025
四日目の朝、目が覚めると雨だった。
夜半から降り始めた雨はずっと続いていたようだ。
その粒は小さく、勢いも強くはない、夏にしては弱めの雨だった。この辺りの森は水はけがよいようで、テントが被害に遭うと云うこともなさそうだ。
いずれにせよ、ダンジョンに入ってしまえば、外部の天気などは関係なくなる。ミノリはそう思って朝の装備点検を始めた。
装備のチェックなど、昨日ダンジョン探索を終えた後にすぐ済ませているが、この種の点検は中学校に通っていた時代から癖になっているために、面倒くさいとも思わずにやってしまう。
(不安になってるんだな……わたし)
なるべく音を立てずに作業をしていたが、もう朝である。他の寝袋も動き始める。
テントは合計で4つある。大型テントは2つ。上位パーティー用と下位パーティー用。残りのひとつは付き添いの三人用。最後のひとつは女子用と云うことで、着替えや荷物置き場に使っていた。
だからミノリが使っているテントの人数は5人。広々としたものだ。
「おぁよ」
隣に寝ていた五十鈴が、目元を擦りながら呟く。
五十鈴は髪の毛の腰が強く、癖がつきやすい髪質らしい。一晩で後ろ髪が跳ね上がってしまっている。本人は気にしていて、いつも太い三つ編みにしているのだが、ミノリはそんな五十鈴の髪も可愛らしいと思っていた。
「も、朝だぉね?」
まだ半分目があかない五十鈴は、テントの入り口の方に視線をやる。この8人用の大テント(というよりも、天幕)は、出入り口付近の布地が粗く、外部の明かりが見えるのだ。
「うん。雨が降っているから薄暗いけれど、もう朝のはず」
「そか……。眠いね、何か」
「涼しいからかな」
「んぅ」
五十鈴は、何事かをムニャムニャと呟くと、そのままもう一度寝袋に潜り込んでいく。ミノリは苦笑しながらも、寝袋の上に毛布を掛けた。
他のみんなも、起きた気配はあるけれど、起き上がっては来ない。
外はしとしとと雨が降っているが、逆にそのせいで昨晩は気温が低く、涼しくて寝やすい夜だったのだ。雨音に包まれたテントの中は、避難所のように平穏で、誰もが涼しかった夜に感謝しているのかも知れない。
テントをこぼれ落ちる単調な水音が、まるでみんなを守っているようだった。この山中でキャンプを始めてから、初めてと云って良いくらい、ゆっくりした時間を過ごしているように思える。
ちらりと影が動いたような気がした。
そちらに視線をやると、入り口の開閉部からにゃん太が顔を出す。ミノリはテントの中央を進んでにゃん太の元へと向かった。この大型天幕は、中央部分であればミノリが立ち上がっても何の問題もないほどの高さがあるのだった。
「おはようございますにゃ」
「おはようございます、にゃん太さん」
「実は朝ご飯なのですが」
にゃん太の低くした声にミノリはこくんと頷く。
「この雨では、お外でみんなで食べる訳にも行かないのですにゃ。朝ご飯は、サンドイッチと、カニクリームスープをテントの中で各自とると云うことになったですにゃー」
「判りました」
にゃん太はわざわざその朝ご飯を持ってきてくれたらしい。
にゃん太達ベテランプレイヤーは、魔法のバッグを持っている。ミノリ達新人と違ってアイテムの持ち運びに優れ、雨にも濡れないから、と云う配慮だろう。
