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仮想戦記(仮 作者:ロックウッド
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1919シベリア遡行5

 艦橋で双眼鏡を覗き込む伊原中尉の視界には、予想外の光景が広がっていた。
 不知火と陽炎が到着した時、すでに中洲への渡河点は敵部隊によって制圧されていた。
 伊原中尉は、無意識のうちに出ていた自分の低い罵り声に我に返って、そっと隣で同じように双眼鏡を構えているケレンスキー大尉を盗み見た。
 ケレンスキー大尉の顔は真っ青になっていた。
 心なしか、双眼鏡を持つ手も震えていた。
 無理もなかった。
 中洲にいる「目標」は、ケレンスキー大尉達ロシア帝国軍人の君主となるべきマリア皇女とその妹君のアナスタシア皇女であるのだから。


 敵船との交戦を終え、中洲への分岐点へ急ぐ不知火の艦橋で、ケレンスキー大尉は、周囲を気にしながら、大賀艇長と伊原中尉に「目標」の正体を告げていた。
 周囲の他の将兵に聞かれることよりも、水野大尉に「目標」の情報を二人に伝えた事実を知られたくない、ケレンスキー大尉はそう考えているようだった。
 おそらく、ケレンスキー大尉は、水野大尉を派遣した日本軍の中枢から、実施部隊への情報伝達を禁止されていたのだろう。
 「目標」の正体を知れば、確かにそれもうなずける話だった。
 軍中枢は、ロシア帝室最後の生き残りらしい二人が、無事にハバロフスクに到着して、シベリア派遣軍司令部の庇護下に置かれるまで極秘でおきたかったのではないのか。
 作戦途中で赤軍などに日本軍の干渉が露見した場合、内戦干渉だと抗議されるおそれがある。
 勿論、シベリア派遣軍に戦力を派遣した日本を始めとする国際連盟列強各国は、ボルシェビキ政権を正統政府として認めていないが、アメリカなどの中立国からの干渉は避けたかったはずだ。
 だからハバロフスクという大都市で、皇女を守り立てたロシア正統政府を発足させて既成事実を作り上げてしまうつもりだったのだろう。

 しかし、大賀艇長と伊原中尉は、その情報の制限は行き過ぎだと考えていた。
 ケレンスキー大尉が危惧したように、実際に実施部隊の作戦を立案する現地指揮官が正確な情報を把握していなければ、誤った憶測によって危険な行動を取る可能性もあった。
 極端な話、もしも大賀艇長や、伊原中尉が「目標」を何らかの物資だとでも誤認していれば、敵部隊の殲滅を優先して、「目標」など後で回収すればいいとばかりに、巻き添えにするような作戦を実施してしまうかもしれなかった。
 幸いなことに、敵船を殲滅した不知火と陽炎は、「目標」を敵部隊から防衛すべく、中洲へと突き進んでいる。
 この段階で情報を制限する必要性は薄い、ケレンスキー大尉はそう考えたのだろう。
 中洲に展開するロシア人部隊、その正体も今では、ケレンスキー大尉の原隊であるヴォスネセンスキー軽騎兵連隊の生き残りであると判明していた。


 元々ヴォルスネセンスキー連隊は、前ロシア皇帝ニコライ2世が、その次女であるタチアナ皇女を名誉連隊長に任命するほどロシア皇室と縁の深い、事実上の近衛部隊ともいえた。
 近代になってから、明治維新によって、これまでの組織と隔絶した軍組織を整備しはじめた日本人にはにわかに理解し難い話だったが、元々西洋の連隊は軍組織上の結節点というよりも軍隊、あるいは傭兵集団の基幹となる組織であったという。
 元々は、封建貴族などが有する部隊が連隊であり、ある君主の軍隊とは、その貴族たちが戦時に持ち寄った連隊の集まりであるらしい。

 日本で言えば、藩兵が連隊であるようなものだと伊原中尉は解釈していた。
 最も、伊原中尉も大賀艇長も、明治維新以後の日本軍が組織された以後の生まれだから、藩兵といっても実感があまりなかった。
 未だに藩閥は強かったが、それはその地域の出身というわけであって、藩閥が独自の組織を有しているわけではない。

 勿論、日本が近代的な軍を編成するにあたって参考にしたのは欧州各国の軍隊だった。
 しかし、日本軍を組織編成するにあたって参考にしたのは、軍の編成単位や戦術であって、歴史ではなかった。
 だから、未だに制度として英国軍などに残っている名誉連隊長という概念は、日本では軍人であってもよく知る人間は少なかった。

