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仮想戦記(仮 作者:ロックウッド
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1947特設運送艦報国丸2

 いつの間にかうつらうつらとしていたらしい。
 岩渕上等兵曹は、ふと気がつくと椀の中に箸を突っ込んだまま眠りかけていた。
 しかも一度や二度ではなかった。そのたびに目覚めて、何度か箸を動かして口に運んでは、また眠りかけていた。
 兵曹が考えていたよりもずっと疲労が蓄積していたのかもしれない。
 気がつけば下士官兵用食堂からは人気がなくなりかけていた。
 報国丸は雑多な所属の人間たちが乗り組んでいたから、喫食時間もばらばらだったが、それでも兵曹の食事時間は長すぎたようだ。
 洗い場当直の主計兵が、いつまでたっても片付かないからか、しらけたような目で兵曹を見ているような気がした。
 すでに碗内の米は冷え切っていた。だが、幾度目かの覚醒の後、兵曹はぼんやりと椀の中身を見つめていた。
 やはり呆けたような顔つきになっていた。

 これでは何時迄経っても仕事が終わらないな、岩渕兵曹を見ながら主計兵はそう考えていた。
 だが、電測員長に食事を急げと命令するわけにもいかなかった。
 不貞腐れたような表情で廊下に視線を向けた主計兵は、次の瞬間慌てて敬礼していた。


 誰かが卓の前に立ち止まった気配があった。
 だが、岩渕兵曹は顔を上げて誰かの顔を確認するのも億劫だった。
 どうせ、すぐに立ち去るだろう。そう考えていたのだが、予想に反して、その誰かは、椅子を引いて、兵曹の前に盆をおいて座り込んでいた。
 さすがに不審に思って不機嫌そうな顔を上げると、すぐに兵曹は、面倒くさそうな顔になって、そしてさらに今度は無表情を作り上げた。
 しかし、目の前に座った男はくるくると変わる兵曹の表情に気がついているのかいないのか、にこにこと邪気のない笑顔を見せていた。
 下士官兵用の食堂で喫食しようとしているにもかかわらず、男の三種軍装の襟に縫いつけられた階級章は間違いなく少佐のものだった。
 この海軍軍人としては太りすぎている紺野技術少佐は、報国丸に乗り組んだ将兵たちの中で、岩渕兵曹が最も苦手な男だった。


 艦政本部第五部は造機部とも呼ばれ、日本海軍が保有する艦艇、兵装ほか艤装品の建造、開発を担当する艦政本部の中で機関部に関する計画、開発を行う部署だった。
 紺野技術少佐は、その艦政本部第五部の部員で、この航海の前に報国丸に搭載された、新型エンジンの開発に携わっていたらしい。
 このエンジンは正確には、これまで搭載されていたディーゼルエンジンの改良型であるという話だった。
 各部品や構造を、艦政本部第五部の監督と指導のもとで原型機を建造していた三井造船で再設計されたものだということだった。
 実際には、艦政本部第五部で担当している大型軍艦用ディーゼルエンジンの開発研究で得られた技術のスピンオフ、あるいは新技術の実証のために、民生用エンジンをテストベットとして建造し、特設巡洋艦の改装期間を利用して搭載したというのが事実であるらしい。
 その搭載工事はかなり無理のあるものであったと聞いていた。
 機関が据え付けられる台座やプロペラと繋がる中間軸との取り合い位置などはこれまで搭載されていたエンジンと同様のものであったのだが、元々貨客船のメインエンジンは交換が容易に可能であるようには設計されていなかった。
 そのため、船倉につながる隔壁を溶断して大穴を開けた上で、メインエンジンや、それに関わる補機類を取り払って、代わりに新設計のものを運び込んだのだと岩渕兵曹は機関分隊に所属する機関兵曹から聞いていた。
 比較のために二基装備されているエンジンの片側はこれまで搭載されていたものがそのまま残されていた。
 今回の工事期間を利用してオーバーホールは実施したらしいが、従来エンジンのオーバーホールと新エンジンの搭載の並行作業となった機関部の工事はかなりの工数になってしまったらしい。
 岩渕兵曹が携わる電子兵装の搭載など、この機関工事の工数に比べれば些細なものであったから、すんなりと施工が決定されたのかもしれない。そのことを知ってから兵曹達電測員はそんな冗談を口にしたほどだった。

