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◆ Chapter4.01
顔合わせは夜光虫の飛び交う朽ちたホームということになった。
今の状況においては〈円卓の十一人〉たるシロエとアインスが互いのギルドハウスを訪ねあうことは無用の疑惑を招くであろうし、かといってギルド会館でというのも違う気がしたからだ。
互いから信書を送り、その打ち合わせの結果、少数の護衛のみを率いて、アキバ中央の城壁型遺跡――地球出身の〈冒険者〉にとっては馴染みの深い、中央線のホーム廃墟で会談を行う。
アインスがなぜシロエとの面会を望んだのか、その正確なところはわからなかったが、シロエはもう避けるつもりはなかった。アインスとの会話を惜しんだから現在の状況があるのだ。その後悔を雪ぐためには向き合うしか無い。
そんな感情的な部分とは別に予感もあった。ことは政治にかかわる問題なのだ。アインスが〈円卓会議〉から離れて対決に至る。状況はたしかにそうも見えているが、それだけで済むわけではない。物語であれば、勝った、負けたで済むかもしれないが、現実はそう単純ではない。ましてや、ここセルデシアには「死」がないのだ。邪魔者を排除することが出来ない以上、どちらの側にもそれなりの落とし所が必要となる。
仮にアインスが勝つにしても、その勝ち方には何か求める形があるのだろう。そしてそれは〈円卓会議〉にとってもだ。場合によって、その求める形は勝敗よりも大事であるかもしれない。
シロエは身にしみてそれを知っている。
勝負を度外視するわけではないが、それはそれとしてもこだわらなければならないスタイルがある。勝敗は別にして続いていくしかないのだから、スタイルを捨てる勝利は先行きの勝率を下げるだけであることも多い。〈放蕩者の茶会〉があそこまで戦果を挙げられていたのもスタイルを大事にしていたおかげだし、〈シルバーソード〉が最後には勝てたのも自分たちのやり方を信じぬいたおかげだ。
そのことを知っているシロエだが、それとはべつに、自分にそんな大層なものがあるかどうかはわからなくて、そっとため息をついた。
昼間の熱をまだうっすらと残した、柔らかい風がホームを渡って行った。
月の明かりが白々とこぼれる中を、気の早い夜光虫が泳いでゆく。
緑に覆われすっかりと苔むしたホームを、付き添いを頼んだ直継とシロエはゆっくりと歩いていた。
アカツキも来る予定だったが、直前に〈念話〉があり、少し遅れるとの事だった。とは言え心配はしていない。少人数のみの護衛とはいっても、それは儀礼的な部分と、おそらくアインスの随行者の都合だ。戦闘になるような心配はほぼゼロだろう。
「なんかこう、いい雰囲気の場所だな」
「そうだね」
このホームはアキバの街の中心部といっても良い場所にありながら、ひと気がなく、このような密談にふさわしい場所だった。月明かりに照らされて思ったよりも明るいが、もっとまばゆい〈蛍火灯〉に照らされた下の繁華街からは、真っ暗で巨大な建物にしか見えないだろう。
直継と二人でその夜の中でしばらく待っていると、西口方面から続く階段の奥がゆらゆらと明るくなり、どうやら会合の相手が現れたようだった。
ライムグリーンの長髪と糸のように細められた目を持つのは、〈ホネスティ〉を束ねる〈円卓の十一人〉のひとり、アインスだった。
旧時代は秋葉原の駅のプラットフォームだった場所。
線路や支柱は今となっては錆果て、得体の知れない雑草や苔に覆われている。プラットフォームをはさむ左右のビルは、大破砕の名残をとどめてか、途中から凄まじい暴力を振るわれたようにぽっきりと折れてぎざぎざの尖塔を晒している。
その墓標のような影を横切り、一行は現れた。
「ご足労をかけました。〈記録の地平線〉のシロエ殿」
「こちらこそ。話をしなければならないと思っていました。アインスさん」
アインスとシロエは暫くの間無言で見つめ合った。
シロエと直継は円卓の制服を、そしてアインスは大規模戦闘にでも赴くかのように、普段着ではなく戦闘用の装束をまとっている。それが分かたれたふたりの立場を象徴しているようであった。
アインスの背後には、ふたりの大地人がいる。ひとりは長身で白塗りの魚類じみた貴族。マルヴェス卿だ。そしてもう一人はそのマルヴェス卿の侍従なのか、控えてかしこまる黒髪の青年。
「〈アキバ統治府〉設立の件、ですね」
シロエの意識を引き戻すかのように、アインスは乾いた声で告げた。緊張のせいか、その声は平坦になっている。
「はい。新組織設立はともかくとして、〈円卓会議〉はそれなりの対応を取らなければなりません。〈アキバ統治府〉が統治組織なのであれば――もちろん名前のとおり統治組織なのでしょうが、〈円卓会議〉と二重構造となる」
シロエは胆力を込めて言い返した。
アインスと話し合わなければならないと思っていたというのは本音だ。
しかしそれは、アインスの意思に迎合するという話ではない。互いの意思を確認し、それをぶつけあうことこそが今は必要であった。ことがここに至る前であるのであれば、すり合わせや妥協こそが最善手だったかもしれないが、ことここに至っては多少の苦痛があったとしても、互いの本音を衝突させなければ、かえって禍根を残すだろう。それは、アインスも共通の認識として持っているようだった。
「ええ、そうでしょうね。しかし〈円卓会議〉は善意の互助団体です。新しい統治組織ができるからといって、それを阻止するような権限はない」
