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ログ・ホライズン  作者: 橙乃ままれ
ゲームの終わり(下)
33/134

033

 レイネシアの去った会議場はまさに混沌とした虚脱感が支配していた。〈円卓会議〉の代表であったクラスティはレイネシアと共に去ってしまった。領主会議から見て参謀格にして穏健派に見えたシロエもだ。


 後に残った〈円卓会議〉使節は、強硬なタカ派に見えるミチタカだけである。


 一方で、領主会議の方は振り上げた拳をどこへと振り下ろせばよいのか判らない。いや、そもそも、拳を振り上げたは良いが、その拳を実際振り下ろせたかと云えば、それは怪しい。会議において事態を収拾する能力と意志がある人物は去り、思惑は混迷していた。


 その後の会話においても、哀れなクレンディット男爵は完全に司会としての能力を失ってしまった。蒼白と紅潮の2つの表情を交互に浮かべると、従僕の必死の看護もかいなく、最後には息も絶え絶えになり退出を願い出る始末。

 クレンディット男爵ほどではないにせよ、どの領主達も多かれ少なかれ、男爵と同じような種類の混乱を抱えていると思われる。


 そのような経緯から、真夜中を迎えたタイミングで、会議はいったんの終了を迎える事となった。


 廊下に出たミチタカは太い息を吐く。


(こりゃー、面倒この上ないな)


 そもそもミチタカは商人ギルドのギルドマスターであるとは言え、細かい交渉や陰謀の駆け引きは得意ではない。商人はよいモノを作り、適正な価格で販売し、市場を開拓すればそれで良しと思っている人間である。


(つか、俺は鍛冶屋だったんだがなぁ……)


 彼自身は今でも現役の職人のつもりだ。〈円卓会議〉に参加してからだって毎日ハンマーを握っている。高レベルダンジョンへ出かけるプレイヤーが減った現在、魔法のアイテムを作るのに不可欠な魔力を帯びた素材が枯渇していて寂しいが、そんなモノは、さぼる言い訳にはならない。

 たまたま、他人とつるむのが好きで、人と話すのに忌避感が無く、中心として成り上がってしまったというのがミチタカの自分自身に対する評価である。


 領主会議から見てタカ派に見えたのは、ミチタカから云えば非礼な馬鹿を一喝しただけであり、〈自由都市同盟イースタル〉全体に対して悪意を持っているわけではない。派兵に反対をしていたのは〈円卓会議〉3人の中での役割分担に近いものであり、彼自身はそこまで派兵に反対しているというわけでもないのだ。


 ――もっとも彼は生産プレイヤーである。街の外部で戦闘を行なう遠征組の〈冒険者〉に比べ、死の危険は少ない。そんな立場の自分が、安易に開戦論に賛成しても良いのかという個人的な罪の意識がある事は否定できない。


(……事が動き出した今となっちゃぁ繰り言か)


 黒髪の間に太い指を差し込んで、ぼりぼりと頭をかく。気分が腐っていて、何ともやりきれない。


 長い無人の廊下を、ギルドのメンバーである男一人を後ろに連れて歩くミチタカは、廊下の曲がり角で何気なくテラスを見た。特に意味があったわけではない。ただ角を曲がると月明かりが差し込んでいたのでそちらを振り向いただけだ。


「ソウジロウ様ぁ。この卵菓子も美味しいですよ?」

「ソウジロウさま、わたくしのお話も聞いて下さいませっ」

「ソウジロウ様は疲れていらっしゃるのです。優しい子守歌を歌いますからどうぞしばしのまどろみを……」


 月明かりのテラスには四阿(あずまや)がしつらえられ、ソウジロウが〈大地人〉の侍女や姫に囲まれている。ミチタカはなんだか寂寞とした感情に襲われた。

 先ほどまで考えていたアキバの将来の暗雲や、自分自身の罪悪感や、言いしれぬ不安感が全てどうでも良くなって行く。

 ソウジロウの周囲に漂っているオーラと光景に比べれば、〈円卓会議〉がどうとか〈自由都市同盟〉がどうとか、実にくだらない話ではないか。


(ああ、俺の今の表情は左手で描いた落書きのようなんだろうな)


 ミチタカはソウジロウに近づく事もせずに、自室があるエリアに足を向けるのだった。


 今晩はこれで終わりか。さて明日はどうするか。

 ミチタカは考えかけたが、そんな甘い展開にはならない事は、あっという間に判明した。


 〈円卓会議〉が借り受けている区画の前に待っていたのは、コーウェン公爵家、レイネシアの祖父セルジアッドだったのだ。供回りも一名の騎士にランプを持たせたのみの老公爵は、ミチタカに黙礼をした。その表情はあの長い会議をくぐり抜けたにもかかわらず、疲れを見せていない。


 老公爵は「どうだろう」と一言ミチタカに告げる。

 ミチタカは用件を察して先導をして歩き出した。


 招いたのは、〈円卓会議〉――クラスティやシロエ、ミチタカたちが日常的に会議を行なうために用いていた、小ぶりな談話室だった。小ぶりとは云ってもそれはこの城の尺度から見ての話であり、二間続きの談話室は、日本出身のミチタカにすれば、たっぷりと贅沢な空間が作られている。


 椅子を勧めて〈バッグ〉から出した茶を給仕すると、老公爵は少しだけ驚いたようだった。公爵ほどの人間が魔法の鞄を知らないはずもなく、その驚きの意味はわからなかったが、ミチタカはそれは当面気にしない事にする。


「このような夜中に済まぬことだ」

「いえ、お気になさらないで下さい。あの会議の後始末をしないでは、ゆっくり眠れぬでしょう」

「ははは、そうなるかな」

 ミチタカの対面に座る老貴族は、見事な髭に触りながらも堂々とした態度で笑った。


「孫娘の考え無しの行動ゆえに、コーウェン家を潰すわけにも行かぬ」


 考えてみれば、彼の立場は現在非常に危うい。

 もちろんセルジアッド公は〈自由都市同盟イースタル〉の筆頭領主の地位にあり、その影響力は大きい。しかし、この場合、その影響力の大きさそのものがハンデとなるのであろう。