 名誉連隊長、あるいは連隊所有者というのは、かつては実際に連隊を所有する貴族などであったという。
 かつての封建制度であっても、必ずしも連隊の所有者が、その指揮官であったわけではない。
 日本で言えば、藩兵の所有者は藩主であっても、実際に戦闘指揮官となるのは藩主ではなく、家老が務めているようなものであろう。
 近代軍では、当然連隊を含む軍組織の所有者は国家であるし、その最高指揮官は国家元首である大統領や、国王となる。
 連隊長は、あくまでもその単位の指揮官にすぎない。

 ただし、名誉職としての連隊所有者や伝統的な連隊の独自性を残している欧州国家は少なくないらしい。
 ロシア帝国や英国もそうであり、正規の指揮官である連隊長とは別に、名誉連隊長とよばれる連隊所有者を抱いていた。

 ロシア帝国の連隊が数多く、また名誉職に過ぎないとはいえ、ニコライ2世が、適当な部隊の名誉連隊長に愛娘を任命するはずもなかった。
 連隊長を始めとする連隊士官の多くは帝室に忠誠を誓う貴族出身のものばかりだったし、下士官兵も政治的信頼性を重視して選抜されていたらしい。

 そのヴォルスネセンスキー軽騎兵連隊も、悪化する東部戦線へ出征することとなった。
 前線に投入された初戦で負傷したケレンスキー大尉は、すぐに後方へと療養のため戻されたが、連隊自身も戦力を半減させるほどの損害を被って、再編成のためモスクワの原駐地に帰還していた。
 しかし、ヴォルスネセンスキー軽騎兵連隊が再編成されることはなかった。
 彼らが原駐地に帰還するのに前後してロシア革命が起こったからだ。

 その後、彼らも革命の混乱に巻き込まれたらしい。親帝室派のヴォルスネセンスキー連隊は、革命政権にとっては厄介な扱いをうけたのではないのか。
 ケレンスキー大尉は口を濁したが、この革命前後の時期には、連隊員もかなりの苦労をしたのだろう。

 さらに、去年になってチェコ軍団の蜂起が伝えられると、ヴォルスネセンスキー連隊もこれに合流してシベリアへ逃れようとした。
 この頃には革命政府からの迫害も本格化しており、貴族や郷士の多かった連隊員や家族の中には粛清されたものも多かったようだ。

 だが、連隊員達のシベリア鉄道での脱出が半ばまで進んでいたときに、とてつもない情報が入ってきた。
 行方不明となっていた皇帝一家は幽閉されており、しかも一家の処刑命令が出される寸前だというのだ。
 情報源に接したのは連隊中枢のごく一部だけだったが、情報の確度はかなり高いものであったらしく、ヴォルスネセンスキー連隊は、皇帝一家の救出に乗り出した。
 その結果、皇帝や皇后の救出は叶わなかったものの、四皇女の3,4女であるマリア皇女とアナスタシア皇女の救出には辛くも成功した。

 しかし、ボルシェビキは2皇女の脱出を阻むためにかなりの警戒網を構築したらしく、ヴォルスネセンスキー連隊主力が警戒網のすきを突いて皇女とともにモスクワ周辺から脱出するために一冬を越さなくてはならなかった。
 それでもボルシェビキの情報網から完全に逃れることは出来ず、連隊は日本軍の援助を受けるために連絡将校としてケレンスキー大尉を派遣した。
 これがケレンスキー大尉が知りうる情報の全てだった。

 すでにヴォルスネセンスキー連隊主力はハバロフスクに到着しているらしい。
 皇女達と同行しているのは、軽装備のわずか一個中隊に過ぎない。
 戦力としてはあまりにも過小だったが、厳重な警戒網をシベリア鉄道を使いながらすり抜けるためには、小集団で目立たないように行動するしか無かったのだ。


 そのように逃げ隠れしながら進んできた一行だったから、その火力には大して期待出来なかった。
 保有する火器はせいぜいが小銃で、拳銃やなかには刀剣しかも持ち合わせていないものも少なくないらしい。
 そのような集団だったから、数を頼みに攻め寄せる敵集団に対抗できずに渡河点を明け渡してしまったのではないのか、最初は伊原中尉はそう考えていた。

 しかし、よく観察すると、それにしては奇妙なことに気がついていた。
 すでに騎兵を主力とする敵集団は渡河点を超えているが、その渡河点周辺で戦闘が勃発した形跡がないのだ。
 渡河点は敵集団によって制圧されているが、さしたる防御部隊が配置されている形跡もなかった。

