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ログ・ホライズン  作者: 橙乃ままれ
ゲームの終わり(下)
35/134

035

『……助けて下さい。シロエさんの力が必要(、、、、、、、、、、)ですっ』

 胸の中にしっかりと閉じ込めた喪失感を押し殺した声に、シロエは変事を直感した。


 ミノリが自分を目指していた事に、シロエは気が付いている。

 シロエが戦場でやる事の全て、それこそ歩き方から、何気ない癖、考え方まで観察して覚え込もうとしていたミノリだからこそ、シロエのほうも自分の知っている程度の知識は何でも教えてあげたかった。


 そしてその教えにミノリはいつだって100点以上の努力で返してくれた。


 いったいミノリが元の地球でどんな人生を送ってきたか、シロエは知らない。尋ねた事もない。でもミノリの中に見える責任感は、シロエがついに持ち得なかった徳だ。シロエには自分が逃げて回っていた自覚がある。自分で自分の居場所を作ると云う事から、だ。


 ミノリはそこから逃げない。

 いままでも逃げてこなかったし、これからも逃げないだろう。

 最初から自分が戦う場所を自分で決める少女なのだ。

 自分を慕ってくれるのは嬉しいが、自分こそミノリの確かさに救われているんだけどな、等とシロエは考えていた。


 だから、ミノリがシロエに「頼った」事はないように思う。シロエを信頼してくれ、おそらく気を許してくれ、学んでくれようとはしたけれど、甘えてくれた事はないように思う。

 それは彼女なりのプライドのありようなのだろう。シロエはそこまで含めて、ミノリという少女を評価していた。


 そのミノリがまるで今にも零れそうになる涙を必死に食い止めるような声で念話をかけてきたと云う事に、他の誰でもなく自分を頼った事にシロエは弾かれる。天幕の入り口から覗く外の景色は、もはや紫色に近づきつつある夕暮れだ。


『犠牲者が出ました。ルンデルハウスさんです。彼は……』

 ミノリの離す念話の声の後ろで、乱れた呼吸音と叫ぶ声が聞こえる。


 念話機能は、出来の悪い携帯電話のようなものだ。

 受信側は音声再生が鼓膜付近なので周囲に音が漏れる心配はないが、話す側は口頭で喋る必要もあるし、周囲の音も拾ってしまう。

 どうやらミノリはまだ戦場か、その近くにいるらしい。周囲が騒がしい感じだし、女性の声が聞こえる。


『彼は』

『ルディは……〈大地人〉です』

 突然声が割り込んでくる。

 その声は、ミノリが云っていたバードの少女、五十鈴だろうとシロエは当たりをつける。他人の念話にここまではっきりと声を通すとは、今彼女はミノリの唇に自分のそれを触れあわさんばかりにして喋っているはずだ。


 シロエはその一言で全てを了解した。

 机を蹴飛ばすように立ち上がると、すぐ近くに置いてあるマジックバッグ一つを背負って、天幕の外へ飛び出す。吹き鳴らす笛は二度、〈鷲獅子〉(グリフォン)が到着する時間も惜しんで、馬術庭園中央広場へと向かう。


「状況報告を、ミノリ」

 大きな三歩で広場に入り、手近な念話担当者を捕まえると、カラシンを呼べと怒鳴る。


『チョウシの町防衛中に熾烈な戦闘が発生。戦闘には勝利したものの、その過程でルンデルハウスさんが致命傷を負いました。蘇生呪文は失敗、ただし、体温も脈拍もあります……。でも、意識が戻りません』


――蘇生呪文は失敗。


 天を横切ってきたグリフォンにシロエは半ば以上無意識のまま飛び上がる。自分の後ろにぴったり影のようについてきたアカツキが、するりと腕の中に収まった事にもほとんど気が付かず、腹帯をしめたグリフォンに軽く合図を送った。

 よく訓練された大型の騎乗魔獣は、その小さな合図だけを頼りに暗くなり始めた夜の空へと飛び上がる。


『脈拍は弱っていっている……と思います』

「もう一度蘇生呪文っ」

『2回やりましたっ。目を覚ましません……』


 蘇生呪文は、死んだ仲間を蘇らせる呪文だ。

 こう云うと奇跡的な呪文だが、難易度はそこまで高くはない。レベルで云えば、20を越えた回復職は全員覚える。実をいえば蘇生呪文にも等級のような概念があり、低レベルのそれでは、蘇生は成功するものの、経験点が失われるのだ。

 ミノリが2回それを試した後にシロエに念話を入れたのはそれが原因だろう。


(いや、それ以上に……)


 〈大地人〉は〈冒険者〉ではない。死亡した場合、その死は絶対的なもので、大神殿で復活する事はないのだ。念話の向こうでは押し殺したようなすすり泣きの声と、話しかける声が背景音として聞こえる。


「場所とそこにいるメンバーを列挙」

『わたし、トウヤ。五十鈴さん。セララさん。そして蘇生しないルンデルハウスさん。場所はチョウシの町の中央付近、大十字路』

「安全確保は」

『周囲に敵影無し。ただし、護岸地域でおそらく戦闘は継続中。ここにもゴブリンがいつ攻めてくるか……』


 ――終わっている。

 〈大地人〉が戦闘で受けたダメージの結果、その命を落とそうとしているのだ。もはや、状況としては終了していると云って良い。たしかにリ=ガンの話によれば、魂魄(こんぱく)の分離が為されていないわずかの間ならば、〈大地人〉にも蘇生呪文に効果が望めると云っていたが、その蘇生呪文が効かないとなると、もはや状況は「落魄」に達していると云えた。


『シロエ兄ぃ、ルディのやつを助けてくれよっ』

 いきなり耳元に強い声が聞こえた。


『ルディ兄はねっ。バカだけど、間抜けだけど、強くて格好良いんだよ。ルディ兄は俺達を助けようとしたんだよっ』

『ルディを連れてきたのはわたしなの。ううん、わたしじゃないんだけど、ルディが来たがったのを止めなかったのっ。シロ……エさんっ。何か出来るならっ』

 混乱したような声は先ほどの少女、五十鈴とトウヤだ。


――必要です。


 ミノリの言葉が耳に響く。

 その言葉がシロエの意識をどんどん冷却していく。


 イメージは冬の夜の霜が落ちそうなアスファルト。そのアスファルトに横たわり、体温が失われてゆく自分。不吉ではあるが、この上なく清澄な、それがシロエの『開放』のイメージ。

