか! この眠りは何なんですか!?」
唸るような声だった。
モンスターの口から洩れる言葉にシロエは、それでも予定した通りの希望を込めて応答を返す。それはシロエのひそかな目的のひとつだった。この場にシロエが来なければならなかった理由だ。
シロエはやはり、ロエ2からの手紙のすべてを信じられてはいなかった。
それ以前に内容からして十分に分かったとは言い難い。
ロエ2は〈典災〉について警告してくれていたが、それでもシロエは話し合いもしないで切り捨てることにためらいを覚えていたのだ。ことがこうなってしまった以上戦いを避けるのは難しいかもしれないが、それならせめて情報がほしかった。
「眠りにつけ、すべてのもノよ」
「話し合う余地はないのですか!」
タリクタンがねじくれた杖をふるうたびに衝撃波が荒れ狂い、コンクリートのはずの床材が冗談のように砕ける。
〈召喚の天災〉の瞳をのぞき込む。
漆黒の背景に星のように光る小さな瞳孔があった。
姿かたちは壮年の召喚士のようだが、その表情はまるで別のものだ。生物というよりは機械的な、平板で非人類的な反応しか感じることができない。
「カマイサルと同じだよ、こいつ。変態じゃないだけまーだましだ」
「シロ先輩、話通じないんです」
飛び交う銃弾のような衝撃波に頬を切り裂かれながらも、シロエはまっすぐ典災を見つめた。それでもここには手がかりがあるはずだ。シロエは闘いながらも必死にそれを探し出そうとした。
タリクタンもまた〈共感子〉を求めている。
その結果がこの眠りなのだ。
そしてシロエが予想するかぎり〈共感子〉とは資源ではあっても狭義のエネルギーではない。〈典災〉の話の通じなさそのものがある意味の証拠なのだ。その一手でシロエはあの手紙の意味に少しだけ近づいた。
「シロエさん、報告の雷光、事前動作――」
リーゼの叫びは見事だったといってもよいだろう。
ほとんど初見のモンスターの攻撃、その予備動作を察知したのだ。
しかし回避行動を促すほどの余裕はさすがになかった。視界の隅で直継が大楯を掲げるのが見えたが、雷撃は直継を迂回したようだ。一気に増えた前衛の間を縫うように、ソウジロウ、にゃん太、ナズナ、アカツキなどが貫かれてゆく。
「シロエ、おおよそ百八十秒くらい……っ」
雷撃の威力で大地に叩きつけられながらもナズナが報告を締めくくる。
この威力の攻撃を連発されてはいくらなんでも戦闘にならない。百八十秒であれば回復しながらの力押しも可能だが、その作戦もとれないようだ。
「シロ先輩、油断しないでください。あいつ、援軍も呼ぶんです。虹色の光を捻じ曲げて〈常蛾〉とか〈月兎〉とかっ!」
回復職とは違い多少余裕のあるソウジロウはシロエに告げながら果敢に突撃を敢行する。その特殊能力は予想がついていた。召喚の典災という名前を確認した時から、そしてアキバの街に〈常蛾〉の大群が現れた時から。何らかの援軍を呼ぶ存在が黒幕であろうことは予想されていたのだ。現にこのダンジョンでシロエたちが戦い抜いてきたモンスターのほとんどすべて、パーティーランクのモンスターはタリクタンが呼び出したものなのだろう。
対応策は考えてきてある。
ここへきて戦場を確認し、確信も持てた。
問題はそれをゆっくり説明する暇がない事だ。
「第三、ヘイト下げて! 直継、ソウジ。シザース準備っ。移動します」
「移動ってどうするんですか、シロエさん!? ここ周りどこもないですよっ」
悲鳴のような小竜の言葉に罪悪感を覚える。
確かに空中に突き出たコンクリートの庭園であるこの場所に、逃げだすような場所はない。常識的に考えれば、その通りだ。
「第一、密集」
しかし、小竜をはじめとした多くに詳しく説明する時間はない。
紫の雷光の〈再使用規制時間〉が百八十秒だとすれば援軍召喚のそれも準じていると考えるべきだろう。少なくとも、ゆっくりと解説するほどの余裕はない。
「皆さん、戦場を移動しますっ。勝算はあります。信じてください! 〈冒険者〉《じぶんたち》の力を」
アカツキと視線があって、大きく頷いたのが分かった。
わけもなく、いけそうだという気持ちになった。
さっきまであんなに思い悩んでいたのに現金なものだとシロエは自嘲する。やるべきことさえ分かっていれば、どうやら自分は迷わないらしい。いずれにせよあの塔が魔法装置なら、|敵は引きはがす必要がある《、、、、、、、、、、、、》のだ。
「〈ヘイトエクスチェンジ〉! 〈アンカーハウル〉」
直継が高く掲げた剣から奔流のような光が伸びて、ソウジロウの身体から何かを奪ってゆく。――〈ヘイトエクスチェンジ〉。この特技は対象の仲間と自分のヘイトを交換する効果を持っている。先制攻撃をして、今まで宣戦を支えてくれた第二の主力防衛役ソウジロウ、そのたまりにたまったヘイトをいま直継が継承したのだ。
黒い底なし沼に赤い星を浮かべたようなタリクタンの瞳が、音を立てるかのような異形の回転をして直継を睨みつけるのが分かった。
「マリエさん、ちょい失礼」
タリクタンの憎しみを一身に受けた直継が振り返って陽気なウインクをすると、マリエールを抱き上げる。横抱きにあっけにとられたマリエールは、次の瞬間湯だったように頬を染めて、直継に抗議をしようとしたがそんな暇はなかった。
「行くぜ、シロ」
「急ぐのだ。主君」
そんな声を残した二人は、タリクタンに追われるままに夕暮れの空の中に飛び出した。
落下。
地上数十メートルの高さからシロエたちは飛び降りた。
耳元をうなりを立てて通り抜けている固体化したような空気を突き抜けて、シロエたちは石ころのように地面へと向かう。範囲化した〈飛行呪文〉の制御を緩めてでもシロエは月をシルエットにして迫る影をにらみつけた。
追いかけて来い。
