1919シベリア遡行4
揚陸艦艇に改装された不知火の艦橋は、改造前とほとんど変わりがないらしい。伊原中尉はそう聞いていた。
少なくとも航海や戦闘に関する機材は、ほとんどそのまま搭載され続けていた。
だが、何隻かの純粋な駆逐艦に乗艦したことのある伊原中尉には、不知火の艦橋に入るたびに違和感にとらわれることが多かった。
数少ない、新規搭載品である防弾板が、従来型駆逐艦そのものの不知火の艦橋の中で異様さを放っていたからだ。
陸戦支援の機会が多くなる不知火では、近距離から機関銃や小銃などの小口径弾を被弾する可能性が指摘されていた。
より大口径の砲弾を被弾した場合、無防御の駆逐艦など問答無用で撃沈されてしまうだろうからさして考える必要もないが、小口径の小銃弾程度の被弾で要員が一々人事不省に陥って戦力価値を失うようでは、陸戦支援の意味がなくなってしまう。
だから、艦橋や、砲側には小銃弾対応の防弾板が備えられていた。
だが、防御を重視したのはいいのだが、防弾板の配置や性能が厳密に吟味された形跡は感じられなかった。
その存在を陸戦小隊指揮官の伊原中尉が知ったのも、不知火に乗り込んでからだった。
陸戦隊員や乗員達に使い勝手を確認したりや、小銃弾による被弾テストなどを行ったこともないらしい。
つまり不知火にとって、防弾板の装備でさえ、揚陸艦艇としての実戦テストの一つということなのではないのか。
伊原中尉は、そう考えていた。
不知火の艦橋に伊原中尉が上がった時、すでに艦橋は緊張に満ちていた。
敵船はまだ発見されていないが、戦闘が間近に迫っていることは、陸戦隊員を含む全乗員が感じ取っていた。
結局、不知火は、支流への分岐点を越えてアムール川本流を遡行していた。
予測が正しければ、すぐに敵船が見えてくるはずだった。
水上砲戦では、陸戦隊に出番はないが、乗員の少ない駆逐艦改装の不知火では、固有の乗員が負傷する可能性は少なくない。
だから、このような場合は、陸戦隊員も砲側などで待機させていた。
すでに陽炎でも同じような体制に入っているらしく、数百メートル離れた水域を航行する陽炎からも緊張感が漂ってくるようだった。
しかし、大賀艇長はそのような緊張とは無縁らしく、艦橋の防弾板にもたれかかるようにして、時折双眼鏡で周囲を観察していた。
勿論、大賀艇長に弛緩した様子は見えなかった。ただ、自然体でいるというだけだ。
指揮官が必要以上に緊張した姿勢を見せても、乗員たちに悪影響を与えるだけだと考えているのだろう。
付き合いはそう長いわけではないが、伊原中尉は、大賀艇長の戦闘指揮官としての適性を信頼していた。
伊原中尉は、落ち着いた足取りで大賀艇長に近づいた。
臨時編成の部隊だから陸戦小隊長の戦闘配置は特に定められていないが、常識的には、艇指揮をとる艇長の近くにいたほうが状況の把握もしやすいはずだ。
大賀艇長に近づくと、艇長以外には聞こえないような声でいった。
「あの、陸軍大尉をどう思いますか」
ほんの僅かに眉をしかめながら、大賀艇長は伊原中尉をみやった。
「質問の意図が見えんな」
大賀艇長は、つまらなそうな顔で答えた。伊原中尉は、気にした様子もなく続けた。
「情報畑の人間をどこまで信用したものですかね…あの航空偵察を実施した飛行機だって機関の回し者なのではないでしょうか」
やはり、大賀艇長はつまらなそうな表情を崩さなかった。
「自分の命までかかってるんだ。嘘はつかんと思うがな」
「我々はともかくロシア人は囮…」
伊原中尉の不自然な語尾に、大賀艇長は怪訝そうな顔で振り向いた。
ばつの悪そうな評定をした伊原中尉の後に、どこか自信のなさそうな曖昧な笑みを浮かべたケレンスキー大尉が突っ立っていた。
あまりロシア人に聞かせた聞かせたくない話だったが、ケレンスキー大尉の様子をみる限り、詳細まではわからなくとも、何を話していたかくらいは気がつついているのだろう。
