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『私の、可愛いお姫様』
母は、妹の髪を撫でながらよくそう言っていた。
愛しくてどうしようもないと、そんな眼差しをして。
母は、私を愛していなかったというわけではない。
―――――多分、そうだと信じている。
だけど、シルビアのことを実の子供よりも慈しんで大切にしていた。これも事実だ。
私の部屋には滅多に来ることはなかったけれど、シルビアの部屋には欠かさず毎日、顔を出していたことを知っている。眠る前に、そのまろい額に口付けを落とすことも。
優しい声で、子守唄を口ずさむことも知っていた。
どうしても眠れない夜に部屋を抜け出した私が、たまたま開いていた扉の隙間から見たのは、母と子の何気ない日常の姿だった。
『おやすみなさい、お母さま』『いい夢を、私の可愛いお姫様』
確かに聞こえたその声が、なぜか擦り切れるようにして消えていった。
いいな。いいな。私も、あれが欲しい。
母の優しい口付けが欲しかった。その手で撫でられて慈しまれて、抱きしめて、可愛いお姫様と言ってほしかった。
きっと望めば、母はその通りにしてくれただろうと思う。
ねだって、願いを言葉にすれば無視することはないだろうと分かっている。
母は、私よりも妹を愛してただろうけれど酷いことをする人ではなかった。
だから、望まれればその通りにしてくれるだろう。自ら与えることはないとしても。
だけど、私は結局、ただの一度もそれらを受け取ったことはない。
仕方なしに与えられる愛情なら、一つも、必要だとは思わなかったから。
私は幼い子供ではあったけれど、生まれながらに貴族だったのだと思う。
赤ん坊の頃から「お嬢様」と呼ばれ、周囲の人間に傅かれ、そうであるように仕向けられた。
言葉を覚えた頃には既に、心の内に矜持というものが育っていた。
そんなくだらない傲慢さが、私から、純粋さと素直さを奪ったのかもしれない。
母親にさえ手を伸ばすことを躊躇った私は、知らず内に壁を作り、むき出しの心を悟られまいと振舞うようになった。
そうやって纏った鎧が、自身を傷つけていることさえ分からずに成長してしまったのだ。
そのせいなのか知らないが、私はいつだって誰かに助けを求めることに怯えていた。
自分が、どうしようもなく弱い人間であることを知っているのに、いざというときに助けを求めることができない。
ただ一言口にすれば良いだけのその言葉を実際に声にすることにどれほどの勇気がいるのか、そうやって搾り出した声を無碍にされる悲しみを、誰か理解できるだろうか。
伯爵家第三位の貴族令嬢。そんな分厚い被り物で武装していた私は、それを盾にしながら、それと同時に身動きができないほどがんじがらめに捕らわれていたのだろう。
『貴女は今日から、ソレイル様の婚約者となるのよ』
だからもう、甘えてはいけませんよ。
ただの一度も甘えたことなどない気がするのに、その人はそう言って、慈愛をこめた眼差しで私を抱きしめた。これが最後だと。いかにも、何度もそうしてきたかのように装って。
母親との初めての抱擁は、むせ返るような甘い臭いがして、どうしてか気分が悪くなった。
抱き返しても良いのかさえ分からなかったそのとき、宙を彷徨う己の指先を眺めながら、母とシルビアが同じ臭いを纏っていることに気付く。
残り香というやつだろう。
幼い私はただ、不思議に思った。母と妹はなぜ、同じ臭いがするのだろうかと。
自分だけ、違う臭いをまとう違和感に気付きもせずに。
母が私を見つめる眼差しは、気に入りの陶器や絵画や薔薇を眺めているときによく似ていた。
そんな目をこちらに向けたまま、貴女はつまり侯爵家の預かりものなのだとはっきりと断言したのだ。
その言葉の意味をはっきりと理解することができずにいた私は、やはり幼かったのだろう。
『貴女には幸福な未来が約束されているわ。侯爵家の夫人になるのだから』