 紺野少佐は、その新型エンジンのデータを採るために乗艦した艦政本部員たちの指揮官だった。
 ただし、岩渕兵曹には、紺野少佐から海軍の伝統的な指揮官らしい威厳や迫力を感じ取ることは不可能だった。
 少佐の年齢は、階級やこれまで聞いた経歴から判断すれば、少なくとも岩渕兵曹と大して変わらない30代前半にはなっているはずだったが、自分の仕事を語っている時の表情は、まるでお気に入りの玩具を自慢する子供のような目になっていた。
 それに海軍の士官らしくもなかった。丸々と太っている割には意外なほど機敏に動く彼の外観がそうだというのではない。便乗した技術士官とはいえ、本来であれば紺野少佐は兵員食堂ではなく、士官室で食事をするべきだった。
 しかし、少佐は、士官室に余裕がないだとか、機関室にこもりがちになるから他の士官たち食事時間を合わせるのが難しいだとか色々と理由を作ると士官室から逃げだしてしまっていた。
 ときたま、兵から累進した古参の特務士官が兵員食堂で飯を食うことがあったが、佐官が兵たちに混じって食事をするのは前代未聞であるのではないのか。
 このような特殊任務についている特設艦であるからこのような異妙な行為も黙認されているのだろうが、正規の軍艦であれば許されないはずだ。
 だが、前に一度岩渕兵曹は紺野少佐にそのようなことをいったのだが、当の少佐は事も無げな表情で、自分がそんな正規艦艇に乗ることがあるとは思えないから気にしなくていいのではないのか、そう言っていた。
 岩渕兵曹には、どう考えても特設艦に喜んで乗りたがる佐官の気持ちが理解できなかった。

 厄介なことに、紺野少佐にとって岩渕兵曹はお気に入りの下士官らしかった。
 所属も職種も異なる二人が知り合ったのは、紺野少佐がどこから、かつて報国丸と姉妹船として建造され、同じように海軍に徴用されて特設巡洋艦となった護国丸にかつて岩渕兵曹が乗艦していたと聞いてきたからだった。
 その話を聞いてすぐに紺野少佐は岩渕兵曹のところまで駆けつけると、無礼なほど馴れ馴れしい態度で、護国丸に乗艦していた時のことや機関に関する感想を根掘り葉掘り聞き出そうとしたのだ。
 正直なところ、岩渕兵曹には迷惑な話だった。護国丸に載っていたのはもう五年も前の話だったし、その間に死にそうな目にもなっている。あまり思い出したい話でもなかった。
 もし聞いてきたのが同輩や新任の士官であれば無視していたところだった。
 それに岩渕兵曹は当時から電測を担当する下士官だったから、機関部のことはよくわからない。
 そういって逃げ出したものの、その後も艦内で会うたびに紺野少佐は馴れ馴れしく話しかけてきていた。
 どうにも、紺野少佐の馴れ馴れしい態度よりも、あの変人少佐の仲間だと周囲の人間から思われる方が自分にとって不快らしい。
 最近になってようやく岩渕兵曹はそう気がついていた。

 外見通りというべきか、紺野少佐が飯を食う速度は異様なほど速かった。
 少佐よりもずっと早く卓についてはいたが、もそもそとゆっくり居眠りしながら食べていた岩渕兵曹がと食べ終わるのはほぼ一緒だった。
 二人共食事中は一言も喋らなかった。
 岩渕兵曹はただ、紺野少佐と話しあう理由もなかったからだったが、少佐は何故か食事中には得意話も何もかも一言も口に出さなかった。
 どうやらそう躾けられていたか癖になっているらしい。
 だから、紺野少佐が飯を食い終わる前にさっさと逃げ出そうとしたのだが、それは叶わなかった。
 洗い場の主計兵へ盆を返そうとして立ち上がろうとした岩渕兵曹の背に声がかけられた。
「主機の…音が変わったのに気が付きませんでしたか」
 ぎくりとしながら、見るからに嫌々そうな顔になって岩渕兵曹は振り返った。
 すでに紺野少佐も食べ終えて盆を抱えて立ち上がっていた。
 少佐から逃げ出すのには失敗してしまったらしい。そして経験上、もう少佐からは逃れられないと考えるべきだった。