「――」
アインスの枯れた声は続く。
その声は緊張に張り詰めていたが、弱気や躊躇とは無縁だった。アインスがどれだけの覚悟を持ってこの日を迎えたのか、その声はシロエにアインスの決意を十分に伝えていた。
「もちろん参加ギルドが賛成するのであれば、それぞれのギルドの権限の内部により反対活動をしたり制止したりすることも可能でしょうが、〈ホネスティ〉は〈円卓会議〉を離脱した。その指示に従ういわれはない。この件は決定事項です」
「しかし、それは逆も同様でしょう。〈アキバ統治府〉は斎宮家、つまりは〈大地人〉の支持を受けて成立する組織。その〈アキバ統治府〉に〈円卓会議〉を排除することは出来ない」
「建前論ですね。――すでに〈円卓会議〉など瓦解したではないですか」
切り捨てるような言葉に、背後で直継が身じろぎをする気配がした。
シロエは唇を噛み締めたまま、強い視線でアインスを見る。
その言葉は残念ながら一欠片以上の真実を含んでいた。
たしかに筋論で言うのであれば、〈円卓会議〉が〈アキバ統治府〉を排除できないのと同様に、 〈アキバ統治府〉は〈円卓会議〉を排除することも出来ない。
しかし両者の間には〈大地人〉における物資の入手という点で大きな差異がある。〈円卓会議〉は〈アキバ統治府〉の意思を無視して自由気ままに振る舞うことは出来ない。そうである以上、どちらが下位にあるかは明らかだ。
さらにいえば、それを見た機を見るに敏な人々が〈円卓会議〉から距離を置き始めている。
「〈黒剣騎士団〉はマイハマに身を寄せて傍観を宣言。〈第八商店街〉も流通安定重視を発表。〈グランデール〉にいたっては公式に〈円卓会議〉離脱を決定した。十二の椅子のうち五つが欠けた〈円卓会議〉に、なんの意味があります?」
アインスの言葉がシロエを打ちのめす。
その言葉を鵜呑みに受け止めるわけではないが、だが無視する事もできなかった。
〈円卓会議〉の成立時、シロエがもっとも気を使ったのは、それがアキバの諸勢力の結集に見えるようにする、という点であった。
そもそも異世界になってしまった〈エルダー・テイル〉には政治的な意思決定のシステムが一切なかったのだ。ある国が――それを言うのであれば、村でも自治体でもなんでもいいが、なにもないところに成立するというのは、とても難しいことだ。成立したとしてその成立が正当であるということを証明するのは、殆ど不可能だと言って良い。
現代人の常として脳天気に「選挙で決めれば良いじゃないか」といってしまいそうになるが、その選挙を主催する団体そのものが存在しないのだ。主催団体の成立も選挙で決める? 主催団体の成立を決める選挙を主催する団体の決め方に、問題が拡散するだけだ。
シロエが思いついた解法は「正当に見えるように気を使う」というものであった。アキバの代表的なギルドを、その出身の割合や〈冒険者〉の傾向に注意をして選び、その結集によって「アキバの全員の意見を集めている」という雰囲気と評判を得ようとしたのだ。そしてそれは、成功はした。
そもそもルールのないこの社会では、アキバ住民は〈円卓会議〉に協力する義務など無いのである。しかし、それでも人々を動かしたかったシロエは、「みんなの意見を汲み上げてそのまとめをした組織、つまり正当な組織の意見なのだから、協力して当たり前」という権力を得るために正当性を必要としたのである。
しかし〈円卓会議〉は、厳密な意味では「正当性がある組織」ではなく「正当性があるように見える組織」である。
シロエだってその当時の手法が完全な答えであるなどと思ってはいない。むしろ、あの時、あの時間的余裕の中ではそれ以外の手段を思いつかなかったというだけで、間に合わせのでっち上げに近い作戦であったというのが真相だ。
あの時は、結果が必要だった。一刻も早く自治組織を結成して事態の混乱を収束させる必要があった。そのためには正当性が必要で、手に入らない以上次善の策として見かけだけでもそれを貼り付けた、というだけのことなのだ。
――しかし、その違いが、ここに来て大きなひび割れとして現出していた。
「アキバの諸勢力を結集させた組織であるという正当性」は、そのままの理屈で、アインスら〈ホネスティ〉が離脱した時点で大きく揺らいでしまったのである。
〈シルバー・ソード〉脱退は成立直前であって問題にならなかったが、〈ホネスティ〉の脱退のせいで「アキバの諸勢力すべての納得」という前提が崩れてしまった。
それはもちろん今までに利害の衝突がなかったわけではなく、参加ギルドすべての合意や納得などというものは、建前でしかなかった。しかし、それは正当性を裏付けるための大事な建前だったのだ。
その証拠に、今、〈ホネスティ〉に追随するように〈グランデール〉が離脱し、〈黒剣騎士団〉が独自の路線を歩み始め、結果として〈円卓会議〉の信頼性は地に落ちた。
その様子は、アインスによって瓦解と評されても、しかたがないものだろう。
〈円卓会議〉は、崩壊したのだ。
「そう、ですね。……今日お呼びの案件はなんなのでしょう? なにかお話があるとのことでしたが」
苦い思いが満ちる胸の内をあえて無視して、シロエは言葉を紡いだ。
「もちろん〈アキバ統治府〉への参加要請です」
「〈円卓会議〉傘下ギルドへの説得依頼ですか」
