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ログ・ホライズン 作者:橙乃ままれ

ゲームの終わり(下)

30/126

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「東の尾根から接近中です。小隊規模1。その後方40にもう1隊、北東にやはり2隊」

 月明かりが木々の影を漆黒に浮かび上がらせる夜の森。
 その梢から、ミノリは下に声を掛ける。彼女が真剣にのぞき込んでいるのは、直継から借りた双眼鏡だった。

「了解っ」
「わかりました。詠唱始めます」

 ミノリ達が入り込んでいるのは、ザントリーフ大河からさほど離れていない、まだ浅い丘陵森林の尾根だった。時刻は、おそらくまだ真夜中前だろう。林道とも農道ともつかぬ腐葉土の道から外れ、こんもりと土が盛り上がった体育館ほどの丘の上の木立に、ミノリ達は息を潜めて待機している。

 しっかりしたケヤキのような大木をのぼり、ミノリは四方の様子をうかがっては下で待機している仲間達に状況情報を送っている。双眼鏡による広域哨戒ロングレンジドモニター、それが現在のミノリの役目だった。
 あらかじめ「ダメージ遮断呪文」を付与されたトウヤは、その鏡のようなエフェクトを持つバリヤー呪文を頼りに、闇の中へと飛び出してゆく。
 東の尾根のゴブリン部隊を引き寄せ(Pull)に行ったのだ。程なく闇の中から、鋭い弓弦の音が響き、次いで、ゴブリン達の叫びと茂みをかき分けるような音が接近してくる。

 トウヤは、〈記録の地平線〉(ログ・ホライズン)で全方面的な戦闘訓練を受けている。ダンジョンの中では実用度の低い飛び道具についても、それは例外ではない。もともと〈武士〉(サムライ)は弓に対する適性が低い訳ではない。馬上弓や大弓の類は装備可能だ。その大弓で、トウヤ達は遠距離のゴブリンの気を引きつけて、ミノリたちのもとへとおびき寄せようとしているのだ。

「……接近。やっぱり2部隊に気付かれましたっ」
 ミノリの警戒を呼びかける声に、仲間たちはそれぞれが武器を構え戦闘態勢を取る。開けた場所では、交戦開始距離が自然と広くなる。そうなると、ダンジョンとは戦闘の手法を変わってくるのだ。モンスターと〈冒険者〉が、遠距離でお互いの存在に気がつけば、白兵戦の前段階として、射撃戦闘が発生するのは自然の成り行きだ。
 だが、遠距離戦は周辺に対して注意を引きつけるという欠点があった。弓による攻撃はゴブリン達を警戒させ、2小隊、おそらく10匹程度を呼び寄せる結果となっているだろう。正確な数は暗闇の中で把握できないが、ミノリは揺れるたいまつと茂みをかき分ける音から、そう判断した。

「カウントダウンお願いします」
 セララの緊張した声が掛かる。

 ミノリは双眼鏡で闇の中に目を凝らす。月の光に照らされた闇の中に、わずかな燐光が浮かび上がり始めた。〈月光妖精の雫〉ムーンフェイ・ドロップは調剤師の作り出せる中級レベルの目薬だ。価格はそれなりにするが、これを瞳に刺しただけで、24時間の間、暗闇でも猫のように夜目が利くようになる。今回の作戦に先だって、これも直継から譲って貰ったのだ。

「5……4……3……2……」
 ミノリは神経を集中して、カウントダウンを始める。
 セララは待機していた呪文をロッドに装填すると、ミノリのゼロという合図と共に発動させる。

 ミノリ達から離れること30m程の地点で、いきなり木々がざわめき、雑草が身をくねらせるようにして繁茂を始めた。

 回復系クラス3職のうち一つ、〈森呪遣い〉(ドルイド)
 回復系3職は、それぞれ特徴的な固有の回復呪文を持つが、なにもただ単純にそういった特徴だけで分けられている訳ではない。〈森呪遣い〉とはその名の通り、森の魔法を使う者たちだ。彼らの使う魔力は自然の神秘をその源泉としている。
 ダンジョンなどではその特徴は薄まるが、このような屋外において、自然の秘めた魔力は無視できない力を秘めている。〈森呪遣い〉は魔法攻撃職ではないから、直接的なダメージを与える呪文の威力は劣るが、一風変わった多彩な魔法を行使することが出来るのだ。

 セララの唱えた呪文、〈友なる柳〉(ウィロー・スピリット)は周辺の植物に作用して、ツタやその葉を成長させる。それらは敵に巻き付いて、動きを止めるはずだ。

「来るぞ」
 トウヤは梓弓を木陰に投げて、刀を引き抜いて前方を注視する。セララがあらかじめ設置した足止め呪文は、後続部隊だけを絡め取るように、ミノリが距離測定をして発動させたはずだ。だとすれば先行突出してくるゴブリン達を叩くのは、トウヤとルンデルハウスの役目と云うことになる。

「よく見える。開幕は任せたぞ。上手くやりたまえ、トウヤっ」
 ルンデルハウスは、最近の連携訓練で少し考え方を改めたらしい。
 おそらくトウヤに先陣を任せても、自分の出番はちゃんとあると云うことが判ったのだろう。攻撃呪文の選択に焦りや出しゃばったところが無くなったようだ。いまもトウヤの刀に、攻撃力を増加させる付与呪文、〈アイシクル・ブレイド〉の呪文を詠唱している。
 ルンデルハウスの詠唱が終わると、トウヤの刀は凍てつくような冷気をまとって、闇の中で冴え冴えとした輝きを放つ。

「ボクのそれは〈付与術師〉(エンチャンター)のものとは違う。追加ダメージは数回しか発生しないから、最初から大技でいきたまえよっ」
 ルンデルハウスの言葉に頷くトウヤ。

(確かに。手早くかたづけなきゃな)