 制限を解かれた思考が暴走を始める。全ての経路を探索すべくバラバラになったイメージが可能性の組み合わせ(マトリクス)を検証する。


(ミノリが頼るなら、助けなくてはならない)


 それは意志ではなく、もはや前提だ。

 前提を充たすためにシロエは高速思考を続ける。


「セララに指示。蘇生呪文を詠唱」

『はいっ』

 間髪いれずにミノリからの返答が返る。

 なぜ、とも、それは効果がなかった、とも反駁はない。ミノリは完全にシロエを信頼している。“シロエならば何とかしてくれる”と信じて念話通信を入れてきたのだ。


 それはもちろん都合の良い思い込みだろう。

 シロエにだって出来ないことはある。いや、むしろ、出来ないことの方が圧倒的に多い。何も出来ない、と云いっても良い。

 だがそれは些細なことだ。出来ないことは、出来ないのだ。出来なかった“後に”それは考えればよい。今大事なのは、ミノリが“シロエなら出来る”と信じたことで、そうであればシロエの出す答えは一つ。


 自分ならば出来る、と信じてみることだった。


 信じる気持ちがシロエの中から不可能だと除去していた組み合わせ(可能性)を再構築し、新しい角度から光を当てる。


『脈拍が強くなった気がします……。けど、意識は戻りません』

「150秒待機。トウヤは周辺警戒。五十鈴さんはMP回復歌を。150秒後に今度はミノリが蘇生呪文」

『はいっ』


 シロエはリ=ガンの話を思い出す。

 ルンデルハウスは死亡した。〈大地人〉であっても〈冒険者〉であっても、死は、死だ。この異世界における死とは肉体活動の停止から始まる。まず最初に身体は動かなくなり、身体と精神は切り離される。

 精神の側は暗闇にとらわれた状態となるはずだ。

 この現象は(こん)(はく)の間の情報疎通が、不通になるために発生するのだという。


 そして(はく)の拡散が始まる。

 (はく)は肉体の根源的なエネルギー「気」だ。この過程を落魄(らくはく)と呼ぶ。肉体のエネルギーは頑強で高レベルの肉体をもつ存在ほど大きくなる。つまり、落魄(らくはく)に時間がかかる。


 ルンデルハウスは肉体的には脆弱な魔法攻撃職で、しかもまだ中堅レベルにも達していなかった。落魄(らくはく)の進行は早いだろう。おそらく……。おそらくだが、蘇生呪文が遅かったのだ。

 回復職の用いる〈蘇生魔術〉とは、落魄(らくはく)中の肉体に向かって、(はく)の補充を行ない「魂の器」として再構築をはかり、(こん)と再結合する魔術である。

 周辺の大気に拡散してしまった(はく)を集め、足りない「気」については、回復術者自らの「気」を使用して、肉体を復元してゆく。


 体温がある、脈拍があると云うことは肉体再生については一定の効果があったと考えられる。意識が戻らないのは、(こん)と再結合が上手く行っていないのだ。

 その状況であるならば、おそらく。


 (こん)の拡散――散魂(さんこん)が始まってしまっていたのだろう。(こん)は精神的なエネルギーにして精神の乗り物だ。肉体を失った(こん)は霧散を始める。同様に(こん)を失った精神は、同一性を保てずに失われる。


 まだ低レベルだったルンデルハウスは落魄(らくはく)の最中に、散魂(さんこん)までもが始まってしまったに違いない。

 〈冒険者〉であれば大神殿に転送され、自動的に肉体が修復され、(こん)は修復された肉体に接続される。肉体が失わなければ、散魂(さんこん)は発生しない。つまり、肉体的な死が訪れたとしても、精神の死は訪れない。新しい肉体による復活――不死だ。


『150秒経過。蘇生呪文を投射します』

「150秒後にもう一度セララの蘇生呪文。今そっちに向かっている。そのまま交互詠唱で8分保たせて」

 ミノリの報告が聞こえる。ミノリ達20レベル前後の蘇生呪文はかなり原始的だ。詠唱に時間がかかり無防備なために、戦闘中の使用は実質的に不可能だし、再使用規制時間は300秒にも及ぶ。


 しかし、幸いルンデルハウスの近くには、まだ駆け出しとは云え、セララとミノリという2人の回復術者が居る。


 300秒の再使用規制時間は、蘇生呪文の交互使用により150秒まで短縮される。MP消費の激しい蘇生呪文をどこまで連続使用できるかは、今のシロエには判らないが、それに関しては現場に任せるしかない。


 散魂(さんこん)の直接の引き金は、落魄(らくはく)の進行だ。返るべき肉体が喪われることが、精神的エネルギーの拡散を招く。もう始まってしまっている散魂(さんこん)を何処まで止めることが出来るかは、ミノリ達の蘇生呪文にかかっている。


 あとは――。


「アカツキ、僕を支えて」

 シロエの言葉で、腕の中に収まっていたアカツキは身体をひねって、シロエを向き直る。先ほどから何一つ声を立てなかった同乗者は、グリフォンの背中という恐怖を催すような環境でもぞもぞと向きを変えると、肌を裂くような夜の風の中でシロエにぎゅっと抱きついてきた。


 シロエは軽く目を閉じると、〈バッグ〉の中に入れてあるアイテムをイメージして手を差し入れる。必要なアイテムが何かは判らない。そもそも成功するかどうかも判らないのだ。

 しかし、それでもシロエはこれから行なう“魔法”にふさわしいアイテムを探しだした。シロエが時間をかけて調合したインク。世界に1瓶しかない魂の欠片だった。




 ◆




 夕暮れの中、女騎士に付き添われたレイネシアは戦場へと到着した。

 渓谷のこの近辺はクラスティ率いる打撃部隊の勢力圏内であり、一定以上の安全は確保されているとの連絡を受けており、レイネシアは次の観測地点へと移動中である。


「う……」

「大丈夫ですか?」

 書類を抱えた女騎士は、さして気にとめる様子もなく、それでも声をかけてくる。亜人間や〈大地人〉の死は素早く訪れる。放置されていれば、その死体は半日と保たず霧散するのだ。