母がそれを、どんな想いで言ったのかは分からない。
―――――初めの人生で投獄されたそのときに、両親は私に背を向けた。
お前には失望したと零した父の、憎憎しげに歯を噛むその顔を時々思い出す。
あのとき私は、ソレイルの迎えを信じながら、その一方で己の終わりを悟った。
だけど思えば。
両親はきっと、あの瞬間に私を見限ったのではない。
一つずつ積み上げた石が、耐え切れずにやがて崩れ落ちるように、少しずつ段階を踏んで離れていったのだろう。
あの最初で最後の抱擁は、すなわち、一つ目の石だった。
「……なぜ、」
昼食に着ていくドレスはすでに決めていたので、着替えを侍女に手伝ってもらいながら、姿見に自分を映した。そこに居るのは、大して特別でも何でもない普段通りの「私」だ。
老婆のような髪をしていると思うのに、実際、その年まで生きたことはない。
顔に皺を刻むよりも前に、私はこの短い命を終える。
これほどに儚いのであれば、せめて、満ち足りた人生を送りたいと思うのは私の我侭なのだろうか。
「お嬢様?どうにかなさいましたか?」
口の中で噛み潰したはずの言葉をきっちりと拾い上げた耳聡い侍女が首を傾ぐ。
首を振れば、何かを言いかけて口を引き結ぶ古参の侍女はどこまでも優秀だ。
私の意志を尊重し、気になることがあっても追及するような真似はしない。
肩に落ちた髪を払えば「御髪はどうなさいますか?」と何事もなかったかのように問われた。
この状況での正しい質問が何なのかを実に心得ている。
先ほど廊下で対峙した妹の美しい髪を思い出しながら、いっそのこと同じ髪型にしてはどうだろうかと思った。妖精もかくやという儚い容姿の愛らしさの前に、同じ髪型の私が並ぶのだ。
それを想像すれば、
「……ふふっ」吐息が零れるように笑みが落ちた。
同じ髪型をしたところでその容姿には天と地ほどの差がある。
偶然の一致だったとしても、私が妹を真似たと思われても仕方ない。
それはどれほどに滑稽な姿だろう。
人払いをした昼食会のその場には、私と妹とソレイルだけだ。
見比べることができる人間がいるとすれば、それはソレイルだけだろう。
だけど彼はきっと、私とシルビアが同じ髪型をしていることにさえ気付かない。
間抜けな自分を笑うのは、自分自身だけだ。
シルビアと比較されるのが嫌で、いつだってあの子と違うものを選ぶようにしてきた。
違う髪形、違う口紅、違うドレス、違う靴、好きなものを選ぶというよりは、シルビアとは違うものを選ぶという感覚だ。
それは幼いときからそうだったように思う。
淡い色のドレスを纏い、可愛い可愛いと誉めそやされる妹を前にして、私はあれを着てはいけないのだと悟った。
その数日前に、同じ色のドレスを着た私は、誰にも可愛いとは言ってもらえなかったのだ。
よくお似合いですね、という社交辞令に、心が篭っていないことに気付いたのはいつだっただろうか。
「……結い上げてもらえるかしら?」
かしこまりました、と頷いた侍女が器用な手つきで編み込んだり花を飾ったりして美しく結い上げていく。
そうして出来上がった自分の姿を見て、ふと、思うのだ。
選んだつもりで、実のところは何も選んでいないのだということを。
『君って、本当は白い色が好きなんでしょう?』
気付いたのはカラスだった。
私は、種類を問わず白い花が好きなのだ。だから当然、その色が好きだ。
考えるまでもないことなのに、周囲の人間は誰もそれに気付かなかった。
纏う色はいつも控えめな色みで、普段着に至っては濃紺や藍色、小豆色、深い紫など目立たない色ばかり。
あえて暗い色を選んでいるわけではない。だけど、派手な色はこの地味な顔に似合わない。
『貴女は明るい色が好きではないのね』と苦笑したのは母だった。
私が妹のドレスに焦がれていることに、ほんの少しも気付かない。
唯一、白を纏ったのが、繰り返す人生で何度か経験したソレイルとの結婚式だった。