取り出したのは優に10人は食べられる量のサンドイッチと、小鍋にいっぱいのクリームスープだった。
「ありがとうございます」
「ああ、良いから良いから。にゃー。まった後でにゃ」
お盆と鍋を持ったまま不格好に頭を下げようとするミノリに、にゃん太は手のひらをふにふに振ると、小雨の中を戻っていった。おそらく他のグループにも朝食を届けに行ったのだろう。
ミノリは、慎重にお盆をテントの中央に運ぶ。小鍋はどうしようかと悩んだが、自分の荷物に加熱用の足がついているランプがあったのを思い出して、その上に設置した。
「んぅ、ご飯か?」
トウヤがぼさぼさの頭で起き出してくる。「うん、トウヤ。髪、すごいよ」とミノリはアドバイスをしてみたが、トウヤは「んー」という生返事を返すだけだった。
「食べない?」
「食べる。うー」
もそもそと起き出すトウヤ。その隣では、ルンデルハウスも目を覚ました。こちらは眠そうな顔も見せない。まだ寝ぼけているらしく、「おはようミス・ミノリ。……今日も太陽のような麗しさだね」などと意味不明な声を掛けながら、ふらふらとテントの入り口に向かう。
「雨降ってますよ、ルンデルハウスさん!」とミノリは声を掛けたが「顔を着替えて服を洗うだけだ」とふらふら出て行った。
そこへ帰ってきたのが、セララ。
いつの間に、とも思ったのだが、セララはごきげんで、広げられたサンドイッチの隣に、切られた果物を並べ始める。どうやらにゃん太と一緒にいたらしい。早朝デート(?)なのだろう。
そんなセララに手伝って貰って、ミノリはカップにクリームスープを注ぎ始める。温め直されたスープは、クラムチャウダーのような香りをテントに広げている。とても美味しそうだ。
「美味しかったですよ」
上機嫌のセララはそう話しかけてくる。多分、にゃん太のところで味見をしてきたのだろう。確かに美味しそうだとミノリは思う。こうやって給仕をしていても、トウモロコシとカニ肉の入ったミルク色のスープは魅惑的だ。
「んぅー」
芋虫のように転がってくる五十鈴を、ミノリは抱きしめて起こす。
荷物から櫛を取り出すミノリに、セララは「じゃぁ、こっちはわたしが」と食器を受け取った。
しとしとと降り続く雨。その中で、朝食が始まる。
上半身だけ寝袋から脱出した五十鈴の後ろにミノリは腰を落ち着けると、その髪の毛をとかす。確かに腰が強くて量も多めの髪だ。五十鈴本人は女の子らしく無いとぼやいていたが、その明るいブラウンの髪は、三つ編みにすると彼女にとてもよく似合っているとミノリは思う。
「美味いな、これ」
トウヤは呟く。Tシャツにハーフパンツで寝袋の上にあぐらをかいた姿は、レディに見せるものではないが、さほど見苦しくないから良しと云うことにしておこう。
戻ってきた早々「やぁ、今朝も良い匂い、素晴らしい朝食だ。そうは思わないかね、キミたち」と爽やかオーラを振りまくルンデルハウスは、短時間で身支度を調えてきて、完全にいつものペースだった。
そのルンデルハウスに、五十鈴は半分寝袋に入ったまま「ルディ、これ美味しいよ」とサンドイッチを渡す。
(ルディ?)