いまは後悔にひたるよりも目の前のアインスの真意を確かめるほうが重要だ。〈円卓会議〉にたいして干渉を受けない有利な地位を創りだしたアインスは、本来いまこうして交渉を行う必要はないのである。経済的な制裁を加え、より圧力を思い知らせたあとに交渉を行うほうが有利な展開を望めるはずだからだ。
もちろん事はそう単純ではないので、シロエからすればアインスが連絡をしてきた理由は幾つもか想定できる。
そのひとつが〈円卓会議〉の切り崩しであって、今は、その内容を確認するほうが優先であった。
「いいえ、それはどうでもいい」
「え?」
しかしその予想はアインスによって否定される。
「わたしは。反省しました。そういう、あるべきこと、正しいことは……いまはいいのです。いえ、それも見栄ですね。わたしはそれを持て余す。そういうことなのでしょう。わたしは今まで、そういう、正しい手続きや、あるべき交渉にこだわって、何事も為すことが出来なかった。わたしは結果よりも経過が、成果よりも自分の評判が大切な、小さな俗物に過ぎなかった。だから何も為せなかったし、あらゆる人から軽んじられてきた」
「……」
硬い声のアインスは、振り絞るように語った。
それは、アインスの蒼白な表情とあいまって、場違いだが、神に対する懺悔のようにシロエには聞こえた。
「わたしは考えた。いま何が必要なのか? アキバを変えるために何を得なければならないのか。その答えは、シロエ殿。あなただ」
「僕、ですか?」
その声はどこまでも苦い。
有利な交渉をしているはずのアインスの声に満ちる自嘲の響きに、シロエは初めてと言って良い共感を覚えた。
「そうです。そもそも〈円卓会議〉を生み出したのは、シロエ殿。あなただ。あの混迷を極めた〈大災害〉から脱出するためにあなたが行った起死回生の策が〈円卓会議〉の成立だった」
「〈円卓会議〉の議長はクラスティさんですよ。経済的なバックアップは三大生産ギルドが、防衛や治安維持は四大戦闘ギルドが請け負ってくれている」
だが、アインスの評価は買いかぶりだろう。
先ほど思い出したとおり〈円卓会議〉の設立は力技だったのだ。正当性を欠いた、急ぎすぎた間に合わせだった。大勢の助力の結果成功したあれは、ひとつの奇跡だった。
「その体制を創りだしたのは、貴方だ」
「……」
「〈エターナルアイスの領主会議〉において〈自由都市同盟イースタル〉と相互不可侵の友好・通商条約を結び、〈大地人〉との間に新しい関係を創りだしたのも貴方だ」
しかしシロエの自己評価とアインスのそれは乖離しているようだった。続くその言葉は、シロエのいままでの軌跡であり、それは同時に〈円卓会議〉の功績でもあった。
「レイネシア姫を緩衝材にしてアキバに政治的な非干渉を要求し、認めさせた。しかし、特筆すべきことはそれだけではない。あなたは〈供贄の黄金事件〉において、東北の供贄一族との秘密交渉を行い、ほぼ無限とも言っても良い政治資金の提供を成立させた!」
「それはゾーンの買収工作による攻撃を防衛するための守備的な行動で……」
シロエの中では、どれもそれぞれに動機があって、その場その場で良かれと思ってやったことだ。思い起こせば、失策ばかりが浮かんでくる。結果的に利益を得ることは出来たが、躓いたりよろめいたり、周囲には心配と迷惑ばかりをかけた、恥の記憶だ。
「責めているわけではありません。むしろ、わたしは大いに賞賛しているのです。これだけの行動が、すべて貴方の脳内から出てきたということを。〈円卓会議〉すべての施策の曲がり角には、常に貴方の姿がある」
「……」
アインスは、その硬い表情のままに疲れたように微笑んだ。
その苦い笑みは、勝利の宣告のようにも、敗北宣言のようにも見えた。
「ですからわたしは考えました。『シロエ殿がいればうまくいく』と。それはつまり『シロエ殿がいなければうまくいかない』ということでもあります。本日、シロエ殿にお話したいことはそのことです。〈円卓会議〉は後回しにしてもよい。いや〈円卓会議〉は維持していただき自治の要として動いてもらっても良いとすら考えています。しかしシロエ殿。〈アキバ統治府〉にあなたを招聘したいのです」
シロエは今はじめて見たかのように、目前の青年ギルドマスターを見た。そして今まで自分がこの男を無意識にせよ侮っていたことを悟った。
アインスはこのくたびれきった表情のまま、今までの姿をかなぐり捨てた一人の戦士として、シロエの前に立ったのだ。
◆ Chapter4.02
「……評価していただくのは嬉しいのですが、なぜそこまで? 確かに自分は幾つかの作戦の発案者ですが、そこまでして求められる人材ではないかと思います。統制の効く防衛戦力としては〈黒剣騎士団〉や〈西風の旅団〉のほうが望ましいでしょうし、生産で言うのならば〈海洋機構〉に話しをするのが早いでしょう?」
我知らずに潜めたような音声で、シロエは問い返した。
しかし、その問いかけは中身のあるものではない。
シロエは今必死にアインスへの対処を脳内で立案検討しているのだ。
〈記録の地平線〉は小さなギルドだ。シロエがその管理をワンマンで回していると言っても良い。だからギルドを引きぬくためにシロエ個人に話をするのは理にかなっている。しかし、では〈記録の地平線〉が欲しいのか? と言われれば、それは違うだろう。
〈円卓会議〉に揺さぶりをかけるという目的であっても、それはすでに〈グランデール〉や〈黒剣騎士団〉により達成されている。〈円卓会議〉成立のきっかけである〈記録の地平線〉が離れれば、それはその精神的動揺は大きいだろうが、あえてシロエ個人にこうして声をかけるほどだろうか?
