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仮想戦記(仮 作者:ロックウッド
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1947特設運送艦報国丸1

 いつの間にか夜が明けていたらしい。
 朝の課業を始める短期現役士官達の声が電信室まで聞こえてきたのだ。

 ―――艦の調子はあまりよくないと聞いていたが、乗組員たちの調子は悪く無いらしいな
 徹夜明けのぼんやりとした頭にそんな馬鹿馬鹿しい考えが浮かんだ。
 ふと我に帰って立ち上がると岩渕上等兵曹は頭を振った。
 それですこしばかり眠気がとれたようだった。
 だが、体は正直だった。
 立ちくらみを起こした岩渕兵曹は、思わず表示卓にもたれ掛かっていた。

 当直に入ったばかりの部下の一人が呆れたような顔で岩渕兵曹を見た。
「員長、直には入っとらんのですから休んでこられたらどうですか。幸いアリューシャンからの波も減って来ているようですし…」
 電測は新しい分野の職種だからか、ズケズケとモノを言う若い兵隊には事欠かなかった。
 岩渕兵曹は、不満顔になりながらも、その部下の肩越しに逆探が捉えた電波強度を表示している表示面を睨みつけた。
 確かに、ダッチハーバーを始めとするアリューシャン諸島に展開する米軍基地を発生源とする電磁波の強度は、一時期と比べて減少しつつあった。
 すでに報国丸はアリューシャン諸島への最接近を終え、目的地バンクーバーへと近づいていた。
 それに、岩渕兵曹が表示面を睨みつけていなくとも、報告丸が傍受した電波は記録されるようになっている。
 これならば、しばらくは部下たちに任せても問題は無さそうだった。
 岩渕兵曹は不機嫌そうな表情のままだったが、何度か頷くと声をかけてきた部下に後は任せると告げて電信室を出た。


 電信室から出ると、やはり短期現役士官たちが教官の指導のもとで操砲訓練をしているのが見えた。
 報国丸は現在こそ特設運送艦籍にあったが、先の第二次欧州大戦中盤までは、海運会社から海軍に徴用された特設巡洋艦として、海上護衛作戦などにあたっていた。
 特設巡洋艦から、特設運送艦に艦種を変更するにあたっての改装工事で、大半の兵装は下ろしていたが、自衛戦闘のために船橋直前の4,5番砲だけは残されていた。

 兵員食堂に降りていくために階段を下りながら、ふと岩渕兵曹が振り返ると4,5番砲と船橋に今回の航海の直前に新たに増設された数々の空中線が見えた。
 旧式の流用砲と最新鋭の逆探や傍受装置という奇妙な取り合わせは、何度見ても岩渕兵曹を不安にさせた。
 それに奇妙な取り合わせは、兵装と電波兵器だけではない。
 報国丸は、まるで海軍内部の主流派からかけ離れたハードウェアとソフトウェアの異分子たちをかき集めたようなものだった。



 電測学校で、教官補佐として後進の指導にあたっていた岩渕兵曹は、ある技術研究所が新たに開発した傍受装置の操作要員として引きぬかれた。
 その技術研究所は、かつての陸、海軍にそれぞれ存在していた研究所を分離し、兵部省のもとに設けられた陸海空三軍統合の技術開発本部隷下に新たに設けられたものだった。
 とはいっても、それぞれの研究所のそのものの分離再編成が行われたわけではなかった。
 そうではなく、それまで各研究所の上部組織であった艦政本部などから切り離して、新たに技術開発本部という管理組織を設けただけだ。
 だから組織改編前後の各研究所の顔ぶれはほとんど変化がなかったらしい。
 帝国三軍の将兵の中には、この組織再編成を屋上屋を架すだけで何の意味もなかったと批判するものも多かった。

 岩渕兵曹は、そのような批判には懐疑的だった。
 確かに今は兵部省技術開発本部は屋上屋に見えるかもしれない。
 連合艦隊のような帝国三軍の実施部隊と技術開発組織との距離感が増大したという批判も事実であるのかもしれない。
 しかし、組織統合の成果を短期間で評価してしまうのは危険ではないのか、岩渕兵曹はそうも考えていた。
 技術開発本部の上部組織である兵部省がその好例だった。

