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仮想戦記(仮 作者:ロックウッド
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1919シベリア遡行7

 伊原中尉が予想していたとおりだった。
 ゆっくりとこちらに向けて戻ってくる集団を見ながら、伊原中尉はため息をついていた。
 出発したときにはその集団に混じっていたはずの水野大尉の姿が消えていた。

 戦闘はすでに終結していた。
 燃料がギリギリだったのだろう、ロ号偵察機は、あのあとすぐにアムール川の下流を航行しているであろう高崎へと戻っていった。
 ただし、その前にロ号偵察機は、通信筒を落としていった。
 通信筒には、最後に上空から観測した敵部隊の動向を書き込んだ用紙が入っていた。
 簡素な地図に書きこまれたものだが、後部の偵察員席に乗り込んだ搭乗員がこのような作業に慣れていたためだろう。
 必要最低限の情報を入手することはできた。
 それによれば、やはり敵騎兵部隊は中洲から撤退して、シベリア鉄道のある方向へと向かっていったらしい。

 伊原中尉は、敵部隊の撤退を確認すると、中洲の渡河点への偵察を国枝兵曹長に命じていた。
 敵部隊は、戦死者や重傷者も担ぎ上げて撤退していったが、渡河点にも不知火と陽炎から攻撃が加えられたから、そちらには何らかの遺留品が残されている可能性があるのではないかと考えたからだ。
 水野大尉は、渡河点への偵察への同行を強く進言した。
 ロ号偵察機がもたらした情報を確認してから、水野大尉がそわそわとしているのに気がついていた伊原中尉は、上級者の、それも陸軍士官の同行に眉をしかめた国枝兵曹長を説き伏せて、渡河点へと送り出した。
 自分自身は、念のために陣地の再構築と銃火器の展開の指揮を取りながら、伊原中尉は、偵察に出した国枝兵曹長達が帰ってくるのを待っていた。
 陣地の再構築を命じたものの、あまりその命令に意味はないように思えた。
 十中八九はすでに危機は去っている。ヴォルスネセンスキー連隊員の中には、煮炊きの準備を始めたものさえ出てきていた。
 こちらに戻ってくる国枝兵曹長たちの顔にも緊張感はあまり浮かんでいなかったようだった。


 報告をしようとする国枝兵曹長を遮って、伊原中尉はつまらなそうな表情でいった。
「水野大尉は、不知火に移ったのか」
 敬礼のために上げかけた手を下ろすタイミングを失って、国枝兵曹長は、首をかしげながらも頷いていた。
「確かに、あの大尉は渡河点に着くなり、待機していた不知火からカッターを呼び寄せて移乗して行きましたが…最初からわかってたんですな」
 にやりと共犯者の笑みを浮かべながら国枝兵曹長は何度かうなずいてみせた。
 伊原中尉は、首をすくめた。
「確信があったわけじゃない。だが、あんまり陸軍さんにうろつかれても面白くないしな。あっちに行ってくれるならそれにこしたことはないとは思っていた」
 国枝兵曹長は怪訝そうな顔になった。
「しかし…何で大尉がここを離れるとわかったんです」

 伊原中尉は、シベリア鉄道の、敵部隊が去っていった方向をしばらく見てからため息をつきながらいった。
「多分、彼らは帰れないよ」
 国枝兵曹長は、しばらく押し黙っていたが、先を促すように、伊原中尉を見つめた。
 しばらくしてから、国枝兵曹長に向き直ると、伊原中尉は淡々とした口調で言った。
「考えてもみろ。陸軍さんが海軍にそう簡単に頭を下げると思うか。おそらくボルシェビキ退治の本隊は陸軍さんが別に用意しているはずだ。あの飛行機を飛ばしてきた奴らがな」
「つまり、水野大尉は、その本隊に敵部隊の撤退方向を知らせるために不知火の通信機を使おうとしていた…ということですか」
「多分な。俺達にお鉢が回ってきたのも、単に陸軍の部隊では、アムール川までの展開が間に合いそうもなかったからじゃないのかな。だが、シベリア鉄道を使用すれば、ボルシェビキ部隊を帰路で待ち伏せすることは難しくないはずだ」
 そこで伊原中尉は再び首をすくめた。
「最も、これは俺の推測に過ぎんがな。水野大尉は単に状況を上に知らせるために不知火に移乗しただけかもしれんし、単に寒かっただけかもしれん」
 もうこれでこの話は終わりにするつもりだった。
 どのみち、ボルシェビキ部隊がどうなろうと大して伊原中尉の状況に変化があるわけではない。
 水野大尉が彼らをどう扱うのかも興味も持てなかった。