 岩渕兵曹が、紺野少佐に連れてこられたのは報国丸の機関室だった。
 少佐の誘いを、岩渕兵曹は何とかして断ろうとしたのだが、それは無駄な努力に終わった。
 今、二人は機関室後部の隔壁上部近くの階段踊り場から二基の主機を見下ろしていた。
 主機関には報国丸機関部個有の兵員が操作している他に、データ取りをしているらしい艦政本部部員や実習中の士官候補生たちなど意外なほど多くの人間がいた。
 機関室に入る前に少佐が自慢気に言った台詞によれば、新型機関の駆動音は従来のものと比べて大幅に低減されているという話だったが、機関室内に響く二基の主機からの轟音からはとてもそうとは考えられなかった。
 岩渕兵曹は呆けたような顔で、紺野少佐の説明を聞いている。だが、実際のところ騒音が大きすぎて、少佐の言っていることの半分は聞こえていなかった。

 機関室の右舷側に据え付けられているのは、これまで搭載されていた従来型エンジンだった。
 燃料ポンプなどの主機付き補機類やメインベアリングなどは今回の改修工事で交換されたと聞いているが、少なくとも見た目は岩渕兵曹が護国丸で見た同型エンジンと変わらないようだった。
 そして、左舷側に据え付けられているのが新設計のエンジンと言う話だった。
 元々左舷側に据え付けられていたエンジンは、戦時中から故障を頻発していたらしい。
 岩渕兵曹も参加していた大戦中盤の海上護衛戦闘に従事していた時の被弾によるものらしかったが、戦時中は船渠が塞がれていたことや、とりあえずは動くこと、何よりも元々高速の報国丸は片舷機のみでも低速貨物船よりもは速力が出たから、特設巡洋艦としての運用は無理でも、運送艦としてならば使用に耐えていたらしい。
 それが終戦後の大改装でようやく新型エンジンと交換されることとなった。
 今までの航海でその設計変更点に何箇所か不具合が発見され、その内の幾つかは船内で修理、改造が行われたらしい。つい先程も左舷機を止めて、整備を行っていたと聞いている。

 だが、一見しただけでは兵曹の目には、左舷機と右舷機ではあまり変わらないように見えた。
 主気付き補機を除けば、各種補機や主機が据え付けられた台盤との取り合いも一緒の寸法だという話だった。
 もちろん、図面上の寸法が同一だとはいっても、大型舶用機関の大きさともなれば、プロペラ軸との個体差による寸法公差は大きくなる。
 だから、新しいエンジンの施工にあたっては、工廠工員の職人芸によるシム高さ、据付位置の微調整が施されていた。
 もちろん今岩渕兵曹が見ている風景にはそのような微調整の後は見えなかった。
 シリンダーの気筒数や口径も同一だから、素人目には同じエンジンにも見えた。


 だが、少佐の台詞をエンジンの騒音の中で生返事で相槌を打ちながら聞き流している間に、岩渕兵曹は新設計のエンジンになにか大きな円筒状のものが据え付けられているのに気がついていた。
 円筒は内部で分割されているらしかった。接続されている配管の取り合いが前後で違っているのだ。
 それぞれの配管は出入口一対、それが前後にあるから、計四個の配管との取り口が円筒には設けられている。
 そのうちの片方の配管の正体にはすぐに気がついていた。というよりもその円筒の位置からしてそうとしか考えられない。
 各気筒からまとめられた排気管が円筒の片側に流入するようになっていた。そして円筒の中で何か処理された後に煙突へと導かれる配管へと排出されているようだった。
 円筒から出た後の配管は、従来型エンジンの排気配管と機関室上部で合流して煙突へと向かっていた。