間の悪そうな顔をした二人に見つめられたケレンスキー大尉は、居心地が悪そうに身動ぎした。
大賀艇長がわざとらしく咳払いをすると、作り笑いを浮かべながらいった。
「敵船の予想船速が幅広いものだから断定はできないが、戦闘がすぐに始まる可能性もある。ケレンスキー大尉は水野大尉と一緒に甲板室か、下甲板にでもで待機してもらいたのだが」
どのみち敵艦が大口径の砲を保持していれば、駆逐艦の不知火の艦体などは、どこにあたっても紙障子のようなものだが、下甲板あたりにでもいれば、小銃弾からは安全だろう。
だが、ケレンスキー大尉は、決然とした表情を見せると首を振った。
伊原中尉と大賀艇長は顔を見合わせた。どうにもこれまでのケレンスキー大尉の印象とは違っていた。
あるいは、これが彼の地なのかも知れないが。
ケレンスキー大尉は、生真面目な表情で、伊原中尉と大賀艇長の顔を交互に見ながらいった。
「その…本格的な戦闘に突入する前に、二人には言っておきたいことがあるのだ」
大賀艇長は眉をしかめた。ケレンスキー大尉に避難してもらいたいのは事実だった。
ケレンスキー大尉や水野大尉に何かあれば、ロシア人部隊と合流する際に意思疎通を図ることが難しくなる。
共同で防衛戦を行うためには、事情を知っていそうな二人の存在は不可欠だと考えていたのだ。
だが、ケレンスキー大尉は、そんな艇長の様子に気がついているのかいないのか、更に身を乗り出してきた。
伊原中尉は、少々怪訝そうな顔をしていた。
「我々を友軍と呼んでくれた大賀艇長には感謝している。実際に現地に赴く伊原中尉にも敬意を表わさせてもらう。だが、その上で二人に改めて強調しておきたい。我々は「目標」のために命を賭している」
これまでの態度とは一変して、ケレンスキー大尉は、どこまでも真摯な目で二人を見つめていた。
ここまで一部のロシア人達が必至に守ろうとし、そしてボルシェビキが狙う「目標」とはなんなのか、伊原中尉と大賀艇長は、再び顔を見合わせた。
伊原中尉が、そっと艦橋から見える範囲を見渡した。
厄介な水野大尉はどこにも姿が見えない。まだ甲板室にいるのだろう。
今ならばケレンスキー大尉も口を開くのではないのか。
「もしかすると「目標」というのは…」
しかし、伊原中尉は、最後まで言い終えることが出来なかった。
前方を監視する見張り員の声が、不知火の露天艦橋に響いたからだ。
どうやら敵船と邂逅したらしい。
「今から船室に戻るのは逆に危険だ。ケレンスキー大尉は防弾板の影で待機しているように」
手早くそう命じると大賀艇長は、双眼鏡を敵船らしき船舶が接近してくる方向に向けた。
同時に不知火には戦闘配置がかかっていた。
不知火と陽炎は、急速に警戒態勢から戦闘態勢に移行しつつあった。
敵船の正体は、通常の河川用貨物船だった。
不知火のような、本来外洋を航行するために作られた船ではないから、平底で航洋力は低そうだった。
殆ど無動力の艀と変わらないような外観だったが、急流のアムール川での使用を前提にしてるためか、かなり大出力の内燃機が搭載されているらしい。
敵船の後部、機関が設けられている区画からは、黒々とした煙が立ち上がっていた。
平底の大して機動力も高そうに見えない河川用貨物船の割には、そのように大出力を発揮しているためか、それなりの船速が出ているようだった。
だが、立ち昇る激しい黒煙を除けば、一般の商船とかわりはない。
不自然なのは確かだが、見張り員は何をもって敵船と判断したのか。
そう思って伊原中尉も双眼鏡を構えた。
敵船らしき貨物船に焦点を合わせると、思わず伊原中尉は、唸り声をあげていた。
貨物船の船橋には、赤軍所属を証明する真っ赤な旗が高々と掲げられていた。