「そうですね。彼らの力は強大だ。アキバを改革するのにあたって、彼らの助力があれば大いにはかどるでしょうね」
「その通りです」
シロエのそんな思惟とは無関係に会話は進む。
「しかし彼らでは状況を大きく変えることは出来ない。彼らの強大な力はギルドに支えられたもので、ギルドから切り離されては通用しない。圧倒的な不利と、絶望的な状況をひっくり返す鬼札としてはシロエ殿にまさる人材はいない」
それは買いかぶり、と言いかけたシロエだが、そのセリフはアインスの強い視線で征された。
「わたしには実力がない。――指導力もないし、カリスマもない。理想ばかりは高くて小言を言うために周囲に疎まれる。プライドのために汲々とする小物だ。そんなわたしが〈アキバ統治府〉などとぶちあげてうまくいくと思いますか? 無理ですよ。誰よりもわたしが信じていない」
「そんなことは」
シロエは言葉を探すが、アインスは自分自身の述懐の中に更に深く沈んでいくようだった。
「だからそんなわたしが〈アキバ統治府〉を成功させようと思えば、軍師が必要だ。わたしの理想に道筋を与えてくれる参謀が。それも優秀程度では済まない、不可能を可能へと変える、星を落とすほどの遠矢を放つ参謀が必要だ。もちろん全権を任せる参謀です。アキバの〈冒険者〉に等しく笑みを。その理想以外の政策は、シロエ殿に一任しましょう。シロエ殿はもとより〈記録の地平線〉全員の待遇も保証させていただく」
それは――。
おそらく考えられないほどの好条件だった。
もしその条件が事実だとすれば、いまの分裂状態のアキバを立て直すことが可能だろう。
先にアインスが述べた「〈円卓会議〉の存続を認めても良い」という言葉と合わせれば、たとえば日本と東京都の関係のような、自治のすみ分けさえ可能かもしれない。
そもそもアインスの望みである、無気力な〈冒険者〉への支援政策そのものは、決して悪でも無価値でもないのだ。アインス自身は満足していなかったかもしれないが、シロエも〈円卓会議〉も、その状況下で可能な手はそれなりに打ってきたつもりである。その事実こそ、〈円卓会議〉のギルドマスターがこの件に無関心ではなかった証拠だろう。
つまりその施策は、今回の件がなかったとしても〈円卓会議〉でも継続して実行していくつもりだった、していかなければならない案件だったのだ。
シロエは揺れていた。
そもそもシロエは現状に対して明確な指針を持てずにいたのだ。アインスは悪。そう断罪できればいくらでも戦略を練ることの出来るシロエだが、そうではない。むしろアインスの苦しみがわかるから、そしてアキバが完全ではないとわかるから、自らを省みて強い手段を取ることが出来なかったのだ。その躊躇いが今のような衝突を招いたにせよ、だからといって自分が至善だとなんて思えない。
ある意味シロエとアインスは相似だった。
状況への気遣いがこの事態を招いたという意味では共犯なのだ。
そのアインスが長い雌伏を経て打ってきたこの一手は、その効果をみれば絶大で、そして多くの人を慮っていた。今までの経緯を無視さえすれば、カラシンの才知よりも、アイザックの剛毅よりも、アキバを幸せにする可能性が高い。
シロエはアインスに協力しても良かった。
この時シロエはアインスと同じ側に立っていた。
「幸いにしていまわたしは〈大地人〉の強力な後援を受ける立場にある」
「斎宮家ですね」
「どんな色であろうと力は力です。今のわたしはそれを拒む潔癖さを捨てている」
探るように忍ばせたシロエの問いかけを、アインスは正面から切って捨てる。しかし、その餌に食いつくものがいた。
「随分な言い草ですなあ。随員ということで黙って聞いていれば。わが〈神聖皇国ウェストランデ〉はヤマト宗家の正当ですぞ? いわばこの地における最高の権威。後ろ盾としてどれほどの価値が有るか、諸卿らにはもう少し敬意を払っていただきたい」
いつかの宴席よりも苛立たしげに口を挟むのは、異貌の〈大地人〉、マルヴェス子爵だった。
「そうですか」
シロエは肩をすくめた。
先程からのアインスの熱弁には耳を傾けるべき価値ある内容だった。
しかし同時にその後ろに控える白塗りの〈大地人〉貴族、マルヴェスが苛立つように足を踏み変えているのもまた気がついていたのである。
むしろ気が付かないことのほうが難しかった。どうやら自意識過剰であるらしいマルヴェスは、アインスの後ろから「自分の出番はまだか?」と言いたげな視線をしきりにシロエに送ってきていたからだ。
そのマルヴェスの言葉だが、その最初から意味のない棘だらけの牽制であり、シロエとしても反応に困る。「礼儀がなってない」と言われれば、申し訳ないとは思うが、そもそも地球とセルデシアでは、礼儀のそれが違う。同じ地球ですら、日本と欧米では文化が違うのに、そんなことを言われても困ってしまう。
人間興味が無いことは記憶が薄れるのも早い。
シロエの中でマルヴェスは「前回の〈天秤祭〉にやってきたクレーマー気味の貴族」であり「濡羽の露払い」であった印象が強く、むしろ、その印象しかない。愚にもつかない理屈をこねる駄々っ子のような印象だが、それも一刀両断にしたわけで、実を言えば嫌悪感自体は薄いのだ。
しかし、その薄さそのものもマルヴェスからすれば不本意極まりなかったのだろう。
「その態度は何ですかな。いつぞやの宴席でのことといい。〈冒険者〉は貴種に対する礼節というものに欠ける」