 騒音のせいか、それとも疲労のせいか、薄ぼんやりとした思考で、岩渕兵曹は、円筒に接続されている残りの出入口一対の配管の正体を類推しようとしていた。
 もしかするとこの円筒はただの排気マニホールドなのかもしれない。それとも排気ガス温度を低減する装置でも付いているのか。
 他の電測員から、水上艦艇を捜索するための赤外線監視装置の存在を聞いたことがあった。
 今現在は捜索範囲は夜間であっても目視可能な近距離しか探知できないそうだが、その赤外線監視装置に発見される主な原因は主機から排出される高温の排気ガスであるらしい。
 しかし、もう一対の配管の正体はよくわからなかった。
 入り口か出口かわからないが、片側の配管が機関室上部から伸びているのはわかった。排気配管とは位置が異なるから、煙突に繋がる配管では無いようだった。
 もう片方の配管の行き先を見て岩渕兵曹は首を捻った。
 配管は一度下に下がってエンジン中部で何か別の装置に入っている。
 その装置には冷却用の配管が接続されているらしかった。他の補機のものと同様、冷却管を示す塗装が施された配管が接続されている。
 そして、円筒から伸びてきた配管は、最終的にそこから出て、主機中部に接続されていた。
 エンジンのことはよくわからないが、排気管があんな妙な位置に接続されているのだろうか、あるいは復動エンジンの排気管かもしれないが、下部から出た排気だけ冷却水で冷却する必要があるとは思えない。
 しばらく首をひねっていた岩渕兵曹は唐突に気がついていた。
 ―――あれは…吸気管ではないのか。つまりこれは排気式の過給器、なのか
 岩渕兵曹の表情の変化に気がついたらしい。あるいは騒音の中で話をする困難さにようやく気がついたのか、紺野少佐が手招きしていた。
 少佐が指し示す先には、ガラスと隔壁によって覆われている機関制御室があった。


 機関制御室は機関室内の騒音が嘘に思えるほど静かだった。
 今閉じたエンジンが置かれた機関室との扉はかなり分厚いようだが、それだけでこれだけの防音性が保てるものなのだろうか。
 不思議そうな顔で岩渕兵曹は振り返って扉を見た。
 制御室には操作盤に取り付いた数名の下士官の他に、彼らを監督するように一歩下がった位置に座った機械長がいた。
 数年前ならば機関兵曹長となるはずだったが、機関科が兵科に統合された今は、彼も兵科の兵曹長だった。
 制御室の扉が開いたことで騒音が聞こえたのだろう。機械長は怪訝そうな顔で振り返ると、岩渕兵曹に気がついて軽く手を上げて挨拶した。
 岩渕兵曹が敬礼をする間もなかった。一度上げかけた手の持って行き先が見当たらなくて、兵曹は戸惑って愛想笑いを返した。
 機械長もニヤリと笑うと部屋の隅を指さした。そこには機関分隊の持ち物なのだろうコーヒーメーカーがあった。脇には豆の袋とミルまであった。
 明らかな私物だったが、仕事に支障がなければ最近ではあまりとやかくいう士官も少ない。
 第一、機関分隊の士官以外はめったに機関室には来なかった。
「随分とモダンなんですな」
 岩渕兵曹は機械長の卓にあった彼のものらしいカップと、コーヒメーカーの近くにあった空カップにコーヒーを入れた。カップは当然割れることのない金属製のものだった。
 機械長にカップを差し出すと自分もカップを口に持っていった。あまりコーヒーには詳しくないが、安い豆ではなさそうだった。
「そのコーヒーの機械のことか?それならあの人の私物だよ。何でもアメ公製の輸入品なんだそうだ」
 部屋に入るなり、ドタドタと音を立ててデータを確認しにいった紺野少佐を、機械長は親指でさした。
 これも意外な趣味なのだろうか。岩渕兵曹にはよくわからなかった。

