031
「何を笑っているのだ、主君」
腕の間からアカツキが身をよじるようにしてシロエを見上げてくる。
先ほどからシロエは、喉の奥を鳴らすような音を立てて忍び笑いをもらしているのだ。
星々の間を〈鷲獅子〉は風を裂き一路北東へと向かっている。この調子では、後数分もすればアキバの街は見えてくるだろう。地上を移動すれば数時間の旅路も、力強い翼を羽ばたかせる魔獣の背に乗れば二十分程度の短い距離でしかない。
「いや、傑作だと思ってさ」
「ん?」
シロエはおかしそうに笑う。
「クラスティさんのあんな顔、始めて見た。誤魔化してたけどさ。……あれは、押されてたよね。あー。すっきりした」
「主君はまだ根に持っていたのか? ……舞踏会のことを」
「そんな事はないけど。……でも、そうなのかな」
シロエは腕の中にすっぽり収まったアカツキに応える。
「それに、あのお姫様もたいしたタマだよ。あそこでああ来るとはね。――礼節、か。それはちょっと考えたことがなかったなぁ。
でも、彼女は今回の件で行き止まりにはまり込んでいた〈自由都市同盟イースタル〉を救った。誰がどう云おうと、彼女は自分達を救うために行動を起こして、それに成功した訳だ」
〈自由都市同盟イースタル〉は〈円卓会議〉の戦力を必要としていた。どのような子細があるのかまではまだシロエにも判らなかったが〈イズモ騎士団〉が動けないのであれば、〈冒険者〉を投入する必要はあるだろう。もしそれに失敗すれば、泥沼の消耗戦に突入する。
〈自由都市同盟イースタル〉の24領主はその幾つかが空席になると云うことも十分に考えられる事態だったのだ。
そうである以上〈自由都市同盟イースタル〉はどのような条件をつけてでも〈円卓会議〉と〈冒険者〉を戦場に引っ張り出す必要があった。
しかしここにひとつ大きな誤解がある。
〈円卓会議〉はアキバの街の自治を司り、その運営について一定の責任を負ってはいるが、アキバの街を支配している訳ではないという点だ。
〈冒険者〉は自由な生き物で、個々のギルドや個人は、その行動を制限されるべきではないというのは、アキバの街のポリシーとして言語化するまでもなく存在している。〈エルダー・テイル〉にゲームとして参加したシロエ達にとって、それは確認するまでもなく「自明」のことなのだ。
不安定な合議制で自治を行なっているアキバの街にとって、街に住む〈冒険者〉の自由を束縛すると云うことは、重大な治安低下を招く引き金である。
当然のように、クラスティを始めとする〈円卓会議〉特使は、今回の対ゴブリン軍防衛戦に協力を確約することも出来る。しかしそれには無条件にというわけでは、ない。その条件とは「〈円卓会議〉の判断をアキバの街の〈冒険者〉に公開したときに十分な支持が得られる」という一点にある。
そうでなければ、たとえ全権を任せられていたとは云え、シロエ達特使としてもアキバの街の人々を説得できるとは限らない。
現在アキバの街は防衛的な意味においては十分以上の戦闘能力を持っている。経済的には、食糧自給に難はあるが、元の世界の知識を利用したアイテム開発が始まったお陰で、一足飛びに様々な技術が実用化される段階にあり、将来的には伸びていくことがほとんど確約されていると云えるだろう。
つまり、アキバの街に対して報償を用意するというのは、なかなか難しい状況にあるのだ。餌で釣ろうにも、アキバの街はかなり裕福なのである。
お金を出しても駄目。技術提供も難しいとなれば〈自由都市同盟イースタル〉は手詰まりになるなるのは当然だ。もちろん、食料供給を始めとして、アキバの街にも欲しいものは幾つかある。「元の世界」を知るシロエ達とって、生活の快適性を追求する欲求は高いからだ。今さら元の湿気た煎餅には戻りたくない。
だが、付き合いの浅い関係上、領主達はそれを敏感に察知することは出来なかったのだろう。
シロエは、会議が平和裏に進むのであれば、そういった〈円卓会議〉側の要望をさり気なく提示することによって、交渉をまとめようという腹案を持っていた。
しかし、それもこれも、キリヴァ侯を始めとする一部の貴族の暴発により会議は硬直して、カードが切れるような状況でもなくなった。
(そして、彼女は無自覚だろうけれど、僕たち〈円卓会議〉をも救ったことになる)
実を云えば、シロエ本人は今回の派兵には賛成である。
この世界において「生」は、どうやら避け得ぬ運命のようであるらしいし、避け得ぬ戦いであれば有利な状況で戦うべきだ。