 しかし、この戦場はたった今生産されたばかり。

 血臭も生々しく、レイネシアには刺激が強い。幸い夏の風が緑の間を吹き抜けてくるために、想像していたよりはまだましだが、それでも視線を足下に向けることは出来なかった。


 女騎士は歩を進める。

 この先にいるクラスティと合流し、報告および作戦詳細の確認をするのだと、レイネシアは聞いている。


 女騎士――高山三佐と名乗る女性は、自分を戦域哨戒(フィールドモニター)班であると、レイネシアには告げていた。

 戦闘、特に大規模戦闘や視界の悪い場所における戦闘では、実際その先陣を戦いながら、全体状況を把握することはきわめて難しい。

 そこで、〈D.D.D〉では、実際に戦う大規模戦闘部隊(レギオンレイド)とは別に、小隊から中隊規模の戦域哨戒(フィールドモニター)班を置く。戦域哨戒班は遠距離から戦場全体を光学機器や魔法などにより監視して、戦闘情報を前線司令官に逐次報告するのが主な役割だ。


 高山三佐は〈D.D.D〉においては、高位の士官であるとレイネシアは把握していた。これは、高山三佐に対する周囲の態度からである。


 あらかじめ、あまり木立の中をかき分けないでも済むようなルート確認をしておいたお陰で、渓谷の底へ降りるのは思ったよりも時間がかからなかった。護衛の騎士につきそわれ、レイネシアは幅5mほどの渓流が流れる石河原までたどり着く。


 この場所は、高台から見ていた戦場の上流に当たるらしく、ゴブリンの死骸や戦闘の形跡はない。サラサラと涼やかな流れの音は、夏の暑気を追い払うようだ。


 周囲には思い思いの格好でくつろぐ、クラスティ達の部隊の面々が休憩をしていた。上半身裸になって水を浴びる者や、武器の手入れをする者など様々だ。

 ここは戦場のまっただ中ではあるが、いま現在は付近に敵部隊の展開はないと云う事で、交代制の斥候部隊以外は休憩を取っているとの事だった。


 レイネシアは姫として、もちろん騎士団の閲兵経験はある。

 しかしそれらは、多くの場合バルコニーからであったり、しつらえられた台の上から挨拶を述べる形であったりした。時に訓練場へ行き、歩きながら騎士へ声をかけることもあったが、そのとき、マイハマの騎士などは槍を揃えて整列をしたものだ。

 だから、このように砕けた、貴族的な常識で云えば礼を失した騎士の間を歩き回った事などはない。


 もちろんレイネシアは〈大地人〉でありマイハマの娘である。例えアキバの街が〈自由都市同盟イースタル〉に所属したとしても、直接の主従関係はない以上、レイネシアに敬意を払う義務はない。

 レイネシアとしても、そんなところで気分を害するつもりもないし、彼らは異文化を持つ〈冒険者〉だと段々に納得してきても居る。


 むしろ驚くのは、彼らがレイネシアを無視しなかったことにだ。彼女たちが通りかかると、〈冒険者〉は大きな声で挨拶をしてくるのだった。


「安心してくれよ。姫さんよ。こんな戦はすぐ片付けてやっからさぁ」

「たかがゴブリンどもなんて、俺たち先遣隊だけで充分だ」

「姫さん、こんな所に来て大丈夫なのかぁ? ああ、高山女史と一緒なのかぁ。くわばらくわばら」

「ははは! 姫さん、うちの御大将はこのさきだよ」

「流れ矢なんかにあたらねぇよに気をつけてくれよなっ」


 話に聞く傭兵とはこのようなものだろうかと思うほど、荒っぽい言葉なのだが、レイネシアは不思議と悪い気持ちはしなかった。〈冒険者〉がレイネシアのことを侮って軽口を叩いているわけではなく、彼らにとってはこんな口調が普通で、親しみを込めて話しかけてくれたことが判るせいだろうか。


 レイネシアは引きこもりである。

 基本的に、他人と会話をしたりコミュニケーションをとるのが苦手だ。


 今までその種のイベントに対しては、厳しい教育で身につけた「完璧なる令嬢」というマスクで対応をしてきたのだが、どうやらそれは〈冒険者〉相手には上手く機能しないらしいと云うことは、すでに学びつつある。

 〈冒険者〉は貴族の文化とは馴染みがないし、こちらが黙って困った顔をしたり小さく頷いたり、悲しそうに眉を曇らせただけで勝手に誤解をして動いてくれるわけではない。


 そこでレイネシアとしては珍しく真剣に考えた結果、コーウェン家の令嬢として決して恥にならぬように、しかし、最大限〈冒険者〉の簡素な礼儀作法にあわせた、レイネシア独自の新しいやり方を生み出すに至った。


 つまり、右手を胸の辺りの高さまで上げて、微笑みながら小さくふるのである。何かをアドバイスしてくれたり、話しかけてくれた冒険者には、きちんと話の内容を吟味してから、「ありがとうございます」と簡潔に礼の言葉を述べる。いずれにせよ虚飾は廃すべきだろうというのが、レイネシアの出した結論だった。

 貴族的に云うと、これは礼儀作法以前の態度で、相当に手抜きで無礼な挨拶ということなのだろうが、相手は〈冒険者〉であるし、ここは戦場なのだから、これくらいがよいのではないだろうか? と考えたのだ。


 レイネシアは全くそうは考えていなかったのだが、その可愛らしい仕草や、素直な微笑みは、打撃部隊の騎士達には、非常に好感を持って迎え入れられたようであった。


 今回の混成打撃部隊は、クラスティ指揮下に入るに当たって、その指揮が行き届くように〈D.D.D〉の部隊を中心に編成してある。だが、それだけでは、〈円卓会議〉における〈D.D.D〉およびクラスティの発言力が強くなりすぎること、〈円卓会議〉の結束を示すような編成であるべきであることなどの理由で、約半分は〈D.D.D〉以外からのベテランプレイヤーを組み込んだ混成軍だ。


 メンバーには〈黒剣騎士団〉や〈ホネスティ〉も含まれているために、マントや記章はバラバラである。だから、貴族的な感覚でギルドを「家門」と捉えていたレイネシアにとって、それはずいぶんと不思議な光景だった。

 貴族社会における「家門」とはなかなかに複雑である。血縁関係や利益が交錯しているために一口では言えないが、一般的に云ってその関係は敵愾心に満ちたものが多い。〈自由都市同盟イースタル〉が未だに統一されないのも、そう言った背景があるのだ。


 しかし、この戦場では、そのような対立は見かけられない。

 もちろん家門ごとの小集団に分かれてくつろいでいるようだが、混成部隊で軽食を取るものも居るし、他人に自分の武具を預けて調子を見て貰うものも居る。足早に歩き回るのは輜重隊だろうか?