「あの扉…随分と音を遮るようですが。何か仕組みでもあるんですか」
 再び機械長は扉の方を振り返ってから、すぐに顔を戻して、なんでもないような顔でいった。
「あれ、中に綿だか布切れだかが詰めてあって音を伝えないようにしてるらしいんだ。何でも鉄砲の減音器と同じ理論だとかいう話らしい」
 岩渕兵曹は思わず眉をしかめていた。別にコーヒーが苦かったからではない。
「つまりこの部屋全体が綿入れのようなものですか…そのわりには熱くありませんが」
 それを聞くなり、機械長はコーヒーを吹き出しかけていた。
「馬鹿な事言わんでくれよ。一応この部屋用の通風器はあるし、第一断熱されて機関室の熱が遮られるくらいだよ」
「しかしこの壁面に全部綿が詰め込んであるんでしょう?随分と贅沢な話じゃないですか」
「確かに俺が生まれた頃なら綿入れなんて高すぎて兄貴のお古のぺしゃんこになったものしかなかったがな…しかし、電測員長は若いのに考えは古いんだな」
 岩渕兵曹は首をしかめた。
「そりゃあ最近じゃ洋服の類も安くなってきてるらしいですがね。私はずっと艦隊勤務でしたから」
 機械長はにやにやとしながらいった。
「最近の物価くらい押さえとかんと、海軍から暇を出されて娑婆に出たとき困るぞ。それにあの中に詰められてるのも、娑婆で出回ってる服も最近のは安い満州国製がほとんどらしいぞ」
 そんなものなのだろうか、岩渕兵曹はコーヒーを飲みながら考えていた。
 確かに、最近では綿製品のようなものは、工業化が進んだ日本国内で生産していては人件費がかかりすぎて、値段が釣り合わなくなってきているらしい。
 それに変わって満州国が安い労働力を背景に布製品などの輸出に力を入れつつあるらしい。

 データの確認を終えたのか、紺野少佐が近づいてきた。
 少佐に自由に話をさせると逆に長くなる、これまでの経験でそう理解していた岩渕兵曹は、少佐が口を聞く前に尋ねた。
「あのエンジン付きの円柱は…排気式の過給器なのですか。局戦のエンジンに据え付けるような」
 前に航空部隊の下士官から排気過給器の話を聞いたことがあった。今では空軍に移籍された局地戦闘機、いわゆる迎撃任務の戦闘機には、高高度への上昇や戦闘機動を可能にするために、高高度の低圧環境下でも十分な吸気量を確保するために排気過給器が搭載されているらしい。
 紺野少佐はあっさりと答えた。
「そうですよ。あれはターボチャージャーです。…何度か説明したつもりでしたが、言ってませんでしたっけ?」
 悲しそうな顔で言われて、岩渕兵曹は詰まってしまった。話半分で聞いていたのか、それともエンジンの騒音で聞こえていなかったのだろう。
 馬鹿正直にそう答えるわけにもいかないから兵曹が戸惑っていると、機械長はそれに気がついたのか、わざとらしく顔を背けた。肩が震えているからおそらく必死で笑いをこらえているのだろう。
 どうも少佐の話を真面目に聞いていないのは岩渕兵曹だけではないのかもしれない。