「それで、肝心の渡河点の方はどうだったんだ。何か遺留品はあったのか」
 伊原中尉が気を取り直して尋ねた。
「渡河点は不知火と陽炎に随分と叩かれたみたいですな。補給品やら荷馬車があったみたいですが、砲撃では破壊されていました。これだけ持って来ましたが」
 そういうと、国枝兵曹長は、何かの缶詰を差し出した。
 よく見ると、缶詰に書かれていた表記はロシア語ではなかった。
 伊原中尉は、日本語でイワシ油漬と書かれた缶詰をしばらく面白そうな顔で眺めた。
 おそらく、欧州大戦時に日本から輸出されて倉庫に貯蔵されていた物資を、今回の行動に補給物資として転用したのだろう。

 伊原中尉は、しばらく弄ぶように缶詰をいじくっていたがすぐに興味を失って国枝兵曹長に投げ返した。
「逃げ出したときに捨てていったんなら、毒が入っている心配はないだろう。すぐに喰ってしまえ。…それより渡河点に死体はなかったのか?」
「何体か転がってましたよ。ほとんどは不知火と陽炎の砲撃で吹き飛ばされたようでしたが…」
 そこで口篭った国枝兵曹長に伊原中尉が視線を向けると、兵曹長は要領を得ない様子で説明した。
「その…何人かの死体は砲撃ではなくて銃撃で殺されてたんです」
「ヴォルスネセンスキー連隊と渡河点で戦闘した時の戦死者ではないのか」
 怪訝そうな顔で伊原中尉はそういったが、国枝兵曹長はすぐに首を振った。
「いえ、仏さんはまだ血が流れてましたから、死んでからまだそんなに時間は経ってなかったはずです。むしろ、撤退時に仲間割れを起こしたような感じでしたね、死体の向きも中洲のこっち側から撃たれたようでしたし」
 そう言うと、国枝兵曹長は、渡河点側、つまり大陸の本土側に向けて指鉄砲を向けた。
 伊原中尉はしばらく考え込んでいる仕草を見せたが、しばらくしてはっと気がつくと、国枝兵曹長に勢い良く尋ねた。
「近くに馬だとかは倒れていなかったか」
「いや…そんなのはありませんでしたね。そういえば仏さんのほとんどは襲撃してきた兵隊よりもよさそうな服を着てましたな。あと妙な格好をした…坊さんみたいな死体も一人分ありましたが」
 それを聞きながら、伊原中尉は考え込んでいた。
 結論はすぐに出ていた。というよりも、伊原中尉は、すでにその結論に達していた。
 実のところ、国枝兵曹長からの情報は、推論を重ねるための材料ではなく、敵部隊が撤退していった頃からずっと考えていた仮説を裏付ける証拠でしかなかった。

 しばらく迷ってから、伊原中尉は顔を上げていった。
「その坊さんというのはよくわからんが、本当にそいつらは仲間割れを起こして殺されたのかもしれん。ただし、ここを実際に襲撃してきたのは噂のコサックらしいから、彼らには仲間割れという意識はなかったかも知れないが」
 国枝兵曹長は首をかしげた。
 日露戦争でもコサック騎兵は、日本軍を相手に活躍したと聞いていた。
 その割にはこの襲撃は中途半端で、粘り強さにかけているような気がしていた。
 日露戦争では、このような中途半端な陣地よりもずっと防護された日本軍の陣地に対してコサック騎兵は下馬戦闘で果敢に挑んだらしい、と国枝兵曹長も聞いていたからだ。
 だが、国枝兵曹長からそう質されると、伊原中尉はなんでもなさそうにいった。
「コサック騎兵がさっさと後退した理由は簡単だ。無理をしてまで戦う理由が彼らに無かったからだ」
 国枝兵曹長は、要領を得ないと言った様子で伊原中尉をみつめた。
 伊原中尉は、苦笑しながら国枝兵曹長にいった。
「よく考えてみろ、俺たちだってケレンスキー大尉が打ち明けてくれるまで「目標」の正体には気が付かなかったんだ。多分、殺されていたのはボルシェビキの中枢にいた人間なんだろう。そいつらの指揮でコサック騎兵は動員されたが、肝心の目標のことは知らされていなかった。そう考えれば不自然な点は説明がつくのではないか」
 国枝兵曹長は、呆気に取られたような顔で伊原中尉を見ていた。だが、反論したり、疑問を持っているような様子はなかった。それを確認すると、伊原中尉は続けた。
「コサック騎兵が簡単に撤退するのも当然だ。戦う理由もよくわからんのに赤軍なんぞのために命を張る気にはなれんのだろう。ロシア軍のことはよく知らんが、コサックの大半は白衛軍側に付いているらしい。これで赤軍は貴重な自軍の騎兵を失ったというわけだ」
 国枝兵曹長は、珍しくおずおずとした自信なさ気な調子で反論した。
 積極的に伊原中尉の言うことを論破すると言うよりも、まだ信じられないといった様子だった。
「しかし…あの皇女方は、ロシア帝国の最後のお姫様なんでしょう?いくら何でもそんな重要な存在を相手にするのに説明もなしだなんて無茶じゃありません…」
 国枝兵曹長の言葉は不自然に途切れた。
 唐突に気がついてしまったからだ。