「種以外に貴いところがない。貴種という言葉はそんな意味にも取れますね」
シロエに正面から噛みつき、あっさりと揚げ足を取られると、白粉顔にもわかるほどの怒気をのぞかせ、歯噛みした。
その隙にもシロエは考え続けていた。
アインスの言葉は信じられる。と思う。すくなくとも、そこには身命を賭す熱があった。もちろん隠していることがないではないのだろうし、都合のいい部分もあるのだろうが、すべてが嘘ということはないだろう。少なくとも「今をなんとかしたい」という一点は、信じてもいい。
しかしだからといって下駄を預けてよいかといえば、それはまた別の問題だ。アインスに援助を与えた〈神聖皇国ウェストランデ〉がアインスとその意思を完全に重ねているとは、考えづらい。
アキバ公爵の位を送るのならば、そこにはそれなりの思惑があるはずなのだ。シロエはそれを探ろうと、マルヴェスのことをじっと見つめた。シロエ自身そのつもりは全く無いのだが、その視線はシロエの内面の真剣さに比例して、余人にとっては不機嫌に見えてしまう。
「此度のご巡幸、斎宮どのの勅である」
自然とシロエに睨みつけられたと信じるマルヴェスは、その圧力を跳ね返すために、ことさらに大音声で宣言をした。
「斎宮、ですか」
斎宮。再びその名をシロエは耳にすることになる。
「斎宮どのこそヤマトを統べる尊き御方。暗雲迫るヤマトを憂いて、恐れ多くも、我、ウモト=アルテ=マルヴェスを市井より拾い上げ叙爵し、その先見としてお遣わしになったのだ」
「ああ。前の〈天秤祭〉の。ふむ」
シロエはその言葉を理解するために分析し、細切れにして脳内のブリーフィング・ノートに記載してゆく。今は情報収集のターンなのだ。無駄に言い返す必要はない。
「情深きかの御方はあの時すでに東のイースタルと通じねば、麻の乱れるが如き宮中を取りまとめられぬと喝破していたのだ。それゆえニオの水海を股にかける、我マルヴェスに精霊船を与えてまでアキバへと遣わせた!」
「……はあ」
「それを事もあろうにその方コケにしおって! アキバからの挨拶を許そうと言う御方の好意を無に帰せしめたこと、まさに万死に値する! しかぁし。我マルヴェスより報告を受けた御方は、レイネシア姫こそが東西融和のきっかけになるのではないかと申されたのだ。海よりも深いその仁愛、山より高きその叡智! その方にもこれならわかるであろう〈記録の地平線〉のシロエ卿」
つまりは、宮中にも派閥があるということなのだろう。
このマルヴェス卿はいわば成り上がりで、それ故リ=ガンから借り受けた宮中資料にもその名前がなかった。斎宮家の子飼いであり、最近引き上げられて対ヤマトの通商や修好のための使者として遣われているといったところか。
〈精霊船〉は〈大災害〉あとの比較的早い時期に開発された技術だ。
〈火蜥蜴式蒸気機関〉とは違い、トネリコの円環内部に召喚した〈風乙女〉の魔力風を直接帆に照射して推力を得る。
それを考え合わせれば、さほど末端というわけではなく、斎宮家のもつ派閥の中ではそれなりに力を持つ構成員だということは明らかだ。とはいえ、この状況で随分と貴族の権を振り回すあたり、それってどうなの? とシロエは思わざるをえない。
マルヴェス自身がどう感じているかとは別に、〈自由都市同盟イースタル〉と〈神聖皇国ウェストランデ〉の現在の関係を考え合わせれば、控えめに言っても緊張のあると言えるだろう。
マルヴェスが去年やってきたそれは、今こうして話を聞いてみれば親善大使という役割である。その立場でありながらこれだけ奢った態度を取っていれば、まとまるものもまとまらないだろう。前回は「敵」と認識していたのでミチタカやクラスティと囲んで叩き潰してしまったが、今回はもうすこし中立よりの(もっといえば他人事として)観察をしているので「なんだか残念な人だなあ」という感想しかもつことが出来ない。
それというのも、この邂逅が始まって以来、必死にそちらに視線をやらないように気をつけているにもかかわらず、マルヴェスがちらちらと自分の随員である青年を気にしている様子が見て取れるからであった。
そもそもアインスは隠すつもりもないのだろう。
シロエたちにとってみれば、それはポップアップするステータスとして明らかなのだ。シロエは、いい加減踏み込んだ意向を聞くために、小さくため息をつくと、本当の登場人物に水を向けた。
「それはもう。マルヴェス卿の苦労話はわかりやすすぎてびっくりなんですが。……と、いうようなことでよろしいのですか? 斎宮殿」
シロエの言葉に傲岸と胸を張り一歩前に出た従者は、年の頃で言えば二十代半ば。シロエと同じ程度の背格好だが、甘い口元と涼やかな目元には隠しようもない気品が漂っていた。
あたりを睥睨するような、ある意味傲慢な口調を、その生まれ持った雰囲気だけでそうとは感じさせぬその青年は、好奇心にあふれた口調でシロエに語りかけてきたのだ。
「アキバを導く不世出の軍師とは、このような者であるのか。――余はウテナ=斎宮=トウリ。〈記録の地平線〉のシロエ。このような場所ではあるが、そなたと会えることを楽しみにしておったぞ」
◆ Chapter4.03
「〈神聖皇国ウェストランデ〉の領袖たる斎宮家、そのの党首みずからおでましとは」
挨拶の言葉を述べながらシロエは斎宮を見た。
