第二十話
昼前に翼は飛行警備隊本部に到着した。
建物に入った直後、統率のとれていない足音を耳にし、何事かと足を止める。
一人や二人なんてものじゃない。建物のあちこちから足音は響いてくる。廊下は走らないという規律を生み出したのは人間ではなかったのか。職員や魔法少女隊員が慌ただしく目の前を通り過ぎていき、その一人に翼は声をかける。
「おい、何かあったのか」
「つ、つつつっ、つばにゃ……ひえっ、一級隊員! いいい命だけはご勘弁を……!」
職員は肩を震わせ、謝罪だけを延々と繰り返す。このままでは収拾がつかないと翼に説明を求められても、その言葉しか知らないかのように謝罪を重ね続けた。職員の紫がかった瞳は翼の手や腰を怖々(こわごわ)と注視している。それこそ身の危険を察知した形相で、そこに何かないか確認するように。
「翼くん!」
どこからか名前を呼ばれ、翼は声のした方向へ振り返る。金色の髪を乱した金糸雀が緊迫とした面持ちで立っていた。服は寝巻きのままであり、素足に靴を履いている。額には玉の汗があった。
金糸雀の登場に、職員は助かったと脱力する。失礼しますと勢いよく頭を下げて、足をもつれさせながら廊下の奥へ消えていった。
翼の不安は金糸雀によって確信に変わる。周章していた脱兎を見送り、改めて金糸雀に同じ質問を投げかけた。
「何か、あったんだな」
「ええ。驚かないで聞いてちょうだい。空音ちゃんが……いなくなったの」
頭は真っ白に――ならなかった。情報の波が押し寄せ、体の中で様々な信号が飛び交う。必要な情報を冷静に選び取れるほど、思考はクリアで冴えている。大切な人がいなくなったというのに沈着でいられる自分に、翼はこれが機械かと自嘲した。
「いなくなっただと? 空音には発信機がついているはずだ。その上この建物には監視カメラが設置されている。抜け出したら即わかるはずだ」
「――消えたのよ」
「消えた?」
「監視カメラにも映ってないし、受信機にも引っかからない。朝の点呼で、通信がないってわかったぐらいなのよ? 消えたと言わないでなんと言えるの? ……ごめんなさい、私が責任を持って様子を見ていたのに、こんなことになって――」
金糸雀が言い切る前に、翼は彼女の頭を撫でた。自暴自棄になりかかっていた少女は瞳を涙でにじませ、なすがままにされる。最初は荒々しいものであった翼の手つきも、乱れた髪を整えようとしたのか丁寧なものに変わっていく。
「頑張ったな」
「あ、あ――」
はち切れた言葉は何の意味も有していない。対して金の瞳からこぼれた滴には確かな意味が存在していた。
人々が幼い頃に忘れてしまうであろう慟哭を聞き、そっと翼は金糸雀を抱き寄せた。ふらつく足元も支えてやり、大人になりかけの少女にかかる重みを肩代わりする。
「……翼くんって硬いのね。これじゃあ枕にはならないわ」
そう言いながらも金糸雀は泣き腫らした目を隠そうと、翼の胸に顔をうずめる。
「でも不思議ね……冷たくない」
「私でいいならばいつでも貸してやる」
「ふふっ……あなたが言うと、勘ぐっちゃうわ」
顔が赤いのは先程まで泣いていたからだ。それ以上の意味はないと、金糸雀は手で顔を覆った。深呼吸するうちに気分が切り替わっていったのか、これから戦いに出向くような面構えに変わる。人々が慌ただしく廊下を走り抜ける中、金糸雀は丁寧に一言一言届かせる。
「本部が動いているのは、通信が途絶えるという異常事態のせいであって……空音ちゃんが消えたことではないわ。彼らが空音ちゃんを探してくれる可能性はほとんどないの。だから私達が自力で探すしかない」
「木花とは連絡とったのか?」
「それが技師とも連絡つかないらしいの。あ、あくまでも連絡がつかないだけで、位置は判明されているみたい。彼女がこの案件と関係があった場合は、それ相応の処罰を受けることになるのかしら……」
残念そうに金糸雀は肩を落とす。
魔法少女のデータをハッキングされそうになったり、通信が途切れたり。事件の再発を防ぐために人々は原因を究明しようとする。よって本部の行動も間違いではない。機械整備は専門家に任せよう。今しなければならないことは別にある。
木花は空回り始めていた翼と空音の関係に終止符を打とうとしていた。であるならば、空音が行方をくらます一助をしていた可能性はある。しかし翼には妙な確信があった。たとえ仲違いをさせるために木花が介入してきたとしても、このように漠然と不安を煽るような真似はしないだろうと。
消えた、という一言に引っかかるものがある。行方知らずの子供達――彼らは一体どこにいるのだろう。
「九藍、お前か」
宿敵の名を口にし、翼は顔を上げる。不思議と今日はなんだか天上に空があるかのように、建物が青く高く見えた。
* * *
道を見つけた旅人の後ろ姿は胡蝶の夢の中で色濃く浮かび上がる。旅人は未熟なあたしに「眩しい」と言っていたが、それはこちらの台詞だ。後で台詞を奪うなと文句を言いに行かなくては。