 伊原中尉はにやりと国枝兵曹長に笑みを見せた。
 しかし、その笑みはひどく自嘲的なものだった。
「そう、俺たちだって同じようなものだ。よく分からんまま戦わされていただけだ。こっちは機密漏洩を防止するためだろうが、あっちはもっと切実な理由じゃないのかな。もし兵曹長が反乱軍に与したとして、昨日までの王族を、それもうら若い姫さまを簡単に殺せると思うか」
 国枝兵曹長は、一瞬不敬なことを考えて身震いした。伊原中尉はそれを確認して、嘆息を漏らしてからいった。
「そんな真似は主義者でもない限り中々出来んよな。だからボルシェビキも行きがかり上赤軍に入ったようなコサックに簡単に情報を伝えようとはしなかったんだろう。それが命取りになるとも知らずにな」
 それが伊原中尉の結論だった。

 しばらく国枝兵曹長は、押し黙って伊原中尉を見ていた。
 伊原中尉も無言のままだった。
 実のところ、伊原中尉は気まずい思いを抱いていた。
 今の結論も、状況証拠からそう判断しただけで、それが本当なのか確かめるすべはないのだ。
 それに、伊原中尉も国枝兵曹長も海軍の一下級士官であるにすぎない。
 今は敵部隊の内情よりも、作戦が無事に終了したのを単純に祝うべきなのかも知れなかった。

 しばらく泳いでいた国枝兵曹長の視線が、伊原中尉の腰のあたりで止まった。
「そういえば、いつもの軍刀はどうしたんです」
 伊原中尉が、我に返ったように向き直ると、今まで困惑していたような顔を見せていた兵曹長の顔には、いつものようなふてぶてしい下士官らしい表情が浮かんでいた。
 国枝兵曹長は自分が気にしても仕様がないとでも考えたのだろう。
 しばらく怪訝そうに伊原中尉は、腰の周りに手を当ててから、初めて気がついたようにいった。
「そういえばケレンスキー大尉に預けたままだったな…どうしたものかな、今更返してくれといっても間が抜けているような気がするなぁ」
「どうせ借金の形なんでしょう?別に大尉にあげてしまっても…」

 そこで国枝兵曹長は台詞を止めると、慌てて敬礼をした。
 伊原中尉も、一瞬不審そうな目を国枝兵曹長に向けたが、すぐに気がつくとやはり慌てて体ごと振り返ると、敬礼した。
 中尉が予想したとおり、そこにはお付の少年兵を連れた皇女がいた。
 確か妹君のアナスタシア皇女であったはずだ。伊原中尉はどうにかしてそれを思い出していた。
 だが、皇女に向けて何かを言うことも出来なかった。
 戦闘中の興奮も抜け落ちた今では、何も言葉が出てこなかったのだ。
 よく考えてみれば他国とはいえ、直接皇族方に話しかけること自体が不敬ではなかったのか。
 場所が場所であれば下級士族の家柄にすぎない伊原中尉が、皇族を急かすなど不敬罪どころではないのではないのか。
 そんなことを考えながら、恐る恐る伊原中尉は、アナスタシア皇女の顔色を伺った。