 レイネシアは感じていた違和感のもう一つの正体に気が付いた。

 これだけの騎士が揃っているにもかかわらず、従僕や従士を見かけないのである。高山三佐から『より抜きの精鋭部隊』という説明を受けていたし、そういった部隊であれば、弱きものは足手まといなのかも知れないとは思うが、これだけの人数が居て従僕が一人もいないとはどういう事だろう?


(〈冒険者〉の方々は、身分制度からも自由なようですけど……)


 自由である事は判るのだが、それが現実として行動に出てくると、その一つ一つが予想外で面食らってしまうレイネシアだった。


「ああ。判った。引き続き頼む」

 石河原の先、渓流がくねり曲がって淵になった広場で汗を流していたのはクラスティだった。クラスティは鎧の上半身だけを脱いで、汗を拭っている。

 その最中にさえ、〈冒険者〉特有の遠隔通信魔法で連絡を取っているのか呟き続けていたが、高山三佐とレイネシアの一行を見ると、ちらりと振り返った。


 クラスティは焦りもせずに、固く絞った布で引き締まった身体を拭いている。そんなクラスティの鷹揚とも冷静とも云える落ち着きに馴れているのか、高山三佐は近寄るとレポートを片手に口早に報告を始めた。

 クラスティは背を向けたまま、それに耳を傾けている。


(結構すごい身体してるんですね……)


 宮廷で上品な服を着ているときはそこまで感じなかったのだが、こうして裸の背中を見ていると。それは圧倒的な膂力を感じさせた。筋肉のみっしりついた背中はある種の野生動物じみた美を持っていて、レイネシアは我知らずそれを見つめてしまう。


(……。っ! 何を見ているんですかわたしは)


 頭を振ってへこたれるレイネシア。

 クラスティと居ると、調子を崩される事ばかりだ。

 穏やかなマイハマの自室が懐かしい。レイネシアは本当に引きこもりで、食っちゃ寝の植物的で怠惰な生活が好みなのだ。最大の趣味は日向ぼっこであり、早々に老婆になれたら満喫できるなどと考えるほどだった。

 そんなレイネシアの主義主張からすれば、ここ最近の自分は変節した、堕落したとそしられても仕方がないと思う。


「了解しました。では、次の地点からは周辺監視体制を増やす方向性で」

 高山三佐の報告が終わる頃には、クラスティも着替えを済ませていた。鎧は相変わらずだが、肌衣は代えたらしい。落ち着きをはらった表情は「エターナルアイスの古宮廷」で見せていたものと変わりなく、いっそ腹立たしいくらいだ。


「どうですか戦場は」

 近づいてきたクラスティは尋ねかける。

 身長差があるので、下から見上げるような姿勢になってしまうレイネシアは、不愉快で釈然としない気分になってしまう。戦っている最中の無邪気で楽しそうな顔と、それとはうらはらの消え入りそうな儚さは、いまのクラスティからは感じられない。

 あれは幻だったのだろうかと思いたくなるほどの、取り澄まして、礼儀正しい、『妖怪心のぞき』の方のクラスティが目の前にいるばかりだ。


「怖かったのですか?」

 自分の物思いに捕らわれて返答が遅れたレイネシアに、クラスティは揶揄するような言葉をかける。


「そんな事はありません。クラスティ様が守ってくれると思っていましたから」

 クラスティが宮廷風の仮面をかぶるのならば、こちらにもその覚悟はある。そもそも、貴族的な言い回しで云うならば自分の方が圧倒的に経験があるのだと、レイネシアは言外にそうにじませてやった。


「――随分と人気が出ているようですよ」

 レイネシアがくるっと振りかえると、遠巻きにクラスティとレイネシアを見つめていた〈冒険者〉の群が、ぴたっと静止する。レイネシアとしても、非常に居心地が悪い事態なので、手を小さくふって微笑んでみると、多くの〈冒険者〉が笑顔になって、任務に戻っていくようだ。


「それはどうでも良い事だと思います、クラスティ様」

 話を逸らされた苛立ちを込めて、クラスティに向き直るレイネシア。だいたいクラスティがこんな態度ばかりをとるから、レイネシアの方も宮廷風がよいのか、〈冒険者〉風の作法に合わせればよいのか困っているというのに。


「だいたい――」

 レイネシアがもう一言いってやろうと踏み出しかけたとき、渓谷全体に遠吠えが響き渡った。その声は東側の尾根より響き渡り、遠くからだとはっきり判るにもかかわらず、レイネシアの胸中に冷たい風を吹き込んだ。


「いまのは……」

〈魔狂狼〉(ダイアウルフ)です。相当に巨大なものでしょうが。ヒュージ種ですね」

「……ゴブリン王、ですか?」

「ゴブリン王はこの戦場にはいませんよ。あれは〈七つ滝城塞〉(セブンスフォール)からは出てこないでしょう。これは、ゴブリン将軍の近衛部隊です」

「近衛部隊……」

 レイネシアは我知らず、両手を胸の前で堅く握り合わせてしまう。クラスティ達の勇戦は昨晩見たし、その実力を買ってもいる。しかしレイネシア自身は戦いの事など何一つ判らないし、それゆえ不安を感じてしまうのだ。ましてやクラスティは、戦いの中に溶けて行ってしまいそうな危うさを感じる。


 自重を求めようか、それとも励ませばいいのか逡巡しているレイネシアの耳に、再び魔狼の猛々しい遠吠えが響く。その声を聞いたクラスティは唇を歪めると、酷薄な笑みを浮かべながら呟いた。


「巣の掃除は後回しにして、とりあえずはザントリーフのゴミどもを血祭りに上げるとしようじゃないですか」




 ◆




 チョウシの町の長い中央通りはグリフォンのとって絶好の滑走路だった。翼を微動だにさせず揚力を利用して滑り込むグリフォンの背の上で、シロエはアカツキの頭にそっと触れると「周辺の人払いを頼む。プレイヤーもモンスターも、寄せ付けちゃ、だめだ」と囁いた。