目が合うと、胸の鼓動が止まらない。相手の挙動一つ一つが気になって仕方ない。自分の姿がおかしくないか鏡の前に立つ回数が増え、前髪を直す回数も増えてくる。ちょっと内股気味になって、女の子っぽさをアピールしてみて、自分なにやっているんだろうと我に返る。トドメはこんな自分の変化に、相手が全く気付いていないことだ。溜息が漏れる。この溜息は失望ではない。呆れと、ほんわか温かくなった胸を自分で愛しいと思っている行為の表れだ。我ながら馬鹿馬鹿しい。夢の中に恋を求めてどうする。
「夢を夢で終わらせないために夢から覚める? 意味わかんない……」
口では批判的でありつつも、ひたむきに頑張れる夢を持った旅人がうらやましい。自分はただ憧れの人と近付きたいからだった。こうして研修も終え、一級がどれぐらい遠いところにあるのか身にしみた今。この夢の終わりが怖くなり、手を振って旅人を快く見送ることはできなかった。
「僕が見せた夢はどうだったかい?」
雲雀の背後に青藍色の霞が集まり、人の形を成していく。組み上がった魔法少女九藍は静かに着地した。髪と同色のマフラーを指に巻き付けて、くるくると見せつけている。
「――ふむ。君の様子を見るに、何かしらの成果はあったようだね」
「九藍……あんたが言う"ユメ"はなんなの? 寝ているときに見るもの? それとも将来叶えたい願いのこと?」
「君はどっちだと思う?」
予期していなかった質問に雲雀は黙り込む。彼女に訊けば答えを得られると思っていたのに、出されたのは己の考えを記述しなければならない小論文。
「うぬ、質問を変えようか。君はどっちだと思った?」
休日の昼だというのに周囲から物音一つ零れてこない。雲雀は気を紛らわそうと視線をそらすが、これといって興味を引かれるものはない。まるで森羅万象が九藍に道を譲っているようだ。九藍がここにいる限り、息を詰め、羽音さえ聞こえてこない。目に映る全てが張りぼてになっていく。
「作りものだよ、なにもかも。君が見ている風景だって」
九藍がマフラーから手を離した。くるっと半回転し、雲雀に背を向けると、九藍はおもぶるに歩き始める。
自然と雲雀の視線は動く藍の少女に引きつけられた。
「あんたは人が嫌いなの?」
「君も質問が好きだねぇ。なぜ人は人が好きであることを前提にするのか、考えたことはあるかい? 同族だから? 結束を深めるため? 僕は欲にまみれた人間が嫌いだ。お母様の心を踏みにじった男と、未来を奪った死神を……僕は一生許さない」
むき出しにされた敵意に、雲雀は一瞬だけひるむ。
そんな彼女を見て、九藍は「そろそろ夢の終わりだ」と答えを急かした。
「夢の終わりにはなにがあるの?」
「それは君が見つけるべき答えだ」
「昔みたいに、あたしを助けてくれないの?」
「うぬ。僕の助けはいらないだろう?」
雲雀は目を潤ませながら首を振る。
「ううん、あたしはあんたのおかげで魔法少女になりたいと思ったのよ。九藍がそばにいてくれたあの日々をっ、忘れることなんてできないっ」
「僕がいなくても君は大丈夫。もう昔のような泣き虫鳥じゃないだろう?」
「でも……!」
九藍はマフラーをはずし、雲雀の首に巻いた。盛夏に空色のマフラーが旗のようにたなびいた。
「苦しくなったら周りの声に耳を傾けるんだ。君の悪いところは短気なところ。時間をかけて、誰かと協力して、問題を解決していくのもいい経験だ」
「いやぁ、待ってよ……待ってってば……!」
「さらばだ――僕を呼ぶ人がいる限り、僕は行く」
九藍は足を止めて、遙か遠方へと振り返った。雲雀には鳥の声さえも聞こえないというのに、これは天啓であると九藍は顔を引き締める。
「昨日は翼を引きとめてくれてありがとう。これで僕も、役目に専念できる」
かつて自分を助けてくれた人にとって、自分はちっぽけな存在だったのだと雲雀は思い知る。九藍にとって自分は特別な人ではなく、多くいるうちの一人に過ぎなかったのだ。
ただ、彼女の決して大きくはない背中の向こうに、たくさんの笑顔が見えた。その笑顔の中には自分もいるような気がした。
「頑張ってよ……先輩」
呟いてから自覚する。自分にはもう一人応援しなければならない人がいた。
「翼、あんたもよ。あたしといっぱい喧嘩したくせに、途中で挫けたら――あたしが引きずってでも歩かせるんだから」
雲雀の足下から橙色の光が立ち上る。
雲雀の瞳には、普通の人間には見えないものが見えていた。道の真ん中、地面と天蓋の間に、ふよふよと人間(、、)が漂っている。彼らの目には生気が宿っており、死んだ人には到底見えなかった。手には大きな獲物を持ち、命を刈り取る死神のように佇んでいる。
彼らと目が合わないよう、素知らぬ顔で雲雀は正面を見据えた。こんな光景が生活の一部になってからだいぶ経つ。彼らは幽霊ではない。九藍のように意志を持ち、生気を奪い合う世界の住人だ。
現実を正視する余力はあった。橙色の翼をひるがえし、少女は飛び立った。