 それに対して、渡河点の反対側に位置する、アムール川支流の中心部に向かってつき出すように伸びている突端部では、小銃のものばかりとはいえ、激しい銃声が聞こえていた。
 銃撃の密度から判断すれば、敵味方共にかなりの戦力を維持しているようだった。
 渡河点をめぐって激しい攻防戦を繰り広げてから、この場所に押し込まれたとすれば、味方部隊の戦力の消耗が少ない気がする。

 中洲の突端には、漁師の休憩場所か避難場所でもあるのか、丸太で組まれた質素な番屋が建っていた。
 銃声は、その番屋を囲むようにして起こっていた。
 伊原中尉は、しばらく考えてから、ようやく事態に気がついた。

 おそらく、ヴォルスネセンスキー連隊の将兵たちは、寒風を凌ぐために皇女達を番屋に入れたのだろう。
 そして、皇女達のいる番屋を守るためにその周囲に陣地を展開させた。
 番屋周辺に十分な防衛体制を築くためには、数少ない戦力を集中させる必要がある。
 だから、渡河点は無防備なまま放置され、その代わりに番屋周辺で激しい防衛戦が起こったのだろう。

 だが、ヴォルスネセンスキー連隊の将兵たちのそのような判断は間違いだった。
 皇女達のいる番屋を防衛するのが最優先であるのは当然なのだが、そのための手段として番屋周辺への展開を選んでしまったために、逆に皇女たちを危険に晒すこととなっているのだ。
 もしも彼らが、少数のみを番屋に配置して、主力を渡河点周辺に置いた場合、敵部隊が無防備に渡河を行なっている時点で攻撃が出来たはずだ。
 そうすれば敵部隊の中洲への渡河を完全に阻止することはできなくとも、渡河を大きく遅滞させることは出来たはずだ。
 番屋周辺に兵力をどうしても展開させたいのであれば、最初に渡河を妨害した時点で後退しても良かったはずだ。

 しかし、ヴォルスネセンスキー連隊の将兵たちは無謀にも、番屋を小銃の射程内に捉えた距離での交戦を余儀なくされている。
 もしかすると、彼らは、他の渡河点からの上陸を警戒して番屋周辺に立てこもるしかないと考えたのかもしれない。
 だが、敵部隊の規模は彼らに対して多い。騎兵部隊も伴っているようだから、安全な渡河点は地形を見るかぎり一箇所しか無いはずなのだ。


 幸いなことに敵部隊にも野砲や、もっと簡易な迫撃砲のような重火器は保有していないようだ。
 もしも敵部隊が十分な射程を有する重火器を有していれば、番屋を直接視認できる地点に観測部隊が進出した時点で状況は決していたはずだ。
 歩兵による小銃射撃のみで観測部隊を無力化させるのは難しいから、為す術もなく番屋は完全に破壊されていただろう。

 敵部隊は、歩兵部隊の援護のもとで騎兵部隊が散発的な襲撃を繰り返しているようだ。
 戦果は少ないが、防衛部隊に与える影響は小さくなかった。
 このままでは薄皮を剥がされるようにして防衛体制は崩壊するのではないのか。
 敵部隊が散発的な襲撃を続けているのは、河川からの増援部隊の到着を待っているのだろう。
 あるいは、余計な損耗を避けているだけかもしれない。
 しかし、防衛体制に十分な損耗を与えたか、あるいは増援部隊が到着して彼我の戦力差が圧倒的なものになれば、大攻勢へと転移するはずだ。
 大部隊による包囲攻撃を受けてヴォルスネセンスキー連隊の残存部隊は消滅し、「目標」も永遠に失われるだろう。
 渡河点から番屋までの縦深を放棄した時点で、彼らの命運は決していた。


 敵部隊の河川からの増援が消滅し、その代わりに不知火と陽炎という戦力が出現したが、それでも戦況を大きく変化させることが出来るかどうかは分からなかった。
 不知火と陽炎に搭乗した陸戦隊は重火器を保有する有力な部隊だが、その戦力単位は中洲で戦うヴォルスネセンスキー連隊の約一個中隊よりも更に少ない一個小隊程度にすぎない。
 かれに不知火と陽炎の備砲を加えてもここまで悪化した戦線を大きく動かす力があるとは思えなかった。
 戦力投入のタイミングを間違えば、重火器の展開を終える前に、敵の大部隊によって一蹴されて壊滅するかもしれない。