 アカツキは一言も返さずにこくりと頷く。


 疾走する馬よりもなお速い対地速度を気にも掛けずにグリフォンから飛び降りた二人は、〈エルダー・テイル〉の〈冒険者〉特有の身体能力を用いてショックを和らげる。


 だが、同じように地面に着地したが、膝を折ってショックを軽減したシロエに比べて、やはり前衛職のアカツキは、ほとんど重力を感じさせないような動きで前方に疾走、燕のような動きで石造りの建物の屋根にまで飛び上がって、消えた。


 シロエはそれを確認すると、手をふるトウヤに向かって駆け寄る。

 集まっているのはミノリ達五人、その表情には焦りの色が濃い。先ほどの念話に寄れば、〈オキュペテー〉は到着したものの、サファギンの抵抗に当たって上陸は完了できていないようだ。直継達はミノリ達と入れ替わるようにゴブリン方面への防御へと向かっている。


(ま、その方が好都合だ)


 シロエは独りごちる。

 これからやろうとしている「魔法」が成功するかどうかは判らない。理論的な裏付けはあるし、シロエとしてもこれまで実験を繰り返しては来ていた。……勝算は、ある。

 しかし、むしろ術式の精度と云うよりは、そこに注入する魔力もしくは――魂魄の問題で、十分にその出力が出るかどうかが問題なのだ。成功確率は甘く見積もっても五割を切るだろう。


 商店か酒場なのだろうか?

 中央通りに大きく開いた軒先の日陰に、一人の青年が横たわっている。離れようとする気配さえ見えない、涙に濡れた少女が五十鈴だろう。そばかすがチャーミングな少女だった。

 その周囲にはシロエの見知った顔が並んでいる。苦痛を堪えるような表情のトウヤ。心配そうなセララ、そして使命感を秘めたミノリだ。


 シロエは心を落ち着ける。

 周囲の気温はまだ高かったが、逆に頭の中は静まりかえって冬の夜空のようだ。


「ミノリ、ぼくをパーティーに誘って」

「はい」

 ミノリは無駄な事を尋ねずに頷く。アカツキもミノリも、こう云うときには口数が少なくなるのが有り難い。ルンデルハウスと思われる青年を確認する。確かに品の良い貴公子然とした容貌だ。体温と脈拍はあるが、やはり意識はない。パーティーメニューでは「死亡」のステータスが明滅していた。


「五十鈴さんだっけ? そのまま〈瞑想のノクターン〉を詠唱続行。いまから新しい魔法を使う。結果の責任は僕が持つけれど、このことは他言無用だ」

 シロエはあえてきつい口調で新人プレイヤーに話しかけた。

「納得できないなら諦めるか、ここから去って」

 シロエの言葉に、そこに集まった面々は誰一人ひるむことなく首を振る。


「じゃぁ、始めるよ」

 シロエはアイコンから魔術特技を選択する。使用するのは〈マナ・チャネリング〉。〈付与術師〉(エンチャンター)特有の、いわゆる「何に使うのかよく判らない」呪文である。

 その効果は「パーティー全員のMPを全て合計し、平均する」というもの。


(そう……(こん)は精神の乗り物。その乗り物は魔力。であれば……)


 詠唱が響くに従って、パーティ全員からMPが吸収されて、シロエに集ってくる。シロエはこの中では飛び抜けて高レベルだ。

 そのシロエが詠唱した〈マナ・チャネリング〉は、30レベルにも達していない〈冒険者〉にとってはとてつもない重圧だろう。

 ミノリもトウヤも、セララさえも、顔色がどんどん青ざめてゆく。MPがどんどんと吸収されていく、立ちくらみにも似た喪失感に耐えているのだ。五十鈴だけが唯一、蒼白な顔をしながらも、ルンデルハウスの手をしっかり握ったまま、哀切な古謡を口ずさみ続ける。


 シロエは半眼に付せたまま魔術の効果を体感する。

 「パーティーの仲間」から回収したMPのほとんど全てが、シロエに現在握られている。幽かな気配でしかないが、シロエはシロエの中に他人の精神の残り香を感じているのだ。トウヤの一本気な、もしくはミノリの生真面目な魔力の気配。それらが、いまやシロエの管理する魔術野に展開されている。

 その中にはセララのもの、五十鈴のもの、そして他ならぬルンデルハウス自身のMPも含まれているはずだ。

 微妙に味わいの違うMPは、根源的な「精神のエネルギー」として混交され、シロエの導きに従って、魔術的回路を形成し、「仲間」へと接続される。


 シロエはそれらのMPを等分して「再配布」する。


(ぐっ)

 シロエは急激な流出により貧血のような感覚に満たされる。

 彼のMPはこのパーティーの誰よりも大きい。もとより魔術師系でもある〈付与術師〉は全職中、最大量を争うようなMP量を誇っている。その上シロエは90レベルだ。30レベルそこそこの〈冒険者〉とパーティーを組んで「再配分」を行なうというのは、もはやシロエを用いて、仲間のMPを一挙に回復するのと、同じ意味を持っていた。


「ミノリは蘇生、セララは連続ヒールっ」

 ここまでは前座だ。シロエは指示を続ける。時間は短い。おそらくチャンスはただの一度、ただの一言だろう。


 ルンデルハウスは〈大地人〉である。

 〈冒険者〉ではないので、死亡したら復活はしない。

 そしてルンデルハウスは死亡した。

 ゆえにルンデルハウスは復活しない。


 これは絶対だ。覆す事は出来ない。


 だが、しかし〈付与術師〉のマナ再配分呪文により、全員のMPは回復……言葉を換えれば、精神と魂は活発化している。


 そして意識が戻らないとは、(こん)(はく)の間の情報疎通が、不通になるために発生する現象だ。植物人間であると云っても良い。そうであれば、その接続を「無理矢理」再開させるまでだ。