領主達は、〈冒険者〉を無敵の兵と見て戦場投入を望んだが、その認識には欠陥があり、実際には〈冒険者〉もリスクを背負っている。それは記憶の剥落だ。クラスティの証言により、どうやら一回や二回の死によって全ての記憶を失う訳ではないと判ってきたが、それであっても恐ろしいプレッシャーであるには違いない。
いまは〈円卓会議〉内部にこの情報は留められているが、いずれアキバの街住民全員に発表しなければならないだろう。
その時、〈円卓会議〉が現在の治安を維持するために何が必要か? シロエはそれを幾夜も眠れぬままに悩み続けた。そして今ではその答えは、「納得」ではないかと考えている。それは「リスクに見合った覚悟」だとも云える。
「死」が無化されたことにより絶対の終着点を失った「生」は、それ自身混沌としてしまう。開始点から終着点へと至る不可逆の通路という構造を失い、たどり着くべき対岸を失った迷走を始めてしまいそうな不安が存在する。
シロエたち〈円卓会議〉特使も、〈自由都市同盟イースタル〉への協力はするにしたところで、ただ良いように使われる訳にはいかない。なぜならばそれはアキバの街の〈冒険者〉の「納得」にダメージを与えるからだ。
(それを真っ正面からね……)
それに対してレイネシア姫は「自分が説得する」と云った。
――本来自由であるはずの〈冒険者〉の方々の一人一人に懇願する。
そう云いきったのだ。
(〈森羅変転〉……)
シロエには、あの言葉の不吉が胸に迫ってならない。
自分たちはどこにいるのだろうか?
シロエにとって亜人間はモンスターであり、ゲームにおける敵だった。しかしリ=ガンは〈第一の森羅変転〉の呪いによって産み落とされた、歪んだ魂の悪夢だという。
シロエは、地球に生きている普通の大学生だったはずだ。〈エルダー・テイル〉はただのオンラインゲームだったはずだ。しかし、リ=ガンはシロエたち〈冒険者〉は〈第二の森羅変転〉によりこの世界に召喚された存在だという。
シロエが不死身なのは当然だ。だってそれはゲームなのだから。しかしリ=ガンは〈魂魄理論〉による、魂魄の修復と再生は世界生成の秘密に関わる偉大なる機構の一部だと考えている。
自分がどこに立っているのか。
それがシロエにとっては不安で仕方がない。
グリフォンの背に乗って空を駆けるこの身体が夢なのか、それともパソコンデスクに向かってクリックをしていた自分が夢なのか、その境界があやふやになる。
もしその不安を抱えたまま記憶を奪われれば、自分はきっと無明の闇に突き落とされるだろう。多くの〈冒険者〉がそうであるに違いないのだ。そんな時、誰が助けてくれるかと云えば、そんな都合の良い他人は存在しない。
あるのは「納得」だけだと、シロエは考える。
その納得をどうすれば手に入れられるか、それはシロエにも判らない。しかしそんな疑問や答えを出すための時間を、この世界は与えてくれはしない。毎日は恐ろしい早さでやってきて、過去に流れてゆく。
そんな不安定で苦しい道を辿りかねない、いや、辿るであろう〈冒険者〉に対して、あの淑女然としたレイネシア姫は「わたし達は礼を尽くすのが当然だ」と請け負ったのだ。
(さすがクラスティさんだ、と云うべきなのかなぁ)
腕の中で寒そうに頬をシロエにくっつけてくるアカツキをかばうように腕を回したシロエは頬をゆるませる。
キリヴァ侯の感情的暴発は、〈円卓会議〉の退路をも塞いでしまっていたのだ。〈冒険者〉をただの道具のように見なした発言のせいで、シロエたちは、たとえ協力したくても今回の戦役に関与するチャンスを失ってしまった。
もしあのような態度に押されて協力を納得したとすれば、それはアキバの街の〈冒険者〉の誇りを傷つけ、〈円卓会議〉は自治組織としての信任を失うだろう。
「主君、アキバの街だ」
「そうだね」
「次は戦場か?」
「おそらくね」
この異世界において、夜とは闇を指す。
足下に広がるのは漆黒の大地だ。星が広がる分、天の方が明るいくらいである。時計はないが、時刻は真夜中程度だろうか? だがアキバの街は眠っていなかった。
グリフォンで飛び立った直後に行なった念話により、〈円卓会議〉の方は準備が出来ているはずだ。〈ロデリック商会〉のロデリックも、シロエの打った手に応えていてくれるだろう。
漆黒の大地の中、かがり火のように輝く光がアキバの街だった。
近寄るにつれてひとつだった輝きは、無数のかがり火に分割されて見えるようになり、やがて広場を囲む、小さな指輪のような炎の環さえ識別できるようにになる。アキバの街最大の戦闘ギルド〈D.D.D〉が自らのリーダーを迎えるために、素早く準備した即席の発着場だった。
夜の闇の中では視力を失うグリフォンにさえ十分な光量の中、二羽の魔獣はアキバの街へと舞い降りてゆく。その長い夜は、まだ半分も時間を残しているのだ。