「考えておられる通り、我が領主同盟に亀裂を入れかねぬ」


 つまり、コーウェン家が独断で〈円卓会議〉との関係を優先したら、と云う想像だ。マイハマとアキバが結びつき、後は幾つかの領主を抱き込めば、それは残りの〈自由都市同盟イースタル〉を十分に駆逐できるだけの大勢力になるのである。

 もちろんセルジアッド公はレイネシア姫にそのような存念がない事も承知しているだろうし、ミチタカを始めとした〈円卓会議〉の面々も、あの場での出来事はハプニングに近いものであって、何ら裏の意味はない事は知っている。


 しかしこの場合重要なのは周囲の解釈である。

 裏の意味など無かったところで、後からそこに意味を付与する事は可能なのだ。


(今こうしている話だとて……)


「可能性としては、マイハマがアキバを抱き込んで新勢力を樹立すると、そう言う方向性もあるわけですね」

 ミチタカは直接的に尋ねかける。持って回った言い回しや策謀は苦手なのだ。


「それも一案ではあろうが。ふむ……どう思うね? ミチタカ殿」


 ミチタカは、会議中に“卿”と云う言葉を嫌った自分に、“殿”という敬称を用いた公爵に好感を覚えた。ミチタカ自身はどちらでも構わないのだが、この老人は一人の人間として相手と交渉する気持ちは持っているらしいと感じる。


(さて、と。こっちはシロエ殿みたいに才気溢れてる訳じゃねぇんだがなぁ)


 ミチタカはその太い首を捻る。

 その時、控えめなノックの音がした。ミチタカの許可とともに入って来たのは、ワゴンに夜食を乗せたヘンリエッタだった。シロエの提案により増員したアキバの使節団には〈料理人〉も含まれている。彼らは〈円卓会議〉が借り受けたこの区画で、小会議や茶会が開かれるに合わせて様々な饗宴の支度を(四苦八苦しながらではあるが)整えていたのだ。


 この夜食や飲み物も、ヘンリエッタの差配による気遣いであろう。


「ああ、丁度いいや。ヘンリエッタさん、同席して下さい」

「いえ、わたしはただの……」

「まぁ、いいから」

 ミツタカの誘いに眉をひそめたヘンリエッタだが、重ねて誘うと軽食を並べた後にミチタカの隣に腰を下ろした。


「舞踏会でシロエ殿と踊られていたお嬢さんですな」

「はい、〈三日月同盟〉所属のヘンリエッタと申します」

「〈三日月同盟〉は、〈円卓会議〉11ギルドの1つです。こちらの令嬢はそこの参謀役です」

 ミチタカは紹介を終えて一息つく。

 もちろん責任をヘンリエッタに押しつける気はないが、事は余りにも重大だ。ヘンリエッタであれば、ミチタカの思考が見落とした落とし穴を見つけて、話の筋道に一定の方向性を提示してくれるだろう。


 三人はとりあえず、目の前の軽食に手をつけた。

 鶏の冷製のサンドイッチと、温野菜のサラダ。それにフルーツと、薄く割ったアルコールなどほとんど入っていない酒などだ。


 それぞれに料理を品評して、しばらくは雑談の流れに任せる。

 ミチタカとヘンリエッタが、ざっと自分たちの立場を説明し、セルジアッド公はマイハマの街を描写した辺りで、話は一周して今晩の会議の話題へと戻ってきた。


「お話はおおむね理解できたかと思います」

 ヘンリエッタは優雅な仕草でティーカップを下げながら述べた。

 好々爺然としたセルジアッドにたいして、そのまま畳みかける。


「目下重要な出発点は、セルジアッド公の目指すゴールのヴィジョンですね。それを〈円卓会議〉と共有できるかどうかが話のポイントかと思います」

 ミチタカはうなる。


 要するに云ってしまえばそれだけの事なのだが、あの5時間にわたる会議の苦痛と混迷をたかだか一行の言葉で要約されてしまうと情けないモノがあった。しかし、これはミチタカ達の責に帰すことでもないだろう。ヘンリエッタが聡いということでもある。


「ふむ……」

 セルジアッド公は瞑目する。


「俺がこんなことを言うのも変な話ですが、このまま腹を探り合っても前に進まないでしょう。ここはそちらの率直な言い分ってやつですか。都合の良い希望というのを聞きたいと思いますよ」

 ミチタカも言葉を添えた。


 犬猫扱いはまっぴらごめんだが、この老人ならばそこまで非礼な物言いはしないだろう。されたならされたであり、もし領主会議の筆頭ともあろう人間がその程度の見識ならば、付き合う価値もない。


「まずは、当面のゴブリンの略奪軍だな。これについては協力して防備に当たり、根絶をしたい。我らは亜人間とは長い長い戦争の歴史があり、我らの故郷を護るためには絶対の課題なのだ」


 その言葉はミチタカには頷けるものであった。

 その希望はもはや、条件や要望と云うよりも、彼らにとっては議論の前提であり出発点なのだ。


「そして、〈自由都市同盟イースタル〉の25番目の貴族として招待したいという考えは、わたしはもはや抱いていない」

 こちらの言葉にミチタカは驚く。


「そもそも、我ら城塞都市や領地を抱える領主と同じような考えで〈円卓会議〉を扱ったのが失敗の元、誤解の元であったと今わたしは考えている。これは〈円卓会議〉を排斥しようとか、距離を置こうというような話ではないつもりだ。そのような話ではなく〈円卓会議〉は〈自由都市同盟イースタル〉と互する勢力だという認識を今となっては抱いている、と言うのが正しいであろう。