結婚式という名目があるから、私は堂々と好きな色のドレスを纏うことができた。
妹に引け目を感じることもなく、周囲に比較されることもなく。
私だけが白を纏うことを許された日で、その日だけは、真実、何もかもを自分自身で選び取ることができた。
ソレイルと並び立って、祝福の言葉と拍手を浴びて。
その日は、喜びに満ち溢れていた……はずだった。
だけど、あの日の高揚感を思い出すたびに、胸の内側を爪先で引っかかれるような痛みと苦しみを伴う感覚に襲われるのは、ソレイルの目がシルビアの姿ばかり追いかけていたことを忘れていないからだろう。
結局、生地から糸まで自ら選びぬいたそのドレスを褒め称えたのは自分だけだった。
「……着飾っても、意味などないのに、」
「お嬢様?」
「……いいえ、何でもないの。ありがとう、手間をかけたわね」
「いえ、そんな、とんでもないことでございます」
鏡に映った己の姿は、できた侍女が仕上げたからか非の打ち所がないように見える。
貴族令嬢らしく、上質の生地を使ったドレスは高級品そのものだ。
深い青色が光を浴びると僅かに色味を変える。
その美しさに目を細めて、だけど、そのドレスを纏っているのが自分だという事実に思わず目を伏せる。
私が何を着ていても誰も何とも思わないだろうし、何も感じないのだろう。
あの結婚式の日、ソレイルが私のほうをちらりと見て『綺麗だな』と漏らした。
それをよく覚えている。
気分が高揚したのはほんの一瞬だけだった。
見上げた彼の目は遠くのシルビアを見つめていて、その瞳は切なげに揺れていた。
私に向けて言った振りをして、その実、妹を見つめていた横顔を忘れたことはない。
「随分、時間がかかったんだな」
応接間で私を待ち構えていたらしいソレイルとシルビアに苦笑してしまう。
本来なら、約束の30分も前なのだから責められるいわれは無い。
しかし、階級がものを言う貴族社会で上位貴族である彼を待たせてしまったのは褒められたことではなかった。私が婚約者だとしても関係ない。
身分というのはそういうものなのだ。
「申し訳ありません」
「……」
殊勝に頭を下げれば沈黙が走る。
許す気はないということだろうか。
視線さえ上げることができずに俯いていれば、
「お姉さまの髪飾り、素敵」
空気を読んだのか、それとも何も考えずに発言したのか、シルビアが席を立つ。
入口付近で立ち竦んでいる私のところまで来て、
「そのドレス、初めて見たわ。お姉さまにとってもお似合いだわ」
目元を綻ばせて、ふわりと笑った。
優しい子なのだ。邪気などなく、幼い子供のような無垢な心で私に向き合おうとする。
他の誰も見ていないにも関わらず、妹はよく、私を見ていた。
きっとシルビアの本質は、幼い頃から何も変わらないのだろう。
厩舎で馬に蹴られそうになった私の前に、その小さな体躯で飛び出したときと同じなのだ。
私が彼女の姉である限り、悪意を持たれることなどないのだろう。
その目に汚いものや醜いものを映すことがないように、両親はシルビアの目を優しく塞いできた。
その純粋さで、その優しさで、その美しさで、ソレイルの心を奪うのだろう。
それは例えば、御伽噺のお姫様と同じかもしれない。
彼女たちは、捕らわれていれば誰かが助けにくるし悲惨な境遇に喘いでいれば誰かが手を差し伸べる。
ただそこにいるだけで愛されるのだ。
私とは違う。私とは、
「二人とも、そろそろ座ったらどうだ」
私のドレスを褒め称えるシルビアに、貴女もとても可愛らしいわと返事をしたところで、ソレイルから声がかかる。少し苛立っているように見えるのは、私が妹の視線を独り占めしているからなのか。
はぁい、と軽やかに返事をして身を翻すシルビアを追うようにして歩く。
その足取りに合わせるようにふわりふわりと揺れる髪。
『君の髪、』
『……え?』
『君の髪さ、雪に落ちた木立の影に似ているね』
『……何?どういう意味?』