◆
舞い降りたグリフォンから抱き下ろされるあいだ、レイネシアは身動きひとつ出来なかった。ダンスなどで腰を抱かれたことはあるが、物心ついて以来、こんなに軽々と荷物扱いされたことなどはない。
異性にこうして扱われるのが、こんなに狼狽することだとは思わなかった。こわばった顔に微笑みを浮かべようとするが、自分でも引きつっているのが判る。
会議の時は強く決意していたと云う理由もあったが、現実感が本当に沸かなかったのだ。なんだか熱に浮かされた気分で決行してしまった。
正直に云ってしまえば、レイネシアはこの一週間、クラスティと過ごしすぎていた。内心を言い当てる妖怪じみたこの白皙の青年に比べれば、領主達の前で啖呵を切ってみせるのなんて、何と云うことはない、と度胸を出すことも出来たのだ。
しかし、その当人であるクラスティはやはり苦手だ。
グリフォンで飛んでいる間も、さり気なく気遣ってくれたことは判っている。風で吹き飛ばされぬように、寒くないように。だが、気を使われれば使われるほど、内心の思いが全てばれてしまっているようで、ただただ狼狽える自分がいる。
別に、もはや自分が猫かぶりだと云うことや、本当はナマケモノの人間嫌いで、部屋でごろごろすることしか考えていないどうしようもないダメ人間だと云うことがばれるのは構わない。
だが、クラスティ相手に狼狽していると云うことだけは、出来れば――いやなんとしても、隠し通したかった。
「どうぞ」
クラスティから差し出された手に一瞬掴まって、大地に降りる。
そこはアキバの街だった。
深夜だというのに街の各所には明かりが灯されている。空から見下ろしたときはかがり火の類だろうと考えていたが、こうして降りてきてみると様々だという事が判る。がり火はこの広場にある7つの大きなものだけだ。そのほかの明かりは、風雨に強いランプであり、もしくは魔法の明かりだった。
「その……ありがとうございます」
視線を伏せて云ったが、クラスティはすでに興味を別に移していた。そちらには、クラスティのマントの紋様と同じものを染め抜いた外套をつけた一団がきびきびとした足取りで近づいてくる。
その集団と挨拶を交わしたクラスティは振りかえると、同じく黒髪の少女を抱え降ろしていた魔術師風の青年に話しかけた。
「シロエ君。彼女の支度と仕切りを頼んで良いかな?」
「ええ。もちろん。ですけど、良いんですか?」
「仕方ない。覚悟しておこう」
シロエと呼ばれた青年と言葉を交わしたクラスティは、今度こそ同じ装束の一団と立ち去ってしまった。と、同時にグリフォン達も風を捲いて飛び去る。
途方に暮れるレイネシアに、シロエと呼ばれた青年は声を掛ける。
「直接挨拶するのは初めてですね。レイネシア姫。〈記録の地平線〉のシロエといいます。こっちの娘はアカツキ」
シロエの挨拶に続いて、アカツキと呼ばれた小柄な少女はこくりと頷く。無口なタイプであるらしい。
「じゃぁ、ついてきてください」
シロエは背を向けて歩き出す。道を行く人々は、どうやらそのほとんどが〈冒険者〉であり、しかも何らかの目的を持って動いているようだった。慌ただしい雰囲気が漂っている。
アキバの街で冒険者を説得する、と啖呵を切って飛び出してきたレイネシアではあるが、その具体的な方法はまったく考えてはいなかった。〈円卓会議〉とか聞く、おそらくは領主会議のような場所で懇願をし、何らかの許可を貰ってから主要な冒険者に順に面会をする。漠然とだが、そのようなイメージでいた。
アキバの街は、マイハマとは全く違っていた。水晶と果樹による街路樹で構成された美しくも華やかなマイハマとは違い、この街は旧世紀の廃墟を利用した街のようだ。5階建て、10階建てというような建築物の狭間を街路が迷路のように通り、シロエからはぐれたらあっという間に道に迷ってしまいそうだと、レイネシアは警戒する。
道を行く大きな荷物を抱えた女性が、器用にシロエに道を譲り、口早に何かを囁いて頭を下げる。このシロエという青年も、副使に選ばれるくらいであるからには〈円卓会議〉でそれなりの地位を持つのだろうとレイネシアは考える。
(歩くの、ちょっと早いですけどっ)
アカツキと呼ばれた少女は苦もなくついて行く。〈冒険者〉と呼ばれる人々の身体能力の高さは聞き及んでいたが、こうも基本的なところで差を実感させられるとは思っていなかった。シロエと呼ばれた青年は耳をふさぐように片手を当て、空中に話しかけながら歩いてゆく。何らかの魔法で連絡を取っているのだろう。
