53.プロローグの終わり 5
北の石垣の上、門を基点として右と左に分かれるように並んだ狼族とアライグマ族。
信秀は、最近の獣人達の様子を考慮して、戦いを前にしても常に狼族の側にいた。
最悪の事態――武器を手にした獣人の反逆を危惧していたためである。
だというのに。
――え?
まるで心に穴が空いたような驚き。
信秀が顔を向けた先。
そこには自身に対して弓を引き絞る狼族の男がいて、今まさに矢を放つところであったのだ。
時間がゆっくりと流れる、なんて言葉がある。
それは狼族の男が弦を離す一秒にも満たない間。
空を舞う砂の一粒さえも、はっきりと自覚できるような時間の流れを信秀は感じた。
(あの矢の射線上から、逃げなければならない……!)
信秀を支配していたのは、狼族の裏切りに対する疑問よりも、矢を避けねばならないという、命を保護するための感情。
距離は十メートルほどある。
その距離と体感時間の長さは、矢を造作もなく躱せるものと信秀に錯覚させた。
されど、悲しきかな。
信秀がどれだけ体を動かそうとしても、不思議なことに、その体は動いてはくれない。
なぜ、どうして、と心ばかりが焦った。
思考が加速しようとも、それを体に反映させることは容易ならざるものであったのだ。
信秀は思った。
俺はここで死ぬのだろうか、と。
防弾チョッキは着ている。
だが、顔はどうか。首はどうか。
一度不安に駆られれば、防弾チョッキそのものの信頼性すら疑わしくなっていく。
死を意識した時、突然、走馬灯のように、この世界に来てからのことが脳裏を巡った。
それは信秀が獣人達と共に過ごしてきた時間。
はじめは打算であった。
金を増やすため、人口を増やすために、彼らを受け入れた。
信用はしていない。
互いに利益を享受しあうだけの関係。
けれど、彼らと暮らすうちにゆっくりと、信秀は親しみを感じていった。
特に狼族には、家族のような信頼を預け始めていた。
だが今、目の前にある現実は、それらの思いを否定するものだ。
(狼族を信じたのが間違いだったのか……)
なにが理由で、目の前の狼族が自身に弓を向けているかはわからない。
しかし、ただ後悔だけが信秀の胸の奥に滲んでいた。
そして矢は放たれる。
矢は風を切り裂き、唸りをあげながら、信秀の体めがけて進んだ。
――瞬間。
横からドンッという衝撃がきて、信秀は受け身もとれずに倒れこんだ。
何が起きたのか。
信秀にもすぐには理解できなかった。
(痛い……)
体の角ばった部分をしたたかに打ち付け、鈍い痛みが走った。
だが、それ以外の痛みはない。
頭には混乱ばかりがあり、唯一信秀がわかることは、己は無事だということだけだった。
助かったのか、という思いが浮かび、信秀は本能のままに立ち上がろうとする。
「え……?」
すると、その口から呆けた声が漏れた。
上半身を起こした信秀。
その瞳に映ったのは己と同じく倒れている狼族の姿。
だが“彼女”が信秀と違ったのは、胴甲冑の上から脇腹に矢が深く突き立っていたこと。
そして、そこから流れる赤い血が石垣を濡らしていた。
「ミラ!」
狼族の誰かの声がこだました。
矢が放たれた瞬間、ミラが自身の体をぶつけて、信秀を救ったのである。
――その身を代わりにして。
「ふ、フジワラ様!」
悲鳴のような声をあげて、信秀へと駆け寄るジハル。
それと同時に、周囲の者の止まっていた時間が動き出す。
逆に、矢を射った下手人は、同族を手にかけたことに、狼狽していた。
「貴様! ゴビ!」
周囲にいた者が、矢を放った下手人――ゴビをすぐに取り押さえる。
その間、ジハルに抱き起こされるように立ち上がる信秀であったが、その意識は朦朧としていた。
狼族の裏切り、かと思えば同じ狼族に助けられた。
そして、今ジハルが浮かべる表情や声には、明らかにこちらを心配する色が見受けられる。
「狼族の裏切りじゃないのか……?」
信秀が、ポツリと呟く。
すると、地面に押さえつけられたゴビは正気に戻ったように、すました表情を浮かべた。
自分に非はない。
そんな顔である。
さらにゴビは吠えるように言った。
「今こそ獣人の誇りを取り戻せ! フジワラを――人間を打ち倒し、この地を我らの理想郷とするのだ!」