 残された手段はひとつしかないように思われた。
 ケレンスキー大尉が言っていたように、「目標」である皇女のみの救出に目的を絞り込むのだ。
 陸戦小隊は、上陸した後に、敵部隊の襲撃から皇女を引き離して、不知火と陽炎にお連れした上で、二隻共に撤退するのだ。
 勿論、ヴォルスネセンスキー連隊員達の回収は考慮されない。
 というよりも積極的に彼らを囮か全滅を前提とした遅滞防御部隊として活用せざるを得ないだろう。
 元々彼ら全員を回収することは、不知火と陽炎の容量から言って不可能だった。
 おそらく陸戦小隊の重火器も現地で放棄するしかなくなるだろう。
 それだけ迅速に行動する必要がありそうだった。
 むしろ、中洲に残されるヴォルスネセンスキー連隊員に最期まで使ってもらったほうが有益になるだろう。


 それだけに艦橋から戦況を見守るしか無い伊原中尉は、焦りの色を隠すことができなかった。
 まだヴォルスネセンスキー連隊員たちが防衛線を維持している間に手早く上陸しなくてはならない。
 そうでなければ重火器の展開など不可能だ。
 一時的にでも重火器を使用して敵部隊を遠ざけなければ、皇女を安全に不知火まで移譲させるのは難しいだろう。

 しかし、指揮官である大賀艇長から、陸戦隊のカッターへの移乗命令はなかなか出なかった。
 すでに移送に手間取りそうな重火器などは船上でカッターに固定されているから、あとはカッターを水面におろして、小銃など携帯火器のみをもった身軽な陸戦隊員達が移乗すれば準備は終了する。
 だが、大賀艇長は、ついさっきから通信室に篭っていた。
 一体どこからの通信なのかはよく分からなかった。
 もしかすると、陸上のヴォルスネセンスキー連隊員からの通信なのかもしれない。
 効果的な展開地点などの情報を伝達しているのではないのか。
 だが、今は巧緻よりも拙速が必要な時だった。
 すぐにでも陸戦隊を発信させて、素早く離脱したほうが安全な筈だった。

 伊原中尉とケレンスキー大尉が苛々としながら艦橋で待機していると、ようやく大賀艇長が通信室から出て来て艦橋に戻ってきた。
 怪訝そうな表情の大賀艇長に構うことなく、伊原中尉は勢い込んで陸戦隊の移乗命令を求めた。
 いつにない早口で畳み掛けるように言われた大賀艇長は、始めて伊原中尉の存在に気がついたように、戸惑ったような表情で向きなおった。
 伊原中尉は、そんな不審な大賀艇長に対して、熱心に現状の推測を説明した。
 早いうちに陸戦隊を上陸させて、皇女達とともに不知火に引き上げる。
 また重火器は迅速な撤収を果たすために現地に投棄するが、ヴォルスネセンスキー連隊に引き渡すことを前提に、弾薬はすべて移送する。
 大雑把な作戦方針はその程度だった。詳細は上陸してから決定するしか無い。
 だが、大筋ではこの状況ではこれしか無いはずだ。
 伊原中尉は、そのような自身の判断を余すことなく大賀艇長に伝えた。
 足りない部分や、伊原中尉の知りえないヴォルスネセンスキー連隊に関することはケレンスキー大尉が補足した。
 気がつくと二人の言葉は止まっていた。すでに説明は終わっていた。
 二人とも言葉は尽くしていた。あとは指揮官である大賀艇長の判断を仰ぐだけだった。

 しかし、いつになく大賀艇長は慎重だった。
 大賀艇長は、しばらく無言のまま二人から視線を逸らして、中洲の番屋と空へと顔を向けていた。
 もしかすると先ほどの通信は大賀艇長の判断を左右するようなものだったのかもしれない。
 伊原中尉とケレンスキー大尉は顔を見合わせてから、さきほどの通信の内容を尋ねようとした。
 だが、それよりも早く、大賀艇長は二人に向き直っていた。
 いつの間にか、水野大尉も艦橋に現れていた。
 水野大尉も通信室に篭っていたらしい。
 いまは、水野大尉の動向も気になったが、それよりも大賀艇長の判断を確認する方が優先された。