やがて辿り着いたのは、大きくて黒っぽい建物だった。
「シロエ殿っ!」
「ご足労掛けます、カラシンさん」
建物のすぐ内側、どうやら歓迎の広間、ロビーで三人を待ち構えていたのは、若手商人という身なりの男だった。
「こちら、レイネシア姫」
「ほう! お噂はかねがね。コーウェン公家のご令嬢でしたね。わたしは交易商人のカラシン。〈第8商店街〉の長です」
カラシンと呼ばれた男は、やはり商人だったようだ。如才ない笑顔でレイネシアに挨拶を行なう。だがしかし、その儀礼は貴族であるレイネシアから見ればいたって実際的で簡易なものだった。
(〈冒険者〉の方々は、みなさん至って率直で、虚礼を厭うようですわね……)
レイネシアは、淑やかに微笑んで優雅な――それでも彼女の基準から云えばシンプルな返礼を返す。〈第8商店街〉とは奇妙な名前だが、このように名乗るという事は、アキバの街の有力な一門の家名を表すのだろう。
「はい。コーウェン家の娘、レイネシアです。どうぞよろしくお願いします」
カラシンと呼ばれた商人は赤くなって視線を逸らす。その反応はレイネシアにすれば馴れたものだった。
「で、カラシンさん」
「おう」
「……んー。どうしたものかな。何にしようかな。……〈戦女神の銀鎧〉のセットひと揃い、ある?」
「えっ。あ、ああ。もちろんあるけど……。あれは脚がなぁ……。いいのか?」
だが、その安心もつかの間。シロエ青年とカラシンという商人は、内容はよく判らないが、何か聞き捨てならない事を話し始める。
「ああ。問題ない。それくらいの方が、いろいろ都合が良いよ。それ1セットで。ケープは僕が確か持ってるから、必要ない。それから、適当な武器を見繕ってくれないかな? 片手持ちのデザインがよい長剣で、装備レベルが4以下なら平気だと思う。……アカツキ、部屋一個押さえて、狭くて良い。時間貸しで。――いや、攻撃力とかどうでも良いよ。見栄えさえ良ければ」
それから先はもはや羞恥と混乱の連続だった。
簡素な一室に案内されたレイネシアは着ているものをはぎ取られ、手渡された戦装束に着替えさせられた。着付けをしたのはアカツキと呼ばれた少女である。
日頃着替えなどを侍女に行なわさせている貴族は多い。もちろんレイネシアもその一員であり、人前で肌を見せることそのものは(クラスティのような読心術でも使われない限り)、抵抗はない。
恥ずかしさと混乱の源泉は、初めて身につけた戦装束にあった。
まず、羽毛のように軽い。
煌びやかな銀色の細かい鎖で編まれた帷子に、胸鎧。
手甲と、金属製らしい脚絆は唐草模様の打ち出しをあしらった、銀色の優美なもので、エルフ族の細工を思わせる。
問題は……。
鎖帷子と、腰鎧だった。それらは太ももの付け根をわずかに隠すばかりで、脚のほとんどを露出させてしまっている。二の腕を露わにするこのようなデザインはドレスなどでも見かけるものだが、脚を見せるようなふしだらな衣服は、物心ついてから一度も(たぶん)着た事がないのだ。
「スカート……。履かせる」という極端に言葉の不足した台詞で着付けられた布きれは、スカートと云うよりは何らかの腰巻きか、いっそスカーフくらいの面積しかない緑色の絹布だった。
(や、やっぱり。脚が全部見えますっ……。それに、この胸鎧、胸の形にリアルすぎるというか、こうっ。偽増量というか……っ)
目を白黒しているレイネシアの腰に剣帯を吊したアカツキは、あちこちのベルトをキリキリと締め付ける。その締め付けによって、全ての装甲はぴったりと肌に密着して、さらにその重さを感じさせなくなる。
軽さといい、着心地といい、さぞかし名前のある魔法のアイテムなのだろうとレイネシアは感心する。――のだが、身体のラインも露わになってしまうのは、これはもう目も当てられない惨状だ。
自分のスタイルがさほど悪いわけでもないと思うが、この衣装は余りにあんまり――露骨過ぎはしないか? とレイネシアはうめく。
「その……アカツキさん? これはさすがにちょっと……」
「背丈があるんだから我慢して」
じろりと睨まれて黙り込んでしまうレイネシア。
そのレイネシアの髪を、アカツキは自分の懐から出した櫛で、綺麗にとかしてゆく。その動作は流れるようで、侍女の誰よりも丁寧だと思うのだが、レイネシアの緊張はまったく解ける気配がない。
この小柄な少女は、無口のせいか、先ほどからやたらに迫力があるのだ。
アカツキは、ぐずぐずとごねるレイネシアの手を掴むと、ドアを開けて外に引っ張りだす。そこに待っていたのは、シロエとカラシンだった。二人は廊下に立ったまま打ち合わせをしていたようだった。カラシンは背丈の違うアカツキの背後に隠れようとしているレイネシアを見ると、表情をほころばせる。