 相手は〈動く骸骨〉(スケルトン)よりも手強いゴブリンだ。そのうえ、時間を掛ければ、おそらく拘束を逃れた第二部隊がやってくるだろう。セララの足止め呪文は、広範囲の地形に作用して、モンスターの移動を妨げてくれるが、絶対ではない。
さらに云えば、後続の1小隊だけではなく、周辺の山地や森の中には、まだまだ多くのゴブリン達が潜んでいるはずなのだ。

 「多くて200」。そうにゃん太達は云っていたが、それももはや疑わしい。影に暗く染まる夜の森林部には多数の気配が(うごめ)き、この暗がりの中でどれだけ多くの敵がいるのかちょっと想像もつかない。

「ルディは大技温存で、手数で押してね。30秒間だけ援護するから……〈マエストロ・エコー〉っ!!」
 覚悟を決めた五十鈴の援護呪文を受けて、トウヤとルディがゴブリン達に突撃する。

 乱舞する刀と魔術。
 五十鈴の指示を理解したルンデルハウスは、一発の威力は捨てて、軽い呪文を矢継ぎ早に繰り出す。こうした軽量級の呪文は、ダメージが少ない代わりに詠唱時間や、再使用規制時間が短い。いわゆる「連射が効く」呪文だ。
 詠唱が5秒台の巨大呪文を捨てたルンデルハウスの連続魔法攻撃は、平均1.5秒に一回が投射された。その炎と氷の乱舞の一つ一つに、五十鈴は完璧なトレモロ奏法で〈輪唱〉してゆく。
 炎の着弾には深紅の音符を。氷の着弾には蒼海の音符を。

 〈吟遊詩人〉(バード)である五十鈴自身は、攻撃力がかなり低い。
 それは支援職の運命であり、仕方のない特性だと云えた。
 だが、だからこそ出来ることは存在する。五十鈴は五感から入る情報を元に、ルンデルハウスの呪文を即興で複製(アドリブでコピー)して、それをわずかに遅らせて「歌って」いるのだ。
 ただでさえ爆発的な攻撃力を持つ〈妖術師〉(ソーサラー)。その魔法をすべて二倍にしたらどうなるのか? 五十鈴の喉をしても30秒しか持たない多重連弾は、瞬く間にゴブリン達を殲滅した。

 続いてやってきたゴブリンの第二波の攻撃は、トウヤに襲いかかり多数の手傷を負わせたが、ミノリの「ダメージ遮断呪文」はそれらの傷を無効化し、すり抜けたダメージは連続して唱えられる回復呪文が埋めてゆく。役割をスイッチした二人の回復職と、大技の準備を終えたルンデルハウスが到着し、一行はゴブリン10体の殲滅に成功した。



 ◆



「確かにさ。手強いっちゃ、手強いけど。やれなかぁ、無いぜ」
 トウヤの言葉に、手当をしていたセララは「油断は良くないことです」と声を掛ける。

 五十鈴は水筒からお茶を一口飲んだ後、ブーツの紐を結び直しているルンデルハウスに手渡す。ルンデルハウスはそれを受け取ると「油断は禁物だが、勇敢を戒めては勝利が逃げてゆくよ、ミス・セララ」とたしなめた。

 四人がそれぞれ一息つく中央で、ミノリは折りたたまれた地図と必死に格闘している。その地図は、この夏季合宿が始まるとき、「まぁ必要ないと思うけどね」とシロエが持たせてくれたものだ。ザントリーフ半島を中心に、廃都イースタルやツクバの街などが描かれた、高精度のものだった。
 夜目が効くようになっているとは云え、暗闇の中で地図の内容を識別するのは難しく、周囲に光が漏れにくい茂みに隠れて〈バグス・ライト〉で魔法の明かりを呼び出している。

「はい……。はいっ。大丈夫です。いまは小休憩取っています。北北西に進行中ですね? はい……。3キロ程度、と。了解ですっ。にゃん太さん達も、お気をつけてっ」
 セララの声は念話だろう。

 ミノリ達が選択した作戦は単純きわまりないものだった。
 丘陵森林部にいるゴブリン略奪中隊の浸透打撃である。

 都市を守りきるのが不可能であるのならば、先行して叩けばよいのだ。ゴブリン達が身を隠す森林を逆に利用して、夜間戦闘をしかける。何も全てを殲滅する必要はない。スケルトンと違って、ゴブリンは邪悪とは云えど亜人間だ。ある程度の打撃を与えれば戦意も落ちるだろうし、逃げ出すものもいるだろう。

 また、町を守るとしても、先行奇襲で数を減らしておけば、守りきるのはぐっと楽になる。ほとんど自棄になったとしか思えないような野蛮な策略だったが、今のところその作戦は思ったよりもずっと上手く機能していた。

 もっともミノリが考えつけたのは、作戦の概略であって、にゃん太と直継が細かい部分を修正し、アイテムを貸してくれなかったらここまで上手くは行かなかっただろう。そして、そのにゃん太達もまた、ミノリとは別個に森林深くで戦っているはずだ。

 にゃん太、直継、小竜、そしてレザリックの4名は、ミノリ達よりもよほど激戦区にいる。何しろ彼らはゴブリン略奪部隊のほぼ中央に一気に乗り込んだのだから。

 にゃん太達高レベルの浸透打撃部隊が、ゴブリン達の中央部に突撃。注意を集めながら殲滅を繰り返す。ミノリ達はその南方に構えて、漏れてきたゴブリン部隊や、恐怖に駆られた部隊、混乱して孤立した小隊を各個撃破してゆくという作戦はすでに戦闘開始から2時間が経過している。
 ミノリ達はその2時間で、20体ほどのゴブリンを倒していた。5、6体の小隊編制のゴブリンはまだ良いが、単独行動をしている斥候ゴブリンはかえってやっかいだ。どのような意図で動いているか判りづらいことが多い。