真新しい、真っ赤な旗と対照的に、敵船の外形はかなりうす汚れていた。
おそらくアムール川が凍結する冬季の間、ずっと上流に係留されていたのではないのか。
アムール川沿いの人口密集地は、殆どハバロフスクやニコライエフスクのような海岸にずっと近い都市やあるいはシベリア鉄道の駅などに限られる。
上流では、小型の河川用貨物船といえども満足な整備を行えるような施設を備えた都市は無いのではないのか。
冬季のアムール川が凍結する時期はかなり長いらしい。年にもよるが、長いときは半年近く河川の航行が不可能になるらしい。
河口近くのニコライフスクやハバロフスクではそうでもないようだが、上流では雪解け直後の急流も合わせると河川航行が危険な時期は長くなるだろう。
それを考えると、河川用貨物船が冬季の間凍結したアムール川上流に係留されているのは不自然だった。
もしかすると、たまたま上流を航行している際に、予想よりも早かった河川の凍結に巻き込まれて、下流への脱出が不可能になったのかも知れない。
例年であれば、そのような足止めを食らったとしても、整備の手間や運荷仕事の遅れだけで済むが、今年だけはそういうわけには行かなかった。
ボルシェビキの革命に巻き込まれたからだ。
この敵船も、上流で係留している間に、革命に巻き込まれてここまで進出してきた赤軍に接収されたのではないのか。
そう考えれば、通常の河川用貨物船が、赤軍旗を上げているわけもわかるような気がした。
赤軍旗を上げている時点で、敵船の正体は判明しているようなものだが、大賀艇長は意外なほど慎重だった。
「前方の貨物船に信号を送れ。本文、本艦はロシア正統政府より治安維持を依頼された日本海軍…」
そこまで言うと、大賀艇長は双眼鏡を目に当てて凝視した。敵船の船名を読み取ろうとしていたようだが、すぐに諦めた。
角度が悪いし、汚れで船名のマーキングも見えないかもしれない。
「船名は省略、これより貴船を臨検…」
再び大賀艇長の言葉が止まった。
だが、それは大賀艇長の意思によるものではなかった。
伊原中尉は、半分信じられない思いでその音を聞いていた。
間違いなく銃弾の飛翔音だった。
わずかに遅れて敵船の方向から銃声が聞こえた。
いつの間にか、彼方から近づいてくる敵船の船首付近に銃兵らしき人影が見えていた。
思わず伊原中尉は振り返っていた。
確かめるまでもない、不知火のマストには旭日旗が掲げられている。
どうやら赤軍は相手が日本軍でも構わないらしい。
もしかすると、最初の銃撃は単なる誤射だったのかもしれない。あるいは緊張した敵兵の判断ミスか。
一発目の発砲から、二発目までの中途半端な間隔から、伊原中尉はそう考えていた。
しかし、散発的だった敵船からの銃撃は、たちまち豪雨のような激しさになった。
すでに一発目が誤射であったのかどうかなど関係無かった。
これだけ発砲しているのに銃撃が終了していないということは、少なくとも指揮官の制止はされていないのだろう。
これは赤軍の意思であると解釈してもよいのではないのか。
今度は、大賀艇長の反応は早かった。
と言うよりも、臨検を命じる信号にあまり期待していたとは思えない。
単に、臨検を無視した敵船に射撃する口実のためではないのか。
だが、予想以上に敵船の反応は強硬だった。
ただし、先制攻撃を許したとはいえ不知火と陽炎が敵船に大して優位であることに変わりはなかった。
敵船からの銃撃の密度は高かったが、あまり不知火の脅威にはなっていなかったのだ。
いくら動揺の少ない河川航行とはいえ、船上からの射撃がそうそう命中するはずもない。
第一、小銃の射撃距離としてはまだ長過ぎるのではないのか。
小銃弾の到達距離はもっと長いが、直射弾道をとる小銃で照準するにはこの距離はつらいものがあるだろう。
事実、着弾は不知火からかなりバラけていた。