彼は心から賛美するような表情で騎士や文官のそれと同じだったが、一方シロエのそれは値踏みするようで、レイネシアは心の中の要注意人物リストに付け加えるのだった。
「なかなかいいんじゃないかな。カラシンさん?」
「ええ、大変美しいと思いますよ」
「……あ、ありがとうございます」
レイネシアはスカートをわずかに持ち上げる礼をしそうになり、慌てて自分を制止する。今身につけている布きれ(断じてスカートとは呼びたくない)には持ち上げるほどのボリュームなんて無いのだ。
「んじゃ、本番行きましょうか。大丈夫ですよ。ええ、安心してください。僕は姫のこと、高く評価していますから」
シロエの言葉と笑顔に、なぜか寒気を覚えるレイネシアだが、今のところは彼の言葉に頷くしかないのだった。
◆
そして……。
「このような夜明けより集まっていただいて、嬉しく思います。〈記録の地平線〉のシロエです。明け方ですし、戦況は差し迫っています。早速、現在の状況を説明します」
時は夜明け。
アキバの街の広場は多数の〈冒険者〉で埋め尽くされていた。何人存在するか判らないが、広場はみっしりと埋まっている。その数は千やそこらでは効かないように思えた。
アキバの中央広場。
それはこの数ヶ月で瓦礫なども片付けられ、過去よりも2割ほど広くなっている。〈エルダー・テイル〉がゲームであった時代は、瓦礫もオブジェクトであり、移動することなど出来なかったが、現在では移動も破壊も行う事が出来る。
それらは、こんな時間にもかかわらず、もうすでに店を開け始めている商売っ気のある店舗が綺麗に塗り直されていることと合わせて、このアキバの街をより一層活気のある街に見せている。
もちろんそんな事情など知らないレイネシアには、このアキバの街が、恐ろしいまでに活動的な街に見えていた。まだ夜も開けきる前、東の空にはわずかに青い色がつき始める夏の未明に、これだけの群衆が集っているのは、本格的な戦争を体験したことがない彼女には異常な事態に見えたのだ。
しかも集まっているのは、騎士風の人間だけではない。
商人風のエルフや、職人風のドワーフも集まっている。軍や貴族の会議とは違い、集まった人間に対する飲食物の販売が行なわれている所を見ると、このような集会はもはや日常と行っても良い街なのかも知れない。
レイネシアは知らないが、シロエからの念話連絡を交代制で24時間待機していた〈円卓会議〉メンバーは、その要請により全ての準備を整えていた。この広場に集まった腕利きの冒険者も、しつらえられたステージのような演説台も、アキバの街の裏手を流れる河に係留された「秘密兵器」もそうなのだが、それらは、まだレイネシアの精神的な視界には入っていない。
レイネシアが舞台の袖の天幕から見ていたのは、〈召喚術師〉の呼び出した光の精霊に照らされたまばゆい演台だ。貴重な魔術師、しかも高位の〈召喚術師〉をこのようなところで大道具同然に用いるそのセンスは、レイネシアの常識をガラガラと崩し掛けたが、完全に茫然自失とさせたのは、話の進行だった。
「――以上のような要因からザントリーフ半島の基部を中心に、関東北部の丘陵森林地帯には、最大二万弱のゴブリン族が発生しています。
この軍勢の圧力は観測から四方へ拡散中。ザントリーフへ滞在している複数の〈冒険者〉からも報告を確認。東ヤマト統治集団〈自由都市同盟イースタル〉は脅威にさらされていることになります。
もっとも〈円卓会議〉の予想によれば、この脅威は脅威で留まります。放置をしていても〈自由都市同盟イースタル〉は全滅はしません。ですが、おそらく総戦力の30%程度を失うと考えられています。……この数値は、まぁ全滅に近くはあるのですが〈大地人〉の一人に至るまで死に絶える、と云うほどではありません」
シロエの語る情報は〈自由都市同盟〉領主会議が入手していたそれよりも精度の高いものであった。シロエの言葉は容赦が無く、そこはかとない辛辣な悪意を感じさせる。
しかし、レイネシアが本当に驚愕したのは、そのことでは無い。シロエの言葉を聞いている〈冒険者〉の全てが、その瞳に明らかに理解の色を浮かべていることだ。
天幕から覗いた限りでは、退屈そうにしている者も、理解不能になっている者も一人もいない。なかには――おそらく地図なのだろう、紙の束を広げて、話の要点を記入している者もいる。
〈大地人〉であるレイネシアからすれば、それは驚愕すべき光景なのだ。ここに集まった人間達は、街に住む住人ではないのか? この理解力の高さは何事なのだ?