ルンデルハウスは大人しくそのサンドイッチを受け取るとほおばり「おお、これはカボチャをマッシュしたサラダではないかな。実に美味だ」などと云っている。妙に品の良いところは、本当にしつけがよい家庭で育ったのだろう。
そのまま静かに食事は続いた。
べつに今までだって、ギスギスした雰囲気だった訳ではなかったが、静かな雨の音が騒がしい喧噪をいさめるようでもあったし、本日も入らなければならないダンジョンのことを考えると、誰もが気を重くしていた。
たっぷりとあったサンドイッチの残りをバスケットに詰めて、昼食へと回すことにする。3種類の味のサンドイッチはにゃん太の真心の籠もった力作で、非常に美味しかった。ミノリは、フルーツ入りオムレツのものが一番お気に入りになった。
果物が残っていたが、みんなそれぞれの熱いカップを手に持ったまま、ほっとため息をついていた。満腹後に訪れるあの空白のような精神状態が、メンバー全員に降りてきていたのだ。
「あのさー」
そんな雰囲気の中、トウヤは声を上げる。
「おかわりですか?」
セララはそんなトウヤに、小鍋の中を覗きながら問いかける。
「いや。そうじゃないけどさ」
トウヤは何かを考えながら、言葉を探す。
一瞬だけ交わった視線で、ミノリには、トウヤが何を考えているのか判った。この状況をどうにかしたくて、一石を投じるつもりなのだ。もしかしたら姉であるミノリよりも、弟は自分自身が矢面に立とうとしたのではないか? ミノリはそんな事すらも想像した。
もの問いたげな周囲の視線の中、トウヤは何度か口を開きかけながらも戸惑う。上手い言葉が見つからないのだろう。そんなに口達者でもないトウヤが、そうやって言葉に迷うのは、ミノリにとって見慣れた光景だ。
トウヤが決意をこめて封を切るつもりなら、ミノリだって付き合わない訳にはいかない。
(ううん。むしろそれは、わたしがすべきことだったんだ)
――いいか。もし困ったことになったら、前に出ろ。脚じゃなくて、心で、だ。
いつの日か聞いた、直継の忠告を思い出す。
心で、踏み出す。その言葉の意味が、いまやっと少しだけ判るような気がする。それは、勇気を揺り起こせと云うこと。勇気は戦闘の最中に怯えないという意味の言葉ではなく、己の中の怯懦を乗り越えるという信念。
怯えて留まっていたのは、自分の心だと、ミノリは気が付く。
「皆さん。今日のダンジョン攻略は、午後からにしませんか?」
◆
「え?」
あっけにとられたような声が五十鈴から上がる。
「何を言っているんだ、ミス・ミノリ。我々はここに合宿に来ているんだぞ? 一刻も早くダンジョンに赴き、少しでも多くの経験を積み、レベルを上げるのが最優先課題だろう」
ルンデルハウスはキツイ口調でミノリをしかりつける。
「でも、結局一日に一回しか挑戦できないです。一昨日も昨日も、3時間も経たないで脱出してきていますよね? だったら午後に入っても、昨日と同じ成果は十分に上げられるのではないでしょうか」
「それは……そうだが。しかし、いつまでも同じでは困る」
ルンデルハウスは納得がいかないようにいらだつ。
「いつまでも同じじゃ困るから、です」
「ミノリちゃん?」
セララの心配そうな声。ミノリとルンデルハウスが喧嘩になってしまうのかも知れないと考えたのだろう。その呼びかけの中には「過激なことは云わないで」という懇願が込められているように、ミノリには感じられた。
「だから今日は午前中いっぱい」
ミノリの言葉に、セララもトウヤも緊張する。
「だらだらごろごろとしていましょう」
しかし、そんな緊張もミノリの台詞の後半で、一挙に砕けてしまう。
「ミス・ミノリ。キミはふざけているのかッ?」
声に怒気を含ませて膝立ちになるルンデルハウス。金髪のハンサムだけあって、性格はともかく、こうやって怒りを露わにすると相当に迫力があり、ミノリは内心で少し怯えてしまう。