声に出さない思いをタリクタンにぶつける。それはあるいは〈典災〉との対決よりも重要な一手だった。虹のような泡がまとわりついてタリクタンを追ってくる。想像通り、あの〈召喚の典災〉といえども〈月蛾〉を呼び出すためには鉄塔が、つまり月との経路が必要なのだ。
鉄塔とタリクタンを分散するため、シロエたちはダイビングもどきの作戦を決行する。もはや召喚は始まってしまった。いま、ここでタリクタンを止めなければまたもや大きな被害が発生してしまう。そしておそらく、月への連絡手段も、そして謎へと迫る手段も失われるだろう。
だがシロエは不敵に笑いながらタリクタンに呟いていた。
「大規模戦闘であるなら、僕の戦場です。八年間で転戦した無数の戦場と引き出しを、御覧に入れますよ」
その言葉はだれに聞かれることもなく風に引き裂かれて消えていった。
◆
「あー、はいはい。どんどん出しちゃって。いいからいいから採算なんて。矢弾も水薬もバンバン使っちゃって、ティア六までの倉庫は全開放だって、在庫一掃よろしくねー」
カラシンは在庫管理担当のドワーフ娘に念話を終えると間髪入れずに回廊から身を乗り出して「肉差し入れに来ましたよう」と〈大地人〉の侍女や調理人に声をかけた。中庭には即席のかまどや天幕が数多く張られ、さながら戦場のような騒ぎの中にある。いいや、「ような」ではなくて、ここは戦場なのだ。
マイハマ公爵領の中心たる〈灰姫城〉は今や前線基地となっていた。天から襲い掛かる〈月蛾〉というモンスターにとって城壁や市街地は関係ない。この城は夕暮れの中襲い掛かるモンスターとの戦いの渦中にあった。
彼らはどうやら戦闘能力の高い存在あるいは魔力の高い存在に優先的に襲い掛かるらしい。それはこの世界において〈冒険者〉と同義だ。マイハマの都の市街地はすべての家々の扉を固く締める戒厳令が発布されている。〈大地人〉たちは息をひそめて天を見上げるばかりだ。その街を、城を、〈黒剣騎士団〉を中心とした戦力が防衛している。
街から離れた森林や街道で〈月蛾〉を食い止めるというアイデアも出ないではなかったが、彼らが〈冒険者〉に襲い掛かるのはあくまで「基本的に」というレベルだ。行き逢った〈大地人〉をわざわざ見逃すほどの知能はない。そうであれば目の届く範囲内において防衛を、というのが〈黒剣騎士団〉率いるアイザックの判断だった。
カラシンとしては別の思惑もあるのだが結論は変わらない。
そのようなわけで防衛作戦は進行している。
「カラシンさん」
「やあだあ、差し入れありがたいねえ」
黄色い歓声が上がった。
カラシンはこの城の中ではアイザックをしのぐほどの人気者なのである。〈第八商店街〉がもたらす物資はどのような職分の〈大地人〉にとっても有用だし、厨房関係者にはとくに需要が高い。ソースや醤油、純度の高い砂糖などは〈大地人〉の手だけではいまだに作成が難しいアイテムである。
「ギルマス大人気!」
驚いたように目を見開いて褒めるタロを一瞥して、カラシンは「そりゃもう若旦那ですからねい」とぼやいた。歓声の成分は二割が腹を減らした兵士であり七割は食事を用意する中年の侍女や調理師だ。毎回のようにびっくりしたすごいな憧れるな、という表情をするタロだってそんなことはわかってやっているのだ。付き合いきれない。
〈ク・ラルの神域鞄〉から手際よく食材と水薬を取り出してテントの下に並べると、ここでのカラシンの役目は終わる。その横で自前の肩下げ鞄から包帯を取り出してたタロも作業を終えたのか大きく頷いた。
「南西よりは西より、ですかねえ」
〈灰姫城〉の擁壁の上を小走りに移動しながらタロはそんなことを言った。
空気を入れた紙袋を叩き割ったような、鋭いがどこか軽い音が連続で鳴っている。空中で破裂する攻撃魔法の音だ。距離があるので軽薄に響くのだ。
「あの辺は〈黒剣〉の主力だな。〈大地人〉の騎士団もいるはずだよ」
「平気なんですかあ?」
間延びしたようなタロの問いかけに「心配ないさ」とカラシンは頷いた。
大丈夫のはずだ。いや、むしろ今回の騒動に関していえば非常に有益な働きをしていることが予想される。アイザックたちによって鍛えられた〈マイハマ騎士団〉のレベルは二十台後半である。〈大地人〉の中ではエリートといえるその能力は、市民〈大地人〉とは比べ物にならない戦闘力を表している。筋力や耐久力といった基礎的な能力も成長しているために、長時間の戦闘も可能だ。それでいて〈黒剣騎士団〉のレベル九〇には遠く届かないので、〈月蛾〉の標的にはなりにくい。〈黒剣騎士団〉が正面で敵を受け止めている間、遊撃役として存分に側面攻撃や避難誘導などの活動をできる。現にそういった報告がカラシンには届いている。
「でも日が暮れる前なんて、ねえ。予定を守ってほしいですよ」
「仕方ないさ。トラブルが起きるなんていつものことだ」
カラシンは肩をすくめる。
何が起きたのか月の出も待たずに〈月蛾〉の来襲となったが、カラシン自身はむしろポジティブに受け止めていた。
「シロエ殿たちがなんかやったんだろ」
「なんかですか?」
「なんかだ」
何かが何なのかはわからないが、それはカラシンの考えることではない。
とにかくシロエが現場で何か行動を起こして、そのせいで敵が追いつめられて、予定がずれただけだ。シロエが出向いたからにはどうせどうにかはするのだろうから、細かい現地の状況なんて考えるだけ無駄であるというのがカラシンの考えだった。別にシロエを信頼しているとかそういう話ではなく、どうせ世の中というのは突発事態満載の激流川下りのようなものなので、自分に管理しきれないことまでなやんでも仕方ないとカラシンは思っている。思っているというか、カラシンはカラシンの担当分野で手いっぱいなのだから、余計なおせっかいをしている暇はないとでもいうべきだろう。