レイネシアがてっきり武官だとばかり考えていたこの広場の冒険者は、兵士どころか、宮廷文官なみの理解力を備えていることになるではないか。これだけの人間が、地理や軍事の知識を持っている。さらに云えば、どうやら〈自由都市同盟イースタル〉の政治状況さえ知悉しているという事実は、レイネシアにとっては足下が崩壊するほどのショックだった。
貴族とは? 平民とは? 農民とは?
レイネシアの中で、今まで信頼していた世界観が震えては壊れてゆく。
「一方僕らの方ですが、おそらくこの軍勢からアキバの街を防衛することはさほど難しくないと考えられます。――食料以外の、特に技術面での自給率の高いこの街は一定の防衛力を持っています。〈自由都市同盟〉を必ずしも、絶対に、助けなければならないわけではない。損得で云えば、助ける必要はない。
繰り返しますが、助ける必要は、一切ありません。
――その上で、聞いていただきたい話があります」
会場の全てが固唾を飲んでいるようだった。
多くの人間が集まったとき特有の、熱が籠もったような静けさの中で、シロエが天幕の方を見ると、指先で「誰か」を招く。
(え?)
レイネシアがぽかんとしていると、突然腕を掴まれた。
振りかえると、そこには式典用なのか実戦用なのか。鈍い夜明け色の鎧に着替えたクラスティがいる。クラスティはいつもの穏やかな、内心を読ませない表情で微笑むと、「では行きましょうか」と言い放つ。
「え? え?」
「さぁ」
彼女はそのまま、ずるすると天幕からずるずると引きずり出される。突然目の前が真っ白になるほどの輝きが辺りを満たす。
曙光だ。朝一番の光が、東の空からこの広場に差し込み始めたのだ。
夏の朝のまだ熱気は籠もっていない風の中に、レイネシアは突然放り出される。
そこは舞台の中央。逃げ場のない、最前線。レイネシアの身体が火照り、熱くなって、浮き上がり、何を云って良いのか、何をして良いのか判らなくなる。目の前にいるのは数千人の〈冒険者〉だ。〈大地人〉とは異なる生命体。同じ姿を持ち、同じ言葉を喋りながらも、本質的に異なる生き物だと、先ほどからのわずかな接触でも思い知らされている。
唇が震えて、膝が笑いそうになる。
その時、鋭い音が右後方から響く。
振りかえると、そこは守護を司る英雄神のようにどっしりとした姿を見せるクラスティが、巨大な両手斧を床に突き立てて、その柄がしらに両手を重ねている。鋭い音は、両手斧を床に落とした音だったのだ。
続いて聞こえた鈍く大きな音は左後方からだった。そこにいるシロエは、先ほどまでは持っていなかった背丈よりも高い儀礼用の錫杖を、まるで槍のように天高く翻している。
左右にクラスティとシロエを従えたレイネシアは、大舞台の上で一歩進む。身体の熱はいよいよに高まり、視界はくらくらと歪むが、頭の中は奇妙に清澄だった。自分の呼吸音がうるさいほどだったが、不思議と広場の片隅で囁いている〈冒険者〉の声さえ聞こえる。
「――みなさん。初めまして、私は〈大地人〉。〈自由都市同盟イースタル〉の一翼を担う、マイハマの街を治めるコーウェン家の娘、レイネシア=エルアルテ=コーウェンと申します。
本日は皆さんにお願いがあってやって参りました」
自分でも驚くほどはっきりとした声が出た。
朝方の空気の中に、レイネシアの言葉が、広場の隅まで届いてゆく。
「ただいまシロエ様が話された通り、ヤマトの大地は危機を迎えています。包み隠すことなく申し上げますが、皆さんもご存じのヤマトの管理者、守護神たる〈イズモ騎士団〉はその行方もしれず、今回の件に対して〈自由都市同盟イースタル〉は自らの力のみを以て対処しなければならなくなりました。
こたびのゴブリンの軍勢の数は今までに見たどの侵攻より多く、その動きは雷のように速く、すでに〈自由都市同盟イースタル〉は内懐深くまでその進軍を許しています。もちろん我ら〈大地人〉にも城壁と防御結界魔法があり、兵士達がいます。が、ひとたび戦となればそれらの効果が何処まで当てになるかは未知数です。