しかしそのルンデルハウスに一歩も気圧されない五十鈴は「落ち着いてね、ルディ」とあっさりとルンデルハウスの気持ちを逸らしてしまった。五十鈴は普段は周囲の空気を気にしすぎるくらい読む人なのに、とミノリは不思議に思う。ルンデルハウスに対しては、まるでそう言う気後れを感じていないようだ。
「だらだらごろごろは言いすぎでしたけれど。自己紹介をするべきだと思うんです」
ミノリは慎重に言葉を選んで続ける。首をかしげるメンバー達に、ミノリはそのまま話し出した。
「わたしの名前はミノリ。レベルは21で14歳。この世界でも人間族です。そこにいるトウヤの、双子の姉ですね。このパーティーでは一番低いレベルで、足を引っ張って、申し訳なく思っています」
その言葉にルンデルハウスは小さく鼻を鳴らすが、ミノリは気にしなかった。いや、ここまで来たら「気にする訳にはいかなかった」が、正しいだろう。
「わたしは〈神祇官〉です。〈神祇官〉は回復3職のうちのひとつです」
「そんな事は知っている」
「いいえ、知りません」
中断させようとするルンデルハウスに、ミノリは真剣な面持ちで言い返す。
「知らないんです。本当です。わたしだって、皆さんのことを何にも知らないです。何が好きなのか、何が嫌いなのか。前へ出たいのか、下がりたいのか。何も判りません。職業のことだってです」
「――」
セララがびっくりしたように固まっている。ミノリがこんなにはっきりと他人の言葉を否定するのを、聞いたことがなかったのだろう。メンバーの中でトウヤだけが唯一驚いていない。ちょっと意外だったのが、五十鈴だった。驚いてはいるけれど、すぐに優しい笑みを浮かべたのだ。
「教えて下さい。わたしは弱いから、それを聞いて、全部覚えないと皆さんの役に立てないんです」
「全部って……?」
セララは躊躇いながらもその言葉に疑問を投げかける。
「全部は、全部です。……例えば、そうですね。ルンデルハウスさんが使う、溶岩の弾は何ですか?」
「ふん……。あれは〈オーブ・オブ・ラーヴァ〉だ。溶岩のオーブ、と云った名前だな」
ルンデルハウスは何でもないと云ったように答える。
「それじゃ、まだ何も判って無いのと一緒なんです。たとえば……えーっと。なんでルンデルハウスさんはあの呪文を使うんですか? 他にも沢山呪文はありますよね?」
「それはあの呪文が有効だからだ。……ふむ。有効、か。次の質問は『なぜ有効か?』なのだろう?」
ルンデルハウスの言葉にミノリは頷く。
「あの呪文は、ボクの手持ちの呪文の中でも相当に強力なもののひとつだ。詠唱時間も短く2秒で完了する。その割には再使用規制時間は18秒とまずまずの短さだ。まず、この時間軸のバランスが極めて良いな。連射は出来ないが、再使用規制時間18秒ならば1回の戦闘に数回使うことも可能だ。
さらにあの呪文は集団攻撃呪文であるにもかかわらず、小さいオーブが敵陣を駆け回るという特性を持っている。前衛にトウヤが居たとしても、トウヤを巻き込むことなく敵だけを狙い撃ちできる優れものだ」
ミノリは熱心に聞くと、その話に何度も頷いた。
「ちょっと待ってくれよ。〈武士〉のタウンティング特技は射程距離が短いし、詠唱1.5秒だぜ」
トウヤがびっくりしたような声を上げる。
「どういう事だ?」
「えーっと、つまりさ。敵が近くまで寄ってきたら、俺は〈武士の挑戦〉を使う。これは挑発特技って云われている物で、ダメージそのものは与えないけれど、まるで巨大なダメージを与えたみたいに、敵の注意を引きつけるものなんだ」
セララも難しい顔をして聞いている。内容自体は理解できるが、他の職業の特徴なんて把握しきれない。事実、難解な話なのだろう。
「ふむふむ」
だがルンデルハウスはなかなかの理解力を示して聞いている。
――それは当然あり得る特技だった、
もし、モンスターの警戒度がダメージを与えた相手に集中をするのであれば、「壁役」に敵を固定するためには「壁役」であるトウヤ以上のダメージを出すことは、全員禁止されてしまう。