 〈円卓会議〉、そしてアキバの街はその構造も、実力も、我ら〈自由都市同盟〉全てに匹敵する。領主同士の話し合いにより連携する我らと、家門――ギルドというのであったな? そのギルドの連合体として連帯している〈円卓会議〉は非常に似通っているのだ。

 領地が1つの街であり、それが狭いという事によって侮った我らは、その思い込みによって、貴殿らに随分と失礼な都合の良い申し出をしていたものだ。これは過失であったのではないかと考えている」


 ミチタカは、セルジアッド公の言葉について考える。

 なるほど、云われてみれば頷けるところもある。


「そのように領地面積と勢力が釣り合わぬアキバの街を、言葉は悪いがわれら同盟の枠組みの中に無理矢理治めたところで、それはいずれ軋轢を発生させて、我ら自身を崩壊させるだけにわしには思えるのだ。

 狼の首に鈴をつける事は出来ても、首輪に繋ぐ事は出来なかろう。ましてや、大空を飛ぶ〈鷲獅子〉(グリフォン)ならばなおさらの事だ。

 わたしは、両者の妥当な関係は〈自由都市同盟イースタル〉と〈円卓会議〉の対等な立場であるべきだと考える。不可侵条約と通商条約を結び、それを持って関係の礎にすべきだとな」


「承知した」

 ミチタカの返答に、セルジアッド公はうなずきかけて瞠目する。


「もとより〈円卓会議〉に領地的野心も侵略の意図もありはしない。この世界の中で自らの住まいを守り、後は……自分達の願いを、元の世界への道を見つけられればそれで十分だ。

 もちろんそのためにはあちこちの遺跡に赴く必要もあれば、食糧などの交易を必要とする面もある。が、しかし、その目的を果たす事と、隣人として手を取り合う事が相反するわけでもない。手を取り合う事が出来るのならば、それにこした事はない」

 ミチタカはそこまで一気に応えた後に、ヘンリエッタを見やる。ヘンリエッタは肩をすくめた後に補足する。


「もちろんこれは、非常におおざっぱな基本方針という事になりますよね? 対等な関係とは言え、その理念が実際にはどのように盛り込まれるのか、条約の文言を見るまでは本当の意味での確約は出来ません」

 少し慌てたような言葉に、ミチタカは頷く。

 そんなふうに細かいところをフォローしてくれる期待をしていたのだ。


 セルジアッドはそのあまりにも早い反応と飾り気の無さに驚いたようだった。しばらく言葉を失ってしまう。


「ですが、対等な立場での相互不可侵条約と通商条約となれば……その意味するところは、攻め合わない、交易をする、と云う事になります。申し訳ないですけれど、今回のゴブリン族襲撃による防衛は、条約外という事になりますね?

 もちろんどんな条約も締結していないいま現在は、余り関係ない話ですが、このイレギュラーな事態にどう収拾をつけるかは、〈自由都市同盟イースタル〉にもマイハマ領にも大きな意味を持っているのではないでしょうか?」


 ヘンリエッタの指摘に、ミチタカもセルジアッド公も頷く。


 結局は、話はそこに戻ってしまうのである。

 〈大地人〉と〈冒険者〉の負担における不平等――。


「それについては、今は置くとしよう」

 重くなりかけた空気を揶揄するようにミチタカは肩をすくめた。

 脳裏には、さきほどのソウジロウの姿があり、あれを思い出すだけで真面目に悩むのがばからしくなってしまう。


「当事者たるクラスティ殿とレイネシア姫が居ないでは、まとまる話もまとまらない。もしくはあっちで何か具体的なアイデアを持っている可能性も無いじゃない。俺達だけ悩むのは不公平だ。シロエ殿も含めて、あの三人に考えて貰うのがバランスの取れた労働配分というモノだろう」

 ミチタカの意見は些か乱暴だったが、三人の気持ちの代弁でもあった。


 そもそもこの場で結論が出たとしても、物別れに終わったとしても、もはや賽は投げられたのだ。夜明けにはアキバより軍が出発するであろう。ミチタカとセルジアッド公には、その軍を押しとどめることはもう出来ない。

 クラスティとシロエが動いたからには、頓挫という事はあり得ないのだ。そうであるならば、流れを見守るしかない


「まぁ、シロエ様ならどーにかするでしょうね」

 ちょっと拗ねたようにヘンリエッタが唇を尖らせて頷く。言葉はシロエを貶すようであってが、その瞳はどう見て信頼にあふれていて、ミチタカはふむと1人、胸に落ちる思いだった。


「どれ。では今回のことの顛末、孫に責任をとらせると考えてみるか」

 セルジアッド公のどこかおもしろがるような言葉で、その場はお開きとなったのだった。




 ◆



(いま。がさって音がしなかったかしら……? その木陰の茂みに……。まさか……、まさかゴブリン?)


 レイネシアのそばについているのは、禁欲的な青鋼色の甲冑とマントを着けた〈D.D.D〉の女性騎士だ。武器を抜きさえもしない彼女は、片手に持った戦場図と幾つかのレポートを見ながらひっきりなしに念話通信を行なっている。


「2時方向に大規模集団。および9時方向に敵攻性部隊、総数18以上。大型魔獣2」

 簡潔な報告の声は、レイネシアが知るどのような騎士の物腰とも違うし、噂に聞く戦場の有様とも違うように思えた。


 まだ目が馴れない暗闇に怯えていると、その女性はレイネシアの瞼に、そっと軟膏を塗ってくれる。何度か目をしばたくと、辺りがぼんやりと薔薇色の光に包まれて見通しが良くなった。


 それでもやはり周囲の物音は怖い。

 この辺りはさして深山幽谷という場所ではないはずだが、城育ちのレイネシアは、その種の耐性がかけている面がある。暗闇の中で茂みが揺れる度に、抑えようとしても膝が笑い出してしまう。


(し、静まりなさい。胸を張って……。そう、おちついて……)