 考えてみると、この作戦は夏季合宿の責任者、〈三日月同盟〉のマリエールに対して独断専行になるのではあるが、ミノリとしてはその辺は深く考えないようにしていた。もちろんそれで済むはずもなく、先ほど念話を入れた際にはこってりと怒られてしまったのだが、それはそれで仕方ないと思っている。
 この作戦は、多くの兵力をチョウシの町の防御部隊として残すことにより成立するのだ。打撃部隊の数が少なければ少ないほど、そして打撃部隊がゴブリンの略奪部隊に混乱とダメージを与えれば与えるほど、町の守備人員とゴブリンの攻撃部隊の戦力比は縮まり、ゴブリンどもが諦める確率は高まる。

 マリエールはミノリの言葉に納得した訳ではなかっただろうが、それでも最後には「気をつけないとゆるさんからね、もうっ!」と赦してくれたのだと思う(多分だが、そうなのだろう)。

「この付近の敵は殲滅したみたい。移動した方が良いかなぁ」
 ミノリに変わって双眼鏡をのぞき込んでいるのは五十鈴だ。
「北西の方向で。……あっ。すごいな、目立たないで移動してる」
 感心したような声を出した五十鈴は、報告を続ける。

 にゃん太達の即席パーティーは、直継(ガーディアン)レザリック(クレリック)を縦の軸として、攻撃陣には小竜とにゃん太。つまり二人の〈盗剣士〉(スワッシュバックラー)で構成されている。
 攻撃速度でダメージを稼ぎ出すタイプの〈盗剣士〉二人は、魔術師系攻撃職のように派手な明かりや爆発音を出すこともなく、広範囲に連続攻撃を行う事が可能だ。森林部における殲滅線では、恐ろしい能力を発揮するだろう。

(んっと……北北西へ3km移動、尾根に上って……。目指しているのは、この間の神社跡です……ね。なら、私たちは、林間道路を避けて……)
 それは谷間に一度降りることになるが、反対側の尾根に横行で渡ることが出来るルートだった。

「どうする? ミノリ」
 みんなの視線が集中する中、ミノリは地図をまとめて立ち上がり、こくりと力強く頷いた。
「一旦谷間に降りて、西から北西に移動します。警戒体制維持で行きましょう」

 一行は、計画に従って移動を開始した。
 定期的ににゃん太からの通信を受け、さらにはその連絡をマリエールへと送る。マリエールはチョウシの町の〈大地人〉と話し合っているのだろうか? 夏季合宿の他のメンバー達は、もう〈帰還呪文〉でアキバの街へと帰ってしまっているだろうか? いいや、少しくらいはチョウシの町のために残ってくれているはずだ。

 闇の中で歩いていると、ミノリの胸の中に言いしれぬ不安感や徒労感が押し寄せてきそうになる。
 いま戦っているのは、ゴブリンの大軍団の一部でしかないという話だ。ミノリは詳しく聞いていないが、にゃん太から漏れ聞いた話では、ゴブリン族が北のほうで大量に発生してしまい、そのために廃都イースタルまでも押し寄せてきたというのが、今回の事件の発端であるらしい。

 つまり、いま戦っている略奪部隊などと云うのは、そのゴブリンの本隊からすれば、ほんの一部でしかない。むしろ統制を外れた非正規部隊だと考えることも出来るだろう。
 そう考え始めると、虚しさもわき上がってくる。
 自分たちがこの略奪部隊を撃退したところで、全ては焼け石に水かも知れないのだ。時間稼ぎにしかならないのではないか? と云う疑念が黒い雲のようにわき上がり、止められなくなる。

「おっかねーなー。夜の戦闘は」
 前を歩くトウヤが、ぽつりとそんな言葉を漏らす。

「自分の刃の描く銀光が、目に染みる。夜目が効いても、足下が根っこや軟らかい土に取られてバランスを崩すんじゃ無いかって心配だ。息づかいだけが耳につくほどでかく聞こえてさ。……閃光で照らされた血の赤さが、いつまでも(まぶと)の裏に残る。――でもさ」
 トウヤは、振り返らない。
 集中力を切らさずに、列の先頭で獣道とも云えないような木々の隙間をかき分けて、谷底へと降りてゆく。

「でも、頑張ったって、良いんだ。……助けたって、良いんだ」
 トウヤの声は、暗闇に点った灯りのようだった。

 ミノリは視線をあげる。
 守らなきゃ、助けなきゃとやはり心のどこかでは思っていた弟の背中を見る。そこに見えるのは、ミノリにはない強さ。シンプルで、まっすぐで、迷いがあったとしてもそれを振り切るだけの到達速度をもった、トウヤの意志。

「うん。それで、良いんだよね」
 真っ先に頷いたのは、五十鈴だった。

(やっぱり……)

 マイペースな彼女がそんな風に頷くだなんて、ミノリの推測は、やはり的中しているのだ。戦闘が始まるまでは躊躇っていた五十鈴。ルンデルハウスの心配をしていた五十鈴、だとすれば、この戦いは負けられない。
 ルンデルハウスは、ミノリの仲間でもあるのだから。

 ルンデルハウスの矜持と秘密を守り、その仲間達を助けるために、ミノリ達は「ここへ来なければ」ならなかったのだ。

「何を云ってるんだい。トウヤにミス・五十鈴。そんな事は当たり前だ。目の前に倒れる人を放っておいて冒険者なんてやっていられるものか。僕は僕のやりたいように、好きなようにやるんだ。僕は格好良い人間になるために冒険者になったんだからなっ」
 ルンデルハウスは憤慨したように言葉を続ける。

 トウヤもそれに力強く答える。
 そんなみんなを守るのが、ミノリの役割なのだ。

 ダメージ遮断呪文は、回復呪文ではない。
 それどころか、ミノリの考えでは、魔法ですらない。

 それは仲間を守り抜くという宣誓だ。ミノリの仲間達が戦場に立つのなら、そこに降りかかる危難の全てを肩代わりし、そのような侵略があった事すら仲間に気付かせず守りきる〈神祇官〉(ミノリ)能力(覚悟)だ。

(いまはまだ未熟で……どれほどのことも出来ないけど……)