 アナスタシア皇女は、敬礼をしたまま硬直したような二人を面白そうな目で見ながら小首を傾げていた。
 お付きの少年兵は、同情の目で二人を見ていた。
「やはり日本人といっても私達と変わらないのね」
 まるで子供のような事を言うと、アナスタシア皇女は、手を口に当ててやけに上品な仕草で小さな笑い声を上げながら、付き人の少年兵に振り返った。
 アナスタシア皇女の様子はやはり子供のようだったが、戦闘中に感じたような不安になるほど澄んだ瞳は消え失せていた。
 その代わりにアナスタシア皇女は明るく、天真爛漫な様子だった。これが彼女の本来の性格なのだろう。
 顔を向けられた付き人の少年兵は、戸惑ったように、中途半端な笑みを浮かべただけだった。
 そんな少年兵の様子に構うことなく、アナスタシア皇女は、伊原中尉に向きなおって言った。
「よくわからないのだけれど、もうあの人達が襲ってくることはないのかしら」
 ほんの僅かな不安がアナスタシア皇女の目には浮かんでいた。あの人達とはボルシェビキに動員されたコサック騎兵たちのことをさすのだろう。
 もしかすると彼らは今頃逆に殲滅されているのかもしれない。
 ついさっきまでそんなことを国枝兵曹長と話していたことを思い出しながら、伊原中尉は安心させるように笑みを見せながらいった。
 もっとも無理やり作られた笑みはひどくこわばったものになったが。
「ご安心ください殿下。先ほどまで飛行していた我軍の偵察機が撤退する敵軍を観測しております。また、この中州への渡河点では母艦が警戒待機しておりますので、不意の襲撃があっても十分に対応できます。殿下はどうか安心してお休みください」

 そう言いながら、伊原中尉は少年兵に目を向けた。
 必死で、目でいいから皇女殿下を連れて行けと訴えたつもりだったが、彼には伝わらなかったようだ。
 伊原中尉が何かを訴えたいのはわかるのだが、何を伝えたいのか、なぜ喋ろうとしないのか、理解出来ないといった様子で少年兵は首をかしげていた。
 必死に少年兵に訴える伊原中尉を横目で見ながら、国枝兵曹長はそっとその場から逃れようとしていた。
 背後の不振な動きを感じ取って振り返った伊原中尉が放った鋭い視線に邪魔されて、一人で逃げ出そうとする企みは阻止されてしまったが。
 周りには陸戦隊員だけではなく、ヴォルスネセンスキー連隊員もいる筈だったが、関わり合いになるのを避けたのか、姿が見えなかった。

 日本人たちの不自然な動きに気がついているのか見えないのか、アナスタシア皇女は、再びくもりのない笑みを浮かべながら小首をかしげた。
「ではお姉さまと私だけではなく、皆をハバロフスクまで連れていってくださるのね。あのシラヌイとかいう二隻では小さすぎてできないという話だったけれど」
 また口ごもりながも伊原中尉は、一言一言考えながら言った。不知火と陽炎、それに自分達以外の行動は類推するしかないが、状況から考えてそれほど間違いはないはずだ。
「あの偵察機は水上機ですから、母艦である高崎が周囲の水域を航行中です。しかし、高崎は我々と同時にハバロフスクに到着して、我々がこちらに向けて出港した後も留まっていました。
 その後すぐに出港したとしても高崎の巡航速力は大して高くありませんし、それにハバロロフスクからこちらは、かなり川の流れに逆らって航行することになりますから、高崎の機関出力ではここへの到着は明日になるでしょう…」
「その船には全員が乗り込めると考えて良いのかしら」
 伊原中尉は、しばし視線を泳がせた。戦隊を組むのだから、高崎の旗艦としての司令部要員の収容能力や水上機母艦としての能力は把握しているのだが、余剰人員をどれだけ乗せられるのか。そんなことは今まで考えたことがなかったからだ。
「おそらく…高崎の船体構造は5000トン級の商船ですから、連隊員全員を詰め込むことはできると思います。元が貨物船だったはずですからどの程度の乗員区画があるのかどうかはわかりませんが…」

 それを聞くと、アナスタシア皇女は、目を細めながら、考えこむように、左右に視線を向けた。
 いい機会だとばかりに、国枝兵曹長は、再び逃げ出そうとしていたが、伊原中尉は逃さなかった。
 小声で許可も得ずに退出するは不敬と脅すように低い声で言うと、ぎくりとして、国枝兵曹長は観念したようにため息を付いた。
 二人でそんなことをしていたものだから、アナスタシア皇女が再び満面の、それも面白いいたずらを思いついた笑みを浮かべ始めたところを見損なってしまっていた。
「決めたわ、ここに向かっている船に全員が乗るのが難しいなら、私はそのシラヌイに乗船することにしましょう」
 ぎょっとして伊原中尉と国枝兵曹長は、アナスタシア皇女に二人揃って向き直った。
 一体この皇女は何を考えているのか、高崎よりも不知火のほうが狭苦しいのは当然ではないのか。