 気持ちはまだ挫けていない。

 前へ進む勇気を失ってはいない。

 しかし身体の方は正直なもので、生命の危険を感じるのか、本能的にこわばったり、震えだしたりするのだ。長年かけて研鑽を重ねた貴族としての誇りと令嬢教育の全てを動員して、堂々と胸を張って進もうとするが、そろそろぼろが出てきそうである。


「レイネシア姫、もう少し尾根を上れば視界が開けるそうです。そちらに移動して、少し休みましょう」

 女性騎士はそう伝える。


 周囲の戦士達はすでにその指示を予期していたのか、流れる水のような滑らかさで陣形を変える。中心部で呆然としているのは、レイネシアと二人の〈大地人〉だけだ。彼らは彼らで、女性騎士から尋ねられて、詳しい地元の地形などを伝えている。ひとまたぎに出来るほどの小川があり、それを越えてしばらく上れば、岩場になり谷間を見下ろせる高台があるそうだ。


 レイネシア達は下生えをかき分けて進む。

 もちろん大振りな枝などは、先頭を進む戦士が枝払いをしてくれる獣道なのだが、鋭い草などは容赦なく絡まってくる。だが、レイネシアのつけている〈戦女神の銀鎧〉(ヴァルキリーメイル)はよほどの高性能なのだろうか、まるで空気の壁で弾くようにそれらを寄せ付けない感じがする。


(性能は申し分ないんですけれど。ほんとに、もうっ)

 気になるのは、脚部の露出面積の多さだけだ。

 これが冬であれば身体が冷えるとか何とか言ってマントを無心する事も出来るのだろうが、夏場ではそうも行かない。現にレイネシアが身に着けているのも、腰の辺りまでかろうじてあるかどうかという薄いケープであり、外套と呼ぶには余りにも情けない代物だ。


(あ……)

 だがそうして気をとられているうちに、思いがけず距離を稼いでいたのだろう。ブナらしき巨木の並ぶ木立を迂回して背丈ほどの斜面を登ると、突然目の前が開ける。そこは6m四方のぽっかりと開けた岩場で、谷間を見下ろす尾根だった。岩場からは崖の下の木々と、流れる河、その連なりが見える。


 何百も輝くのはゴブリン軍のもつ松明だろうか? それはざわざわと蠢き、まるで邪悪な虫の目覚めを思い起こさせた。


「まずはこちらへ」

 女性騎士が進めたのは、組み立て式の簡易な椅子だった。背もたれも肘掛けもないが、腰を下ろして脚をとじ合わせる事が出来るのは有り難い。


 レイネシアは丁寧に礼を述べると、椅子を借りて腰を下ろす。

 あの演説で思い知ったが、〈冒険者〉はレイネシア達〈大地人〉とは根本的に違う。クラスティ達〈円卓会議〉の代表者だけではなく、全員が貴族並みの教養と身分を持っていると考えた方が良さそうだ。

 だからお礼の言葉や丁寧な態度は欠かすべきではない。しかしその一方で、〈冒険者〉は虚礼を嫌うようでもある。いまの謝辞で妥当だったのだろうか? と女性騎士を観察するが、彼女はてきぱきと念話で地図を読み上げている。問題はなかったのだろう。


 周囲では冒険者達が次々と組み立て式の家具を持ち出していた。三本の脚に支えられる組み立て式の小テーブル、おそらく遠眼鏡だと思われる筒が何本か。簡単な飲み物。


「始まりますよ」

「え?」

 レイネシアが女性騎士を振り向いた瞬間、谷間に閃光がおちる。わずかに遅れて響く轟音。不気味な震動音が辺りに残る。混乱するレイネシアに対して、女騎士は丁寧に暗闇の底、谷間の一角を白い指で指し示す。


 そこに意識を集中したレイネシアは、ぼやっと光る視界の中で遠くの光景が引き延ばされるのを感じる。木々や葉の輪郭までがリアリティを持って視界に飛び込んでくるのだ。


「狙撃用の妖精軟膏(フェアリーバーム)です。遠距離でもよく見えるでしょう? あんまり寄りすぎないように……そろそろ来ますよ。よく見ていて下さいね」


 その白光は一瞬だった。

 雷撃は正確にゴブリン達の小隊中央を貫いたらしい。天から落ちた雷神の鉄槌は、電撃それ自体と云うよりも、地面をえぐり大地を爆発させる力をもってゴブリン達を蹴散らした。


 そしてレイネシアはその閃光の中にくっきりと浮かび上がるクラスティの姿を見た。城で一番大きな槍にも匹敵する長柄を備えた、巨大な両刃の斧を軽々と構えたまま、森の中を疾駆する長身の影。


 クラスティが駆け抜ける森の中の小川に沿って、おおよそ100人いるはずの打撃部隊が続く。それはクラスティの背中でたなびくマントが長く長く翻り、森を浸食していく様を思わせた。

 その部隊はゴブリンに触れあうたびに、あるいは刻み、あるいは穿ち、致命的なダメージを与えては貪ってゆく。きらり、きらりと輝くのは魔法だろう。この距離では詳細をうかがい知ることは出来ないが、圧倒的な殲滅力だけは理解することが出来た。


 だが、百人部隊の攻撃力よりも強くレイネシアを捕らえたのはクラスティその人だった。


 率いる部隊の先頭を駆け、大音声で指揮をすると云うよりは、その背中で騎士達を導くクラスティは一種異様な気配をまとっていたのだ。あの船の甲板で感じた違和感が、具体的な姿をもって屍山血河を築いていた。


 三日月のようにつり上がった唇。

 愉悦に細められた瞳。

 銀光を跳ね返す眼鏡。

 クラスティは歓喜に満ちて戦場を疾駆していた。まるで祭りの日に広場へと駆けつける子供のように。


 クラスティが両手を振るう。

 一陣の旋風のように先端が見えなくなる斧。

 そして周囲3mにはぽっかりと誰もいない空間が広がる。

 あるいはクラスティに襲いかかる魔獣。牛ほどの大きさもある巨大な狼の突進をクラスティは突き出した左手でたやすく受け止め、周囲に檄を飛ばす。狼の巨体に突き刺さるのは数十本の矢と、魔法強化を受けた数々の剣。