いまこの瞬間も、我ら〈大地人〉の同胞は、父祖の地を守るために、剣を磨き、城壁を手当てし、戦の支度を調えているとわたしは信じています。が、それだけではやはり多くの流血は、避けられないでしょう」
レイネシアは視線を遠くへ投げる。
そこに映っているのは、目の前の群衆ではなく、数時間前までの光景だった。
「恥ずかしい話ですが、我ら〈自由都市同盟イースタル〉はこの期に及んでも、互いの意見を一致させることが出来ないでいます。ここへやってくる直前まで行なわれていた会議でも、自らの領地の安全を求める余り協力さえ出来ないでいました。あまつさえ」
言葉が、詰まる。だが、止めることはもはや出来ない。
「あまつさえ、我らが父祖の地を守るという神聖なる義務を、新興たるアキバの街の〈円卓会議〉の皆さんに押しつける策略を練る始末です。不死たる〈冒険者〉――皆さんの力を当てにして、その武力を持って我と我が身を、領土を守ろうとしていたのです。
わたしにその資格はないのですが……申し訳なく思います。
そしてより申し訳なく思うのは、わたしもまた、そのむしの良いお願いをしに来たからです」
本人は気が付かなかったが、シロエの選んだ〈戦女神の銀鎧〉の一揃えと、鮮やかなすみれ色のマントはレイネシアの女性らしい容姿を何より際だたせていた。朝焼けの光で見るレイネシアは、誰もが憧れる戦の女神そのものだった。
レイネシアは知らない。
〈冒険者〉に向かって訴えかける彼女の後ろで、シロエがわずかに横を伺い片目をつぶったことを。それに対してクラスティが心底いやそうな様子で苦笑いを浮かべたことも。
「わたしにも〈自由都市同盟〉にも、支払えるものは多くありません。……この豊かな街に送れるものが有るのかどうか、見当もつきません。そして皆さんの自由を、対価で購おうとも思いません。でも、わたしはコーウェン家の娘として、マイハマの街を愛していますし、守る義務があります。――ですから、行きます」
余りの情けなさに、自らの都合の良さに。
レイネシアは自然と膝が折れた。彼女の頭は深々と下げられる。
ここにいる〈冒険者〉達が、騎士であれば、文官であれば、つまりは貴族であれば、彼女は頭を下げずにすんだだろう。貴族の文化は、淑女を貴重品のように扱う。尊重され、身分の高い女性の安全は第一に守られるものだ。
しかし彼女はクラスティに出会って学んだ。〈冒険者〉は違う、と。
このアキバの街でも、彼女のような肩書きがあれば、彼女は貴族の娘であるとして敬意を受ける事が出来る。しかし決して貴族文化の中でのような、彼女の顔色ひとつで右往左往するような取り巻きを得ることは出来ないに違いない。あくまでそれは、隣人に対する「敬意」どまりなのだ。
この街は異質だ。
彼女はこの街において、いままで受けていたような姫君としての厚遇を受けることは出来ない。しかしその一方で、貴族社会特有の、淑女として人間ではない扱いを受けることもない。
貴族社会における女性には、人権はない。
もちろんちやほやされるし、プレゼントを受けることもある。あびるほどの甘い言葉に、お世辞、内容のない恋愛詩も贈られる。彼女の眉が曇っただけで、若手の騎士達はどのような高価な薬でも困難なクエストでもくぐり抜けて届けようとするだろう。しかしそれは、彼女がひとつの人格として愛されているからではない。
「淑女」として、貴族の間の外交競争の商品となっているから、丁重に扱われているだけなのだ。貴族社会の中で宝石のような扱いを受ける「淑女」。彼女はその「淑女」のなかでも折り紙付きの美しき血統種であり、最高峰として崇拝の念を集めていたに過ぎない。
部屋に閉じこもり、陰鬱な思いに浸ってきた彼女には、そんな事は誰よりもよく判っているのだ。そしてそれを否定する力のない自分のことも、よく知っている。