(ミノリちゃんとか女の子の世話ならともかくねえ――)
シロエの心配だなんて馬鹿らしい。
それは無駄な投資というものだ。
とはいえ今目の前の戦いは当事者で切り抜ければならないだろう。
「タロ」
「ほいさ、ギルマス」
背筋を伸ばして敬礼をする同輩に、カラシンはいくつかリクエストを行った。お尻のポケットから肉球マーク付きのメモをを取り出して書きつけたタロは「本当ですかあ」「本当に本当ですか?」と何度も確認をとった後に前線へと駈け出した。市街そのものの城壁は数キロ先にあるが〈冒険者〉がその健脚を発揮すれば十分弱で到着できる。
在庫放出は全く問題ない。レベル三十以下対応のアイテムはアキバの〈冒険者〉の間ではほとんど使われなくなっているのだ。ゲーム時代から貯めこまれた不良在庫だともいえた。ここで手放してしまっても、額面はともかく実質そんなに損害があるわけではない。むしろ貸しを作れるのならば作っておくべきだろうとカラシンは思った。
カラシンは大広間へと入り、通り抜け、絨毯の色鮮やかな通路を経由して主塔へとたどり着いた。幅の広い螺旋階段をゆっくりと上がってゆく。明り取りの小窓から漏れる色は、茜色だ。春先の夕暮れのひんやりした空気がこの塔にはある。
登った回数は多くはないが、この主塔の上階からであるならば市街が一望できるだろう。先ほど尋ねた話によれば、セルジアッド公もそこにいるはずだ。
螺旋階段の途中、警備の騎士たちとカラシンはすれ違った。それは〈大地人〉だけではなく〈冒険者〉も含まれている。警備責任者であるはずのレザリックは十分な戦力を配置しているようだった。
塔の中腹ほどにある小窓から覗く市街は緊張感には満ちている者の戦闘の様子は見えない。角度が悪いのだろう。交戦状態にあるのは丘と防壁の方向だ。
カラシンはため息をついてさらに歩を進めた。
なかなかに面倒くさい状況だ。
しかし、面倒くささというのは飽和限界があるのではないかとカラシンは思っている。水に塩を混ぜた場合一リットルの水に三〇〇グラムだかそこらしか溶けないのと一緒で、人間の人生に溶ける面倒事の量は限界があるのだ。限界からあふれた面倒はどこへ行くのかといえば周囲にただこぼれるのである。大混乱した部屋と一緒だ。人間が掃除できる分量には限界があるのである。
タイミングよく謎のモンスターが現れたので、イセルス暗殺事件への追及は棚上げになった。カラシンにとっても都合がよかったので騒ぎはしなかったが、暗殺事件だって等閑に付せるようなものではない。
人間が掃除できる量には限界がある。
しかしまあ、人間は協力ができる生き物だとされているので、カラシンとしては目下の義務と興味を遂行するつもりで塔を上るのだった。
「どうも」
「ほう。カラシン殿がここに来られるとは」
気やすい挨拶に気やすい返答を返したセルジアッドは、塔のバルコニーから戦場へ視線を向けていた。厳しい横顔はカラシンへ振り替えるときには柔和に戻っている。おつきの騎士たちにも逼迫した感情が見えないのは、このバルコニーから見える戦場の様子が優勢だからだろう。
「どうですか、モンスターの襲来」
「大異変だな。マイハマの歴史でも街の防壁に〈冒険者〉が並ぶほどの襲来は記録にない」
「その割には落ち着いたご様子」
「なあに、アイザック殿に任せておるからな。慌てふためくのは卿の武勇に対する侮辱にもなるであろうよ」
軽く笑うセルジアッド公にあわせてカラシンも微笑んだ。
心の中では口をへの字にする。元の世界にいたころの上司のようだった。しかも直接の上司ではなく雲の上の方の常務だとか専務クラス。気まぐれのように昼飯に誘ってきては飯の味を判らなくする妖怪の気配だ。
(そういえばミチタカさんとかアイザックさんとかは相性いいんだよなあ。体育会系補正か?)
自分には無理無理、とカラシンは内心でツッコミを入れる。
半端に気が利くというのはこういう相手には弱点にしかならない。行動も発言も予測されて全部叩き落されるのが落ちだ。交渉で勝敗を競うという考えから離れる必要がある。
まあ大丈夫だろうとカラシンは考えることを投げ出した。もし問題が残ればどこかの誰かが後始末をすればいいのだ。所詮人間一人で掃除できる範囲は限られている。
(どこかの誰かなんて言ってるけどまあシロエさんだわなー)
精神内部でだけ合掌する。
「というわけで対〈ウェストランデ〉外交どうします?」
「とうとう〈円卓会議〉もヤマトの政治に乗り込むか?」
「いえとんでもない。木端商人が身を守るための情報収集ですよ」
肩をすくめて韜晦のポーズを見せるカラシンだが、本気で言ってるわけではない。そして商人が雑談をしているだなんてセルジアッド公が受け止めてくれるとも考えていない。相手はこのヤマトを二分する政治主体の党首なのだ。
遠慮していても後手に回ってろくなことにならないと思ったカラシンは、ずうずうしい表情を意図的につくって質問を重ねる。内心は冷や汗が流れていても情けにすがるのは悪手でしかないと思えた。
「戦争になりますかね」
「――避けたいとは思う」
遠くへと視線をやったセルジアッド公が漏らしたのはそんな言葉だった。
「だがままならぬな。カラシン殿はそうお尋ねになるが、〈神聖皇国ウェストランデ〉にすれば我らイースタルは叛いた朝敵なのだ。戦争をする、しないではない。そのはるか以前に彼らからすれば我らは逆賊であり討つべき相手なのだ。この三百年余り〈神聖皇国ウェストランデ〉が我らに攻め込まなかったのはひとえにその戦力がなかったからにすぎぬ」
「それが〈冒険者〉の登場で崩れたと」
「〈ウェストランデ〉も一枚岩ではない。遠からぬ将来割れるであろう」