それではせっかくの大ダメージを誇る〈妖術師〉や〈暗殺者〉は自分の役目を果たせなくなってしまうだろう。だから優秀な壁役であれば、パーティーの誰よりもモンスターの敵意を集中させる特技を持っているはずなのだ。
その特技が「タウンティング系」と通称される一連の技だ。これらは、実際にダメージを与える訳ではないが、モンスターにショックと痛みを与え、その警戒心に「壁役」の存在を深く刻みつける。
「だが、この挑発特技ってのは、同じ戦士クラスでも色んな特徴があるんだけど、〈武士〉のそれは射程範囲が狭い。3mくらいだったかな? とにかく刀が届く距離だ。だから、こいつは引き寄せてから使用しなきゃならない。発動するまでに掛かる時間は2秒だ」
五十鈴は、きょとんとした顔で話を聞いている。やはり、話が難しいらしい。
「つまり、だ。もしスケルトンが俺達に駆け寄ってきている最中に、その〈オーブ・オブ・ラーヴァ〉の呪文を唱えているとすれば、着弾は俺の〈武士の挑戦〉よりも、〈オーブ・オブ・ラーヴァ〉の方が全然早くなるだろ? そうなったら、スケルトンはルンデルハウスさんに向かうのが、当たり前だよ」
結論としては、そうだったのだ。
みんなを守るべき、トウヤの挑発特技は、機能していない。敵が飛び道具使いならその射程距離外にいることにもなるし、そもそも挑発特技よりも先に、ルンデルハウスの攻撃呪文が敵に命中している事になる。
「じゃぁ〈オーブ・オブ・ラーヴァ〉を使うな、と云うことなのか?」
「いや、2秒待ってくれよ」
「それでは2秒が無駄になるではないか。華麗なる戦闘に置いて2秒のロスは致命的だ」
言い合いを続けているトウヤとルンデルハウスは、どちらも段々と声が大きくなっていく。喧嘩腰、と云うほどではないが、二人の間にある熱気が揺らめいて見えるようだった。
「……もしかして。その、さ。〈臆病者のフーガ〉とか、意味があるのかな?」
五十鈴はためらいがちに声をはさむ。
「なにそれ? 五十鈴姉ちゃん」
トウヤはきょとんとした顔で尋ねる。ルンデルハウスは「どうも卑怯者のような名称だ。特技なのか? ミス・五十鈴」などと云っている。
「〈臆病者のフーガ〉は覚えたばっかりの特技で、『永続式の援護歌』なんだけど。――『永続式の援護歌』ってのは、ようするにかけっぱなしで、ずっと効果がある特技ね。いっぺんには二種類までしか使えないんだけど、ずっと効果があるの。
で、〈臆病者のフーガ〉は……。この歌を掛けておくと、『戦士職以外の人が与えたダメージを低く見せかける』事が出来るように、なるみたいなの」
「そんな特技があるのか!?」「本当かっ」
トウヤとルンデルハウスは声を上げて驚く。
〈吟遊詩人〉の援護能力がバラエティ豊かなのは知っていたが、まさかそのような特技があるとは考えても居なかったのだ。
「ううう、あるのよ。あるんですよぉ」
五十鈴の方もその迫力に押されたのか、ちょっぴり後ずさり気味だ。問い詰めてくる2人の剣幕も、五十鈴にはぴんときていないらしい。
「だってこの『永続式の援護歌』はダメージを増やしてもくれなければ回復もしないし、回避率とか攻撃力を上げてくれる訳でもないんだよ? あたし、今まで、無駄な特技だなぁって思ってたし……」
それは無理もないだろう。
ミノリ自身だって、突然「戦士職以外の人が与えたダメージを低く見せかける」なんて能力を話されても「何て意味がない特技なんだろう」としか思わなかったと思う。
しかし。それが判っただけでも、一歩前進なのだ。
「やっぱり、何も判って無かったです」
「ふむ。――ミス・ミノリ。これはボクが謝罪をしなければならないようだ。確かにボクは無知で理解が浅かったことを認めよう」
ルンデルハウスは潔く頭を下げる。
「いえ、わたしだって全然知りませんでした。だから、ルンデルハウスさんが知っている呪文も、全部教えて下さい。名前だけじゃなくて、性能だけじゃなくて、どこが好きなのか、嫌いなのか、どういうときに使うのか、使いたいのか。全部」