 大賀艇長は、ひと言ひと言をはっきりと発音しながら言った。
「陸戦隊の搭載艇への移乗を許可する。弾薬類は規定量を搭載。水野陸軍大尉及びケレンスキーロシア帝国軍大尉もこれに同行を要請する」
 伊原中尉は頷くと艦尾に向けて走りだそうとした。
 すでに他の陸戦隊員たちはカッター近くで待機させている。
 逸る心を抑え切れないのだろう、ケレンスキー大尉は、すでに走り出していた。
 水野大尉は、それ一瞥してから、ケレンスキー大尉を監視するかのように追いかけていた。
 そのように思えたのは、ケレンスキー大尉から「目標」の正体やヴォルスネセンスキー連隊のことを打ち明けられたせいかもしれなかったが。

 伊原中尉も彼らを追いかけようとした。
 だが、それよりも早く大賀艇長の言葉が続いた。
 話はまだ終わってはいなかったらしい。
 伊原中尉は、訝しげな表情で振り返っていた。
 だが、大賀艇長は、すでに艦首の方に向き直っていてその表情はうかがいしれなかった。
 どのみち大して気にするようなことでもないのかもしれない。
 移乗した後の待機時間は長くなるかもしれない。
 大賀艇長はそう言ったが、そのようなことがありうるとは思えなかったからだ


 だが、伊原中尉の予想は覆された。
 伊原中尉やケレンスキー大尉を含む陸戦隊員達は、素早く水面に降ろされたカッターへと移乗した。
 予め重火器はカッターに固定しておいたから、移乗といっても携帯するのは小銃程度の軽装備だった。
 だから移乗作業そのものは極めて短い時間で終了した。
 その後は不知火とカッターとをロープで結びつける作業が発生した。
 機動力のある不知火で揚陸地点直前までカッターを曳航するためだ。
 だが、何度も繰り返して行われた事前の訓練のお陰で、実戦といえども係留作業も短時間で終了した。
 揚陸準備はこれで終了していた。見たところ、僚艦の陽炎でもほぼ同じ時間で作業は終了していたようだった。
 日本海軍が実戦において揚陸作業を行った例は今まであまりないから、これは貴重な戦訓となるはずだった。

 しかし、肝心の不知火は沈黙したまま揚陸地点への移動を開始しようとしなかった。
 陽炎もその場に留まったままだったが、こちらは旗艦である不知火が行動しようとしないからだろう。
 流れのある河川の中にいるのだから、推進力のないまま静止することはできない。
 実際に、カッターは、水面に降ろされて、不知火から伸びたロープに係止された位置からほとんど変化していなかった。
 ロープのたるみから判断して、不知火の推進器は停止してはいないようだった。
 河の流れに逆らうようにして、不知火と陽炎は最低限の推進力を保ったまま中洲との距離を保って静止し続けていた。
 不知火が動き出す気配は一向になかった。
 陸戦隊員達は苛立たしげな表情で不知火を睨みつけていた。
 すでに不知火との距離は離れていた。不知火とカッターとをつなぐのは曳航用のロープしかなかった。
 これでは状況を把握するのは困難だった。

 それに、状況が把握できていないのは不知火の乗員も同じらしい。
 後部の備砲に取り付いた乗員が、カッターに移乗した陸戦隊員と同じように怪訝そうな表情で艦橋のある前部を伺っているのが見えた。
 しかし、不知火の艦橋は、艦上の構造物に邪魔されて死角になっていたから、艦橋の様子を伺う事はできなかった。

 陸戦隊員達の手前、伊原中尉は押し黙っていたが、時間が経つに連れて、大賀艇長への信頼感が失われているような気がした。
 よほど、曳航用のロープを切り離して自力でカッターを岸に寄せようかと持ったくらいだ。
 だが、揚陸地点の岸辺まではまだかなりの距離がある。自走するカッターでは時間がかかりすぎるだろう。
 それにカッターを移動させるのに陸戦隊員たちが疲労し尽くしてしまっては元も子もない。
 今は、大賀艇長を信頼して待機し続けるしかなかった。


 しかし、中洲から銃撃音が途絶えたことで伊原中尉は、待機し続けるという自分の判断に自信が持てなくなっていた。
 指揮官としては最悪に近い状態だったが、伊原中尉はそのことに気がついていなかった。
 それよりも大賀艇長への不信感が先にあったからだ。
 銃声が途絶えた時点で、ケレンスキー大尉は半ば恐慌状態にあった。
 ヴォルスネセンスキー連隊の将兵達が全滅したのではないかと考えたからだろう。
 勿論、その場合皇女たちも無事でいるわけはない。