 シロエは2つめの手段をバッグから取り出す。

「ここから先は時間との勝負だ。質問や時間を浪費させるのは厳禁だよ」

 シロエは自分の言葉の響きがまだ空中にある内に〈黄泉返りの冥香〉を使用する。死んだ仲間を、一時的にゾンビにして蘇らせるマイナーなアイテムだ。


 〈黄泉返りの冥香〉。

 それは死んだ仲間や生物をゾンビとして蘇らせ、戦闘に用いる特殊なモンスター精製薬品である。その効果は蘇生ではなく、復活。しかしその効果は短く、3分後には確実な「死亡」が訪れる。〈冒険者〉にとっては問答無用の大神殿送還がそれだ。


 しかし、〈大地人〉であるルンデルハウスは、この状況では(はく)のエネルギーが拡散し続ける、つまりHPがどんどん失われてゆくことになる。〈黄泉返りの冥香〉の効果が切れれば、肉体は滅びるし、肉体に寄りついている精神や魂も、滅びる。


 〈黄泉返りの冥香〉は、活性したルンデルハウスの魂を、肉体に強引に接続する策だ。3分後の確実な死亡と引き替えに、3分間だけ……ルンデルハウスをこの世界に引き戻す。


 それが判ったのだろう。

 大粒の涙をこぼす五十鈴の手が、ルンデルハウスの手をぎゅっと握りしめる。


「あ……」

 うっすらと。まるで夢を見るように瞳を開くルンデルハウス。

 五十鈴はその手を握ると、涙をぽろぽろとこぼす。ルンデルハウスに意識があるのかどうなのかは、判らない。目を開けたのも、ただの肉体的な条件反射であるかもしれないのだ。


「ルディ……?」

「ミス・五十鈴……。ああ、みんな。そうか……。僕は、どうやら……死んじゃったらしいね」

 死亡した後でも、(こん)(はく)の間の接続が切れるだけで、意識は残っている。ゲーム画面で云えば、画面がモノクロになって仲間の戦いの場面を見せられる感じだ。〈冒険者〉にとっては、モノクロ画面の内に蘇生呪文をもらえれば生き返るし、一定時間放置されれば大神殿へと戻る事になる。


 ルンデルハウスはそんな幽霊のような状態で、いままでの事情を把握していたのだろう。小さく笑うと、まだ力の戻っていない声で、周囲に言葉をかける。


「みんな、いやだなぁ。……そんな顔をするなよ。戦いの結果、命を落とすなんて当然だろう?」

「――とう、ぜん」

 トウヤの言葉に、シロエは胸がズキリと痛むのを感じる。

 そう、それが〈大地人〉にとっての「当然」なのだ。


「それでも僕は冒険者になりたかったんだ。ミス・五十鈴を責めるのはやめておくれよ? 頼み込んだのは僕なんだからさ」

「いえ、わたしだって気が付いていましたっ。気が付いていて、放置していたんですっ」

 ミノリが叫ぶように声を漏らす。その言葉で、全員が悟った。いままで冷静に行動してきたミノリも、内面では随分と動揺していた事に、だ。


「はははっ。うん、ミス・ミノリ。ありがとう。……気にする事はない」

「いいや、気にするね」

 シロエは言葉を挟む。

 時間がないのだ。


 シロエはいま自分がやっている事がどれだけ恐ろしい事なのかに思いを馳せた。これは、もしかしたら大きな過ちかも知れない。世界の法を脅かすような行為だとも云えるだろう。

 例え成功したとしても、この一事の余波がこの世界にどんな影響を及ぼすか判らない。また、この「提案」が「世界」からどう受け取られるかだって、予想のしようがないのだ。


 しかし、悟ったような別れの言葉を口にする眼前の青年は、冒険者と云った。


 〈冒険者〉ではなく、冒険者と云ったのだ。

 で、あるならば、この青年はシロエの「仲間」だ。“彼女”から託された末裔でもある。


「いいや、気にするね。ルンデルハウス=コード。この程度で諦めるやつが冒険者を名乗って貰っては困るな。それじゃ全然足りないぞ。……こんな場末の路地裏で果てるために何を学んだんだ。ダンジョンの中で学ぶのは、戦略や戦術だけじゃなく、生き抜く覚悟と、そのためにはどんな事でも工夫するという不屈の精神じゃないのか」

「シロエ兄ぃ」


「全然まったく覚悟が足りないぞ、ルンデルハウスっ」

「どうすればいいって云うんだっ! キミはっ!!」

 ルンデルハウスの瞳の中には悔しさとやりきれなさが一杯に給っていて、潤み、流れ始める。


 だからこそシロエは「魔法」の使用を決意する。

「いいか、聞けっ」


 グリフォンの背で書き上げた、字の乱れる書類をとりだして、シロエはルンデルハウスに突きつける。


「それは……」

「契約書、ですか?」

 シロエがバックから取り出したのは確かに契約書だった。シロエが用いる最高の素材から作り出した「妖精王の紙」に「刻竜瞳のインク」で書いた、この世界にたったひとつしかない手製のアイテムだ。


「契約書。

 〈記録の地平線〉代表シロエは、ルンデルハウス=コードと以下の契約を締結する。

 ひとつ。シロエはルンデルハウス=コードを、この書面にサインが行なわれた日付時刻を以て、ギルド〈記録の地平線〉へと迎え入れる。

 ひとつ。ルンデルハウス=コードはギルド〈記録の地平線〉のメンバーとして、その地位と任務に相応しい態度を以て務める。

 ひとつ、〈記録の地平線〉はルンデルハウスの任務遂行に必要なバックアップを、両者協議のもとできうる限り与える。これには〈冒険者〉の身分が含まれる。

 ひとつ、この契約は両者の合意と互いの尊敬によって結ばれるものであり、契約中、互いが得た物は、契約が例え失効したとしても保持される。

 以上、本契約成立の証として、本書を二通作成し、両者は記名のうえ、それぞれ一通を保管する」


 息をのむ音が聞こえる。

「〈冒険者〉――?」

「それは、シロエさん。それはっ」


 〈エルダー・テイル〉に搭載されては“いない”魔法の開発。

 シロエがその可能性に気がついたのは、かなり以前にさかのぼる。


――つまり〈料理人〉が料理作成メニューを使わないで、普通の手順で料理をする。そうすれば素材の味を生かした料理になるのですにゃ。


 ススキノへの旅の帰り道、にゃん太はシロエにそう云った。

 そしてそれは事実であることが証明される。

 だが、これは何も〈料理人〉に留まる現象ではない。〈円卓会議〉において、シロエは周囲をそう説得したのだ。


 相応しい作成スキルの持ち主が、相応しい個人の能力を用いて、ゲームのアイテム作成メニューに頼らずに何かを作り出せば、この異世界のルールを変更できる可能性がある。


 にゃん太の発見が真に意味するのは、「それ」であったはずだ。

 その発見から二ヶ月。シロエはシロエの思い描くものを研究し、実験し続けていた。〈円卓会議〉設立騒動の時の「隠し球」として用意された案ではあるが、その後の研究によりさらに情報は蓄積され、進化している。