 名前こそ古めかしいが、兵部省は陸軍省と海軍省の合体機関として二年前に編成された日本政府でもっとも新しい省庁だった。
 それよりも更に数年遡る第二次欧州大戦の戦時中には、海軍軍令部と陸軍参謀本部の上部組織として統合参謀部が設立されている。
 統合参謀部は、それまで陸海軍の連絡機構としてさして有効に活動していなかった大本営に対して政府や財界、それに恐れ多くも天皇自身が疑問をいだいたことが切っ掛けで設立されたと言われている。
 それはマルタ島をめぐる幾度かの攻防戦で陸海軍間の協力がなされずに、国際連盟諸国軍の目の前で日本軍の失態を見せたためだった。

 内閣総理大臣の隷下に統合参謀部が置かれ、陸海軍、更には陸軍と海軍航空隊の陸上部隊を統合することで新たに誕生した空軍も加わった帝国三軍の軍令機関は、揃って統合参謀部の下部組織であると、戦後に明確に憲法に規定された。
 これによって昭和に入ってから何度か過激派将校によって提起された統帥権に関する問題は解決を見せたと言えた。
 幾人かの中堅将校達がこれに反対し、クーデターを画策したという噂もあったが、第二次欧州大戦終結一年目の終戦記念日に天皇が、三軍の設立や統合参謀部の説力に尽力した米内海軍大将や板垣陸軍大将を、異例にも個人名を上げて賞賛するコメントを発表したことで、このような動きも立ち消えしたようだった。
 いわばはしごを外された形になった過激派将校たちだったが、最近では戦後の軍備縮小に伴う再編成によって軍からパージされつつあるらしい。

 考えてみれば、昭和維新と叫んだ過激派将校たちの動きが、急速に勢いを失っていったのも歴史の必然であったのかもしれない。
 彼らが再現しようとした御維新、つまり明治維新における闘争の象徴である戊辰戦争も、佐幕派の雄藩である会津藩などが早々と新政府軍に恭順の意を示したことで、あっけないほど流血を見ることなく集結していたからだ。
 昭和維新を叫ぶ過激派には、佐幕派最後の砦たる五稜郭も与えられなかった。ただそれだけのことだった。


 兵部省の設立もこの三軍統合の流れにしたがって起こったものだった。
 ただし、昭和デモクラシーとまで呼ばれた軍の民主化という意図しない流れまで創り上げた統合参謀部設立に対して、兵部省の設立は三軍内部にさほどの衝撃を与えることはなかった。
 独立した軍政組織を当初から持たずに兵部省に委ねた帝国空軍は例外としても、陸海軍にさほどの影響を与えなかったのは、兵部省に吸収された形の陸軍省、海軍省が陸軍部、海軍部として実質上残されたままであったからだ。
 やはり兵部省も屋上屋に過ぎない。陸軍省海軍省に空軍省を加えただけのことではなかったのか。
 そういった批判が軍内部から続出したのも当然だった。
 それくらいなら、各軍で独立した軍政部を持ったほうがマシだった。
 陸海軍大臣という軍政部門のトップを失うことで、政治への関与権を奪われた陸海軍で、そのような批判は顕著だった。

 だが、兵部省設立によるメリットは、陸軍部、海軍部の人員を少しづつ入れ替え、あるいはお互いの組織内へと人事交流を図ることで少しずつ表に現れるようになってきた。
 特に陸海軍で共通する部分の多い医務局などが組織統合を果たしていくとその効果が如実に現れるようになってきていた。

 考えてみれば当然のことだった。
 兵部省という新たな組織が構築されたとはいえ、これまで陸軍省や海軍省が行って来た軍政活動を停止させることができるわけはない。
 行政上、書類上の組織統合は一夜にして起こるとしても、事実上の組織統合は日常業務を怠らないように緩やかに行うしかなかったのだ。
 おそらく技術開発本部の設立も同じような傾向をたどることになるだろう。
 岩渕兵曹はそう考えていた。
 艦艇や戦車の構造に携わる技術者が同じ仕事につくことはないだろうが、電探や医療技術の開発などは三軍で統合してしまっても構わないはずだ。
 そのような組織統合がだんだんと進んでいけば、三軍共同機関によるメリットも大きく出てくるのではないのか。
 そう考えていた岩渕兵曹の考えはそう的外れでも無いようだった。
 電波傍受装置の操作習熟のため出向を命じられた技術研究所では、すでに陸海軍にかつて所属していた技術者たちが混じり合って新たな装置の開発に取り組んでいたからだった。