 でも、と思う。
 けれども、と思う。

 いつの日かなどと寝ぼけたことを云うつもりはない。明日にでも。今日にでも、その力を手に入れる。そのためには目の前の暗闇を、恐れている暇はない。

「警戒っ」
 ミノリの思惟を、五十鈴のひそめられた声が引き戻す。
 五十鈴は細めた視線で尾根の先を見る。そこは明かりひとつ無い真っ暗な森の木々が広がるだけだが、〈吟遊詩人〉(バード)の鋭敏な感覚はその漆黒の中に何かをかぎつけたらしい。
 彼女は小さくハンドサインを残すと、列の先頭に出て偵察を始める。

「魔獣だ……。種類は判らないけれど、大きな犬のようなのを連れた、ゴブリンが見える」
 五十鈴は小さな声で報告をする。谷間を渡る風は、こちらの匂いも声も、尾根に届かせはしないだろう。それは有利な点だが、逆に高所を相手に取られているのが痛い。

「数は、獣3にゴブリン3」
〈魔狂狼〉(ダイアウルフ)――強敵です」
 ミノリは呟く。
 シロエの授業で基礎知識だけは吸収している。ダイアウルフは大型で凶暴化した狼の一種だ。だが、狼とは云っても野生種ではない。マナと月の魔力に狂った、れっきとしたモンスターで、その戦闘能力は通常の狼の二倍以上にもなる。

「弱点は?」
「多くないです。この状況で使えそうなのは……。閃光と、轟音くらいかな。でも、初回だけです」
 ルンデルハウスの問いに言葉少なく答えるミノリ。
 一行はしかし、躊躇わなかった。躊躇ったとしても逃げ場など無いのだ。

「行くよ。ルディ兄は攻撃の主軸をたのむ。ルディ兄ぃを守って勝とう。ミノリはルディ兄にもダメージ遮断を。五十鈴姉ぇはルディ兄に合わせて」
 みんなの意見をトウヤがとりまとめると、一行は風向きに注意を払いつつ、尾根を目指す。

 月は中天にあり、長い夜はまだ始まったばかりだった。



 ◆


 その夜、「エターナルアイスの古宮廷」。
 夜半から始まった有志による会議は陰鬱で抑圧された雰囲気の中で続いていた。希望者による、という触れ込みだったが、会議の参加者はほぼ〈自由都市同盟イースタル〉のほぼ全領主や参謀が集まっていた。〈円卓会議〉からも三人の正使、副使が出席しているので、大会議室には、総計で60名近い参加者がいることになる。

 それだけの人数が参加していると、通常であれば会議で静かにしていても、身じろぎや咳払いなどで、どこかざわめいた雰囲気になりそうなものだが、今日ばかりはまるで何かの引き金を引くことを恐れるように、物音ひとつ立てる参加者すらいなかった。

 議題は「昨今のヤマト列島北部の治安状況」というものである。

 この会議を招集したのは、ウツルギ神前街の領主、クレンディット男爵だったが、誰の目から見ても、男爵自身の発案と云うよりは、場の流れや圧力に負けて、この大役を押しつけられたのが見え見えだった。
 男爵は見るも哀れなほどに狼狽えており、シロエが見つめる先でも、ひっきりなしにその黒髭をいじり、脂汗をぬぐっている。

「といたしましても」
「ふむ……」
「ふぅ」
 会議は議題らしきものの周囲をぐるぐると回りつつも、一向に進展を見せる様子がない。

「ヤマト列島東北部に発生したゴブリンの大部隊は、〈七つ滝城塞〉(セブンスフォール)を発しまして……その……あーっ。……わが、領土を……蹂躙しておりました……はい」
 それでも周りからの突き上げを喰らったクレンディット男爵が、震えてひび割れた声で、数十分前に話したっきり、議題らしきものは一向に進展していなかった。

(領主達にしてみれば、僕たちに話の口火を切らせて、なんとか情報もしくは譲歩を引き出したいという考えなんだろうな。あるいは〈七つ滝城塞〉を攻略「しなかった」責任というか、罪悪感を利用したいとでも考えているのかも知れないが……)

 居並ぶ多数の領主を観察して、シロエは考えを巡らす。領主の表情の中には、恐怖、諦念、怒気、哀願など様々なものが浮かんでは消えていった。
 その様子は余裕という言葉にはほど遠い。そわそわと落ち着き無い態度を取りながらも、時に恨みがましい憎しみの視線を〈円卓会議〉へと向けてくるのは、ツクバの街の領主キリヴァ侯だ。

(ツクバの街は……マイハマと並んで、いま、ゴブリンの軍勢にもっとも近い場所にある。最前線と云っても良いだろう。その上、東部最大を誇るマイハマの都に比べれば戦力も乏しく、城壁も決して頑強とは思えない。……賢者の学舎を中心にした学者と魔法使いの街だと聞くし。……内心では相当僕たちに思うところもあるんだろうな)

「あー。うぉ、うぉっほんっ。かような訳でして……。目下、我らが、〈自由都市同盟イースタル〉んにぃ、おきましては。火急の事態として、この亜人間どもの襲来という、未曾有の災厄が起きております。この事態に関しまして……」
 クレンディット男爵の冗長な司会により会議は再開されるが、今度はざわざわとした私語が止まない。領主も、聴取の後ろに控える文官達も、ひそめた声で周辺にいる仲間と話合っている。一つ一つの声は言葉が聞き取れないほど小さいが、全体が寄り集まると、騒然とした雰囲気は否めない。

 横を見ると、ミチタカも大きく肩をすくめていた。
 これでは会議の体を為してはいない。
 しかしだからといって、こちらから折れてゆくのも〈円卓会議〉のこの後を考えると、譲歩しすぎだと云えるだろう。

「〈イズモ騎士団〉の動静をご存じの方はご教授願いたい」
 仕方なく発したシロエの発言は、騒がしくなりかけていた会議にいきなり冷水を浴びせかけたような効果があった。一部の領主は目を真円に見開き、なかば口を開けてシロエの方を凝視している。

(なんなんだ、この反応は。〈大地人〉は僕らを思考能力のないサルだとでも思ってるのか? 仕方ないか。ついこの間まで、僕らだって〈大地人〉をノンプレイヤーキャラクターだと侮っていたものな。おあいこだよなぁ。
 それにしても、……〈イズモ騎士団〉が動けない状態にあるのは間違いないみたいだ。しかもこれは、別件で動けないと云うだけの反応じゃないのか? より奥深い理由でも?)