「全部……か。時間が掛かるぞ、ミス・ミノリ?」
「良いんです。ゆっくりでも。判らなかったら何度でも聞きますから」
外は小雨が降っていたが、みんなその音はもう聞いていなかった。
自分が出来ること、出来ないこと。
得意なこと、不得意なこと。
ミノリ達は午後になっても、長い間話合っていた。
◆
シロエはベッドの中で寝返りを打った。
時は夜明け前。暗い室内にはわずかな物音さえない。
カーテンも閉めているために星明かりすら入ってこない室内は漆黒の闇に支配されている。目を開いていても、瞑っていても、わずかの差もないほどの濃密な闇。
そのなかでシロエはここ数日のことを思い出している。
〈自由都市同盟イースタル〉の貴族達は、予想通りシロエ達〈円卓会議〉に個別接触をしてきている。その要求は様々だが、兵力派遣を希望するところは、少ない。技術供与や通商条約を結びたがるところがほとんどだった。思ったよりもしたたかで賢いというのが、シロエ達の印象である。
〈冒険者〉の派兵が都市間の戦力バランスを容易く崩し、現在の均衡が失われかねない事を貴族達は理解しているらしい。また、少なくない数の貴族が、〈海洋同盟〉〈ロデリック商会〉〈第8商店街〉が共同で開発している、魔術式蒸気船試作機の情報を掴んでいることも意外だった。アカツキの報告から予想はしていたが、アキバの街には相当な数の密偵が入り込んでいるようだ。
それだけ注目されていると云うことだろう。
アキバの街では技術情報に箝口令などは敷いていない。聞き出すことはさほど難しいとは思えない。現在のところ、情報機密など有って無きがごとき有様だ。しかしながら、蒸気機関などの技術は高レベルの〈鍛冶屋〉や〈機工師〉などのサブ職業スキルが必要となる。「そう言うシロモノを作成している」と言うことは周辺に漏れても、これが他の国ですぐさま生産できるような事態になるとは考えがたい。
ミチタカやクラスティ、また念話によって他の〈円卓会議〉のメンバーとも話合ったが、食料品関係は自由通商条約を結んでも損はなさそうだった。アキバの街の食品自給率はけして高くない。
特に米や小麦、豆類、芋類と云ったいわゆる主食は壊滅的だ。こういったジャンルにかぎれば、通商条約はアキバの街にとって有利に働く。一方で、食料品におけるアキバの街の主力輸出品となりうるのは、調味料だった。
もちろん、塩、砂糖と云った基本的な調味料やハーブの類は不得意だが、醤油やソースなどの加工型調味料は、元の世界の知識を持つアキバの街の〈醸造職人〉が強い。
こうして、貴族達からの幾つかの申し出は限定的にではあるが受け入れ、もしくは検討の約束をした。断った申し出はその数倍に及ぶ。いずれもアキバの街のスタンスをはっきりさせて行くためにも必要なステップだった。
しかし、そう言った自由都市同盟領主達との会合よりも、さら衝撃が強かったのはリ=ガンとの出会いだった。
(落ち着かないな……)
シロエはまた一つ寝返りを打って考える。
リ=ガン本人は、けして不愉快な人間ではない。なかなかに愛嬌のある研究者だとシロエは思っている。頭の回転も速いし、知識もある。信用は……出来ないかも知れないが、嘘を言っているとは思えない。
しかし、彼の話したこの世界の歴史は、シロエをひどく不安定な気分にさせた。
〈森羅変転〉。
〈魂魄理論〉。
世界規模魔術の研究をするに当たって、リ=ガンの目下の関心事項は上記の二点に絞られるらしかった。
「魂の問題」――とリ=ガンは云っていたが、それがこの〈魂魄理論〉だ。その技術的な側面は専門家ではないシロエには理解出来なかったが、おおよそのところは以下のような論であるらしい。
一般的に云って人間や亜人間を動かす霊的な力は魂魄であるのだと云う。そして「こんぱく」とは一層のものではなく、魂と魄という二種が密接に関わったエネルギー体だそうだ。