セルジアッド公の言葉は風に紛れたがカラシンの耳にははっきりと届いていた。
その可能性は確かにある。
ミナミの情勢は複雑だ。ある意味それはアキバと〈自由都市同盟イースタル〉よりも複雑な関係である。
アキバの〈冒険者〉のほとんどが信じるように〈Plant hwyaden〉は関西に本拠地を構えた〈冒険者〉たちの作り出した自治組織、つまり、西日本の〈円卓会議〉というわけではない。
その証拠に〈Plant hwyaden〉十席会議には〈冒険者〉だけではなく〈大地人〉も参加している。そのことの意味を深く考察している人間はアキバにも多くはない。
「それはその。〈冒険者〉のせいですかね」
「野心を持っているのは元老院であろうがな。油があれば火勢は強まろう」
〈Plant hwyaden〉は〈冒険者〉による自治組織ではない。
西日本の新しい統治組織なのだ。統治されているのは〈大地人〉であって、〈Plant hwyaden〉参加の〈冒険者〉は新しい支配階級、つまりは貴族である。もちろんそんなことを十席会議は言わないし、ミナミに住んでいる〈冒険者〉の大部分だってそんな自覚はないだろう。しかし現実にはすでにそうなのだ。そうとしかなれないシステムがすでに稼働している。
そしてさらに悪いことに、だからといって〈Plant hwyaden〉は西ヤマト唯一の統治機構というわけではないのだ。
西ヤマトにはすでに〈神聖皇国ウェストランデ〉という統治機構が存在する。その内部は官僚機構としての元老院と、皇族としての斎宮家がある。元老院と斎宮家の対立と協力は〈神聖皇国ウェストランデ〉の歴史そのものだといえるだろう。民を治める元老院と、民の希望たる斎宮家。その二重支配のうえにさらに〈Plant hwyaden〉が塗り重ねられたのだ。
本来であれば混沌のあまり崩壊しかねないような矛盾が渦巻いているはずである。しかしその矛盾は〈冒険者〉がもたらす安全と新しい技術、つまりは利益によって覆い隠されているのだ。
カラシンの危惧はどうやらセルジアッド公によって裏付けられたようなかたちだ。
「どのような会話が行われ、誰と誰が手を組んでいるのかはわからぬ。しかし〈神聖皇国ウェストランデ〉のおそらく元老院派は、戦になっても構わぬと思ったのだろう。その程度の勝算はある、と」
「それはどうかなあ」
カラシンは肩をすくめる。
あのゼルデュスにそこまでの気合があるのかと問えば、なかなか難しいだろう。
「勝算ってそこまで数字で出てくるものじゃないでしょう」
「商人殿としては異なことを言うな」
セルジアッドの言葉にカラシンは考えながら答えた。
「商人だからこそ、ですよ。企画、つまり新しい商売ってのは海のものとも山のものともつかないんです。始めたらやめられないし、結果のほとんどは玉虫色です。九割は勝ちとも負けともつかないようなオチですよ。用意した資金は溶けたけれど人材は失わないですんだ、とか。予定していたのより大きな売り上げを得たけれど新規工場では労働争議になったとか」
「勝っても負けても完璧はないということか」
〈円卓会議〉の目的も、〈第八商店街〉の目的も、究極的には生き抜くことにある。このいびつな世界で〈冒険者〉は死なない。しかし、〈冒険者〉は死なないというのは死なないだけで、生きていることとイコールではない。イコールではないと思うからカラシンは商業ギルドなんてものを営んでいる。
終わりがないのだから、その終わりのなさをどう過ごすかが問題だ。
結局はこの場所で喧嘩をしたり仲直りをしたりしながら過ごすしかないのである。対話できるということがカラシンの考える最低限だ。殺せない相手との全面戦争だなんて、考えただけでぞっとする。
「そうですよ。要するに僕らは生きてるんですから、ボロマケしたってイイトコのひとつやふたつ探しながら次を探すしかないじゃないですか。大勝ちしたってその大勝ちのせいで将来人々が傲慢になってまた戦争になるかもしれない。どう転んだってそうそう終わらないのが商売で」
「しぶといな」
「カスタマーとか安全管理とか、利益を産まない部門に予算は微笑まないってのが民間企業の常識なんですけどね。あいにく僕らは勤め人じゃないので。そんなわけでセルジアッド公。――そちらの在庫〈円卓〉に売ってくれませんか?」
眉を跳ね上げて「なにが必要かな?」と漏らすセルジアッドにカラシンは精いっぱいのすまし顔で答えた。
「とりあえず、ぐうたら姫さまとか」
月へと登る虹色の光の柱を背景に、二人の影は彫像のように固まったまま長い間動かなかった。
◆
壁に大穴を開けて飛び込んできた〈召喚の典災 タリクタン〉をリーゼはその金色の髪を揺らして迎え撃った。冷気をほとばしらせる氷の槍〈フロスト・スピア〉。
〈妖術師〉の操る三つの元素の中で、冷気はほかの属性に比べて人気が低い。敵に死をもたらすという攻撃職の本分におけば、氷結魔法の直接打撃力は低いからだ。電撃魔法〈ライトニング・チャンバー〉や火炎魔法〈バーンド・ステイク〉のほうがはるかに多くのダメージを与えることができる。しかしそれでもリーゼは氷結魔法に重きを置いていた。火力と消費MPのバランス、詠唱時間の長さと単発威力の大きさもよい。
詠唱時間が長いというのは一般的に欠点であるとみなされているが、敵の行動予測さえできていればそれも利点に代わる。いまもそうだ。敵が移動する時間を長い詠唱に費やした呪文は、その詠唱時間に見合った破壊力を秘めている。白髪の〈典災〉がこのホールに出現するその鼻先へ合わせてやった。〈妖術師〉の魔法系統の中では敵の行動阻害に秀でているという点もよい。
たたらを踏むタリクタンに孤猿やユズコが全力攻撃を仕掛ける。
「それにしても」
リーゼはつぶやいた。
ずいぶん荒っぽい。