「イ――〈イズモ騎士団〉はわがヤマトの守護神。このような戦に呼び立てる訳にはいかない。それよりも、アキバの〈円卓会議〉殿に尋ねる。なにゆえ、ヤマトの危機に立ち上がらないのですか? クラスティ卿ひきいる騎士団は精強無比と聞き及びます。〈円卓会議〉はこの度の事件に兵力を派遣せぬおつもりかっ?」

「それについて領主各位の意見を聞くための会議だと考えていたが、我らアキバの街の意見を聞くための会議だったのですか? 〈円卓会議〉における決定はさらなる情報収集なんですがね」
 ミチタカはぶっきらぼうな口調で頭をかきながら答える。

 会議に参加する以上、発言を求められるのはかまわないが、話をそらされるネタに使われるのは不愉快だ。そんな態度だった。

「アキバの街の騎士団は東西不敗と聞きますっ」
 名前は知らないが痩せた貴族が叫ぶように言葉を添える。

「どのような噂をご存じか判りませんが、我ら〈円卓会議〉もアキバの街も、領主方が云うような意味での常駐兵力、騎士団は一切所有していません」
 シロエは半ばあきれながら肩をすくめる。
 やっと判ってきたが、この世界の戦力、戦争の単位というのは、特に〈大地人〉に於いては「騎士団」を基準にしているようだ。この場合の騎士団というのは馬に乗った精鋭兵士という意味合いではなく、職業的な軍人である。「騎士団」とは「常に戦いに備えている固有戦力」というように理解してさほど間違いはなさそうだ。

 〈冒険者〉が存在するこの世界において「傭兵団」というのは殆ど聞くことが無く、一般市民が武装を行なう民兵は、農村の自衛などと言った局面でしか見ることはない。領主達が武装農民の存在を快く思わないという背景があるらしかった。
 「騎士団」と云うのは貴族が理解できる、殆ど唯一の戦力のあり方であるらしい。
 しかしだからといって、アキバの街がその流儀に合わせる必要など、シロエは感じていない。

「それではいったい何のための〈冒険者〉ですかっ」
 血走った目でまくし立てるキリヴァ侯の言葉に、ミチタカが反応する。

「何のための〈冒険者〉? ……それはどういう意味ですか?」
「決まっているでしょう。〈冒険者〉の能力は、神から与えられた恩寵っ。大地を救うための義務があるはずだっ!」
「聞いた覚えがない話ですね」

「何を寝ぼけたことを云っている。不死、不滅っ! そのような能力を持ちながら、この世界に対する義務を放棄するというのかっ。恥を知れっ。それだけの能力を持ちながら何故そんなにも傲慢なのだっ!?」

「ふざけるなっ!」
 ミチタカの大音声は空気をビリビリと振るわせて響き渡る。

 ――この会議を行なう前、シロエたちは昼からの情報収集と話し合いの中で、記憶の剥落について深く考察をした。そして、今回の出征の可能性についても、だ。

 確かに、記憶の欠如は恐ろしい。元の世界の記憶を無くすと云うことは、故郷を失い、この異世界で迷子になるように心細いことだ。しかし、だからといって、この世界での「生」を避け得ぬ事は明白だ。
 もはやシロエたち〈冒険者〉にとって「死」すら終了を意味しないのである。いつまで続くのかは判らないが……限りない生を生きるしか、いまのところ道はない。

 だからこそ、もし仮に今回のゴブリン軍に対する出兵を回避できたとしても、いずれは不可避の戦いに巻き込まれざるを得ない。〈円卓会議〉はその点では一致した。どこかで戦わなければならないのであれば、今回のゴブリン王との衝突に、むろん勝算を段取ってのことだが立ち上がっても良い。その覚悟さえ決めて、現場の交渉責任者としての三人に権限を預けたのである。

 しかしかといって一方的に使われるのは、今後のためにも良くないだろう。安易な兵力提供は、〈円卓会議〉やアキバの街だけではなく、ゆくゆくは〈自由都市同盟イースタル〉にも傷を残すとシロエは主張した。力を合わせるのは構わないが、そのための筋は通さなければならない。

 そしてこの夜の会議における役割を確認しあったのだ。
 シロエは〈円卓会議〉からの派兵に賛成しつつ情報を引き出す。
 ミチタカは〈円卓会議〉からの派兵に反対しつつ譲歩を引き出す。
 クラスティが最終的な意志決定を行なう。

 で、ある以上、ミチタカがキリヴァ侯の派兵要請に反対したのは、シナリオ通りだと云える。しかし、ミチタカの一喝にはシナリオという以上のにじみ出る怒りが備わっていた。

(……当たり前か。不死だからリスクがない。リスクがないから働け、なんてのは)
 それは、記憶剥落が明らかになった〈冒険者〉にとっては逆鱗に触れる物言いだった。ミチタカが怒るのも、無理はない。

(弱者が強者に持つ、傲慢か……。いや、笑えないな。僕らだって自分たちの知らぬ間に傲慢を身につけてるかも知れないんだし……)

「まず第一に、俺達は〈自由都市同盟〉の仲間ではない。その儀礼とやらはまだ受けてない。まだ受けてないゆえに、昨日の全体会議にも呼ばれなかった。違うか?」
 ミチタカは力強い瞳でぎょろりとにらみつけながら言葉を続ける。