「〈記録の地平線〉を率いる大魔導師、シロエの名は聞いている。その顔を見に来たまで」
鏡に写したかのように向かい合う斎宮もまた、シロエを見ていた。
互いが互いに値踏みしあっていることは、お互いがよくわかっていた。
シロエの瞳に写ったのは、整った容貌の青年である。つやのある黒髪をポニーテールよりは低い位置で結び、貴族従者のような質は良いけれど華美ではない、ある意味地味な衣装を身にまとっていた。
しかしだからといって彼を見過ごすことなどはありえない。好奇心に満ちた面白がるような、それでいて周囲を射抜くような視線をあたりに放つその様は、口が裂けても一般人とはいえない雰囲気なのだ。
(あえて言うならばクラスティさんに似てるか。でも気配だけは怒った時のアイザックさん。微笑む目元はソウジロウ)
様々な言葉が浮かんでは消えるが、最後に残ったものは、自負だった。
斎宮トウリと名乗ったこの青年は、強い自負と克己を持ってこの場に立っているのだろう。それはシロエが自身を評価してさえそう思う、地球世界の同年代ではちょっと見たことのない個性だった。
「『その価値がある』と、アインスによる献策である。その方を口説き落とすには地位や財貨では足りぬと。全ての手札を明かし、誠を持って当たるべし、と諭された」
気配の圧力は減らぬままに、そこから鋭さが落ちた。
微笑むような声色でトウリがシロエを高評価したからだ。
「それは」
どうかな。
シロエは他人には聞かせられないまま脳内で手を振る。
「なんつうか微妙に迷惑っていうか買いかぶりっていうか」
背後から聞こえる親友の声のほうがよほど説得力がある。〈大地人〉視点は〈冒険者〉である自分たちと違うとわかってはいるが、それにしたって随分と高く買ってくれたものではないか?
「この覇気のない色黒ひょうたん眼鏡にそれだけの価値が有るか我輩はほとほと疑問ですがな」
マルヴェスのボヤキでさえ、斎宮トウリのそれに比べれば正論に聞こえるほどだ。
「おけ。そして、シロエよ。返答はいかに?」
ヤマト貴族の最高位は、どこまでも直線的で性急だった。
その質問は、アインスのそれ。つまり「力を貸せ」にかかるのだろう。
光る虫が、二人の間を横切った。
視線を外さないままに、シロエの思惟は巡り続ける。
どうしてこんなことに。
最初にそう考えた。
なんで弱小ギルドのギルドマスターがこのヤマトの少なくとも半分の最高位からリクルートを受けることになるのだろう? この状況はシロエの手に余ると、思ったのだ。
しかし冷静になって考えて見れば、マイハマのセルジアッド公爵だって似たような権門である。この世界流で考えれば、斎宮は公爵よりも遥かに上なのかもしれないが、影響を及ぼす領地の面積や経済力で言えば伍するものがあるだろう。〈奈落の産道〉の最深部で邂逅した〈供贄一族〉の棟梁である菫星もまた、ある意味ではヤマトの支配者である。その能力も、権力も、おさおさ引けを取るとは思えない。
もっと言ってしまえば、〈冒険者〉の集団であるアキバ〈円卓会議〉は、その両者からも恐れられる集団なのだ。戦闘能力はもちろんだが、今や経済力や開発力でさえ、〈自由都市同盟イースタル〉にとって、つまりそれは〈神聖皇国ウェストランデ〉にとっても無視できるサイズではなくなっている。
つまりは仕方ないのだろう。
シロエが内心でどんなに場違いだと思ってたところで、客観的に判断すれば、この対面はいずれ起きていたことなのだ。同じではなくても、似たような地位の誰かと、似たような会話を交わしていたに違いない。
(それに――)
納得できないまでも、そうと理解すれば視界が開けた。
それに、これは好機でもある。
領主会議でも、奈落の底でもそうだった。この中世的な社会において出会いは希少なのだ。対立していると思われる組織のトップと直接言葉を交わせる機会など、そうあるものではない。
そう考えたシロエは肚に力を込めた。
覚悟を決めればトウリという青年に興味が湧いてくる。素直に、知りたいと思えた。
「質問に質問で返す非礼を許してくださるのならば、トウリ様の利益はどこにあるのですか?」
「陛下といえ! そもそも頭が高い!」
「僕は斎宮家の俸禄はもらってないですから」
多少の苦さを飲み込んでシロエは応える。礼儀の問題であれば、呼び方程度どう変えても問題はないのだが、今この瞬間、格付けに繋がるような隙を見せるわけには行かなかったのだ。頭を下げるのは構わないが、それによってトウリという青年の瞳を直視できないことを、シロエは避けた。
「控えよ、マルヴェス。――アインスの勧めだけではない。伝手を辿り集めたこの者の功績、話半分だとしたところで大臣、宰相の器。これだけの知恵者を野に置く余裕は、余にはないのだ」
その答えは、直接ではなく、マルヴェスの言葉を退けるという形でもたらされた。斎宮家の弱みを認めることに繋がるその言葉は、シロエという外部の問いかけに答える形で明かすのには問題があったのかもしれない。
「ありませんか」
「ない」
宮中儀礼などというものは無縁なシロエだったが、非常に面倒な制約があることは察せられた。そしてその大半を蹴飛ばすような率直さを持って、ヤマト最後の皇族がこの会談に臨んでいることも伝わった。
(たぶん、この人ものすごく有能なんだろうなあ)
それにカリスマもある。