 そしてリ=ガンの語った「魂魄理論」によりインスピレーションが与えられたシロエの研究は、ここにひとつの果実を実らせようとしていた。


 ルンデルハウスは〈大地人〉だ。

 そして3分後には確実に、死ぬ。

 〈大地人〉は復活できない。

 ゆえにルンデルハウスは消滅する。


――ならば。

 そう、答えは明白だ。「3分間の間に、ルンデルハウスを〈冒険者〉にする」。


 より簡単な契約書や、様々な種類の書面であれば〈筆写師〉が作り出せる事は、実験で判明している。「クエスト依頼書」や「借用書」などの、魔法的な効果や拘束力を持ったアイテムさえ、〈筆写師〉の十分なレベルと魔法的な素材を用いれば作り出す事が出来るのだ。


 しかし、それら契約書の中でも、今回のものは最大級だ。

 〈大地人〉をギルドに加入させ、その身分に〈冒険者〉を与えるという契約は、シロエから見ても詐欺同然の手口である。だが、だからこそ、その要求をかなえるために、90レベルの〈筆写師〉技能と、〈エルダー・テイル〉時代に集めた最高級の魔法素材を惜しげもなく消費したインクを用いたのだ。


 シロエはルンデルハウスの鼻先に、契約書をつきだした。

「僕のサインは入れてある。後はキミだけだ」

「――け……ん……しゃ」

「君が望むなら」

 掠れたような呟きを漏らす、泥にまみれた〈妖術師〉(ソーサラー)の青年にシロエは声を掛ける。


「これはリスクのある契約だ。キミはこの契約によって何らかの変質を受け、いままでとはまったく違った存在になってしまうかも知れない、。〈冒険者〉はこの世界ではまだ新顔で、今後どのような騒動に巻き込まれるかも判らない。おそらく君が思っているほどの栄誉は、〈冒険者〉にはない」


「僕がなりたいのは……」

 ステータスに「死亡」のフラグを明滅させたまま、見るみるうちに失われてゆくHPを一別もせずにルンデルハウスは言葉を返す。


「冒険者で、〈冒険者〉じゃない。困ってる人を助けられれば、細かい事は気にしないんだ。……僕は、冒険者だっ」

「では」

 指しだしたペンを震える手で掴んだルンデルハウスは、そのペンを取り落としてしまう。〈黄泉返りの冥香〉の効力は切れかけている。おそらくいまのルンデルハウスは、(こん)(はく)の間の情報疎通がいまだに不確かなのだ。


「ルディ……。大丈夫」

 その手を五十鈴が支える。


「ルディと一緒に、わたしも書くから」

 後ろから抱きかかえるようにルンデルハウスを支えた五十鈴が、それを手伝うトウヤが。回復呪文を詠唱し続けるミノリとセララが、ルンデルハウスの署名を見守る。


 震える指先は仲間の励ましで温められ、魔法のインクはルンデルハウスの署名となった。燃え上がった署名の輝きは黄金色の燐光となり、シロエの技は、この異世界に承認されて新しいルールとなる。


「一度死ぬんだ。ルンデルハウス。……君は大神殿で復活する」

 どこかで何か大きなルールが動いた手応えを感じながら、シロエは語りかける。拡散する(はく)が粒子状に舞い上がり、アキバの街へと転送される夢幻のような光景の中で、シロエ以外のプレイヤーは、だれもが呆然とした表情でそれを見つめていた。


 後に“東の外記(げき)”という新しい二つ名をシロエが得る、それは原因となる『魔法』の開発だった。




 ◆




 戦いは再び闇の中で行なわれていた。

 ザントリーフ中央丘陵、その中心部。


 前回と同様、戦いはとある渓谷で行なわれている。前回との違いは、その舞台となる渓谷の広さと、衝突の規模だろうか。なぜ渓谷が戦いの舞台に選ばれるのかと高山三佐に問えば「大部隊が集まるにはそれなりに開けた場所が必要ですし、木々が生えた山中では、部隊配置はともかく本陣はおけませんからね」という答えが返ってきた。


 そう考えれば、レイネシアにも納得が出来る。

 亜人間とは言え〈緑小鬼〉(ゴブリン)も最低限の知能はある。軍事行動をすれば、自ずと一定のセオリーに従わざるを得ないのは、理の当然だろう。


 そして、戦いの部隊が渓谷ともなれば、当然その渓谷を見下ろす尾根はいくつも存在する。

 今回高山三佐ら観測班が選び出したのも、渓谷を見下ろす事が出来る尾根のひとつだった。前回とは違い、今日は観測用のテーブルなどが最小限しか用意されていない。移動の必要性が読めないせいでもあるし、レイネシアが固辞したせいでもある。どこかほっとしたような高山三佐の態度から、レイネシアとしては前回はやはり気を使われていたのだろうな、と推測した。


 だが、それら全ては些末な事である。

 レイネシアの興味は、もう谷底で行なわれている一戦に集中して居た。それは高山三佐らも一緒だったろう。


 〈魔狂狼〉(ダイアウルフ)を無数に従えた部隊は、高山三佐の解説に寄ればゴブリンの調教師(テイマー)であるらしい。野蛮なゴブリン族は人間のような複雑な社会は持っていないが、原始的な職能分担や、階級は存在する。


 ゴブリンのほとんどは軽戦士、もしくは投げ槍兵だが、一部のゴブリンは特殊な職能を持つことがあるとのことだった。その代表格が調教師(テイマー)祈祷師(シャーマン)だ。ゴブリンの調教師(テイマー)〈フクロウ熊〉(オウルベア)〈翼鷲馬〉(ヒポグリフ)〈魔狂狼〉(ダイアウルフ)等を飼育していることもある。