 その電波傍受装置は、原理的にはこれまでの逆探と変わらないものだった。
 ただし、傍受可能な電磁波の波長や強度は格段に広がっている。
 それに傍受した電波の諸元を記録する装置も備えられていた。
 装置自体は岩渕兵曹が出向してきた頃にはほとんど完成していた。
 操作部も兵曹が着任後は変更されなかったから習熟にかかった期間は短かった。
 そして、その傍受装置が実艦に搭載されることと、その操作員として岩渕兵曹が乗り込むことが決定された。

 これは新兵器だから、新型の戦闘艦に乗ることができるのではないのか、そう漠然とそう考えていた岩渕兵曹の期待は搭載艦が運送艦だと聞いて打ち砕かれた。
 もっとも岩渕兵曹が落ち込んだのはほんの一瞬だった。これは戦闘兵器ではないし、実験段階と言ってもいい兵器だった。
 だから、開発段階では運送艦に搭載されるのだろう。いずれは戦闘艦に搭載されるはずだ。

 しかし、岩渕兵曹が落ち着いていられたのも搭載する運送艦が、本当は特設運送艦で、しかもそれが報国丸であると聞かされるまでだった。
 それを聞くなり思わず岩渕兵曹はうんざりとした表情を浮かべていた。
 実は岩渕兵曹は過去に報国丸と同型の護国丸に乗り組んでいたことがあった。
 当時は報国丸も護国丸も特設巡洋艦として海上護衛任務についていたのだが、岩渕兵曹はその時ドイツ海軍との戦闘で死ぬような思いをしたことがあったのだ。
 だが、岩渕兵曹は落ち込むのも早かったが、立ち直るのも早かった。
 あの時は特設巡洋艦だったが、今度は戦闘任務につくことを想定していない特設運送艦だった。
 それに第二次欧州大戦も集結したのだから危険なことになることもないだろう。
 そう考えていた岩渕兵曹だったが、実際に傍受装置を搭載された報国丸に乗り込むと今度はさらに唖然とすることとなった。



 報国丸に搭載された新機軸は、傍受装置だけではなかった。
 主機は、新型構造のディーゼルエンジンが搭載されているらしい。
 この航海にも、報国丸固有の乗員の他に、その新機関のデータを取るために艦政本部第五部の将兵も多数乗り込んでいた。

 さらに船倉には簡易梱包システムとかいう新機軸が導入されていた。
 岩渕兵曹にもよくわからなかったが、これは荷役作業の時間短縮や簡便化を目的としたものらしい。
 鉄板で組み上げられた大きな箱の中に、予め荷物を運び込んでおき、その箱ごと荷役港へと輸送して貨物船へと積みこむ。
 これで細かな荷物をいちいち人手をかけて港から船へと運びこむよりも圧倒的に短時間で荷役作業を終了させることができるらしい。
 どうにも、岩渕兵曹には、予め組み立てられた鉄箱の製造コストなどデメリットばかりが目立つような気がするが、このシステムは日英露共同の大掛かりなプロジェクトという話だった。
 国内でも、艦政本部や兵部省はこの荷役システムに大きな期待をかけているらしい。
 元々は第二次欧州大戦において日本本土から欧州へと向かう船団を編成する際に、荷役を行う港湾設備の能力を超過したことから考案されたシステムらしい。
 いずれは民間にもこのシステムを波及させるべく、兵部省のみならず、逓信省なども注目しているという噂もあった。

 報国丸の前部船倉はこのコンテナとかいう名前の鉄箱を固定するための頑丈な鉄桁などが設置されていた。
 また、この荷役システムは海上輸送のみならず、鉄道での輸送も視野に入れているらしい。
 岩渕兵曹が聞いた話では、バンクーバーで下ろされた鉄箱は、カナダ太平洋鉄道の改造貨物車に載せ替えられてモントリオールまで鉄道輸送されるらしい。
 そこには英国に駐留する日本海軍遣欧艦隊が時を合わせるようにして寄港するという話だった。
 これによってインド洋ー地中海を経由する航路よりも短時間に、遣欧艦隊への補給路が確保されることになる。
 初めての輸送となる今回の航海では、鉄箱の中には緊急性は薄いが、将兵たちには有難がれるであろう米や味噌が詰め込まれていると岩渕兵曹は聞いていた。