 だが、紺野少佐はそんな二人の様子に気がついているのかいないのか、明るい表情に戻すと、今度は機械長に顔を向けた。
「やはり故障の原因はベアリングのバランシングが狂っていたようですね。さっき確認したところでは、振動や異音は消えているようです」
 岩渕兵曹は怪訝そうな顔で聞いていた。機関室の後部から、前部に設けられたこの制御室に来るまでに紺野少佐があの円筒の過給器を素早く見渡したいたような気がしたが、あの騒音の中で異音の有無まで聞き分けていたというのだろうか。
 そういえば、過給器を見ている時だけは、睨みつけるような鋭い視線を向けていたような気がする。
「たしかに、ベアリングを交換してからは異常は見られませんな。しかし、ベアリングの歩留まりが悪いんですかね?特に面倒くさい構造とは思えないんだがなぁ…」
 笑いを収めた機械長は、立ち上がって、制御室に備え付けられた図面帳を素早くめくると排気過給器が載っている図面を開いた。
「ベアリングの構造自体には基本的には問題はないはずです。日本標準規格の規格品から材質を上げたものに変えただけですし。むしろ問題は過給器の方にあるのかもしれません」
「やっぱり速度が?」
「ええ、回転速度が早すぎるんですよ。それで軸受部の冷却が追いつかなくてベアリングの潤滑がおかしくなってしまう。かといってあまり大口径にして回転速度を落とすと今度はインペラーの生産が難しくなりそうですし…」
 紺野少佐は唸り声を上げると髪を掻きむしった。機械長はその様子に苦笑いをしながら言った。
「とりあえずは、予備のベアリングを大量に確保しておくしか無いですな。これまでの故障発生時間を考えれば、この航海の間ぐらいは十分に間に合うくらいの数は確保してありますし、幸いベアリングの交換と整備は容易なように設計されていますからな」
 言外にあんたは予め予想していたんだろうという意味を込めているのだろう、機械長はどこかにやにやとした表情になっていた。
「まぁ、そうなんですけどね。とりあえず、バンクーバーについたらまたベアリングを交換して磨耗を見てみましょう。本土に帰ったら冷却水の流量を増大するしか無いですね。早く耐熱性の高い新型ベアリングが出来てくればいいんですが……」
「どうだろうね、おそらくそんなベアリングは高くなっちまうでしょうな。出来たとしても片っ端から例の甲巡に持って行かれるような気がしますな」
 機械長は肩をすくめながら言った。
「それならそれで、新重巡洋艦に納入予定の従来ベアリングをかっぱらう口実ができるじゃないですか」

 もう雑談のレベルになってきたらしい。機械長が図面帳を棚にしまうのを確認してから岩渕兵曹は不思議そうな顔で聞いた。
「その……重巡洋艦、いや甲巡にディーゼルエンジンを搭載する計画があるのですか」
 紺野少佐はなんでもないような顔で答えた。
「いえ、計画段階ではなく、決定事項です。すでに一番艦用のエンジン生産は川崎と三井で開始されています。過給器は石川島製になりますがね」
 なぜか紺野少佐は得意満面といった表情になっていた。岩渕兵曹は、そこにもう一つの疑問をぶつけてみた。
「しかし、自分にはよくわからんのですが、商船では燃料消費が少なければいいというのはわかります。そのほうが儲かる、いや、経費が減るんでしょうから。それに戦艦のような大型艦でも航続距離を進捗できるからディーゼルエンジンを採用するというのもうなずけます」
 そこから先を言ってもいいものか、ほんの少し迷ったが、兵曹が何を言うつもりなのか察した機械長が、にやにやとこちらを見ているのに気がついて続けた。
「ですが、いくら燃費がいいからといって、ディーゼルエンジンを巡洋艦のような機動力が重要な艦艇に搭載するのはいかがなものでしょうか。ディーゼルエンジンは燃費はいいが、重量が過大にあってしまうと聞いたことがあります。元々燃料タンクが巨大な戦艦ならばともかく、航続距離も短い軽快艦艇ではいくら燃費が良くとも機関部の重量が過大となってしまうのではないですか」
 こういう議論はもう何度もしているのだろう、紺野少佐は表情を変えることなく、話を続けろと身振りで示した。
「巡洋艦以下の軽快艦艇に対しては従来と同様に蒸気タービン艦とすべきではないのですか、ドイツやアメリカでは日本海軍のものよりも高圧の蒸気を使用していると聞きます。まだ蒸気艦にも効率を向上させる余地はあるのではないでしょうか」
 ここまで言ってから、門外漢のくせに専門家に道理を説くという無茶をしたことに、岩渕兵曹は赤面していた。
 だが、紺野少佐は、珍しく言葉を選ぶようにしていった。
「実のところ…私個人はともかく、艦政本部がディーゼルエンジンのみにこだわっているわけではありません。ただ、蒸気タービンの製造に関してはすでに限界に達している部分が出てきていると考えています」
「限界に…ですか。あの、性能ではなくて製造にですか」
 怪訝そうな顔で岩渕兵曹は尋ねた。対する紺野少佐は気分が乗って来たのか次第に饒舌になり始めていた。
「製造に関してです。例えば呉工廠では、新興金属工業という新会社まで作らせてタービンや補機ポンプの製造能力を増大させていますが、前大戦では結局造機能力が不足して海防艦の大部分はディーゼルエンジンの搭載を余儀なくされたと聞いています」
 そこまで言うと、さらに紺野少佐は身振り手振りまで加えて来た。振り回した腕に当たりそうになった機械長が迷惑そうな顔で避けた。
「また、安易な蒸気配管の高圧化は大戦中のドイツ海軍艦艇のような故障率の著しい増大を招きます。蒸気の高圧下は同時に冶金や材料学の進化によって生み出される配管の信頼性向上があって初めて取り組むべきなのです。それに対して」
 紺野少佐は力強く右手で制御室の外、メインディーゼルエンジンを指し示した。
「それに対して現在の帝国はディーゼルエンジン製造に関して世界をリードできる立場にあるのです」
 いくら何でもそれは言い過ぎではないのか。岩渕兵曹は胡散臭そうな目になっていた。紺野少佐もそれに気がついたのか、じろりと一瞥してから続けた。
「先程も言ったとおり、海防艦や戦時標準船の主機としてディーゼルエンジンは大量に生産された。少なくとも製造ノウハウに関しては確立されたと言ってもいいでしょう。もちろん、整備や修繕に関する技術者もです」
 そのノウハウを確立するまでに、現場では予備士官の大量動員など随分と無理をさせられたと聞いているが、岩渕兵曹はしらけた表情になっていた。
「ですから、今ディーゼルエンジンの効率を向上させる技術を確立していけば、いずれ世界のディーゼルエンジンを帝国が支配することも可能であるはずです。それだけの技術的先行を確保し続けて…」