作戦を聞いたときは正気を疑ったし、今でもとんでもないと思っている。正確な階数はわからないが、あの放送塔の高さは地上三十メートルはくだらないはずだ。その屋上広場から飛び降りて、しかもその飛び降りる行動を〈敵の引き回し〉に直結させるというシロエの作戦。
結果は成功したがあまりにも荒唐無稽なものだったとリーゼは思う。いや、しかし、それはリーゼの側が固定概念に縛られていただけなのだろう。現にその作戦は成功し、タリクタンをこの音楽ホールでの乱戦に引き込むことに成功しているのだ。
「シロエ様らしくない……ような」
「そんなことはないって」
まるで背中にでも目がついてるかのような動きでふわりと飛び退ってきたナズナが、リーゼの横に立ってその言葉を受けた。
「シロは〈茶会〉で参謀やってたんだぜ。世間の評判はどうかは知らないけど、〈茶会〉は荒っぽくて行き当たりばったりだったからね。|今日のシロエが昔どおり《、、、、、、、、、、、》なだけさ。これが普通だよ」
油断なく刀を構えて敵をにらむナズナが薄笑いを浮かべてうそぶく。
その言葉は事実なのだろう。
リーゼはシロエを誤解していた。〈円卓会議〉の立役者。〈自由都市同盟イースタル〉との同盟成立の貢献者の一人。ギルド間の取りまとめや情報整理を引き受ける苦労人。能吏、有能な管理者、政治能力のある実務者、謀臣、そんなイメージでシロエを見ていた。でもそれはシロエの一面でしかないのだろう。
杖は自動的に動き矢継ぎ早に呪文は紡がれる。
〈妖術師〉の役目は火力の集中だ。呪文にはそれぞれ〈詠唱時間〉と〈硬直時間〉、〈再使用規制時間〉がある。同じ呪文を連続で使用することはできないのだ。〈再使用規制時間〉を利用して別の呪文の〈詠唱時間〉を挟み込む。五から十種類程度の呪文を組み合わせて循環を作り、その循環を繰り返すのが〈妖術師〉の戦い方となる。口にするのは簡単だがそれはなかなかに難しい。同じ呪文ではあっても、その〈妖術師〉によって性能は微妙な違いがある。
取得した特技や〈スタイル〉、装備品によって〈再使用規制時間〉には変化が出るために、循環で接続できる呪文に変化が生じるのだ。
敵モンスターによっては炎ダメージに耐性を持つものなどもいる。そういったモンスターを相手取る場合循環の中の炎属性呪文は邪魔になるが、その呪文を抜いてしまえば当然循環全体のループは壊れてしまう。つまり、自分専用の循環構築を何種類持っているか? それを無意識レベルで維持でき、また臨機応変に選択できるか? それが大規模戦闘構成員として〈妖術師〉に求められる能力となる。
〈D.D.D〉所属のリーゼは十分に熟練した循環を八種は使える。そのうち四種はとっさのアクシデント対応を可能にするため、循環の中に分岐を仕込み別の循環への連絡を可能にしたタイプだ。これだけの習練をつんだ〈妖術師〉はさほど多くない。〈エルダー・テイル〉魔術職において、洗練のひとつの極みだということができるだろう。
しかしそのリーゼからみても、シロエの呪文循環は特殊だった。
〈詠唱時間〉は多くの呪文で二秒から十秒程度。つまりひとつの循環は百秒、二分程度で一周する。観察すれば構成呪文も連結の仕方もおおよそはわかる。しかし、シロエのそれは循環の規模が読めなかった。かといって思いついた順に呪文をただ詠唱しているかといえば違う。そんなことをすればつなぎが甘くなって時間をロスするのだ。それは最終的なダメージ出力の低下をもたらす。シロエの呪文詠唱にそういうロスは見られない。何らかの研鑽の跡が見える。しかし、循環の構成が分からない。一日やそこらの共闘では見切れないほど豊富な種類の循環を習練の結果身に着けているのか、そうでもなければ何か別の技術なのか。
――MPが減らない。減っているのに、回復が釣り合ってる。戦闘能力を維持したまま、隊列を循環させて制御する。こまめな前線突破の指示はそのため。
考え付きはしても冗談だと一笑に付すようなアイデアをシロエは形にしている。もちろん、ミスはある。ミスはあるがそれをカバーするような伏線がすでに張り巡らされている。
いまさっきナズナに下がるように指示したのはMPを温存させるためだけではない。大技〈大祓の祝詞〉の〈再使用規制時間〉を回復するため――ですらなく、五十鈴とルンデルハウスへ対するタリクタンの射線と視線を遮るため。とみせかけて、ソウジロウの背後から連携が熟練した口頭アドバイスで観測手を務めさせるため。
シロエの指示の真意が曖昧になるままに効果だけが降り積もる。
もはやその一種の意味そのものはほどけて消える。ただ勝利に向かう無数の道筋を光が駆け巡る。リーゼもまたサブ職〈軍師〉をもつ大規模戦闘指揮官だ。敵との遭遇を一つの物語と見立てて読み解くことを役割としている。しかしそのリーゼすら、いまシロエが読んでいる物語は自由すぎて把握が追い付かない。
シロエはおそらく、この物語に主役を置いていない。
だれがどんな手段でタリクタンを追いつめてもよい。
そう思っている。
シロエの指揮においては攻撃手と援護手さえはっきりとは決まっていない。〈白兵型の神祇官〉《暴れ巫女》の櫛八玉でさえ、気持ちよさそうにその刃をふるっている。
「カウント十秒。〈障壁〉要請、直継、にゃん太、狐猿、アカツキ、ソウジロウッ」
「ほいほいさっ」
シロエの指揮にナズナがからかうような声を上げて〈禊の障壁〉を唱える。茜色に輝く半透明の壁が一瞬あらわれて味方へと付与されていく。それは攻撃を予測しての事前防御呪文だ。リーゼはその指揮に、タリクタンの大型攻撃が来るのだと直感した。
「急いで……四、三、二……いまっ!」
リーゼが睨み付ける視線のその先で、タリクタンはねじくれた杖を高く掲げると、紫色の稲光を放つ。雷が至近距離でさく裂した輝きに顔をそむけたリーゼだったが、口伝〈賢者の石版〉は戦闘記録を追いかけている。