 昨晩、領主達が秘密会合を持ったことはアカツキの調査で判っている。
 その内容までは領主方の間諜に阻まれて判らないが、この会議進行を見れば自ずと明らかだ。

「それは良い。事実我らはまだその叙勲とやらを受けていないのだからな。しかし、おのおの方、貴族だけが全体会議を行ない、その一事を持って我ら〈円卓会議〉、我らアキバの街に一方的な協力を要請するとはいかがなものかっ!? いかがなのだっ。クレンディット男爵」

「さような。けっしてさようなことは……その、ございません。それは誤解でございますぞっ。ミチタカ卿っ」
「俺は卿なんかじゃねぇっ」
「そ、そのようなことをおっしゃられてもっ。……われら〈自由都市同盟〉領主一同が、その……。共謀ですか? を、して……。衆を持って一致団結し、アキバの街に出兵を求めておる。そのような事実は一切無い訳であり……」

 ミチタカの剣幕に、哀れなクレンディット男爵は目を白黒させながら、言葉を詰まらせる。

「ふむ。では、アキバの街に出兵を求めたのは、キリヴァ侯爵の独断であり、〈自由都市同盟〉の総意とは一切関係ない。こういうことでしょうか?」
 シロエはそのクレンディット男爵の言葉に応えた。

 その言葉で度を失ったのは、キリヴァ侯爵である。

「なっ! それがしがこのような件で私利にかられ、独断で事を進めたと仰るおつもりかっ! 各々がたっ。カシワザキ伯! タイハク侯! スワ湖畔長っ!! なぜ各々がたも、〈冒険者〉に一言云ってやらぬのですかっ!」
「それは……っ」

「確かに総意ではない。総意ではない……が。我らの中でもそのような声が聞こえ、それが少なくないことも事実。それともアキバの街の誉れ高き最高戦力は、ヤマトの大地の災禍などはどうでも良いと仰せか?」
 脂ぎった中年の領主が粘り着くような声でミチタカに迫る。

「俺達は犬猫ではない。“お前達は死なぬのだからゴブリンを掃除してこい”だ? そのような言葉に乗って同胞を戦場に駆り立てるようなものが、アキバの民の信任なんて得られる訳がねぇだろうがっ!」
 シロエは激高しかけるミチタカの腕を引き、椅子に引き戻す。

 役割上、ミチタカが反対するのは構わないが、このまま感情にまかせて怒鳴り、記憶剥落の情報が〈大地人〉に漏れてしまいでもしたら、面倒なことになる。

(ふむ……。これは、困ったなぁ……)

 多少失敗したかな、とシロエは考える。

 会議の場はキリヴァ侯とミチタカの対立で、完全に硬直してしまった。シロエとしては、今回の遠征には、出兵というか、協力しても構わないと思っている。いや、最終的には協力せざるを得ないと考えている。
 どちらかと云えば、その落としどころをもうちょっと時間を掛けて探るつもりだったのだが、その間もないうちに、会議に亀裂が入ってしまった形だ。こうなってしまっては、なかなかに言葉も差し込みづらい。

(考えてみれば、譲歩を引き出すとか云いつつ、具体的な目標を定めておかなかったのは失敗だったな……。例えば資金とか、経済的な協力だとか、あるいは条約締結とか。いずれにせよ、ゴール未設定で挑んだのは失着手だった)

 重苦しい空気が流れて凍てついた会議。
 流石のセルジアッド老公も言葉を差し挟めない空気に、シロエが苦慮しながらも何とか一石を投げ込もうとしたとき、前触れもなく観音開きの大扉が開く。

 廊下を渡っていたのであろう涼やかな風と共に入って来たのは一人の美姫。銀髪を結い上げて淡い夜明け色のドレスをまとったレイネシアだった。



 ◆



 レイネシアは後悔していた。
 それを云うならば、先ほどから一瞬たりとも休まずに後悔をし続けている。
 いつものレイネシアを知る人が見れば、ほろりと涙を流すほどに勤勉さでもってレイネシアは後悔していたのだ。この際、後悔するというのが非生産的な行為で、本来「勤勉」という形容詞で表現されることはないというのは横に置いておく。
 今日のレイネシアにそんな細かいことを気にする余裕はないのだった。

 大広間はレイネシアの想像を超えて広かった。
 実を云えば、レイネシアは事の始終を隣室で聞いてはいたのだ。
 もちろん侯爵家の令嬢であるレイネシアは盗み聞きなどと云うようなはしたないことはしない(そんな技術は持ち合わせていない)。実行したのはエリッサである。

 会議の流れに突き動かされるように乱入してみたものの、膝はガクガク震えるし、心臓は跳ね上がっている。レイネシアは貴族令嬢として衆人環視の中で優雅に微笑むことやダンスを踊ることには長けていたが、このような政治の場に出るのは初めてであり、その予定さえもなかった。

 〈自由都市同盟イースタル〉は貴族文化の勢力である。貴族にとって女性、特に未婚の女性は、一人前とは見なされない。このような席での発言は過去許されてこなかったし、それは今後もそうであろう。レイネシアは「淑やかで控えめな理想の令嬢」として育てられたために、それをよくわきまえている。だからこそ自分のしでかしている最中の大それた事に、怯えていた。

 しかしレイネシアの心の中にある何かが彼女を突き動かし、両親や騎士達の影に隠れていることを許さなかったのだ。

 レイネシアは内心でだらだらと冷や汗をこぼしながらも、表面上は優雅な足取りで会議室の中に足を踏み入れる。

「これは……」
「相変わらずお美しい……」
「コーウェン公の孫姫、レイネシア嬢ですな」
「まるで月夜の湖の妖精のような」
 この会議室には領主だけではなく若手の棋士や参謀も多数押しかけていた。あの舞踏会の夜、一目でレイネシアのファンとなった彼らはひそひそとそのような囁きをかわし合う。
 もちろんその中には、好機を越えて欲情で濁った品性の下劣な視線もあった。