 まるで小麦袋のように、やすやすともはや肉塊となった魔獣を投げ捨てるクラスティ。彼の興味は、次のゴブリン部隊に移っている。


 不吉だった。

 不気味だった。

 恐ろしくて嫌悪感を催した。


 でも、レイネシアにとっては、なんだかとても悲しかった。


 不吉に見えるのも不気味に思えるのも、それはたぶん、レイネシアの側のエゴだ。自らの故郷を護ってくれる勇士にそんな感情を持つだなんて、失礼なことだと思う。

 でも、この悲しさはなんだろう。


「前方50、丘巨人2。回復班は左右に布陣。周辺小部隊から殲滅」

 女騎士の通話が小さく聞こえる。


 無意識のうちにぎゅっとつぶっていた両目を開くと、そこに見えたのは、まるで城攻塔のような巨体をもつ二匹の巨人に、クラスティが向かっていく姿だった。


「――っ!」

 叩き降ろされる丸太のような棍棒を、クラスティは飛燕のように跳ね回る両手斧で捌き、二匹の間に立ちふさがる。レイネシアから見れば、それは圧倒的な体格差をもつ巨人達が、クラスティの命を掻き消さんばかりの攻撃を放っている光景だったが、クラスティ自身の笑顔は深まりこそすれ、みじんも怯えは感じさせない。


 それどころか、クラスティの武器が赤い輝きを持って撃ちつけられるたびに、二匹の巨人は我を忘れたかのようにクラスティだけに執着を始めるのだった。

 そしていよいよ猛り狂う二匹の巨人の攻撃を、夜明けの薄明かりの中でクラスティはただ捌き続ける。


 もちろん二匹の巨人は、ゴブリンのその攻撃部隊における秘密兵器だったのだろう。周辺には石弓や槍を持った無数のゴブリン達が存在した。しかし、クラスティが率いてきた打撃大隊(レギオンレイド)は、今こそ一切の制約から解き放たれ縦横無尽の活躍を見せ始める。


 大きく四つに分かれた部隊はそれぞれさらに四つには分かれ、15を越える小隊となってゴブリン達に襲いかかったのだ。彼ら攻撃小隊はゴブリン達の存在する森を、面の包囲網で埋め尽くしにかかる。

 めまぐるしく動き回りながらも隙を見せないアキバの軍勢に、そもそも指揮系統が不確かなゴブリン達が敵うはずもない。彼らは闇の中で次々と魔法や剣で殲滅されてゆくのだ。


 魔法で強化されたレイネシアの視界には、それらも映っていたが、意識の中でそれらは舞い踊る影のようにしか認識されていなかった。


 見つめていたのはクラスティだ。


 彼が腕を指揮者のように降り降ろす。

 一斉に放たれる炎の玉は、まるで燃えさかる雪崩のようにゴブリンの群れを飲み尽くす。


 クラスティは楽しそうだった。

 宮廷で過ごしていたのよりもずっと自由を感じさせた。


 それがレイネシアに悲しみを与えた。

 なぜ悲しいのか、なぜ寂しいのかも判らずにレイネシアはただクラスティを見つめ続けた。


 力の限り斧を振るい、敵を切り開き、攻撃を受け止め、両腕から血を流しているにもかかわらず、その歩みは力強く、その指揮は部隊を奮い立たせ、まるで軍神のように見えるクラスティ。


 そのクラスティは、レイネシアの視界内で,どんどん透明になっていって、時にはそのまま夜明けの光の中に淡く溶けて行ってしまうのではないかと、危うさを覚える。


(それは……)


 それは、なんだかとても胸に迫る悲しさだった。

 宮廷においても、戦場においても、あんなにも力強く無敵に見えるクラスティが儚く見えるだなんて、レイネシアは自分の頭がおかしくなってしまったに違いないと思う。


 クラスティは楽しそうだったが、おそらくその楽しさの果てには、何もないのではないのか。少なくとも、レイネシアは居ないのではないか?


 森の中ではクラスティ達アキバ遠征軍の進撃が続いている。

 それを見つめるレイネシアの背筋はりんと伸び、一途な真剣さを持って長身の〈冒険者〉の背中を求め続けるのだった。




 ◆




 ザントリーフ大河にほど近い、漁具倉庫を一時的な本陣として借り受けていたマリエール達は、街の周囲に出していたパトロール部隊からの念話を中継し、防御計画を練っていた。


 もうすでに半日以上、ゴブリン達の目撃情報はない。

 ゴブリン達は少なくとも山中の森の中へ完全に撤退したらしかった。周囲の〈冒険者〉達は、宿屋やこの倉庫の中で、交代に睡眠をとっている。

 初めての夜から、一昼夜が過ぎている。その間、マリエール達一行はチョウシの町を防衛することに成功していた。


 マリエールがびっくりしたのは、新人と侮っていたプレイヤー達ほど、順応が早くて熱心に防衛を考えていることだった。


 それももっともかも知れない、とマリエールは考える。


(考えてみたら、この子ら、今回の拡張の噂で〈エルダー・テイル〉始めてみようかと思ったような、まだまだゲーム経験が薄い子達なんやもんね。そりゃ偏見もないわなぁ……)


 ゲーム経験が薄いと云うことは、必然的にキャラクターのレベルが低く、戦力的には未熟だと云うことを指す。そのデメリットが多く、今までベテランプレイヤーは新人プレイヤーをハンデ、もしくは弱者としてしか見ていなかった。