信秀を倒し、町を獣人のものとする。
ゴビが言い放ったのは裏切りの言葉である。
だが、他の狼族の者の反応は芳しくない。
信秀の目には、誰しもが呆気にとられているように見えた。
すると突然、ジャーンジャーンと北門のちょうど上にあった銅鑼が鳴り響いた。
何事かと信秀がそちらを見れば、銅鑼を鳴らしているのはアライグマ族である。
アライグマ族は武器を構えて狼族へと敵意を――いや、信秀へと敵意を向けた。
ここで漸く信秀は理解した。
銅鑼は裏切りの合図であったのだ。
それを知らなかったのは己と狼族だけなのだろう、と。
「なんだこれは! どういうつもりだ!」
ジハルがアライグマ族へ問い質すように叫ぶ。
それを一歩前に出て受けるのは、アライグマ族の族長。
「ジハルよ。狼族以外は全てこちら側だ。さあ、フジワラを……その人間を渡せ。
なに、命ばかりは助かるように取り計らってやる。我らは魚族などとは違い、慈悲の心があるのでな」
ジハルとアライグマ族の族長が相対する中で、信秀はアライグマ族の族長の顔を見た。
駱駝の双子の赤子が取りあげられた時のことを、信秀は覚えている。
共に泣いて笑いあった。
なのに、今そこにいたのは、敵意だけを目に宿したアライグマ族の族長であった。
アライグマ族の族長の言葉は続く。
「さあ、早くしろ。大砲も今頃は全てこちらに向けられている。人間の側についたとしても、勝ち目はないぞ」
その言葉が真実であると証明するように、辺りからは大きな声が聞こえてきた。
「人間を倒せ! 町は獣人のものだ!」
「人間を倒せ! 町は獣人のものだ!」
「人間を倒せ! 町は獣人のものだ!」
合唱。
東の石垣から、西の石垣から、獣人達の大きな唱和が近づいてくる。
石垣の下からも同様だ。
補給に当たっていたゴブリン族が、信秀を倒せと声を合わせて叫んでいる。
本当に周りは敵だらけなのだと、信秀は呆然とした頭で理解した。
そしてジハルが振り返りゴビを見て、次いで信秀にも目を向けた。
その目に何が映っているのか、信秀にはもうわからなかった。
信秀の胸にあったのは、今までやってきたことはなんだったのだろうか、という喪失感。
体に力は入らず、信秀はただ立ち竦むだけである。
すると、荒い息づかいが信秀の耳に届いた。
それは、己を庇ったミラのもの。
信秀はフラフラとミラに近づいた。
なにかにすがるように。
(何故、彼女は俺を助けてくれたのか)
彼女は人間を嫌っていると思っていた。
信秀は、彼女から嫌われているのだと思っていた。
だが、彼女はその身を犠牲にして助けてくれた。
――何故。
思考が定まらぬ中で、その疑問だけは、はっきりと信秀の内にあった。
信秀がミラの隣に膝をつき、その手を掴む。
ミラの手のひらはまだ温かい。
己を救ってくれた確かなものがそこにはあった。
その時である。
「我らはフジワラ様と共にあり!」
ジハル族長の宣言であった。
信秀は大きく目を拡張させて、そちらを見た。
槍をアライグマ族に向けて構えるジハル族長の背中。
老いたなどとは決して言えない、何よりも誰よりも逞しい背中であった。
そしてジハル族長に従うように、他の狼族達からも、ウオオオオ! という閧の声が上がる。
「我らはフジワラ様と共にあり!」
「フジワラ様と共に戦うぞ!」
それらは大きなうねりとなって、信秀の体の深くにまで入り込んでくる。
それだけではない。
その時、信秀が掴んでいたミラの手が小さく握り返した。
それはとても弱々しい力。
だが、信秀にとっては力強いものであった。
まだだ、と信秀は思った。
まだ、終わってはいない。
ミラの手はこんなにも温かい。
彼女も己も生きている。
まだ、仲間がいる。
――ならば俺はやるべきことをやるだけだ。
信秀の体には不思議なくらい力が湧き、活力がみなぎった。
「皆、少しでいい! 俺を守ってくれ!」
信秀は叫びながら、『町データ』を呼び出す。
狼族達が信秀を守るように取り囲む中で、信秀はその能力を初めて人前で使った。
◆
北から裏切りを知らせる銅鑼が聞こえてくると、東西の石垣にいた獣人らは、砲兵のみを残して北へと群がった。
