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ここからベルナルド視点のお話です。アゲハ視点でのみ楽しみたい方はお気を付けください。問題ない方はどうぞ!
昔から木や花を眺めながら考え事をするのが好きだった。
自然を目の前にするとなぜだかこうして心が穏やかになるんだ。うまくいかずにイライラしている時や、自分がちっぽけだと落ち込んでいる時も――それから、そうじゃない時も。
生まれたばかりの風が木々の囁き声や花の甘い香りを僕に届け、ついでに髪や頬をやさしく撫ぜる。
彼らは僕がどんな気持ちでいても いつも優しく接してくれるから安心して身を委ねることができる。このベランダからの景色が、僕の――僕だけの穏やかなる空間。
月明かりに照らされた静かな公園からは、つつましやかな虫の声とさわさわと葉の擦れる音だけ。アパートに面した道路は街灯も少なく夜は車もめったに通らない。だから今夜の主役は目の前の公園で行われている、ささやかなコンサートだけだ。
手すりに頬杖をついて目を瞑り、静かなオーケストラに耳を傾けていると――コンコン、と遠慮がちに窓ガラスが叩かれた。
振り返るとアゲハは少しだけベランダの窓を開ける。
「まだ外にいるの?」
「もう入ろうと思ってた。ドラマは終わり?」
「そうなの、聞いて!」
アゲハは先ほどまで見ていた恋愛ドラマのラストを聞かせてくれた。あそこで終わるなんてずるい、と興奮気味に話す彼女を見ていると、どうしてだか不思議な気持ちになる。
その答えを探そうとこうして考えているけれど……まだ木も花も答えを教えてくれていないんだ。
夜十時過ぎ、そろそろアゲハの――バスタイムが始まる時間だ。
僕はこの時間が一番苦手だった。
そもそもどうして日本人は1時間も熱いお湯の中に浸かっていられる? いつも不思議に思う日本の風習の一つだ。
昔、祖父母の家に行った時、わざわざ改築して作ったヒノキ風呂とかいうものに入らされた事があったけれど、僕は5分が限界だった。体を洗うならシャワーでいいじゃないか……。
そんなアゲハのバスタイム中にバイオリンを弾くのが最近の日課になっていた。
「ねえベル、あたしこの前聴いた曲がいいな」
そう言いながらアゲハは長い黒髪を頭の高い位置に結った。後ろ姿から普段見えないうなじがちらりと見える。
「えっ……と、何の曲だっけ?」
ついついアゲハの後ろ姿に魅入っていた事に気づき、僕は急いで膝の上に置いた楽譜に視線を戻して尋ねた。
「あのね、曲名はわからないけど……ほら、この前弾いてたやつよ」
彼女が希望している曲はなんとなくわかっていた。恐らくフィガロの結婚の、ケルビーノのアリアのことだ。
たまにアゲハが鼻歌で歌うから気に入ったのだと思っていた。
「何曲も弾いてるからわからないよ。ちょっと歌ってみて?」
本当はわかるけれど、あえて聞いてみる。
僕から目を合わせると、アゲハは照れたようにぱっと逸らした。
「む、無理……あたし歌上手くないし。しかもそうやって待っていられると余計恥ずかしくて歌えない!」
「いつも鼻歌で歌っているのに?」
こういうアゲハの反応は見ていて面白い。
アゲハは、それとこれとは違うのに、と言いながらも観念したのか小さな声で歌いだした。たまに音程が外れるけれど、いつもの声より少し高めのソプラノが耳に心地良く響く。
しばらく聴いていたかったのにアゲハは途中で歌うのを止めてしまった。これでわかったでしょう? という表情で僕の様子を伺っている。
「うん、モーツァルトだね。いいよ」
膝の上の楽譜を横に置いてバイオリンケースを取る。
アゲハは嬉しそうな顔をしてバスルームへ向かい――そして急に立ち止まると振り返った。
「ねえ、さっきあたしにいつも歌ってるって聞いたわよね……って事は、今あたしが歌わなくても何の曲かわかってたんじゃないの?」
アゲハの鋭い指摘に僕はつい笑い出す。
「信じられない! どうして歌わせたのよ、もう!」
そんな僕を見た彼女は頬を膨らませてバスルームへと続くドアをバタンと閉めた。
しばらく笑いの余韻に浸りながらケースからバイオリンを取り出していると、先ほど閉じられたドアがそっと開く。
「タイトルだけ教えて? 次は歌わないでリクエストするんだから!」
「さっきの曲はね、フィガロの結婚っていうオペラの『Voi che sapete』日本語だと確か……『恋の悩みを知る君は』と訳されているよ」
「恋の、悩み……」
「ごめんね、アゲハ。さっきの事、許してくれる?」
「もうっ、許さないんだからねっ!」
アゲハは子供のように舌を突き出すと、またパタンとドアを閉じた。表情から本気で怒っていない事は見て取れたけれど……たまに見せるそんな仕草が見たくて、僕はごくまれに、こうやっていじわるをしてしまうんだ。
バイオリンに肩当てを取り付けながらも、先ほどのアゲハを思い出すと自然と笑みが零れた。
彼女は正直で――とても純粋な女性だ。
初めて出会った時……アゲハは知り合いでも何でもない人間を――しかも男の僕を何の疑いもせずに部屋の中へと招き入れた。
あの時はとんでもない女性だと思ったものだ。そう、危機感がなさすぎる、と。
けれどすぐにそれは日本人特有の親切心からの行動だと気づいた。
困っている人には必ず手を差し伸べるのだと、日本人の祖母はそれはもう自慢げに話していたっけ。日本人としての誇り――美徳というものらしい。
実際彼女は僕がユーカと会うために協力をしてくれて、見つかるまでは部屋に居座る事も許可してくれた。
お陰でホテルに滞在する必要もなくなり、僕の居場所はまだ‘彼ら’に知られていない。その親切心が随分と僕を救ってくれている事を、彼女は知らない……知るよしもない。
内側からにじみ出てくるような、あの優しさや気遣いは簡単に取り繕う事は出来ない。ここまで彼女を育てたご両親の愛の賜物だ。
正直こういう女性と結婚したいと常々思っていた。
いっそのことアゲハがユーカだったらいいのに――そんな邪念が頭を過り、僕は急いでそれをかき消した。
そんな事を考えてはいけない。アゲハにもユーカにも失礼すぎるじゃないか。
弓に松脂を塗り始めると同時にシャワーの音が聞こえてきた。
「始まった……」
僕の――平常心を乱す音だ。
このシャワーの音や、浴槽からの水音、たまに聞こえるアゲハの歌声で僕はいつもどうにかなりそうになる。
だからその音を掻き消すための手段としてバイオリンを弾くことにした。楽器を弾いている間は何も考えなくて済むから。
……少なくとも変な妄想で頭が一杯になることはない。
「ほんと勘弁してほしいよ……」
長時間バスタイムを楽しむ日本人の精神がわからない。その間、僕がどれほどの理性を総動員して過ごしているか――アゲハは知らない。
バスルームから微かにアゲハの鼻歌が聞こえてきた。殺傷能力抜群のやつだ。そしてたまに音を外すのが何故かかわいいと思ってしまう。
ユーカはきっと音を外さない。彼女はオペラ歌手を目指しているのだから。
それなのに音を外すアゲハの歌を聞くのが好きなんだ。
どうしてそう思うのか、この不思議な気持ちの答えを僕はまだ探している途中だ。