シロエは随分沈んだ気持ちになった。確かに魅力ある人物なのかもしれないが、そうだとしたところで、それが幸福な未来を招くとは限らない。クラスティやカナミがそうだ。敵に回せば厄介で、上司に仰げば苦労が増える。
「なにゆえです?」
「〈元老院〉が戦を望むゆえ」
「それは――」
そうか、とシロエは苦い顔になってしまう。
その一言は答え合わせのようだった。
今までにあった様々な陰謀が解かれて氷解していく。
「聞け、シロエ。たしかに余は古き血を引く。ウェストランデは皇王朝の後継であるだろう。しかし青き血に奢ったランデ真領の貴族たちは〈元老院〉という組織を作り、政治を恣にしておる。西国にとどまらず、東のイースタルにまでその野望の腕を伸ばそうとしておる」
ますますシロエの眉間には深いシワが刻まれる。
言っていることは、わかる。
その問題点も、被害の大きさも。シロエには痛いほどわかる。この問題について敏感なのは、〈大地人〉よりも〈冒険者〉かも知れない。血の流れる内部闘争、それは内乱だ。戦争を避けたい気持ちはシロエたち地球の日本人にとっては、格別に強い。
「陛下はそれを憂いて立ち上がったのだ」
「そうではない。マルヴェスよ。余は所詮、ウェストランデの神輿にすぎぬ。ウェストランデがなんの問題もなくイースタルを手に入れるのであれば、詩歌を詠んで時を過ごしたかった。しかし、現実はそうではない。イースタルを望めばウェストランデは火傷をおうだろう。それも多少ではすまぬ。あるいは、その炎はウェストランデだけではなく、ヤマト全土を焼きつくすやも知れぬ」
「〈赤き夜作戦〉……」
景気の良いマルヴェスの叫びに応える斎宮の言葉にシロエは答えた。
にゃん太からきいた〈大地人〉の策謀。
KRが警告してきた〈元老院〉の密かな研究とその成果。
「あれこそ〈元老院〉の野望の最たるもの。〈憑依の宝珠〉と〈人造冒険者〉の開発は、〈大地人〉に〈冒険者〉の戦力を与えるだろう。高性能な〈北風の祭壇〉を装備した〈鉄鋼列車〉は電撃侵略を可能にしかねぬ。――時間はないのだ」
「トウリ様はアキバの支援を受けて〈元老院〉に対抗すると?」
「……都では濡羽が配下を率いて、〈元老院〉の支援を受けるインティクスなる奸臣と政争しておる。濡羽の忠勇は嬉しく思うが状況は予断を許さぬのだ」
「イセルス公子の暗殺事件もかよ?」
「警告と見るべきだろうな」
割り込んだ直継の疑問に斎宮は咎めもせずに簡潔に答えた。直継の返答は「マメだな」というものだ。
マメ、ではあるのだろう。嫌悪感を抑えきれればだが。
しかし、その評価は与えなくてはならないのだとシロエは思った。サフィールの襲撃事件とその背後にあった鉄鋼車両の戦闘実験。〈神聖皇国ウェストランデ〉は〈自由都市同盟イースタル〉よりもなりふり構わず〈冒険者〉勢力を取り込んできていたのだ。おそらくアキバが幸福な時間を過ごしているその背後で、都の小暗い闇の中であらゆる企みが行われていた。
そんなことなのだろうということはわかっていた。予想もしていたし、兆候は掴んでいた。
でもシロエはごく普通の地球の大学生として思ったのだ。そっちのことは、そっちで解決してくれよ、と。それは間違いではないだろう。シロエも、シロエの友人たちも、誰もがそういうスタンスで生きてきた。そのことは、地球の何の変哲もない、ただの大学生にとっては論ずるまでもなく当たり前で、責めるようなことでも、責められるようなことでもなかった。
恐ろしい企みはシロエたちからは遠く離れたどうしようもない場所で行われていて、だからシロエたちの生活には被害も与えなかったし、責任もなかった。それは実際どこで行われているかとは無関係に「遠いニュース」だった。
その感傷にも似た追憶を、シロエは耳元に囁く〈念話〉を聞きながら切なく思った。「あと数分」という短い報告の声を周囲に悟らせぬように、顎を引いたまま自嘲する。
結局ここはセルデシア世界であって、地球世界ではない。
シロエがそうやって傍観の態度をとっていたとしても、どこかの誰かが事態を解決してくれる保証など無いのだ。
シロエにはピンと来ないが、〈Plant hwyaden〉のギルドマスター、〈付与術師〉の濡羽はシロエにたいして執着をしているらしい。敵対を約束した彼女がシブヤ〈呼び声の砦〉事件では、被害者救済にあたってアキバに対して全面的な協力を申し出てくれた。その助力は非常に大きく、情報共有や救援物資の相互補完によって多くの〈大地人〉が、そして少なくはない〈冒険者〉も救われた。
彼女のその方針転換が、西側の派閥抗争につながり、この斎宮が躍進するきっかけにつながり、そしてひいてはレイネシア姫婚姻という今回の騒動につながったのだ。
シロエの持つ情報と理解力は、斎宮トウリからもたらされたヒントだけで、そうした背景の理解を可能にしてしまう。
シロエにはそれが理解できてしまう。
自分はどこまで行っても当事者でしかあれない。シロエはいまさらながらにそれを思い知っていた。大事なものができれば、関わりが増えれば、加速度的に世界はわが身のこととなっていくのだ。
反省する、なんていう言葉では済ませられない、それは後悔だった。
大事なものが増えたことではない。そうだというのにも関わらず、一匹狼のような気分で、つまりは無責任にいられた自分に対する、それは自責の気分だった。