継続射撃で山なり弾道をとることが出来る機関銃ならば、船上の人間に対して有効打を与えられるかも知れないが、少なくとも今のところ敵兵が機関銃を使用する様子はなかった。
勿論、銃撃を受けているのは事実だから、無視することもできない。
不知火の構造物に対して、小銃弾で打撃を与えるのは難しいだろうが、上甲板上に射撃を食らえば、乗員に無視できない被害が出るのではないのか。
特に不知火の艦橋は露天だから、近距離であれば小銃弾でも指揮要員を無力化することは可能なはずだ。
だが、激しい銃撃にも関わらず、大賀艇長は、落ち着き払って敵船への射撃を命じた。
艇長と同じく、実戦経験を持つ砲員もかなり冷静だったようだ。
艦橋両脇の8センチ単装砲は、大賀艇長の命令から間髪を入れずに発砲を開始していた。
両舷後方及び艦尾の8センチ砲は、角度が悪いために発砲できないようだ。
そのかわり、不知火の発砲を見た陽炎も、わずかに遅れて発砲を開始していた。
原型の東雲型駆逐艦とは異なり、不知火と陽炎の備砲は、搭載数は減らしたものの、57ミリ砲と8センチ砲の混載から、強力な8センチ砲のみに切り替わっていた。
本来は、射程や砲弾の炸薬量に勝る8センチ砲による対地支援を前提に計画されたものだったが、その打撃力は水上砲戦においても有効だった。
初速は小銃弾の方が高いが、銃砲弾の重量が大きいため、8センチ砲の方がより低伸する。
それに、小銃と、艦載砲では使用する照準具の精度に大きな差がある。
勿論一発あたりの損害は比較にならない。
小銃弾は、人間などの軟目標に直撃しなければ意味が無いが、8センチ砲弾は榴弾だから、炸裂さえすれば、一発でも致命的な損害を与えることが出来る。
だから有効打を与える可能性ならば、小銃弾の猛射よりも狙いすました8センチ砲の方がはるかに高い。
しかし、不知火と陽炎の二隻が全力で発砲しているのにもかかわらず、敵船からの銃撃が途絶える様子は無かった。
双方が全速で接近しているため、河川用の低速船とはいえ、相対速度は30ノットを超えているのではないのか。
この速度は、砲員の照準を狂わせているらしい。
敵船からの銃撃も同様に、ほとんど命中弾は無かった。
大賀艇長は、苦虫を噛み潰したような表情で敵船を見つめていた。
何発か、8センチ砲弾が命中している気配はあるのだが、銃兵や機関部に損害を与えるまでには至っていないようだ。
もしかすると反対舷まで突き抜けてから炸裂しているのかもしれない。
双方ともに致命的な損傷を与えることのないまま、接近しつつある三隻の角度がやがて変化してきた。
ほぼ真正面に敵を捉えていたものが、やがて角度がついて、反航戦に近づいていたのだ。
不知火と陽炎は、敵船を右舷側に捉えるように、アムール川の清国よりを航行していた。
逆に敵船は、不知火を避けるようにロシアよりを航行していた。
このまま対敵姿勢に角度が付けば、舷側後方や艦尾の8センチ砲もすぐに発射できるのではないのか、伊原中尉はそう考えた。
角度が急になれば左舷側の方は使えなくなるかもしれないが、それまでに発射弾数で敵を制圧できるかも知れない。
そこまで考えた所で、伊原中尉はどこかからの視線を感じた。
慌てて周囲を見渡したが、勿論艦橋要員のほとんどは敵船に注視している。
視線を感じたのはもっと遠くからだった。
伊原中尉は、視線を探して敵船の方向を見た。そして中尉は絶句することとなった。
敵船の長い舷側に、真っ白い塊が何十、いや何百も浮かんでいたからだ。
改めて確認するまでもなかった。
それはスラブ人の真っ白な顔だった。
そして、舷側に配置された百人を超える敵兵からの射撃が始まった。
よく考えれば分かることだった。
ロシア人部隊の約一個中隊に対して、別働隊とはいえ、逆上陸をかけようとする部隊が、小規模であるわけはない。