リ=ガンによれば……。
魂とは精神を駆動するエネルギーである。人間の精神は魂の上に存在する。魂が強いとはすなわち、心の力が強いと云うことを指し示し、魔法の威力などにも影響を与える。MPとは、魂の力の表出なのだ。
魄とは肉体を駆動するエネルギーである。人間の身体の肉体的な強靱さは魄に大きな影響を受ける。魄が強い場合、肉体的な強靱さばかりではなく肉体の持つ霊的エネルギーも強力となる。戦士などの武器攻撃職はこれを戦闘に利用する。HPにもそれは現われるが、なによりも「気」は魄の力の表出なのだ。
人が戦闘不能になると、まず最初に身体は動かなくなる。この時点で、精神は健在だ。しかし身体と精神は切り離され、精神の側は暗闇にとらわれた状態となる。魂と魄の間の情報疎通が、不通になり始めるのだ。
そして魄の拡散が始まる。先に述べたように、魄は肉体の根源的なエネルギー、「気」だ。ゆえにこの拡散は、頑強で高レベルの肉体をもつ存在ほど時間が掛かる。低レベルなもの、病弱なものの魄は数分で拡散してしまうが、強靱なものであれば半日ほど拡散は続く。この過程を落魄と呼ぶ。
回復職の用いる〈蘇生魔術〉とは、この状態の死体に用いられるものである。効果原理としては、周辺の大気に拡散してしまった魄を集めて再構築をし、肉体に戻すという手法だ。
足りない「気」については、回復術者自らの「気」を用いて再構築するのだが、この再構築については、構築情報を目の前にある死体にのこされた記録から逆算で作り出す。経験値がロスするのは、この計算時の誤差というか、避け得ない情報劣化によるものであるらしい。
さて、〈蘇生魔術〉などが使用されず、魄が完全に拡散すると、身体は現状を維持できなくなる。物理的に云うと、腐りはじめると云うことだ。〈大地人〉の場合、この時点で死は決定的になる。……そう、意外だが、〈大地人〉にも〈蘇生魔術〉は有効なのだ。死の直後でありさえすれば。
一方、冒険者の場合は落魄が終了した時点、もしくは死後その冒険者が望んだ時点で、肉体は装備もろとも粒子状に分解される。さらに魂の力を用いて大神殿に転送され、そこで自動的に肉体は再構成される。さらに大神殿に満ちる「気の力」を用いて魄を修復。そのうえ修復した肉体に魂を再結合して「自己蘇生」する。
この奇跡じみた能力により、魂の力も魄の力も限界まで消費されるし、情報劣化により一部の経験値は失われるものの――〈冒険者〉は「生き返る」。事実上の不死存在だ。
リ=ガンの研究に寄れば、これがこの異世界における死と、〈冒険者〉復活のシステムだ。
「それは意外なほど亜人間の転生システムと似通っているのですよ」
リ=ガンは語った。
「亜人間は、個体が死を迎えると……まぁ、この場合落魄するとですね。〈大地人〉と同様にその肉体は腐り、装備はそのまま遺棄されます。しかしその一方、その魂はすぐさま別の個体として生を受ける。成長には数年から十年程度は掛かるでしょうが、転生、不死ではあるわけです」
それは、ある意味恐ろしい話だった。
もっともこの話はリ=ガンとその師匠が研究していた仮説であり、一般の〈大地人〉は知らない話だ。しかしそれが真実だとすれば、亜人間という種は、考えていたよりよほどやっかいな敵となりうる。
――では亜人間は前世の、つまり死ぬ以前の記憶を持っているのでしょうか? シロエはそう尋ねた。
「それについては何ともお答えしかねます。この件には二つの要素が絡んでいるのです」
リ=ガンは答えづらそうに言葉を探す。
「まず、第1に精神の座は魂です。これは亜人間や〈冒険者〉において不滅だ。精神、人格、誓い、性向と云ったものは間違いなく魂に情報として蓄えられる。そして記憶も、少なくともその大部分が魂に蓄えられていることは判明しています。
しかし、その一方、記憶は肉体の脳という器官に蓄えられることも判明しております。云うまでもなく肉体は魄の領域です。