 そこまで言ってから唐突に紺野少佐は振り返った。しらけた表情をしているのは岩渕兵曹だけではなかった。機械長や、少佐の大声の演説に気がついた機関兵たちの何人かも呆れたような目を向けていた。
 わざとらしく咳をして間を持たせると紺野少佐は素知らぬ表情で続けた。
「まぁそんな訳でして。まぁ本当にディーゼルエンジンの開発にのみ力を注いでいるわけではないのです。蒸気配管の高圧化、それに対応したタービンの開発も進んでいます。実際、太刀風型駆逐艦では従来よりも蒸気の質が向上しているそうです」
 冷静さを取り戻した紺野少佐に興味をなくしたのか、機械長を除く機関兵は、持ち場に戻っていった。
「それにまだ概念研究段階ですが、艦艇用の主機としてジェットエンジンを搭載するということも考えられます」
「ジェットエンジン、というと奮進機関ですか、震電とかミーティアが搭載しているような…」
 岩渕兵曹はあっけに取られた。兵曹の脳裏には巨大な翼を付けて、艦尾から火を吹いている戦艦が震電とミーティアを従えて飛んでいる光景が浮かんだ。
 これではまるで押川春浪か海野十三じゃないか。岩渕兵曹は紺野少佐がからかっているものと思って睨みつけたが、少佐は怪訝そうな顔をしただけだった。
「電測長はターボプロップというエンジンをご存知ですか」
「ターボプロプ…ですか?」
 岩渕兵曹は首をかしげた。元々エンジンに関しては専門外だ。
「今、英国で開発が進められている航空機用エンジンなんですが…簡単に言ってしまえば、通常のジェットエンジンと違って、エネルギーの大半を使ってプロペラを駆動させようというものです。つまり、推力はエンジンからの排気ではなくて、レシプロ機のようにプロペラを回転させて得ようというのです」
 ようやく岩渕兵曹にも納得できた。
「つまり艦艇用の奮進機関というのは、飛行機のプロペラではなくて、スクリュー軸につないでしまおうと…」
「そうなります。航空機用プロペラよりも艦船のプロペラはずっと低回転ですから減速装置は複雑になるでしょうがね」
 だが岩渕兵曹には再び疑問が沸き上がってきた。
「そのターボプロプエンジンですが、基本的には今までの奮進機関なのですよね。だとすると凄まじい轟音を発してしまうのではないですか?最近では潜水艦からの魚雷も音響を追いかけてくると聞いていますが、そんな轟音を発するのは問題となってくるのではないでしょうか」