おそらく貨物船の収容限界など無視して兵員や装備を詰め込んでいるはずだ。
それに、不知火のようにカッターを多数搭載しているわけではない。
敵船は平底で喫水も浅そうだから、浅瀬に無理矢理に突っ込ませて座礁させた上で、兵員を上陸させるつもりではないのか。
勿論、専用の座礁型揚陸艦ではないのだから、回収は難しくなる。
事実上、敵船は使い捨てにするつもりなのだろう。
だから敵船に載せられているのは、迅速な上陸が可能な、重装備を欠いた軽歩兵部隊でしか無いはずだ。
逆にいえば、軽装備の部隊で、敵部隊を確実に制圧しようとすれば、大兵力を展開させれば良い。
おそらく敵部隊はそう考えたのだろう。
あるいは、別働隊にまで、それだけの規模を割けるほど敵部隊の頭数は多いのかもしれない。
何にせよ、一個中隊規模の一斉射撃は脅威だった。
今まで船首付近からしか発砲して来なかったのは、敵船から見ても角度が悪かったためだろう。
だが、反抗戦となった今では舷側からでも射撃は可能だし、距離も近くなっているから小銃弾でも命中を期待できた。
実際に、盛んに砲撃を行なっていた右舷一番砲の射撃が止まっていた。
艦橋から見下ろすと、砲側の兵員が倒れ込んでいるのが見えた。
うめき声や身動ぎは確認できるから、負傷してはいても意識があるようだが、銃弾の雨の中を救助するのは困難だった。
こういった場合に備えて、砲員を支援するために陸戦隊の兵員を待機させていたのだが、彼らも銃撃を避けて艦橋を盾にして動きが取れなかった。
その陸戦隊員は、一瞬艦橋を見上げて伊原中尉を見つめると頷いた。
すぐに陸戦隊員は上甲板を匍匐しながら負傷した兵員を回収しに砲側へと近寄っていった。
まだ距離があるから、匍匐前進で被弾面積を極限まで小さくしていけば兵員の回収は可能だろう。
ただし、そのような状態では砲の操作は不可能だ。
こちらには敵部隊よりも強力な火砲があるのに、制圧火力で十分に威力を発揮することができなかった。
敵部隊の銃撃は陽炎にも向けられているらしい。
陽炎からの砲火も心なしか、弱まっているような気がした。
伊原中尉は、打開策を一瞬考え込んだが、結論はすぐに出た。
敵部隊との間に河川があるから妙に考えてしまうが、相手はただの軽歩兵だった。
通常の陸戦と戦法を変える必要などなかった。
伊原中尉はそのような事態に備えて、支援火器の機関銃を仮設の銃座に備えさせていた。
仮設の機銃座はすでに国枝兵曹長指揮のもとで稼動状態にあった。
この距離ならば機関銃でも十分に制圧が可能であるはずだ。
轟く銃砲声を無視するような大声で、機銃座の国枝兵曹長に直ちに発砲を命じた。
不知火から、機関銃の発砲が始まったのはその直後だった。
国枝兵曹長は射撃命令を予期していたのだろう。
間髪を入れずに発射された機銃弾は、敵船にとって意表をつくものであったようだ。
一連射目は敵船の舷側近くの川面に着弾しただけだったが、敵船舷側の着弾箇所近くに陣取る敵兵からの射撃が弱まったような気がする。
そして、一連射で照準を掴んだ銃手による本射が開始された。
陸戦小隊が装備する機関銃は、防御用とも言える重量のある重機関銃ではなく、前進する半個小隊を援護するために、随時移動して射撃を行うためのルイス軽機関銃だった。
現設計は米国人が行ったらしいが、欧州での戦闘で英国軍が最初に採用し、そのライセンス生産の一部を任された日本陸海軍でも直ちに制式採用されていた。
日英での生産数は多く、実戦での使用例も多い。
銃身は空冷式で、円形弾倉を採用していたから継続射撃能力は大して高くはないが、小銃に比べれば雲泥の差があった。
陸戦小隊では、軽機関銃各艇に分乗する半個小隊ごとに一挺づつ、計二挺を配備していた。
本射を開始したのは不知火からだけではなかった。