 卵形の柔らかな輪郭線を描く頬。愁いに満ちた大きな瞳、すっきりした鼻筋。そして銀糸のような髪を今日は結い上げて、うなじの美しいラインから鎖骨を惜しみなく見せたドレスと好対照をなしている。細く見えるが十分に女らしい曲線美をもった肢体を合わせれば、〈自由都市同盟〉でも屈指の美姫であることに異論を唱えるものはいないであろう。
 その上彼女を(めと)ると云うことは、ヤマト中でも一二を争う権勢を誇る公爵家、コーウェンを継ぐと云うことでもある。純粋な思慕や憧れの視線だけでなく、欲にまみれた求愛を受けるのも当然であった。

 会議室は大きく東西に長いテーブルが置かれ、部屋の中央を挟んで向かうようにしつらえられている。部屋の突き当たりにある短い辺のテーブル中央に座るのは、クレンディット男爵だ。会議の議事進行を務めているのであろう。その隣には彼女の祖父、セルジアッドがいる。

 孫のレイネシアから見ても、いつも厳しく恐ろしい祖父だった。今日だけは見逃して欲しいと願いながらも、彼女は躾け通り、部屋の中央に進み出ると、優雅に膝を折る挨拶を行なう。まずは正面、そして東。最後には西に。

 先ほどから思考は停止している。
 頭の中に綿花でもつめたかのように思考は飽和して、何も考えることは出来ない。長い訓練のすえに獲得した、自動人形のような優雅さで会釈を行なう自分。それをどこか他人事のように眺めている「本当のレイネシア」は、心の奥底に隠れてがたがたと震え、(想像上の)クッションを頭からかぶってパニック状態なのだ。

 だが、姿勢を正して、視線をあげた瞬間に、目的の人物と目があった。
 この一週間弱の間、毎日のように顔を合わせ続けた不作法の極み。慇懃無礼な大男。読心術使いの妖怪。歴戦の騎士の格好をした、悪魔的嫌がらせ屋。

 〈円卓会議〉の代表のクラスティ。

 レイネシアからすれば巨大とも云って良いがっしりした体躯を、装飾の少ない漆黒の服に包んだクラスティは、このような熾烈な会議の中にあっても、普段通りの表情を崩していない。
 つまり、長方形の細い眼鏡で視線を隠し、有るか無きかの微笑みを唇に浮かべた、意地悪な表情だ。

 レイネシアはそのクラスティをじっと見つめる。
 クラスティもレイネシアを見つめていたが、やがてほとんど唇を動かさずに囁いた。

「――今日はなまけの虫は良いんですか?」
 そんな事は決まっている。
 よくはない。
 すぐさま居心地の良い部屋に帰りたい。着慣れてちょっと形が崩れてきた、しかしそれゆえレイネシアに取ってはこよなく着心地の良いネルのパジャマに着替えて、ベッドでごろごろしたい。
 誰とも話さないで、心ゆくまで昼寝をしたい。その後でもそもそと起き出し、ろくに洗顔もしないで昼ご飯を食べたり、その後に二度寝したりしたい。

 だから、クラスティをじっと見つめた。
 いつもの貴婦人のような優雅な微笑など浮かべる余裕はない。
 みっともなく、奥歯をくいしばり、唇を引き結び、ただクラスティを見る。レイネシアは自分の後ろでエリッサが気をもんでいるのをどこかで感じるが、それすらも気にする余裕はなく、クラスティの瞳を見つめ続けた。

 会議室がざわめき始める。
 この突然のイベントがなんなのか。
 あるいは筆頭領主であるセルジアッド公の差し金なのかと考えていた領主達が、沈黙に耐えかねて疑問の呟きを漏らし始めたのだ。

「レイネシ……」
「クラスティ様」
 レイネシアは祖父の言葉を振り向きもせずに遮って、クラスティに声を掛ける。
 声が震えなければよいと願い無ければ。
 ひとたび口に出せば元には戻れないかも知れないとなかば予感しながらも、全てを投げ打つ覚悟で、彼女はクラスティに申し出た。

(この人は人間じゃない。妖怪。妖怪ですから……)

 内心ではがくがく震えながらも、クラスティの穏やかな雰囲気を思い出す。長い間一緒にいて、一度も自分に個人的に接触しようとしなかった彼の穏やかな空気を。ほんのわずかにも優しい言葉をかけてくれなかった彼の、ほとんど神がかりじみた洞察力を。

 そう。彼の人当たりの良さと八方美人さを。

 表面を取り繕い、それらしく見せかけるという一点において、彼女とクラスティは共犯者だった。

 この一週間の間、彼女と彼は、相棒として〈自由都市同盟イースタル〉の全てを騙しきったのだ。穏やかな微笑みと、柔らかい物腰を用いて、彼女達の真実を、そのささやかな機密事項を護りきったのだ。

(そうだ……。わたしは多分……。この人の不誠実さを、信じている。その嘘つきの、嘘を信頼している。わたしを見抜いてくれることを、このふざけた冗談に乗ってくれることを……)

「はい、レイネシア様」
 クラスティが恭しく黙礼をするのに合わせて、レイネシアは一歩前に出る。会議テーブルを挟んで、その距離は1mもない。

「これからアキバの街に向かいます。供をして下さい」
 レイネシアははっきりと告げた。

 頭の中はしんと静まりかえり、会議のざわめきさえ遠く聞こえる。
 自分の鼓動と、熱く火照る耳たぶの温度。ほんのわずかに細められたクラスティの表情の変化が、いつもよりずっとよく判る。

「クラスティ様は、騎士の剣に掛けて誓って下さいました。会議の間、わたしに(はべ)って下さると。ですから願います。わたしはこれからアキバの街に向かわなければなりません」

「アキバの街へ。――何を?」
「義勇兵を募ります」
 レイネシアの言葉に、領主達が息を飲むのが判った。アキバの街を統治しているのは〈円卓会議〉。アキバの街の〈冒険者〉達は、〈円卓会議〉の兵力。兵力とはこの世界において騎士団である。
 それはつまり、自らの領地でもない街に赴き、許可も受けずにその騎士団に直接、戦闘への参加を促すと云うこと。貴族社会の常識から云えば、〈円卓会議〉の権威を傷つける、越権的な行為であった。