 しかし、それはゲームのシステムや世界に先入観がないと云うのは、メリットがあると考える事もできるのだった。


 マリエール達ベテランプレイヤーにとってシロエの告発――〈大地人〉も自分たちと同じように感覚や精神や欲望や悟性を備えた人間であるという――は、大きなショックをもたらすものだった。しかし、新人プレイヤーにとってそのショックはさほど大きくはなかったのだろう。


 そもそもゲームを始めて日の浅い彼らは、〈エルダー・テイル〉がゲームであるという「慣れ」もまだ深くはしみこんでいないのだ。その意味では、〈エルダー・テイル〉とは無関係に、ただ異世界に拉致されたに等しい状況にあると云える。


 そんな彼らが〈大地人〉守護を積極的に叫び、行動に移してくれたのが、マリエールには嬉しかった。夏季訓練班の新人達はマリエールが熱弁を振るって説得するまでもなく、チョウシの町の防衛作戦実行を受け入れてくれたのだ。


 そして新人達が奮い立っているのを横目に見て、ベテラン達が立ち上がらないわけにはいかない。今回の新人訓練に参加するベテランには、殆ど報酬など出ては居ない。元もと新人に対して面倒見の良いプレイヤーか、そうでなければ一流ギルドの新人教育班なのだ。そんな彼らが、希望に燃える新人〈冒険者〉の見つめる先で、無様な姿など見せるはずがない。


 そこにマリエールの、本人は意識しない「笑顔の応援」が加われば士気としてはこれ以上ないような状況が生まれる。


 ミノリとにゃん太が共謀して山中に向かったのには、本当に心を痛めたが、結果としてそれは成功だったと言えた。マリエールが把握している限り、初日の夜間、街周辺部で行なわれた戦闘は26回。戦闘部隊一つにつき、4戦ほどでこれは非常に余裕のある戦いだろう。


 終わってみれば、新人プレイヤーの〈冒険者〉も顔つきが変わっていた。


 この異世界の戦闘は、ゲーム〈エルダー・テイル〉とはまた違ったきつさがある。戦闘そのものの厳しさと云うよりも、戦場の空気のえぐさのような物だ。

 身体はゲームキャラを踏襲しているらしく高性能で、耐久力や筋力、持久力や敏捷力などは、ゲーム上での職業にもよるが何ら問題にはならない。怪我も回復呪文ですぐに治るし、切り傷、擦り傷程度なら半日も我慢すれば呪文無しでも自然治癒してしまう。


 しかし、戦闘の怖さとは、もっと精神的な点にある。

 モンスターとはいえ、自分の両手でもって命を奪うのは、恐ろしい感覚だし、人にもよるがトラウマになってしまう〈冒険者〉も存在する。それはマリエールにも理解できる感情だ。


 もしこの異世界で戦い続けたいならば、どうしても「慣れ」は必要で、その「慣れ」るまでの期間、新人〈冒険者〉には寄り添うベテランとモチベーションが必要だ。

 チョウシの町防衛は、モチベーションと機会という意味では、新人プレイヤーにとって大きなチャレンジであると共に、チャンスでもあったと云える。


 今回、異変を最初に察知したのも、そう言った士気の高い新人の〈冒険者〉だった。士気の高さは、持久力や戦意にも反映されるが、最も顕著に見られる影響は集中力の増加だろう。


 街中の警備に出掛けた三人組の新人達は、海岸線方向の白い波を見つけるとすぐさまマリエールに連絡を入れてよこしたのだ。


 おそらく、ザントリーフの白い砂浜にて襲われたあの記憶がまだ残っていたのだろう。その恐怖が、今度はプラスの方面に作用したと云える。


 ベテランプレイヤーが駆けつけたとき、まだ〈水棲緑鬼〉(サファギン)達は上陸を果たしていなかった。発見が早かったせいだろう。


 ザントリーフ大河は、この辺りでは非常に幅広い流れとなっている。河口部分は海と接しているために、潮の流れによっては海水と真水が入り交じる辺りであり、その大河には、何本もの突端が堤防代わりにつきだしていた。


 駆けつけてきたベテランは、海の方を見やって絶望的なうめき声を上げる。白い波の数は多い。百や二百では効かない数だろう。


(これは……)

 それはマリエールも感じた。


 チョウシは漁業と農業を中心とした平和な街だ。だから、街の構造上、どうしてもザントリーフ大河に寄り添うように伸びた形状になってしまう。もちろん川の氾濫や潮の干潮を考え、街の居住区と湖畔の間には、狭いところでも100m以上の距離があるが、それでも近い事には変わりがない。


 しかもこの100mは森林や山があっての100mではない。

 普段は漁具や船を引きずる、視界の開けた砂浜や石浜が幅100mで存在すると云うだけのことなのだ。

 そんな広い場所を街の脇腹として長々と晒しきっているこの町を、これだけの数のサファギンから守るのは、至難の業だ。


(いや、至難ちゅうか……。

 うちらが生き延びるのは簡単や。逃げ帰れば良いんやし。サファギンを倒すのも、時間がかかるにせよ、多分出来ると思う。でも町を守りきって、〈大地人〉の全員を助けるのは……。無理かも知れへん……)


 しかし、その泡立つ海面に言葉を失っているマリエールの両脇で、ぎりぎりと弦を引き絞る音がした。

 右に立つのは直継。その隣にはトウヤ。


 左手には新人の暗殺者や、多くの戦士達が弓をつがえている。弓が不得意な小竜は、それでも太い金櫛のような投げナイフを構えているのだ。


「マリエさん、いっちょ景気づけに号令頼むわ」

 直継は、大きく笑って云った。

 マリエールの気持ちは、その笑顔だけで青空に羽ばたくように軽くなる。


「わかったで。えっと。……あ、あんな、みんなな!」

 マリエールは声を張り上げる。

 目の前の泡だつ水面は一層にざわめき、河口に迫ってきている。


「今まで力を貸してくれておおきに。みんなの力で、チョウシの町は1人の犠牲者も出さず、多くの田畑を荒らされもせずに、ゴブリンからの攻撃はしのいだ。これは本当に嬉しいことや。でも、もうちょい。こっちの敵も倒さんと終わらん……。この町を守りきる事にならん。もう一戦、力を貸してや……。うち、みんななら出来るって信じとる。――ん、いこうっ!! 出陣やっ!!」