 むしろ、報国丸の今回の改装はこの簡易梱包システムに対応した船倉の改造がメインであり、そこにかこつけて造機を担当する艦政本部第五部が新型エンジンをついでに搭載し、更には技術研究所が北米を航行することから電波傍受実践のチャンスとばかりの新型装置を押し付けてきた。
 これが真相らしかった。
 これではまるで報国丸は、運送艦ではなく実験艦のようだったが、海軍はさらに報国丸に一般兵科短期現役士官の遠洋航海実習までも押し付けてきていた。

 本来、主計科や法務科といった将校相当官を確保するために始まった短期現役士官制度は、先の第二次欧州大戦における下級将校の不足を受けて、いつの間にか兵科士官や飛行科士官まで含む予備将校育成過程へと変化を遂げていた。
 現在では海軍のみならず、戦時における将校不足を補うために陸空軍も同様の制度を設けていた。
 産業構造の変化によって大学への進学率が向上していることが、このような予備将校育成過程の拡大を後押ししていた。
 また、第二次欧州大戦後半で見せた彼ら短期現役士官や海事緒学校卒業者からなる海軍予備員将校達の活躍が、予備将校育成システムの正当性を物語っていた。
 第二次欧州大戦後、多くの予備将校達は再び予備役に編入され民間へと戻っていったが、永久服役の職業軍人へと転官して正規の海軍将校になるものも少なくなかった。
 また、海軍予備員将校の機関科将校達の少なからぬ数は、海軍に請われて教官職などに着任しているらしい。

 これまで日本海軍は蒸気機関を主機としていたから、機関科将兵への教育を行う機関学校でもボイラーを担当する蒸気員やタービン、補機を担当する機械員たちを育成することを前提としたシステムを構築していた。
 だが、海軍は第二次欧州大戦に前後して大和型戦艦以降の戦艦にディーゼル主機を採用していた。
 また、戦時中に大量建造した船団護衛用の海防艦の多くも同じようにディーゼルエンジンを搭載している。
 当然だが、これまで海軍で教育を受けてきた機関科将兵は、ディーゼルエンジンの扱いに慣れていなかった。
 これに対して戦時中は、民間船ではすでにディーゼルエンジンの本格的な導入が始まっていたことから、民間でディーゼルエンジンの扱いに慣れていた海軍予備員を引き抜き、彼らを中核に据え付けることでディーゼルエンジン艦の運用を行って来た。
 しかし、戦後ともなれば、彼らの多くも予備役入りさせなくてはならない。
 それに今後建造される戦艦や大型特務艦にもディーゼル主機の搭載は確実視されていたから、海軍職業軍人の永久服役将兵の中にもディーゼル員を要請しなければならないのは急務だった。
 幸いなことに、終戦から海防艦の多くは予備艦指定を受けていたから、それらの艦に乗り込んでいた海軍予備員将校を教官として引きぬくだけの余裕ができていた。


 だが、海軍はそのような活躍を予備将校たちが示したにもかかわらず、未だに教育課程において短期現役士官達を軽視している傾向があった。
 今期の短期現役士官候補生の長期遠洋航海に用いる艦に、練習巡洋艦ではなく特設運送艦を指定したのもその現れなのではないのか、部内ではそう考えられていた。
 この時期、日本海軍には、練習任務に当たる専用艦艇が数隻在籍していた。
 それだけでも諸外国から垂涎の的ではあったが、その内実はさほど充実したものではなかった。
 鈍足とはいえ、香取型練習巡洋艦は、候補生教育のための実習施設や講堂、それに諸外国に寄港した際に要人を迎えるための特別公室など容積には余裕があった。
 そのため、第二次欧州大戦参戦後は、実戦向けに改装された上で欧州に展開した潜水艦隊や護衛艦隊旗艦として転用された。
 四隻が建造された香取型練習巡洋艦は、この本来想定されていなかった任務に勇戦したが、大戦終結時に残存していたのはその半数、二隻のみだった。
 しかし、いつまでも戦時対応の速成士官教育を続けるわけには行かなかった。
 平時であればこそ、戦時には組織の中核として働くことのできるであろう、じっくりと教育を施した士官を育成する必要があった。