 一方、アナスタシア皇女は、二人が不思議そうな顔をしている方に不思議そうに首をかしげながらいった。
「タチアナ姉様の連隊員はタカサキに乗ってもらいますが、私とお姉さまはシラヌイともう一隻に分乗することにしましょう」
 伊原中尉と国枝兵曹長は顔を見合わせた。
 初期の計画と変わって、不知火と陽炎には撤収した陸戦隊員だけではなく、回収した重火器も再び載せる予定だから余剰スペースはさほど大きくならないはずだ。
 だから皇女以外の付き添いを多数乗せることはできない。そういって高崎への座乗を進めようとしたのだが、アナスタシア皇女は、伊原中尉の説明を遮って、不思議そうな声でいった。
「でも、あなたは私とお姉さまを二人でシラヌイ一隻に乗せようとしていたはずよ。それに随員はこの子だけ、お姉さまは少尉一人だからそんなに場所は取らないはずだわ。それともあなたレディーに向かって太っているかと聞くつもりではないでしょね、言っておきますが、私もお姉さまも重くはないわ、ここ数ヶ月で随分と軽くなってしまったはずだし」
 そう言うと、アナスタシア皇女は、ふともの悲しそうな表情になった。
 ここ数カ月で軽くなったとは、ボルシェビキによる軟禁生活のことを言っていることは、伊原中尉と国枝兵曹長にもわかったから、二人ともかける声が見つからずに、オロオロとするばかりだった。
 もっとも、それすら伊原中尉達に話の腰を折れさせないためのアナスタシア皇女の作戦だったのかもしれないが。

 アナスタシア皇女は、二人が押し黙ってしまったのを一瞥して確認すると続けた。
「それに、自分の口から言うのも何だけれども、私達は重要人物であるはずです。危機管理の点から言ってもマクシモヴィッチ中佐とお姉さまと私、それぞれ分散させて移動させたほうがリスク管理の点からもよろしいのではなくて?
 それに元が貨物船というのならば、タカサキは鈍足であるはず。ケレンスキー大尉からシラヌイは高速の戦闘艦だと聞いているわ。ならばそちらのほうがいざというの時の逃げ足も早くなるし、何よりハバロフスクまで短時間で到着できるのではなくて?
 安心してくださってよろしいわ、ケレンスキー大尉から、ハバロフスクには、すでにタチアナ姉様のヴォルスネセンスキー軽騎兵連隊の主力が私達を待っています。あなた方にはそこまで私達を運んでくだされば結構なのよ」
 たたみかけるように言われて伊原中尉は目を白黒させて、国枝兵曹長に顔を向けた。
 まさか二十歳にもならぬような娘から危機管理やリスク管理などという言葉が出てくるとは全く想像も出来なかったからだ。
 国枝兵曹長もなんとも言えないような複雑な顔をしていた。
 だが、伊原中尉がアナスタシア皇女の言うことに逆らえるとも思えなかった。
 確かにリスクを分散させるという意味では、いざという時の自衛戦闘すら可能な不知火と陽炎に両皇女を乗艦させるというのは間違いではないように思えたからだ。

 当のアナスタシア皇女は、伊原中尉が断るなどとは考えてもいなかったのかも知れなかった。
 話はそれで終わりと言わんばかりに、右往左往する二人に背を向けるように北の空を見上げていた。
 伊原中尉達も、異変を感じて、アナスタシア皇女の視線の先を見やった。
 そこには、ここまでアムール川を遡行する最中に見かけた陸軍機が飛行してきた。
 おそらく撤退する敵軍の観測のために飛来してきたのだろう。
 だが、その飛行機が通信筒を落としてきた時のようにアムール川の上空まで接近することはなかった。
 元々戦闘地点であった中洲を基点として捜索を行うためにここまで飛来してきただけなのだろう。
 その飛行機は、中洲を遠くに見た地点で緩やかな旋回を行うと、再び北方へと飛びさっていった。

 しばらく北方に消えていく飛行機を見つめていたアナスタシア皇女が、つぶやくように言った。
「やはりあれは鳥だったようね」
 不審そうに伊原中尉は、アナスタシア皇女に目を向けた。
 しかし、背後の少年兵は、期待に満ちた目で皇女を見つめていた。
「戦火という炎の中から蘇る不死鳥…大丈夫、私達は必ずこの国を立ち上がらせてみせるわ」
 伊原中尉は、自分よりも年若い少女のようなアナスタシア皇女の強い口調に圧倒されるものを感じていた。
 ―――これが為政者、皇族というものなのか…
 案外、アナスタシア皇女の言うように上手く行くのかもしれない。
 少なくともこの皇女達は、バラバラに戦う白衛軍をまとめ上げる象徴として、この国を率いていくことになるのだろう。
 伊原中尉はそう考えていた。
特務艇不知火の設定は以下アドレスに掲載中です
http://rockwood.web.fc2.com/kasou/settei/ddsiranuikai.html
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