いつかの人生で、黒い双眸に私を映したカラスが小さく笑った。
私は、彼の前で自分の髪についての評価を口にしたことはない。
だけど、彼は、私が何を思っているのか見透かしたようにそう言った。
『僕は、平原に降り積もった真っ白な雪そのものよりも、その雪に落ちた木立の影のほうが美しいと思うよ』
どういうつもりでそう言ったのか分からない。
『だけど、そんな木立の影さえも含んで、雪景色と言うんだ』
カラスはそう言って、私の髪を優しく浚った。
『雪は雪だってこと』
『君がどんな髪色をしていようと、どんな目をしていようと、どんな顔かたちだって、』
『……どんな君でも、僕は君を、美しいと思うよ』
励まそうとしていたわけでも慰めようとしていたわけでもないはずだ。
だってカラスは、私がシルビアと自分を比較して落ち込んでいるなんてこと、知らなかったはずだから。
だけど、いつだって彼は私が望んでいる言葉を与えてくれるのだ。
「……サイオン様にも言われてしまって」
「サイの言うことは気にしなくて良いだろう。アレはたちが悪いからな」
何も言わずとも、席に着けば前菜が運ばれてくる。
それを咀嚼しながら、談笑しているソレイルとシルビアを眺めていた。
先ほど廊下で顔を合わせたときの続きなのか、どうやらソレイルの友人についての話のようだった。
昼食を共にしている二人であれば、当然、ソレイルの友人と顔を合わせる機会もあったのだろう。
私には紹介されることさえない、その人を、シルビアはよく知っているようだ。
「お姉さま……?どうかなさったの?」
お食事が進んでいないようだわ、と首を傾ぐシルビアに促されるようにフォークを持ち直すけれど、なかなか口に含んだものを飲み込むことができない。
「具合でも悪いのか?」
つ、と視線を上げれば眉間に皺を寄せているソレイルがこちらを見つめていた。
先ほどまで、私なんて視界の隅にも入れてしなかっただろうに。
シルビアの視線の先を追ったのだろうと、嫌でもそれに気付かされる。
「……いえ、」
首を振ろうとして「部屋に戻ったほうが良いんじゃないか」と、先手を打たれた。
ふるりと震えた指先のせいで、ナイフの先が陶磁器を打ってガシャリと音をたてる。
「お姉さま……!ソレイル様はお姉さまのために……!」
退席を促されて怒った私が、わざとナイフで皿を叩いたのだと思ったのだろう。
控えめながら、非難の声を上げるシルビア。それに同調するように、ソレイルが唇を引き結んだ。
思わず俯けば、肩が震える。
「イリア?」
声を上げて、笑ってしまいそうだ。
もしかして、初めから全て茶番だったのだろうか。
「……ご迷惑をおかけして申し訳ありません。お言葉に甘えて、部屋に戻ろうかと思います」
ナイフとフォークを置いて、顔を上げないまま言えば、
「部屋まで送ろう」
気遣う素振りを見せるソレイル。
婚約者としては正しい反応だろう。
「大丈夫ですわ、そこまで酷くはありませんし。ソレイル様はどうぞゆっくりしてらして」
「……お姉さま、あの、」
「シルビアも、気にしないで」
茶会でソレイルとシルビアを引き合わせた、そのときと同じようなやり取りをして立ち上がった。
きっと部屋を出れば、アルが廊下で待機しているに違いない。
時間よりもだいぶ早い退出に訝しげな顔をして、そして、大丈夫なのかと問うだろう。
私は、大丈夫だと笑って、いつも通りに笑みを湛えて。
何事もなかった振りをして部屋に戻るのだ。
そして、扉を開ける瞬間に一つだけ呼吸を置いて覚悟を決める。
そこで黒い鳥が待っているかもしれないと期待してしまう心を静める為に。
『はじめまして、お姫様』
初めて会ったとき、彼がなぜ私をそんな風に呼んだのか分からない。
意味などなかったのだろうし、理由を聞いても答えなんて返ってこないだろう。
だけど、希望なんて一つもないこの世界で、彼だけが私の望む言葉を口にした。
今生の私はそれを、何度も何度も、思い出す。