 書類の上では、日本海軍には練習巡洋艦に加えて、更に二隻の大型練習艦が在籍していることになっている。
 実戦部隊であるナンバーフリートから外された戦艦比叡と空母天城がそれだった。
 この二隻はどちらも第二次欧州大戦に従事し、やはり共に同型艦を喪失している。
 これにより同一艦で戦隊を組めなくなったことと旧式化が顕著になってきたことから練習艦任務に転用されたものだった。
 しかし、この二隻では香取型練習巡洋艦が想定していたような、長期遠洋航海実習を行うことは不可能だった。

 天城の場合、そもそも練習空母が長距離の航海を前提としていないからだ。
 練習空母の任務は、まずもって航空隊の着艦訓練に従事することにあった。
 大戦半ばごろから、日本海軍は空母自体とそれに積み込まれる航空隊を分離させる空地分離を実現させていた。
 それに加えて、継戦能力を向上させるために、空母航空隊の数を、実働空母の倍の数揃えるようになっている。
 つまり、洋上を航行する空母に展開する航空隊には、同規模の予備の航空隊が存在することになる。
 予備とはいってもある空母に対して固有の航空隊が割り当てられているわけではないから、ある時陸地にあった航空隊が、別のタイミングでは空母に搭載されて展開することがあり得る。
 だから陸上に展開している航空隊であっても、航空戦隊への配属命令に備えるために空母への着艦能力を維持し続ける必要があった。
 それが旧式化し、狭くなった格納庫に新鋭機を収納することのできなくなった天城が退役せずにいる理由だった。
 練習空母はこのように、陸上に現在展開している部隊への支援で手一杯の状態で、とても日本本土を長期間留守にすることは不可能だった。

 比叡の場合はもっと切実な理由があった。
 天城と同じように金剛型の他の三隻を失った比叡であったが、当初八八艦隊構想によって戦艦として起工された天城よりも、その艦齢は長かった。
 就役後数度の近代化改装を経たとはいえ、艦体自体の疲労が蓄積しており、再度の練習戦艦化となったのも、現役の戦艦としての使用が困難になってきたという理由もあった。
 また、第二次欧洲大戦勃発直後の近代化改装時に搭載された主缶も、大戦時の酷使によって不良箇所が増えているらしい。
 実は戦時中の長期連続行動によって機関の調子が悪くなっているのは、香取型練習巡洋艦二隻も同様であった。
 しかし艦齢の若い香取型が本国帰還後に長期の入渠期間を含む修理工事を行ったのに対して、これ以上の長期就役が望めない比叡にはそのような予算が下りなかったらしい。
 だから、比叡の機関は抜本的な修理工事を行うことなく、その場その場での応急工事を実施し続けるしかない状況だと聞いていた。
 今年になって、比叡は親善を兼ねた近海練習航海として、シベリアロシア帝国海軍の根拠地であるウラジオストックへの航海をおこなっていたが、海軍はこの航海に大型艦隊曳船を随伴させるかかなりもめたらしい。
 現在の比叡艦長は高松宮少将が務めていた。
 高松宮殿下は、ロシア女帝マリア・ニコラエヴナの王婿であるルイス・マウントバッテン伯と懇意であったから、この航海は海軍同士の親善の他に、皇室とロシア帝室との皇室外交をも兼ねたものであったらしい。
 そうであるがゆえに、もしも皇族が艦長を務める戦艦が日本海で立ち往生でもしたら帝国の恥を晒すことになりかねなかった。
 結局はこの行動中は何事も無く終わったが、機関長ら幹部は気苦労が絶えなかったらしい。

 このような状態であるから、同じ旧式化した練習艦とはいっても比叡の場合は、天城と違って近海航海を行うことすら稀で、もっぱら内地で係留された状態で将兵たちへの教育を行う半ば宿泊艦のような扱いを受けているらしい。
 岩渕兵曹が古参の兵曹長から聞いた話では、そのような扱いの艦長に皇族がたをお願いするのも恐れ多い話なので、海軍としては高松宮少将を軍令部かどこかへと転属させようとしたのだが、当の高松宮殿下は新兵たちへの教育任務を気に入ってしまったらしく、その話を断り続けているらしい。
 だから柱島に係留され続けている比叡は、呉離宮だとか、宮様御殿だとかいうあだ名で呼ばれていた。