間違いなく〈障壁〉は襲い掛かる雷撃を遮ったが、それでもなお狙われた直継たちはHPの半分以上を失うほどのダメージをうけた。間違いなくタリクタンの最強攻撃だ。〈障壁〉が間に合わなければ、そしてピンポイントで守らなければ前線は確実に崩壊していた。
その事実に気が付き青ざめるリーゼは、恐怖しながらも必死に答えを探し求める。タリクタンの雷光はリーゼを避けてにゃん太へと向かったのだ。電工の経路にはリーゼがいたはずだった。直進すれば〈障壁〉をもたないリーゼは黒こげにされていたに違いない。なぜリーゼは避けられたのか? にゃん太が狙われた理由は? なにより予測仕切れたその原因は――。
「なんでなん? シロ坊、誰が狙われてるかわかってたん?」
蒼白になりながらも呟いたマリエールの問いに対する答えは。
「ヘイトリスト上位貫通攻撃」
シロエの声とリーゼの声が重なった。
それはヘイトリスト、すなわちタリクタンの感じる敵愾心をも指標にしたらという概念だ。タリクタンが感じている脅威を数値化した場合の上位陣五名を指名した攻撃。
その気づきはさほど大きなものだったわけではない。
まだほとんど初見だということを除けば、大規模戦闘指揮官として当然の推論であり誇るべきことではないだろう。問題はそこではない。シロエがヘイトリストの上位陣を当然のように指名して見せたことだった。
敵愾心は数値化されたステータスではない。与えたダメージが大きいもの、回復魔法の強力なもの、距離の近いもの。様々な条件を加味してモンスターの内面で目まぐるしく変わるものだ。メイン盾職はこのヘイトを最大限高めて自分にモンスターを引き寄せるから、直継にたいしてタリクタンが正面から戦っている現在、ヘイトリストの最上位は直継だと推理できる。しかし二位以降は今までの戦闘経過から推理するしかない。
ましてや〈大災害〉以降、戦闘記録をウィンドウで確認できなくなったこの世界において、口伝〈賢者の石版〉を習得していないはずのシロエがなぜそれを察知し得たのか? その答えはリーゼの背筋を不思議な寒気と感動で貫いた。
〈賢者の石版〉であれば戦闘ログを視認することができる。与えたダメージ、受け取ったダメージ、その属性や範囲、頻度、回復や付与効果まで「戦闘で起きた出来事」を文字化して読むことができる。それがリーゼの持つ口伝〈賢者の石版〉だ。
しかしシロエはただ単純に、その観察と洞察でリーゼの口伝を上回った。
シロエの〈全力管制戦闘〉を、リーゼはたったいま味わったのだ。
「どしたのさっ」
鋭く問いかけて前線に飛び込んでいく櫛八玉の姿に心が震える。
空中に半透明の階段があるかのように舞うアカツキの勇姿が鮮やかに見える。
苛烈な攻撃を放っているように見えて、絶妙な位置取りで後衛への射線をつぶすナズナの気遣いが理解できる。
「面白いですね、櫛先輩っ」
「そのとーうりっ!」
リーゼも駆けだした。
心の鬱屈はすっかり晴れ渡っていた。
クラスティの指揮にあって自分にかけているもの、それはカリスマかと思っていたがそれだけではないと示された。カラシンが言っていたことは本当だ。シロエはリーゼと同じタイプだという言葉の本当の意味は、リーゼ自身はまだまだだということに他ならない。同じタイプなので似たことができるなどというのは思い上がり、シロエに対する侮辱だ。同じタイプだからこそわかる。
確かにシロエはリーゼと同じ後衛型軍師。だからクラスティにあるカリスマはない。でも、そんなシロエはリーゼのはるか先にいる。
計算と洞察と下調べで戦うからこそ、場数と経験の違いが残酷なほどにわかる。
「うふふふふ。ははははっ」
リーゼは飛んできた瓦礫を〈女王の誇り〉で叩き落として長い脚で地を蹴った。
面白い。シロエの指揮は面白かった。
まだ見えていないことがたくさんある。
自分に手の届かぬ領域が広く残されている。
それは屈辱感でも劣等感でもなく、憧れと飛翔感をリーゼにもたらした。
「思い上がっていました。これが伝説。教導部隊の隊長だ、三羽烏だとおだてられ、ミロードの留守を守らねばならないと思いあがっていましたけど、未熟ですわ、私。大規模戦闘の兵卒としてさえも。――櫛先輩、依頼があります」
「引き受けたっ」
「即答!?」
隣で暴風のように無数の斬撃を繰り出す櫛八玉に問いかけ、響くような応えをもらう。素晴らしかった。悩みもためらいも鬱屈の日々も、陽に溶ける影のように消えていく。
「――りっちゃんが素直になったからね」
悪戯めいた〈D.D.D〉の古い先達にリーゼは微笑みかける。
ずっと上手にできなかった依頼を今ならできる。
自分にできなければ頼むしかない。クラスティのいなくなった〈D.D.D〉には信頼できる人がいくらだって必要なのだ。櫛八玉はリーゼが言葉にしなかった望みを判っていてくれたに違いない。だからこそこんな大規模戦闘についてきてくれたのだ。
「言ってくれますね。燃えてきました。ゲキアツです! ――積層型魔方陣構成っ! 目標設定。――貫けっ! 氷の五槍!!」
重なり合った多重魔法陣の空間を歪ませて氷の槍が分裂してゆく。
リーゼは〈妖術師〉の攻撃呪文を、魔力のかぎりに解き放った。
◆
「〈護法の障壁〉!!」
〈神祇官〉の緊急防御呪文がミノリから放たれた。五十数レベルの〈障壁〉呪文は九〇レベルを超えるシロエたちから見れば脆弱だ。しかしそのタイミングはまさにシロエが指示しようとした機先をとらえていた。
シロエは小さく笑った。
ミノリの反応は予想外だった。もちろん良い方向にだ。そのためにほんのわずか、おそらく攻撃班に数秒の優位が生まれる。その隙を見逃すような今のメンバーではなかった。