不知火からの射撃を観測した陽炎からも直ちに射撃が行われた。
機関銃二挺による射撃は圧倒的だった。
銃身や基幹部の加熱による故障を避けるための断続的な射撃とはいえ、程度な散布界の射撃が敵船の舷側に降り注いだ。
本射が開始されると、今度は目に見えて敵船からの射撃が弱まっていた。
機関銃弾で死傷した敵兵は大して多くはないと思うが、集中した着弾に頭を上げることができないようだった。
それに、陸戦小隊からの銃撃は、軽機関銃によるものだけではなかった。
ある意味では、軽機関銃よりも剣呑な火器が敵船に撃ちこまれた。
軽機関銃座に寄り添うように設けられた銃座から、迫撃砲弾が発射されていたのだ。
3インチ迫撃砲はルイス軽機関銃と同様に、英国制式火器のライセンス転用と言う形で採用された兵器だった。
簡易な構造ながら、小隊支援火器としては十分な威力を持っており、弾道が山なりになることから、塹壕戦では有力な火器だった。
陸戦隊では、本来一個小隊に一基を装備することになっていたが、二隻に分乗する伊原小隊では、特に半個小隊ごとに一基づつ、小隊で二基を装備していた。
さすがに継続射撃による着弾で照準を修正できる軽機関銃と比べると、迫撃砲の命中率は低いようだった。
撃ちこまれる迫撃砲弾は、川面で虚しく炸裂するだけだった。
ただし、敵船に向かって撃ちこまれれる迫撃砲弾は、迫撃砲によるものばかりではなかった。
甲板室などの遮蔽物の陰に隠れた小銃手の何人かは、小銃の銃口にアダプターをつけて小銃擲弾を放っていた。
戦闘に入れば、小銃以外のすべての火器を使用してよろしい。伊原中尉は戦闘前にそう命じていた。
その効果は少なくなかったようだ。
命中する擲弾は少ないが、敵兵の頭を上げさせない効果は十分に発揮させていた。
そして、こちらに敵兵が陣取る陣地を破砕できる重火器がある以上は、敵兵に頭を上げさせないことで十分であった。
敵兵からの射撃が弱まってすぐに、8センチ砲に、予備砲員の陸戦隊員が取り付いていた。
陸戦隊員は、本来の砲操作員である不知火個有の乗員ほどではないが、予備砲員とはいってもその多くは、元々艦隊勤務の砲術科の班員だったから、操砲も手馴れたものだった。
すでに敵船との距離はかなり狭まっている。
それに角度がつきはじめているから敵船は、無防備な横腹を晒していた。
そのせいか、次々と発射される8センチ砲弾は、これまでの命中率が嘘であるかのように、面白いように敵船に命中していた。
命中弾が連続するものだから、敵船に訪れた破局がいつ始まったのか、その損害を与えたのは不知火か、陽炎か、それとも擲弾か迫撃砲弾だったのか、それは最後までわからずじまいだった。
不知火と陽炎は、緩やかな単縦陣を保ったまま、敵船の右舷側を反航して最接近していた。
すでに敵船からの射撃はひどく散発的なものになっていたが、敵船を通過するときも8センチ砲の射撃は継続していた。
ただし、命中率の低い迫撃砲は射撃を中断させていた。
いくら何でも貴重な砲弾を川面に投げ捨てているようなものだからだ。
軽機関銃の射撃中止は命令していないが、こちらも連続した発砲はしていなかった。
思い出したように敵船から小銃が発射されたときに、威嚇のために撃ちこむぐらいだった。
最接近時には、それぐらい敵船の脅威は弱まっていた。
つい先程までその射弾が脅威になっていたとは思えないほどだった。
すでに敵船の反対舷側に引きこまれた負傷兵の手当が始まっていた。
報告では、銃傷による戦死者は出ていないらしい。
遠距離で放たれた小銃弾では、十分な威力を発揮出来なかったのかもしれない。
重傷者もいるようだが、命に別状はないらしい。
手当をされた兵員の何人かは、まだ戦える状態にあるから、あれだけ激しい銃火にも関わらず、不知火の戦力はほとんど低下していなかった。