 紺野少佐は視線を空中に彷徨わせた。どうやら答えられないというわけではないらしいが、それをどうやって説明すればいいのか悩んでいるようだった。
「未だ概念段階ですから、はっきりとしたことは言えませんが、おそらくジェットエンジンを搭載しても音響が持つエネルギーはほとんどが空中に排気と共に排出されるように設計することは不可能ではないと思います」
「空中に…ですか」
「そうです。もともとジェットエンジンの騒音は、後方には激しいものの、側面はそうでもないそうです。ですから、この制御室のように防音壁でエンジン自体を覆ってしまえば、艦内の騒音は最低限で済ませ、大部分は排気と共に排出できるでしょう」
 少佐はそこで言葉を切ると、岩渕兵曹に顔を向けた。
「水中への音響は実のところそれほど考慮していません。これはディーゼルエンジンに関しても同じ事ですが、ゴムのような柔軟性のある素材の上にエンジンを据付けえしまえば、船体伝わる振動、すなわち水中への騒音はだいぶ軽減されるはずです。それにジェットエンジンの騒音源の殆ど排気であって、水中騒音源となるエンジン自体の振動は従来のエンジンよりも少ないくらいのはずですから」

 実のところ、紺野少佐は最後までしゃべることが出来なかった。
 一人の兵が、勢い良く機関制御室の扉を開けたからだ。機関兵たちが新たな騒音に振り返ると同時に鈍い音が聞こえた。
 制御室に飛び込んできた兵は岩渕兵曹の部下の一人だった。手にはなにか紙束を掴んでいる。
 そして、その兵の足元には、勢い良く開けられた扉に吹き飛ばされた紺野少佐の姿があった。
 だが、兵はそんな少佐に気がつく様子もなく、岩渕兵曹のもとに駆けつけた。
「員長、こんなところで油を売っとる場合じゃなかです!」
 それだけ言うとあっけに取られている兵曹の手に紙束を押し付けた。
 少佐に振舞わされている兵曹の内心のどこかではよくやったと賞賛したい気分だったが、さすがにこれはやり過ぎだろう。何か罰を与えなければなるまいな。
 だが、紙束に書きこまれた手描きのメモ、それに傍受装置に直結する記録装置の出力を見てそんな些細なことは忘れてしまっていた。
「これは…ダッチハーバーから電波源が移動しているというのか」

 数時間前、岩渕兵曹が休憩に入ったときには、むしろ弱まりつつあった電波強度が急速に上昇していた。
 しかも電波源は緩やかに移動しつつあることを数値は示している。移動速度からすると電波源が航空機であるとは思えなかった。さらに電波源は複数存在していた。
 結論はすぐに出た。ダッチハーバーから艦隊、それもこの距離で個々まで明確に探知できるほどの強力な電探を装備した艦を複数含む有力な艦隊が出港しようとしているのだ。
 おそらく訓練出動なのだろうが、目的地はどこだろうか、時系列に従って電波源位置をプロットしていけば、艦隊の進行方向もわかるはずだ。データを得るのに十分な観測時間があったのかどうかはわからないが、複数の紙束があるということは、少なくとも大雑把な推測は可能であるはずだ。
 だが、岩渕兵曹はその作業をすぐに中断した。必要なデータはすでに紙束の隅に書かれたメモに記載されていた。すでに部下の誰かが方角の推移を行っていたらしい。
「ほぼまっすぐに南下しているのか…」
 だとすると最接近までさほど時間はかからないだろう。岩渕兵曹は部下に力強く頷くと、機関制御室を駆け出していた。
 入った時は、あれほど大きく響いていたエンジンの騒音も気にならなくなっていた。
 いまはとにかくアメリカ海軍の電探の情報を出来るだけ詳しく採取することしか考えられなかったのだ。
 そういえば、制御室を出るときに何か柔らかいものを踏みつけたような気がしたが、すぐに忘れることにした。
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