つまり、記憶とは魂と魄の両方にまたがって存在する情報連続体だと云うことになります。そうである以上落魄や魄の再構築により、記憶は欠損するのではないかと想定され、事実そう言った事象が確認されています。
記憶は、死により欠損、劣化していきます。
また魂は感情の座でもあります。そうである以上、例え不死の存在であっても、恐怖や絶望、倦怠と云った『毒』が回る事はあり得る。実際問題、亜人間はおそらく〈第一の森羅変転〉の呪いによって魂が歪曲された状態にあります。その状態の精神は、例え記憶そのものを保持していても、それを『自由に思い出し、自分の過去だと認識する力』が失われているのです。いわば分裂症のような、もしくは物語のような記憶として本人には観取されるでありましょう」
それでは、死は。
死は、この異世界において、ノーリスクではないのだ。
それは恐ろしい事実だった。
いや、まだ全ては仮説に過ぎないとも云える。
だがそんな疑念の声をも沈黙させるように、シロエの大部分は事実であろうと納得していた。それは理屈以前の嗅覚だ。ノーリスクなどであるはずがないのだ。無限の命などと云うものが。
(記憶とは魂と脳の両方に蓄えられるとリ=ガンは云っていた……)
魔術師のファンタジー魔法理論を頭から信じる訳ではないが、それはシロエにも思い当たることがある。
〈エルダー・テイル〉というゲーム、いやオンラインゲーム全てに云える構造だ。シロエたちプレイヤーは家のPCデスクに座り、〈エルダー・テイル〉の世界で遊んでいた。おおよそオンラインゲームとは、全てそのような状況で愉しむモノだ。
それはいわば『旧世界』の人見知りをする大学生「城鐘恵」が、先ほどの理論で云えば魂の役割を果たしていたという意味ではないのか?
例えキャラクターが死を迎えたとしても、プレイヤーである「城鐘恵」が死ぬはずはない。復活したシロエを再び操作して冒険に再度出発するだけのことである。
リ=ガンの理論を借りるとしても、記憶の全ては「城鐘恵」が持っていて、シロエには「肉体」しかなかったという理屈になる。
しかしそれは〈エルダー・テイル〉がゲームであった時代の話だ。
どういう魔法が働いたかは判らないが、今のシロエはシロエそのものとして、丸ごとこの異世界に実在してしまっている。
つまり、シロエの魂はこの世界に存在してしまっているのだ。『旧世界』の安全でぬくぬくとしたPCデスクに座っている状況では、無い。その記憶連続性はもはや守られては居ない。死は、シロエの魂を容赦なく傷つけるだろう。
シロエは自分のステータス画面を呼び出した。
そこには「死亡回数」という表示もある。
シロエの長いプレイ歴を反映して、その数は決して少なくはない。
しかしシロエは〈大災害〉以降、一度も死を経験しては居なかった。どことなく薄気味が悪い。復活すると判っていても生理的嫌悪感や恐怖心があったといってしまえば、それまでだが……。そしてそれは〈記録の地平線〉のメンバー全ても同じはずだった。
記憶の欠損がどの程度起きているかは判らない。
大規模でないことは、確かだ。
もしそうであるのならば、アキバの街でとっくに噂になっているだろう。おそらくその規模は、1回1回はどうと云うことがないものなのだろう。もしくは本人も気が付かないような、重要度が低い記憶から消えてゆくなどと云った選択性があるのかも知れない。
もしかしたら、その欠損は日常的に起きる物忘れと何ら変わらないような、取るに足りないような量なのかも知れない。
(こんなの云える訳無いじゃないか……)
このことは、ミチタカにもクラスティにも話しては居ない。
アカツキにも口止めをした。
しかし、いずれ話さない訳にはいかないだろう。それはプレイヤー全員に関わる問題だ。
シロエは暗闇の中でまた寝返りを打った。
闇は、どこまでも苦かった。
2010/05/06:誤字訂正
2010/05/29:誤字訂正
2010/07/02:誤字訂正