 だが、新たな銃声が中洲から聞こえたことで、伊原中尉とケレンスキー大尉は顔を見合わせながら安堵の溜息をついていた。
 状況はよくわからないが、戦闘が集結したわけではなさそうだった。
 敵部隊が、敗北したヴォルスネセンスキー連隊の生き残りに止めを刺しているのとも違うようだ。
 おそらく敵部隊の襲撃は一旦は終了したのだろう。
 それを確認したヴォルスネセンスキー連隊員が、未だ抵抗の意思を失っていないことを明らかにするために発砲した。
 根拠はないが、そんな気がしていた。

 もちろん、敵部隊の攻勢がこれで終了したわけではないだろう。
 おそらく連続した襲撃の間に乱れきった陣形を再編するために、一時的に後退しただけではないのか。
 後退といっても中洲から撤退するほど遠距離まで下がるとは思えない。
 せいぜい渡河点近くにまで下がるだけだろう。

 だが、戦闘は一時的にも終了したのだから、すぐにでも上陸を果たすべきだった。
 結果論だが、今ならば安全に重火器を送り込むことも出来るだろう。


 しかし、不自然な待機は更に続いた。
 その頃には、不知火の後部砲員達も、長く続いた待機に苛立っていたらしい。
 一度など、乗員の一人が、艦橋のある前部に向かってから、しばらくして不貞腐れたような表情で戻ってきたことさえあった。
 おそらく乗員にもこの待機の理由は説明されていないのだろう。

 伊原中尉は、もう待機をし続ける必要性を感じていなかった。
 母艇による曳航も期待すべきではなかった。
 自力で中洲まで航行して、皇女達と共に脱出するしかなかった。
 確かに自力での中洲までの航行で陸戦隊員達は疲労するだろうが、最初から戦闘を前提としていないのだから、考えてみれば大した障害にはならないはずだ。
 もし陸戦隊員達が疲労しきって帰りの航行に耐えられなかったら、カッターに代わりにヴォルスネセンスキー連隊の生き残りを皇女と共に押し込めて、オールを押し付けてしまえばいいのだ。
 中洲に取り残されて遅滞防御を行うのが陸戦隊員達に切り替わるだけのことだ。
 重火器の操作には陸戦隊員たちのほうが慣れているのだから、そのほうが効率はいいかもしれない。
 元は軽騎兵であるヴォルスネセンスキー連隊員達がオールの操作に手馴れているとは思えないが、支流を下って不知火に合流するくらいなら出来るだろう。

 あとから考えると馬鹿馬鹿しい判断だったが、緊張感を敷いいられる長く続いた待機が、伊原中尉から正常な判断力を奪い去っていたようだった。
 伊原中尉は、不知火とカッターをつなぐロープを切り離させようとしていた。
 同時に陽炎に係留されているカッターに乗り込んでいる残りの半個小隊にも合図をさせて行動を共にさせるつもりだった。

 不知火の艦尾に動きがあったのは、伊原中尉が具体的な行動を起こそうとした瞬間だった。
 最初はその意味に気が付かなかった。
 不知火の艦尾近くで、乗員が手旗信号を送っていた。
 どうやら長い待機も終わったらしい。信号は、不知火の急加速に警戒せよと告げていた。


 信号のあとすぐに不知火は加速を開始した。
 蒸気レシプ機関特有の連続する警戒なエンジン音さえ聞こえてきそうだった。
 これまでの長い待機が嘘であったかのように、不知火とやや遅れた陽炎は、中洲へと軽快に航行を開始していた。
 缶室を半減させているとはいえ、元が軽快艦艇の駆逐艦であるだけに、両艦の動きは素早かった。
 たちまちのうちに中洲の岸辺が近づいてきていた。
 それを見ながら、伊原中尉は慌てて自力で航行しそうになっていたことを反省していた。
 もしも陸戦隊員たちにオールをこがせて自力で航行させているいても、中洲までの航行が長時間なものになっていただけだったろう。

 不知火による曳航は短時間で終了していた。
 すでに不知火と陽炎が接近するには、水深は危険なほど浅くなっているはずだった。
 舳先に付いている陸戦隊員達の手によって勢い良く曳航用のロープが取り外された。
 これから先は、陸戦隊員たちがオールを漕いで揚陸地点まで進むしかない。
 しかし、自力でカッターをこがなければならない時間はさほど長くないはずだ。
 すでに陸戦隊員たちを満載したカッターと上陸地点との距離はそれほど近づいていた。
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