「わたしは臆病で怠惰で、考え無しのお飾りですけど……。戦場へ……行きます。ですから、良ければ、それでも良いと思う方は、一緒に来てはくれませんか? あなた方の善意にかけて、自由の名の下に、助けてくれませんか? わたしはわたしの力の限り〈冒険者の自由〉を守りたいと思います……」
(こうしていたって……。自由を守ると云ったって)
コーウェン家の娘ではあるものの、女性に生まれた彼女はそこまでの権力はない。父や祖父に甘えてドレスや宝石を買って貰うことは出来る。一人二人の冒険者を選んで褒美を取らせることも出来るだろう。パーティーを開くことだって可能だ。
しかしそれ以上の政治的な権力を彼女が実際に持っているかと云えば、そんな事はない。
自分が空手形を切った自覚は、レイネシアにだってあるのだ。
しかし、それは嘘と云うよりは、彼女の願いだった。
自分が戦場に行くという自由を初めて認めてくれたクラスティ。おそらく疑問にさえ思わないでいてくれる〈冒険者〉。彼らの自由を守りたいと思ったのは、長い間自由を与えられなかった彼女の胸に訪れた、初めてと云っても良い欲求だった。
「どうか、お願いします」
彼女がほとんど呟くように言い終えるのと同時に聞こえたのは、重い鋼鉄の響きだった。広場の中央を占める、紺色の外套に巴の紋章を染め抜いた一団が、思い思いの武器をならし、かかとを打ち付ける。
黒い鎧の一団は、揃いの長剣を鞘に落とし込み、戦意を主張する。廃ビルの崩れかけたテラスからは、長弓を背負ったエルフの一団が高らかに角笛を吹き鳴らし、斧を持ったドワーフたちが鬨の声を揚げる。
猫人族、狼牙族、狐尾族達といった少数種族すらも、この町ではこれといった差別を受けていないように見える。
(あ……)
あっけにとられるレイネシアの隣に、クラスティが進み出る。一歩遅れて反対側に進み出でたのは、シロエだった。
「これより、この街は。――我々の初めての遠征へと出陣するッ。出征条件は、レベル40以上っ。これは〈円卓会議〉からの布告でもあるが、報酬には期待をしないで欲しい。
姫が言った通り、このクエストの報酬はただ一点。
ここに立つ一人の〈大地人〉からの敬意であるっ。
我こそはと思う者は、馬に乗り一路マイハマへと出発せよっ!!
今回は危急の事情を考え合わせて電撃戦とする。そのため、編成については行軍中の指示となる。各自の自制と協力をお願いしたい。
遠征総指揮はこのクラスティが執る」
「そして参謀は僕、シロエが務めます。まずは、先行打撃大隊を編制します。現在より15分以内に念話により連絡を行ないます。連絡のあったメンバーは、急ぎアキバの街よりアキバ川をくだり、実験ドックへと移動してください。途中で〈オキュペテー〉が合流、拾い上げます。
15分が経過しても連絡がないメンバーは、主力本隊となります。こちらは市街東門に設置された登録所で、クエスト書類を受け入り、念話登録を受けたのち、指示に従い出発してください。道中にパーティーマッチングを行ない、小隊編制を指示します。遠征準備時間は15分。各人ご協力をお願いします」
「あ、あ……」
言葉を失うレイネシアの前で、千を越す軍勢が鬨の声を揚げた。
「顔が崩れてますよ」
「なっ。何を仰るんですか。そのようなことを仰るなんて、貴公子として……貴公子としてっ……」
言葉に詰まるレイネシアの声が震える。
でも、それは広場を満たす鎧の音と喧噪に包まれて聞くべきでない人の耳には届かなかったのだ。――クラスティ以外の耳には。
貴族然とした優雅さで片腕をさしだすクラスティ。彼とレイネシアは、猜疑心に満ちた、意地っ張りな、それでいて理解し合った視線を交わしあうが、傍目には麗しい微笑を浮かべる美しい一対に映った。
なんにせよ、進軍は決まった。
敵はザントリーフ半島から廃都をうかがうゴブリン族の軍勢、推定一万余。こうしてアキバの街初めての遠征軍は、その剣先をザントリーフ半島へと向けたのだった。
今回はレイネシアさんのターンっ!!
2010/05/21:誤字修正
2010/05/25:誤字修正
2010/05/29:誤字訂正