「余はレイネシアを娶り、東西融和の象徴としてアキバとボクスルトの間を中立地帯としたい。そのために手を貸せ、シロエ。これはヤマトに住まうすべての民に課せられた義務である。アインスはそれを理解し、余の手助けをしてくれているのだ」
目の前のシロエと同じ年頃の青年は、その無責任とだけは無縁に見えた。
それはそれだけで大きな尊敬に値する態度だ。
劣等感を感じさせられはするが、目の前の為政者は好漢だった。
きっとこのタイミングで、シロエが斎宮トウリの隣に立つ未来もあったのだろう。
(すごいな。自分の地位と国の未来を考えて、しかも子供の頃からをそれを続けて。そんな同い年もいるんだな)
今この瞬間もその選択には説得力を感じる。
(こういうのが帝王の器っていうのかも)
「ほんとに、間が悪いとは思う」
シロエはつぶやいた。
一陣の風が吹き抜け、古代樹の梢がざざんと鳴った。その風に吹き散らかされる吹雪のように夜光虫が舞い、光のヴェールから現れたのは姫君と侍女たちだ。
白銀の長い絹髪を夜にふわりと浮かべる美貌の少女。〈イースタルの冬薔薇〉レイネシア。彼女と、彼女を支えるようにその背後に立つアカツキ、リーゼ、ヘンリエッタ、多々良。その全員が、くすんだ群青色の制服を身にまとっている。
シロエはそれを見た瞬間、予感が決定に変わったことを知った。
ほかであればまだ取り返しもついたかもしれないが、レイネシアは円卓の正装である灰群青のコートを身に着けていたのだ。細身の少女には少し不似合いな、サイズオーバーのそれを、腰のサッシュで引き締めて。
理屈ではなく、ただそれは決定的だった。
どうにも楽天的な気分でシロエは天を仰いだ。それが有利なことなのか、不利なことなのか、それはこの時点ではわからない。しかし、選択はなされてしまったのだ。
その気分はシロエには馴染み深いものだった。カナミが無茶な遠征を決意した時、〈放蕩者の茶会〉の仲間たちはいつもそんな気分を共用したものだった。視線をやれば、同じ服を身に着けた直継も、苦笑をしながら肩を竦めている。
「斎宮トウリさまですね?」
「レイネシア=コーヴェン殿とみうける」
一歩脇に退いたシロエの位置を経由して、美貌の男女は視線を交わした。
「イコマの宮はそなたの入内を待っている」
「いえ」
一度うつむいたレイネシアは敢然と面を上げて、燃える宝石のような瞳でヤマト最高位の迎えの言葉を遮った。
「わたしはこの街にやり残したことがあります」
「それはキョウの街からでも成し遂げられよう」
鷹揚に構えた深みのある声色に、レイネシアは首を振った。そして自分の中から新しい清水を組み上げるように、しばらく沈黙したあと「自分が居たいと思える場所の問題です」と答える。
小さなため息はアインスのものだった。
たかが数分のこの展開で一気に年をとったように青ざめた糸目の〈神祇官〉は、自分の手元とその衣装に静かに視線を落とした。
「そのような戯れ言許されると!? 子女の義務を放棄されるつもりか。置物であれば置物らしく、その価値をわきまえよ!」
激したように一歩前へ出るマルヴェスを牽制するように、アカツキとリーゼもまたレイネシアの脇を固めるように前に出る。
「横暴なのはそちらではないか!」
啖呵を切るアカツキの言葉をシロエは聴き、
「ミロードであればこういうでしょう。『プロポーズを部下まかせの伝言で済ますような男にその部下。頼むに足りますか?』と」
リーゼの物言いに眉間をもんだ。
それでは喧嘩を売っているようなものだ。ことは東西間の政治の問題なのに、そんな切り口上で勧めたのならば、まとまるものもまとまらない。アキバの女性は強気すぎて、毎回トラブルを巻き起こす。大問題だ。
「シロエ殿。アキバのために、どうかご助力を願えませんか?」
振り絞るようなアインスの言葉に、シロエは静かに首を振った。
「話はわかりました。〈神聖皇国ウェストランデ〉と〈自由都市同盟イースタル〉。そのふたつの激突を望まない気持ちはわかります」
「シロエ殿。ではっ!」
「クエストが受諾されてしまったようです。いえ、最初に発注したのは僕だったはずなんですよね。『〈円卓会議〉をつくりアキバに調和と発展を』。そのクエストは、終わっていなかった。あの服を着ているのなら、その仲間です。だからクエスト完遂のための助力を、僕はしなければならない」
シロエは斎宮とアインスに体の正面を向け、照れ隠しに眼鏡の位置を直した。あの時のように破れかぶれではなく、今ははっきりと自覚を持ってシロエは選んだ。何かのついでではなく、親しい人を助けるためではなく、すでにあるものを、壊さずに続けるために戦うことを選んだ。
口をへの字にして怒るアカツキも、歳相応の向こうっ気を見せるリーゼも、仏頂面の多々良も、お説教するように腕組みをしているヘンリエッタも視界に収め、呆れたように苦笑する直継に背中を押され、〈放蕩者の茶会〉にいた時よりも飄々と、でもずっと熱い気持ちで、ギルドリーダーとして表に立った。
「でも、その道はひとつじゃない。きっとアキバはなんとかする。ここは今よりもっと良い街になる。だから」
だから、勝負をしましょう。
シロエは結局その言葉を選んだ。
夜光虫の渡る夜のアキバのプラットフォームで、シロエはアキバ最大の権力者と、自分をよく知るかつての同僚にそう告げた。
〈円卓会議〉が崩壊を明らかにしたその夜に、その後継者を決める戦いの幕が切って落とされたのだ。