 大型練習艦がこのような状態なのだから、残存した二隻の香取型練習巡洋艦に海軍がかける期待は大きかった。
 しかし、たった二隻の練習巡洋艦では、現在の格段に規模が膨れ上がった日本海軍の士官教育をすべて行うのが無理があったようだった。
 だから、練習巡洋艦で遠洋航海実習を行うのは、正規の海軍将校、それも砲術や航海、機関といった兵科士官に限られていた。
 戦時中の機関科の兵科への統合に伴う制度改正によって、機関学校も正規の機関将校教育を行う兵学校分校と、それ以外の専修学生等の教育を行う機関学校へと分割されていたから、練習巡洋艦で実習を行うのは海軍兵学校出身者に限られると言っても良かった。

 これに対して、技術科や軍医科といった兵科以外の将校相当官候補生は、長期の航海実習の必要性も薄いことから、彼らの教育には余剰となって練習艦に改装された松型駆逐艦などでの近海航海実習を実施していた。
 将校相当官の士官は兵科士官と比べて洋上の艦体勤務となる確率は低かったし、技術科や軍医科士官であれば、各々の部隊に配属後に実習を行うから、候補生の段階で長期間まとまって教育を行う必要性は薄かったのだ。

 このような教育体系のなかで、最も割を食っているのが正規士官以外の、一般兵科短期現役士官や予備士官たちだった。
 なぜならば、正規将校同様に長期の航海実習を必要とされていながら、それに充当すべき大型練習艦が存在していなかったからだ。
 練習巡洋艦は、正規の兵科士官たちの教育で手一杯だったし、他二隻の大型練習艦も日本本土から離れられず、また駆逐艦改装の急増練習艦では、長期の遠洋航海実習を行うのは困難だった。
 確かに第一次欧州大戦前後から後の駆逐艦は大型化し、航洋力を手にしていたが、大洋を航行するのにはまだ過小だった。
 アジア周辺の短期航海ならまだしも、教育途上のアマチュアといってもよい候補生達を長期間乗艦させ続けるのは海軍教育に関して逆効果と成りかねなかった。
 海軍は予備士官達の多くがずっと予備役のままで、永久服役の職業軍人に切り替えるような人間は少ないであろうと予想していたが、海軍を一時の教育の失敗で嫌って予備役でさえ逃げ出したいと候補生達に思われたいとは考えていなかったのだ。
 だから、海軍は大型で長距離の航海に適した練習艦任務に耐えうる、それでいて安価に運用できる艦を探していた。
 そして、半ば以上実験艦として改装されて北米への航海を予定していた特設運送艦報国丸が練習艦として選択されたのだった。

 元々、報国丸は大阪商船が南米航路向けに建造した大型貨客船であるから、長距離の遠洋航海実習を行うだけの航洋力は有している。
 北米バングーバーへの往復という本来の航海期間も、一般兵科向けの遠洋航海実習としてはやや短いものの、十分な教育が行える時間があるだろう。
 それに、最初は特設巡洋艦として、次は特設運送艦として改装されたとはいえ、元々は大型貨客船であるから、固有の乗員や、改装工事に伴う計測員などに加えて、大勢の候補生や教官達を載せるだけの居住空間や真水、食料を追加搭載できるだけの余裕があった。
 問題があるとすれば、報国丸が徴用された特設艦に過ぎず、兵科士官教育に必要な兵装がほとんど搭載されていないという点だった。
 このため、教育局や海軍練習艦隊は、大慌ててで高角砲や機銃、それに撤去されていた魚雷発射管などの兵装を搭載した。

 もっとも、これまで搭載していた14センチ平射砲を除く、追加搭載された兵装の多くはダミーや旧式兵器を架台ごとそのあたりの開いた空間に括りつけたようなもので、実弾は14センチ砲弾以外は小火器用しか搭載されなかったから、行えるのは操砲訓練までだった。
 それに多くの兵装はただ載せられただけで、射撃指揮装置や電探との連動といった最近の艦載兵器では必須となっている高度な教育を行うことは不可能だった。
 それらの兵装に関する高度教育は、遠洋航海実習終了後に駆逐艦なり、係留状態の比叡で行えばよく、報国丸での実習ではとりあえず航洋術や、洋上での操砲訓練のみで十分である。海軍はそう考えているようだった。