 弓弦が次々と鳴った。


 それが三度繰り返されると、直継が真っ先に海岸線へと駆け出す。その後を追うのは小竜、レザリック、最後のにゃん太は、マリエールに小粋に手をふって見せた。


 あちこちで突進を行なう〈冒険者〉のパーティー。

 しかし、よく見れば、突撃をしない集団も幾つかは見る事が出来る。海岸を広く見渡せる農道の角まで引き上げて腰を下ろすミノリに目線で問いかけると、帰ってきたのは「すぐに交代要員が必要になりますから」というモノだった。


 本当に中学生なのか、と思えるほどの冷静な意見に鼻白むマリエール。しかし、その意見はもっともだ。これだけの数を上陸の瀬戸際で食い止めようとすれば、疲労による交代要員は必須だろう。


 海岸線で激しい戦闘が始まっている。

 そうとなれば、マリエールも休んでおくべきだろう。

 長時間にわたる戦闘では、回復職の精神的な疲労は激しい。マリエール自身も高レベルの〈施療神官〉(クレリック)である以上、その能力はこれから始まる戦いの中で必要になるはずだった。



 ◆



 ミドラウント馬術庭園。


 ここでは現在急ピッチで簡易的な防御施設の設営と、部隊の編成が行なわれている。編成が終わり配置が判明した部隊は次々と出発していたから、この野営地には全軍の1/3程度のボリュームしかない。


 状況は極めて流動的だ。

 クラスティたち浸透打撃大隊は今朝の明け方には早くも交戦を開始したという。敵部隊にどれくらいのダメージを与えたかについては、観測班の報告によれば、恐らく1500程度だという報告を受けている。


 シロエ自身は参謀などという二つ名をもらってはいるが、現実世界での戦術や戦争の歴史に詳しいわけではない。だから、この数字が大きいのか小さいのか、また、この被害でゴブリンが撤退をしてくれるかどうかについては判らない。


 一般に、軍においては、その構成人数の30%が戦闘不能になれば、ほぼ全滅だといわれるらしい。シロエにとって聞きかじりの知識だが、これには首を捻る部分がある。

 ゴブリンとの戦闘中に敵が逃亡したことなどあったろうか? と考えると、無いとも云えないが、それは大抵「残り一匹になった」ような状況だった気がする。


 そう考えると、うろ覚えの知識が間違っている可能性もあるし、あるいは現実世界のそういった戦術的な知識が、この世界では通用しないということかもしれない。またはゴブリンもしくは亜人間種が桁外れに好戦的で、撤退を知らないと云う可能性もある。


 だが一方、良いニュースもあった。

 今朝の戦いにおいてクラスティたちはさしたるダメージを受けずに、ゴブリン軍が擁する魔獣及び巨人2体を撃破している。ゴブリンの主力部隊は、よほどの大物でも出ない限りクラスティたちのレギオンレイドに任せれば大丈夫だろう。


(そもそも、クラスティさんたちの手に負えないような相手が出てきたら、アキバの街の誰がかかったって勝率は上がらない)


 もちろん、敵によっては相性というものはある。相手の情報がわかれば編成レベルで対策を練ることも可能だ。

 だから、クラスティたちが負けたからといって即座に絶対に勝てないということは意味するわけではない。そもそも〈エルダー・テイル〉時代、大規模戦闘は全滅を繰り返しながら攻略方法を覚えるものだった。情報は常に、後を追うものに救いをもたらす。実力が拮抗しているなら、対象の情報をより多く得た方が、勝率が上がるのは当然だ。


 しかし、情報が無い状態でぶつかり合うとすれば、クラスティが現在率いるレギオンレイドは間違いなくアキバの街最強の剣である。


(ゴブリン略奪軍の中枢部は、クラスティさんに任せれば良い)


 シロエは地図の中心にコトンと、黒い小石を置く。それはクラスティの位置だ。続いて白っぽいいびつな小石をミドラウント馬術庭園に置き、緑色の滑らかな小石をチョウシの街に置く。


 目下、もっとも危ういのはチョウシの町だ。

 サファギンに襲われているということももちろんあるが、あの岬を奪われた場合、サファギンたちはマイハマに上陸する可能性すらある。どちらの街も共通項は、海上からの侵略を想定していないことだ。


 サファギンが何故現れたのか?

 その理由ははっきりとはわからないが、シロエはやはりゴブリン王が発した侵略軍が原因だと見ている。両者は呼応して現れたのだ。もしくは、漁夫の利を狙ったサファギンの作戦かもしれないが、どちらにしろ、軍を二分されるという事実は変わらない。


(まぁ、その辺は織り込み済みなわけだけど)


 シロエは手で弄んでいた、少し大振りな小石を、地図の上にコトリと置く。流線型をしたその石は、どこか羽をたたんだ水鳥のようにも見えて、可愛らしい。置かれた位置は海上だ。


 試作型蒸気機関搭載輸送船〈オキュペテー〉。

 今回の戦では、この船を最大限回転させて用いている。


 クラスティたちを降ろした〈オキュペテー〉はナラシノの廃港で後続を待っていたが、そろそろ合流を果たした頃だろう。シロエが編成した四つの中隊(フルレイド)を率いて洋上をチョウシの町へと向かっているはずである。


 〈オキュペテー〉は輸送艦であり、武装を持たない。その意味では飾り気の無い無骨な船である。

 しかし、試作型ということで各種強度テストを行なうために補強された船体は、十分な装甲を有して防御能力は高いだろう。また、搭載兵器という意味では、それこそ〈冒険者〉が乗り込めば良い。