練度はすでに今までの戦闘で十分に練られている。
もともと〈記録の地平線〉の年少組さえ除けば大規模戦闘経験はあるメンバーばかりだった。その年少組でさえ、基礎のしっかりした〈D.D.D〉のやり方を見てまるごと吸収しているのだ。
高い連携能力はどちらかといえば旺盛な士気と集中力の結果だった。
タリクタンという敵の性格ともがっちりとかみ合っている。両腕を振り回す敵首魁はもはや典型的な白兵ボスだった。莫大なHPと防御力を誇り、杖や両腕による近接攻撃は強力だし、範囲を殲滅するヘイトリスト貫通攻撃の雷撃、広範囲に状態異常を与える雷鳴を操るが、いってみればそれだけだ。大規模戦闘演習の相手としてはちょうどいい。
タリクタンは身をひるがえして大きく手を振ると、その指し示す先にいくつもの魔方陣が現れてゴブリンや巨人族が現れた。場に走った緊張をシロエは打ち消す。
「あれは鉄塔を使った召喚ではありません。固有能力の召喚、数も少ないし限度がありますっ。落ち着いた対処を」
確証があったわけではない。
しかしここは断言が大事だ。その言葉に乗るようにおどけた声で「何でもありかよ!」と叫んだ直継は突進した。その陰に隠れるようにアカツキがちらつきながら続き、その姿はかき消すように見えなくなる。
すさまじい数の攻撃がタリクタンに着弾している。飛燕の〈絶命の一射〉にまとわりつくのは〈恐怖の武器〉だ。魔術職と攻撃職の連携も正確さが上がっている。強力な一撃は身を挺してその主を守る〈緑小鬼〉の群れを貫いてタリクタンへと襲い掛かった。
櫛八玉に襲いかかる電光をてとらの〈リアクティブ・ヒール〉がはじき返した。
相手の防御をこじ開けたその隙に、にゃん太と狐猿が殺到する。タリクタンの反撃を防ぐのはソウジロウの〈木霊返し〉だ。
ルンデルハウスの火炎呪文を五十鈴の呪歌が強化するように、それをそっくりそのまま真似てリーゼの氷結呪文をヘンリエッタが〈マエストロ・エコー〉で輪唱する。二組の強力な魔法攻撃班をまもるのは、ユズコのゴーレムであり、くりのんの支援を受けたイサミの刀だった。
小竜が駆けだした。
音楽ホールの赤い座席を飛ぶようにわたり、双剣でできた小さな嵐のようにタリクタンに襲いかかり強かに切りつけた。心配の悲鳴を上げるマリエールに「来ないで下さい」と叫び、必死に振るったその攻撃はタリクタンに少なくないダメージを与えたが、そのせいではね飛ばされて飛燕の救助を受けるはめになった。
戦闘は推移している。
多数の回復呪文を背に受けた直継は断続的に前進しては〈典災〉の敵愾心をかき立てる。〈守護戦士〉の〈ヘイトリッドチャージ〉は仲間を守るためにこそ真価を発揮するのだ。
鋼の響きと魔法の輝きが交差する大ホールでシロエは呪文詠唱の循環を保持しながらも周囲を観察していた。タリクタンのHPを示す表示棒は残り三割程度となっている。タリクタンの猛攻をしのぎ、仲間へ指示を飛ばし、あるいは補給するために下がらせながらシロエはいままでの躊躇いを思い出していた。
シロエは長い間答えを探しあぐねていた。
そして今でも迷っている。
しかしおそらく決断の時が来たのだ。トウヤとミノリの言葉に背中を押された。ルンデルハウスと五十鈴、にゃん太班長とセララにも。いいや、考えてみれば、シロエを後押ししてくれた人々につつまれてシロエはあった。
シロエが躊躇っていたのは、いつだって「それを選んでいいのか?」だった。世界は広大で深く、シロエを取り巻く、あるいはシロエも知らない人々がシロエには理解できないほど様々な思いを抱えて生きている。そんな世界にたいしてシロエが何かをなしてよいのか? 手を触れていいのか? それがシロエが抱えてきた悩みだった。シロエは何かをするのが怖かった。何かをしてしまったら、変わってしまうかもしれない。とてもきれいで素晴らしいものが壊れてしまうかもしれない。だからシロエは自分の不器用な手で触れるのが怖かった。
それはやはり怯懦なのだ。
シロエが何かをすれば結果は確かに変わってしまうかもしれない。しかし何もしなくても、やはり変わってしまうのだ。世界のすべてには季節があり、選択保留は、選択保留を選択したこととなる。
〈召喚の典災タリクタン〉が現れてシロエはいやでもそれを理解することになった。躊躇えば壊れてしまうものだってこの世界にはあって、おそらくシロエは失敗や後悔から逃げることはできない。
〈彼女〉の指さす方向へ歩いていくのは楽しかったし素晴らしい思い出だけど、もうそれだけではいられない。シロエにはシロエを支えて歩んでくれる仲間がいるし、マリエールとウィリアムがギルドマスターの役目を見せてくれた。
「安らぎの中で待機せよ」
出来ない。
「眠りにつけば安全は保証される」
出来ない。
「六億四千万単位と引き替えに帰還はなされる。同意する契約者はアクセスを受け入れ睡眠の中で待機状態を選択せよ」
出来ない。
もしかしたらタリクタンの言葉を受け入れるのが正しいのかもしれない。でもそれは今のシロエにとって「保留を選択すること」に等しかった。ひとつを得るだけではだめなのだ。
人には生きる義務がある。
そして強欲である義務もおそらくあるのだ。
シロエは自分のことを淡く満足して生きていける人間だと思っていたがそれは思い違いだった。他人と関わらず無欲であることは簡単だ。でも仲間と楽しい時間を過ごせば過ごすほど、胸の中には痛切な祈りが生まれてしまう。優しさや、温かさや、笑顔や、平穏がそのままに長く続けばいいと願わずにはいられない。大事なものは儚くてたやすく失われてしまうから、シロエは自ら願うのが怖かった。強欲だと思われるのが怖かった。
しかし願わなければ手に入らないものもあって、いまそれはシロエの役目なのだ。