 しかし、その義勇兵を募る旅に、クラスティ――〈円卓会議〉の代表が同行するというのは、何を意味するのか。この場合、レイネシアは騎士としてのクラスティ、個人としてのクラスティに護衛を依頼しているに過ぎない。
 理屈としては、クラスティが仮に護衛を受け入れたとしても、彼がその義務を持って〈円卓会議〉そのものに越権行為を取りなす責任は無いだろう。
 最悪、レイネシアは扇動者として断頭台に上ることになる。

 そうである以上、クラスティがその護衛を受け入れることはないし、そもそもセルジアッド公が、今や残る1人の孫娘に、そんな勝手を許すはずもない。貴族達の間には、落胆とも納得とも喜びともつかない、複雑なうめき声が上がる。

 だが、レイネシアはまっすぐにクラスティを見つめ続けた。

「それは、とてもとても面倒くさいと思いますが?」
「――はい」
 レイネシアはあっさりと自らを手放してみせる。
 だが、その内心は、会議に列席する参加者が気品と憂愁を感じている横顔ほどに穏やかではない。もし可能であるならば、クラスティに泣きつきたいほど追い詰められているのだ。

「なぜ、そのようなことを?」
「……クラスティ様は仰いました。〈冒険者〉は自由だと。わたしは、愚かな女に過ぎませんから……。政治向きのことは、よく判りません。お爺さま達がなぜ〈イズモ騎士団〉が行方不明なことを隠しているのかも理解できません」
 今度こそ会議は怒声に包まれる。

 レイネシアの思慮の浅さを非難する声に揺れ、あたかも壁がビリビリと振動するほどの喧噪になる。エリッサは主を守るために懐から小振りな短剣を取りだし、立ち上がった領主達はそれを見てさらに口々にわめき立てた。

「これは随分しでかしましたね」
「責任を取るときは、一緒に謝って下さい」
 レイネシアは心底いやそうな表情でクラスティに答える。
 それは「イースタルに咲く一輪の冬薔薇」にはふさわしくない表情だったが、もはやこの広い会議場で、レイネシアの表情のわずかな変化に気がつく参加者など殆どいない。セルジアッド公の孫娘が領主会議を裏切って、〈円卓会議〉に機密を漏らしたとして糾弾を叫ぶ声は止めどないほどなのだ。

「何を考えているんです?」
「クラスティ様にも、判らないことはあるのですね……。ええ、何も。何にも考えてはいません……。ただ、わたしは、コーウェン家に連なるものとして、礼は失したくないのです」
 その時クラスティの隣にいた魔術師風の青年が、両手を打ちならした。その鋭い音は神韻と響き、会議室にいる領主も騎士もまとめて、ほんのわずかな間金縛りに陥れる。おそらく、精神系の魔術の一種なのだろう。

 刹那訪れた静寂の中で、レイネシアは振り返り、クラスティを背にかばうようにして声を張り上げた。

「〈冒険者〉は自由です。私たちよりも自由な人間なのです。……わたし達は確かに〈冒険者〉より弱いかも知れませんが、だからといってその弱さに居直って良い訳がない。我らは我ら自身の弱さに甘え、彼の方々を道具のように使う権利などありますまい。
 わたしはアキバの街に行って、直接あの街の〈冒険者〉の方々に願うつもりでいます。〈冒険者〉は自由だと仰ったクラスティ様ですから、もし応えてくれる〈冒険者〉の方がいれば、止めるようなことはないでしょう。
 十人でも十五人でも、力を貸してくれる方を見つけに行きます。自由な彼らに物事を頼むのなら、礼を尽くすのが当然ではありませんか。礼を尽くすとは言葉を飾ることではないとわたしは祖父に教わりました。直接出向き、街路に立って、〈冒険者〉の方々の一人一人に懇願するつもりでいますっ」

 云った。
 とうとう云ってしまった。
 血が引いて立ちくらみにも似た昏さのなかで崩れそうになるレイネシアの肩を支える手がある。

「後は任せて良いか? シロエ君」
「お断りします。そんなもったいない」
「……では、ミチタカ殿だ」
 ふわふわした中で交わされる会話が、どこか遠くに聞こえる。
 鋭く響く笛の音。ざわめく会議室。
 慌ただしい靴音に、何か押し問答をするような怒声。

 まるで舞踏会でエスコートされるかのように手を引かれたレイネシアは、いつの間にか夜風が渡るテラスにいる。振り向いた視界には混乱する会議場と、そこから抜け出して追いすがる何人かの騎士。その先頭にいるのは、彼女に厳しくも慕わしい祖父の顔だ。

「行くのか?」
 何も考えられないほど混乱した頭なのに、その言葉だけは澄み切った夜空に描かれた光の文字のように聞こえて、レイネシアははっきりと頷く。祖父の顔がほころんだような気がしたが、それは気のせいだろう。

 そんな事を考えてられたのも一瞬だけだった。
 強い上昇気流に乗って、バルコニーすれすれを滑空してきた恐ろしい翼を持つ魔獣――〈鷲獅子〉(グリフォン)に叫び声を上げる間もなく、彼女は荷物のように抱え上げられる。

「失礼」
 涼やかな声は、白皙の戦士クラスティのもの。
 がっしりとした腕で彼女を横抱きにしたまま、クラスティは脚力だけで、グリフォンの背に飛び上がる。

「しがみついてて結構ですからね」
 涼しげな声がなかったら気死してしまうような状況の下、二人を乗せたグリフォンは星々の夜に飛び上がった。

 脇に控えるのは魔術師風の青年と黒髪の少女を乗せた、もう一頭のグリフォン。置き去りにしてきたのは祖父と貴族達の領主会議。

 耳元でうなる轟々とした風にドレスを持って行かれないように、レイネシアは必死でクラスティの胸にしがみつく。

 レイネシアの「出来心」は、こうして止めどない坂道を転がり始めたのだった。
2010/05/29:誤字訂正
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