 それを聞いたとき、岩渕兵曹は他人ごとながら、すこしばかり憤慨していた。
 兵曹が属する電測も新たな分野であるせいか、第二次欧州大戦戦時中は、予備員将校や短期現役士官出身の将校が少なくなかった。
 岩渕兵曹達下士官兵からの予備将校たちへの評価は悪くはなかった。
 彼らの多くは兵学校出身者よりも長く娑婆を経験しているせいか、下士官兵を大切に扱うものが少なくなかったからだ。
 それに岩渕兵曹が個人的に知る予備将校たちのなかには、戦時下において、兵学校出身の正規将校よりも勇気を示したものもいた。
 もっとも岩渕兵曹をげんなりさせているのはそのことばかりではなかった。

 報国丸への傍受装置の取り付けや着任挨拶などでバタバタと走りまわっていたころに、岩渕兵曹はこの傍受装置の開発目的を初めて聞かされていた。
 この兵器は、岩渕兵曹が漠然と考えていたように戦闘中に敵艦からの電探情報を確認するようなものではなかった。
 むしろ、平時において敵軍の活動を監視するための兵器だったのだ。
 このような兵器が開発されたのは第二次欧州大戦における戦訓が切っ掛けだった。

 当時、日本海軍は新たに開発された電探を扱いあぐねている所があった。
 夜間や霧中などの視界不良状況においての見張りに大きな威力を発揮することはわかっていたのだが、自らが電波を周囲にばらまく、闇夜に提灯のようなものではないかと指摘する指揮官も少なくなかった。
 日英共同開発の電波探知機、逆探も広く搭載されるようになるとそのような意見はより強くなっていた。
 理論的にいって、逆探は電探の探知距離よりもはるか遠くから電波源を探知することが可能であったからだ。
 それを逆手にとって、新たな戦術を考案、実施するものも現れた。
 敵軍によって照射された電波を逆探で捉え、密かに有利な位置へと接近し、いざ砲雷撃という段階になって初めて精密測定のために自艦の電探を使用するのだ。
 あるいは、最後の射撃諸元まで逆探からの情報を使用することで、全く電波を発せずに、隠密雷撃を行う駆逐艦長まで現れたほどだった。

 しかしこのような戦術は危険を伴うものだった。
 敵艦からの反撃が脅威というのではない。
 そうではなく、敵味方の判別が非常に困難である点が安易な使用を躊躇わせたのだ。
 例えば、先の大戦中において、後方から敵味方不明の電波を測定したある部隊が、電波源を敵艦と判断し、攻撃態勢に入って初めて友軍と気がついたことがあった。
 この時は、友軍のオーストラリア海軍に対して発砲する直前まで至ったらしい。
 実際に砲撃が行われなかったのは、状況を把握した豪州海軍艦艇が発光信号で必死になって警告を行ったからだ。
 このような敵味方の取り違えが起きた原因は、豪州海軍艦艇が搭載していた旧式の電探の反応を敵艦艇のそれと誤認してしまったからだった。

 当時の逆探は傍受波長源の精密測定は困難だったから、このような状況が再び起こる可能性は否定できなかった。
 だから、戦後日英海軍は自軍の電波兵器の性能や信頼性をさらに向上させると共に、敵国が保有する電探の情報や戦術パターンを正確に把握する必要性があると判断していたのだ。

 そして、電波兵器情報の取得は、戦時に限られず、平時から行う必要性があった。
 戦時中に探知したとしても、それを海軍部隊に広く知らしめるのは時間的に言って困難だが、平時から電波に関するデータベースを構築し、各部隊に配布しておけばいつ戦闘状態に入っても、あるいは緊張状態に置かれても敵味方の判断は用意になるだろうからだ

 だから、この傍受装置が実用化したとしても、その多くが装備されるのは戦闘艦ではなく情報収集艦、あるいは民間商船へ密かに搭載されることになるらしい。
 我ながら奇妙なものに携わってしまったものだ。岩渕兵曹はそう考えていた。
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