これに対して、敵船の被害は甚大だった。
やはり8センチ砲弾は敵船の構造に対して致命的な損害を与える威力を持っていたようだった。
氷結するアムール川で使用するためか、敵船は頑丈な構造を持っていたようだったが、中口径砲の連続した射撃には対抗できなかった。
最接近時に観測した様子では、敵船の舷側に幾つか破口が生じていた。
その内の幾つかは危険なほど水面に接していた。
敵船は、連続した着弾にも関わらず、原型を維持している頑丈な構造は持っているが、戦闘艦のように装甲を持っているわけではない。
おそらく船内では浸水が発生しているはずだ。
しかし、最接近時にも継続した8センチ砲弾の弾着があったにも関わらず、敵船からの反応は鈍かった。
散発的な銃撃もすぐに停止していた。
不知火と陽炎が与えた打撃は無視できないが、あれだけの兵員をすべて無力化出来たとは思えない。
あるいは、敵船内で人数をかけた損害修復でも行なっているのだろうか。
不気味な沈黙を保った敵船を横目で見ながら、不知火と陽炎は、一度敵船を通過して上流に抜け出していた。
一度距離をとってから回頭して、今度は敵船を追い抜かすように機動するつもりだった。
ただし、敵船に与えた被害はかなりのもののように思えるから、もしかすると再度接近する前に、敵船は沈没しているかもしれない。
敵船からの反応がなくなっていった理由は、上流部で回頭をする頃には判明していた。
それまで死角になっていた敵船の反対側に幾つもの物影が見えた。
最初は不要な重量物を投棄しているかと考えていた。
これも敵船から遠ざかって初めて気がついたのだが、予想以上に敵船の舷側に与えた被害は大きかったらしい。
目で見てすぐに分かるほど敵船は、損害を受けた右舷側に大きく傾斜していたのだ。
応急修復など不可能だった。
敵船は徴発された貨物船にすぎない。当然船内の隔壁は最小限しか無いだろう。浸水は即沈没に繋がるはずだ。
今浮いているのさえ奇跡に近いのではないのか。
だから左舷側の重量物を捨てさって、一時的にでも傾斜を復元しようとしているのではないのかと考えていた。
しかし、敵船の左舷側の物体に動きが見えたことでその考えは早々に捨て去られた。
双眼鏡で観測すればすぐに分かったのだが、左舷側の物体は人間だった。
つまり、敵兵は、沈もうとする敵船から脱出しようとしていたのだ。
おそらく散発的な銃撃は殿に残ったものだったのだろう。
それで事態は判明したが、彼らの行動が成功するとは思えなかった。
解氷したとはいえ、アムール川の水温はまだ低かった。
そんな川面に十分な装備もなく飛び込んだ所で、川岸に辿り着く前に溺死してしまうはずだ。
運良く河を上がれたとしても、すぐに衣類を乾燥させなければ凍死するだけだが、人口密集地どころか、人家の全く見えないこんな場所で簡単に衣類を乾燥させるような熱源があるとは思えない。
彼らは恐らく全滅するだろう。
第一、船舶という輸送手段を失った時点で、彼らが「目標」のいる中洲にたどり着くことは不可能になった。
だから、彼らが生存しようがどうなろうが、無力化出来たことに間違いはなかった。
不知火と陽炎は、再び単縦陣で敵船に今度は後方から接近していた。
敵船にはすでに動きはなかった。
機関部からも人員は退避したのだろう。
黒煙も上がっていなかった。
そして再接近する前にゆっくりと敵船は横倒しになって沈んでいった。
不知火と陽炎が敵船が沈んだ水域を通過するときには、すでに川面に浮かぶ僅かな漂流物以外敵船の存在を示すものは残っていなかった。
すでに別動の敵部隊は中洲にたどり着いているかもしれない。
不知火と陽炎は船速を早めながら、敵船の沈没水域を離れていった。
その姿を一つ、また一つの姿を消しながら、川面に浮かぶ敵兵が見つめていた。