 眼下の渓谷に展開している部隊は、ここから見ただけで数百の〈魔狂狼〉(ダイアウルフ)を引き連れている。その様子はまるで意志を持った闇の地面が蠢く様にも似て、悪夢の光景だった。


「どうやら、あれは特殊飼育された一種の変異種のようですね」

 高山三佐は冷静に言葉を続ける。

「以前の大規模戦闘(レイド)で交戦した経験があります。アンデッドの障気を浴びせて飼育した、毒の牙を持つダイアウルフです。これだけの数を集中運用するとなると、ゴブリン王配下についた部族に調教師を抱える一族があったと云う事ですが。……興味深いですね。〈エルダー・テイル〉にもこんな詳細な裏設定があったとは」


「だ、大丈夫でしょうか……」

「心配するだけ馬鹿らしいですよ」

 高山三佐はあくまで突き放した態度だが、レイネシアはそこまで楽観は出来ない。渓谷に広がったゴブリンの部隊はやはり数百を超えるように見え、その中心にはゴブリンの将軍がいるはずだ。異国風の天幕や、巨大な車輪をつけた移動要塞がそれなのだろう。


 レイネシアだって、あんな妖怪騎士の心配をしているわけではないが、それにしたって彼の部下も騎士なのだ。この戦で死に……はしないのだろうが、大怪我を負ったり、非常な苦しみを受けるなら、それは心苦しい事だ。


 しかし、そんなレイネシアの心遣いとは関係なく、戦端はあっさりと切って降ろされた。

 クラスティたち打撃大隊が組むのは、正方形に近い隊列である。


「四角い……。綺麗」

「方陣と云うんですよ。それから、陣形です」

 高山三佐は手が空いたのか、レイネシアの隣に近寄ってきた。


大規模戦闘(レイド)の陣形では比較的ポピュラーですね。レイドの部隊編成は4の倍数を基本にしていますから、指揮面でも方陣は組みやすいのです。正方形には4つの辺がありますからね。

 方陣というのは、大まかには防御の陣形です。戦士職を中心とした近接攻撃可能な人材で前面を構成し、その後ろから遠距離攻撃職が主に魔法攻撃を行ないます。

 密集隊形ですから、敵に強力な範囲攻撃の使い手が居るときは下策ですが、獣の群のような敵を相手にするときは、鉄壁の守備力を見せるでしょうね」

「それじゃぁ……」


 レイネシアの想像は当たっていた。

 強力な前線はダイアウルフの攻撃を易々とはじき返し、後列からは次々と弓矢や魔法が打ち出されるのだ。暗視用の軟膏でレイネシアの視界は夜闇のなかでも確保されているが、それさえも必要ないほどの火柱が戦場のあちこちで上がり始める。


「そろそろ動きますよ」

 高山三佐は戦場をまっすぐに指さす。

 その指先に導かれるように動き出したのは、方陣全体だった。台形のように多少その形を崩しながらも、四角い領域は、確実に相手の兵力を削りながらも前進を開始する。

 防御的な陣形と高山三佐は云っていたが、それはまったく当てにならない評価だった。


 レイネシアは初めて見る大規模戦闘であったし、城の騎士による防衛戦も直接目にした事はないので比べてみる事も出来ないが、眼前の光景は到底「防御」という言葉で表せるようなものではない。


 あえて云えば、四角い穴だ。

 クラスティ率いる大規模部隊(レギオンレイド)はゴブリンの大軍に開けられた漆黒の穴のようなもので、そこに触れるものはゴブリンであろうと、ダイアウルフだろうと、何の遅滞もなく「処理」されてしまう。

 狂気さえも感じさせるほどの攻撃力を持った「穴」というのが、レイネシアの抱いた印象だった。


「さて、よく見ていて下さい」

 その時、方陣の中央部分から、巨大なかがり火のように、燃えさかる炎の鳥が四羽飛び立った。輝くオレンジと深紅の炎をまき散らす巨鳥は、明らかに召喚生物だ。しかし、レイネシアはそんな召喚生物を知らない。召喚生物というのは、レイネシアの知る限り握り拳から子犬くらいの大きさのものであり、あのような猛々しい気品を持った生き物は見た事がなかったのだ。


「86レベルで契約できる〈不死鳥〉(フェニックス)ですね。炎の属性を持つ上位精霊であり、召喚術師の中でもクエストをクリアした資格者が契約できるわけです。……どうしたんですか?」


 どうしたもこうしたもあるだろうか?

 あのイキモノは、あろう事か燃えて居るではないか。


(な、なっ。なんてことが出来るんですか、〈冒険者〉の方々はっ。反則も良いところではないですかっ!?)


 レイネシアはこの期に及んでやっと判ってきたのである。

 クラスティの態度は決して虚勢ではなく、あれが自然体なのだ。

 高山三佐が「心配するだけ馬鹿らしい」と云ったのも当然だ。

 確かに戦場では何が起きるか判らない。しかし、その何が起きるか判らない戦場に「好きこのんで」立つ男も、世界にはいるのだった。


 爆音とともに砕け散るのは、ゴブリン将軍の巨大武装車だった。粉々になった戦車からは重武装の近衛兵や、巨大な体躯をもった厳めしいゴブリンが飛び出してくるが、それに対してクラスティの軍はさらに迫る。


 レイネシアの耳は聞こえないはずの声を捉える。

――それでは食い散らかしてやるとしましょう。落ち着きをはらった、しかし唇に蜜を乗せたような愉悦を伴って囁かれるその声は、確かにクラスティのものだ。

 念話能力の無いレイネシアがこの距離を隔ててクラスティの言葉を捉える事は出来ないが、しかし彼女は確かにその声を聞いたのだ。


 振り下ろしたクラスティの巨大な両刃斧が敵を指し示すと、方陣から伸びる漆黒の槍のように、攻撃部隊が飛び出した。双剣を構えた戦士の一団が、ゴブリンの群をまるで薄布のように易々と切り裂いてゆく。


 ゴブリンの将軍が装飾華美な槍を振り回して怒鳴り立てているようだが、それも、月を隠すように立ちはだかったクラスティの影が彼を飲み込むまでの事だった。


「メインディッシュはお終いです。……あとは参謀本部の包囲網が十全に機能するかどうか、ですね」

 高山三佐の声は、判りきった報告をするかのように冷静だった。


2010/05/30:誤字訂正

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