多分それはシロエの両親がかつて望んだことでもあるだろうし、〈円卓〉に集ったギルドマスターが願ってきたことでもある。
アインスも、アイザックも、そのほかのみんなも、自分のために欲していたわけではないのだ。誰もが守りたい人々のために誠実であろうとして、その結果として合意することができなかった。
――お姉ちゃんらしく。
シロエはロエ2の手紙の一節を思い出した。
〈航界種〉も他人の未来を光に祈ることがあるのだ。
それに気がついたとき、シロエの胸を熱く締め付けるものがあった。杖を握る拳にじんじんと痛むほどの力が入る。それは不快ではなく、身体の中に渦巻く。
シロエは断ち切るようにたたきつけた。
「タリクタン。それはできない」
「――この仮初めの世界から帰還が果たされる」
そのタリクタンの言葉が引き金だった。
やはりそんな条件には応じられない。
そしてその思いをシロエは仲間と分かち合っていた。
「まっぴらごめん」
「信用できませんもの」
「いまさらですにゃ」
そのほかあらゆる謝絶の言葉が攻撃と共に吐き出される。真実かどうかはいま問題ではなかった。
トウヤは言った。帰るのは、全部済ませた後だと。
結局僕たちは強欲なんだ。シロエはいつもだったら恥じてしまうような思いをいまは率直に見つめることができた。僕たちは、この足で世界を歩いて、踏破したいんだ。正しいことか間違いなのか、それはわからない。けれど、判らないから未踏の景色の中で自らを問いたいんだ。
この世界が仮初めなのかそうでないのか、それはシロエたちが決めることだ。神様にだって邪魔はさせない。ウィリアムはそう叫んだ。赤面ものの告白だったと思う。だけどシロエだって同感だ。
真実はある。直継やアカツキと出会い、旅をして、空を駆け、にゃん太班長にふれて、ギルドを立ち上げた。双子を引き取って、仲間が増えた。〈大地人〉と話をした。歳の離れた友人ができた。馬鹿騒ぎで夜更かしをしたし、寝顔に毛布をかけたことだってある。それらが真実ではないはずがない。この世界は仮初めではないのだ。この世界に生きるすべての人々が命を吹き込んでしまった。仮初めとして始まったかもしれないが、だからといってそのままでいなければならないわけがない。
だからタリクタンの無機質な誘惑に答えることはできない。
「眠りにつけ全てのものよ。眠りにつけ全てのものよ」
もはや取り繕うことすら忘れたのか壊れたようにうなりを繰り返すタリクタン。その身体がいびつな水風船のように膨張を開始した。褐色の老人だった姿は白髪を解けたビニールのように纏わせて直継を弾き飛ばして巨大化する。
「HP残り十五パーセント、最終フェイズですわ!」
リーゼの叫びが背後から聞こえた。大規模戦闘ボスにままみられる特徴で発狂などと呼ばれる状態だ。HPがある一定割合以下になると姿や攻撃パターンが変更される。たいていの場合大幅な強化を伴うことになる。しかし攻略部隊はひるまなかった。それどころかより一層の激しい攻撃を加える。
凍り付くような風が背後から吹き寄せた。〈幻想級〉アイテムの効果を使用したものがいる。きらめく茜色の魔法光は〈神楽舞〉を踊るナズナとミノリが、前線の戦士たちに立て続けに〈障壁〉呪文を投げかけているのだ。
打合せをせずともみんなが理解をしていた。攻撃力を増したタリクタンの相手を長時間続けることは不可能だ。押し切るしかない。
シロエは胸のつかえを吐き出すように叫び、矢継ぎ早に呪文を編んでは繰り出す。〈エレクトリック・ファズ〉を囮のように打ち出して〈ブレインバイス〉で射程をつぶした。〈ナイトメアスフィア〉に重ねて〈マインドボルト〉を叩き込む。
シロエはギルドマスターになったのだ。そして今は攻略部隊を率いている。なにも選ばないことはできない。選ぶことでしか報いることはできない。
シロエには、多くを望む義務がある。ともに歩く仲間のために、やがて出会う未来の仲間のために。
宙高く身をひるがえしたアカツキと視線が交差した。
シロエは頷いて、そのあとに自分がなぜ頷いたかを理解した。高密度の戦闘連携が感じさせた錯覚なのだと冷静な自分が囁く。しかし、いま、確かにシロエはアカツキの魂に触れた。それは怒りに似ていたけれど対象を持たない、もっと透明な激しい決意であって、その思いはびっくりするほどシロエと重なっていた。
「仮初めじゃ嫌なんだ!」「一緒に歩いたあの浜辺は」
シロエの〈ソーンバインド・ホステージ〉が白く膨張を続けるタリクタンの巨体に着弾し、紫色の茨が顕現する。吹きすさぶ吹雪と雷光と、押し返す大規模戦闘チームの前線の上空で、アカツキは何度も何度も翻った。ちらつき、明滅して、幾重にも重なったアカツキは逆手に構えた小太刀をふるう。
アカツキの口伝が彼女の姿を分割し、その斬撃は驟雨のように秘伝級〈ソーンバインド・ホステージ〉を弾けさせる。シロエは滑らかに準備されていた呪文を解き放つ。もう一度〈ソーンバインド・ホステージ〉、その着弾はアカツキが掻き消えたコンマ五秒以下にすべりこんだ。
「僕たちは贅沢だから」「そんな場所じゃない!」
アカツキは止まらない。失敗の予想なんてしていないのだ。それはシロエも同じだったから、結果を見届けもせずに循環を次の段階に進める。
ほとんど時間差なく相手を縛り付けた〈ソーンバインド・ホステージ〉。そこからさらにアカツキの五連撃。合計して十の茨と、十の分身斬撃。当たり前のように連携をこなした黒髪の少女は姿をぶれさせて虚空に駆け上がった。
「〈希求の一閃〉ッ!!」
ひときわ大きな落雷の轟音と焼けこげるような音に、タリクタンは内側に吸い込まれるように暗黒の泡となり、直後、消滅した。
ヤマトを騒がせた〈シブヤ月蛾城塞大規模戦闘〉は、こうして幕を閉じたのだった。