 シロエが特別編成した部隊には、〈召喚術師〉(サモナー)〈吟遊詩人〉(バード)が多く含まれている。直接的な遠距離魔法攻撃では〈妖術師〉(ソーサラー)に攻撃力で劣る〈召喚術師〉だが「召喚した精霊を基点とした遠距離攻撃魔術」の存在を考えた場合、その射程距離は、〈妖術師〉の優に2倍に及ぶ。また〈吟遊詩人〉はその魔法攻撃力をフォローして、MP枯渇のリスクも回避してくれるだろう。


 後は時間との競争だった。


 シロエはひっきりなしに天幕に入ってくる念話担当者と相談をして、次々と編成と部隊配置を定めてゆく。


 今回の戦い、勝利することそのものはさほど難しくない。しかし、ゴブリンの中枢戦力を壊滅させたところで、多くのゴブリンがハグレ部族となって〈自由都市同盟イースタル〉の領内を荒らして回るようでは困る。


 シロエは、ススキノからの帰りの旅路に寄った大地人の村を覚えている。あの気の良い老人と、羊を連れた村の働き手たち。もちろんこの危険な世界に置いて彼らには自衛能力が求められるだろうし、もし仮に、万が一彼らが死を迎えたとしても、それはそれで「仕方ない」とは思う。しかし、まだ助けるチャンスがあれば助けたいと思うのは自然なことだし、幸いそれが期待される立場にシロエ自身はいるのだ。


 ゴブリン軍の主力を叩くのは、このままクラスティに任せておけば平気だろう。問題は、もしゴブリンの侵略軍二万弱が空中分解した場合の処理だ。


 中枢戦力を叩くクラスティたち(打撃部隊)とは別に、より小規模で、機動力のある部隊を編成、周辺を包囲することにより、ゴブリンによる被害をなんとか山間部の内側に封じ込める。そのための戦略を立案し、戦術面で具体化する。それがシロエの現在の課題である。


 大雑把な戦略は、ゴブリンをザントリーフ中央丘陵地帯へと追い詰めることを要訣としていた。


 そのために、クラスティたちは西から時計回りにゴブリン主力部隊の外側を「皮をむくように」戦闘しているはずだ。幸いゴブリンたちは勢いを駆り、十分にザントリーフ方面に突出してきている。このまま誘い込めば理想的な位置に誘導することは可能だろう。


 クラスティたちのフォローするように戦力を配置し、ゴブリンをザントリーフ――現実世界で房総半島と呼ばれる千葉の突端に封じ込めれば、周辺地域はずいぶんと安全になる。その作戦の最終的な急所となるのがチョウシの町防衛であり、〈オキュペテー〉によって輸送中の兵員であるのだった。


「主君は戦場には向かわないのか?」

 護衛のためといってとうとうここまでついてきたアカツキは、天幕にしつらえられたクッションに座って尋ねてくる。


「行きたいね。でも、ここを今空けるわけには行かないんだ。まだ編成が終わってないからね……。まぁ、一両日すれば、終わりが見えてくるさ。その時には動く」

「そうか」

 アカツキは頷く。


 シロエはこのサーバには200人弱しか存在しない〈鷲獅子〉(グリフォン)乗りだ。空中での速度であればこれに匹敵するのは〈紅翼竜〉(ワイバーン)しか存在しない。

 山中行軍ともなれば時間はかかるが、ただシロエ一人が移動するのであれば、30分もあればクラスティの元でもチョウシの町にでも駆けつけることが出来るのだ。


 現在シロエがここを拠点にしている理由は二点ある。

 一つには多数の念話担当官の近くにいたほうが、全軍に対する指示がすばやく行なえるという点。

 もう一つが、流動的な戦況の中でチョウシの町とクラスティの元のどちらへでも駆けつけることが出来るという点を重視した結果だ。


 シロエが構築しているのは、全軍単位の通信網だ。

 これさえ整備できれば、今回の遠征軍は経験を積んだ〈冒険者〉の集合体である。なかば自動的に作戦を遂行する事も可能だろう。各小隊(パーティー)にはリーダーを設けて、報告と指示のラインを確保する。部隊間の横の連絡網を組織して、縦の連絡網として〈念話通信担当〉(オペレーター)を置く。〈念話通信担当〉によって上がってきた情報を整理して、地図上に落とし込み、動勢を可視化する。


 シロエが考える戦術や戦略のレベルなど、たかが知れている。

 謀略だって似たようなものだ。

 状況を整理して、可視化する。その不連続を発見し、徹底的に調査し、注目点を見つけ出したら、それを有効に見せるために「演出」する。シロエの考える「策」だなんて、所詮は調査と演出の共同作業に過ぎない。

 そしてその大部分は、今やっているような、表には出ない地味な作業なのだ。


 しかし、そんなシロエの思考を掻き消すように、1人の〈念話通信担当〉の声が天幕に響く。


「シロエさんっ! ただいまチョウシの町、夏季合宿班がサファギンと交戦を開始っ。その数は〈冒険者〉60人に対して、サファギンは最低でも千は越すとのこと。圧倒的劣勢ですっ」


「〈オキュペテー〉に急げと伝えろっ! それからカラシンさんを呼んでくれっ。最終編成資料は作成済みだ。1日で――。いや半日で通信網を立ち上げるぞっ」

 シロエは机のうえに、莫大な注釈の書かれた資料を広げる。周囲から見下ろす十数人の〈念話通信担当〉に向かい、簡潔な言葉で今後の見通しを語り始めるシロエの声に迷いはない。


 今は一刻も早く指揮通信網を完成させる。

 そして――。シロエは唇を噛んで思いを馳せた。


2010/05/25:誤字訂正

2010/05/29:誤字訂正

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[一言] 「ミチタカ」が「ミツタカ」となっている箇所あり 〜ミツタカの誘いに眉をひそめたヘンリエッタだが、重ねて誘うと軽食を並べた後にミチタカの隣に腰を下ろした。
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