現在、東の石垣の砲兵を束ねるのは鹿族の族長である。
その年はまだ若く、30を僅かに過ぎた頃。
彼は一年ごとに行われる競技会において、常に入賞を果たし、遂には豹族を破って短距離走で一番をとった。
血筋も前族長の系譜であり、競技会の功績をもって、若くして族長となったのだ。
「目標の変更完了!」
砲兵からの報告が届くと、若族長は「よし!」と満足気な声を発する。
この時、大砲の照準は全て北門へと向けられていた。
無論、大砲を簡単に撃つつもりはない。
大砲を放てば容易く信秀を討てるかもしれないが、その代償として北の石垣に甚大な被害を及ぼす。
北の石垣が崩れれば、シューグリング公国との戦いは厳しいものになるだろう。
ちなみにシューグリング公国の支配下に入るつもりはない。
それでは町の支配者が、信秀からシューグリング公国に変わるだけだ。
魚族からは反乱の手順が与えられている。
まずは狼族であるゴビが刺客となって、信秀を討つ。
それが失敗した時には、全獣人でもって信秀を囲み、降伏を促す。
そして信秀が降伏に従わず武器を手にした時には、獣人らは北の石垣から脱出したのち、最終手段である大砲による攻撃を行うのだ。
「うまく事が運べばよいが……」
北の石垣を眺めながら、若族長は呟いた。
銅鑼が鳴った。それは暗殺が失敗したということだ。
もし信秀が徹底抗戦の構えを見せれば、多くの者が犠牲になるだろう。
不意に、やはりこんなことは止めるべきだったか、なんて考えが若族長の脳裏に浮かんだ。
信秀に対し一応の恩がある。
狼族に対しても知らぬ仲ではない。
(この期に及んで、まだ未練か……)
若族長は、頭を軽く振って己が愚考を諌めた。
勢いに任せて、反乱に賛成した。
浅慮であったと言われても、仕方がないことだ。
だが、もう後戻りはできない。
賽は既に投げられた。
後悔など、それこそ今さらな話なのだ。
若族長は胸元のペンダントを握る。
それは競技会で一位となり、手に入れた栄誉。
ペンダントを握った時、若族長は心を平静に保つことができる。
それは、そのペンダントが若族長の誇りであり、自信となるものであったからだ。
――すると。
若族長は、ペンダントを握っていた方とは別の手から、突如、異変を感じた。
右手に掴んでいたはずの槍の重みがなくなり、代わりにあったのはドロリとした感触。
視界の端でも、その異常は捉えている。
若族長はすぐに視線を右手に向けた。
「な、なんだこれは!?」
驚愕。
なんと、手にあった【短槍】が、泥と化していたのである。
「うわっ! 俺の槍が!」
「ゆ、弓が無くなっちまったぞ!」
辺りから聞こえてくる、驚きの声。
顔を向ければ、槍が、弓が、と砲兵らの誰しもが慌てふためいていた。
「まさか、武器の全てか……!?」
泥となった【短槍】は地面に落ちると、吸い込まれるように消えていった。
しかし、異常はこればかりではない。
「ぞ、族長! 大砲が!」
「なに!?」
砲兵の悲鳴に誘われて、若族長が【四斤山砲】へと視線を向けた。
「そ、そんな馬鹿な……」
若族長の口から漏れでたのは、またしても驚き。
石垣に沈み込むように、【四斤山砲】はその身を下部から泥へと変えていったのである。
なんだこれは、何が起きているのだ、と若族長は当惑した。
理解の範疇を超えている。
目の前に確かにあったものが、反乱を成功させるためのものが、人間に対抗するためのものが、今、消えてなくなろうとしているのだ。
「ど、どうすれば……」
若族長は狼狽えるばかり。
だが、異常はまだ終わらない。
今度は凄まじい音が、若族長の足下から聞こえてきた。
「今度はなんだっ!?」
次から次へと起こる不測の事態に、もう勘弁してくれと泣き言を吐きたい気分であった若族長。
次なる異常はなにかと足下を見る。
しかし、音が鳴るばかりで、一見すると石垣にはなんの異常もないように思える。
「ぞ、族長ぉぉぉっ!!」
ひときわ激しい悲鳴が響いた。
若族長が、今度はなんだと面を上げてみれば、その異常ははっきりと認識できた。
「まさか……まさか、まさか、まさかっ!」
その驚きは、これまでのものとは桁違いに大きい。
しかし、それも当然であるといえよう。
何故ならば、目の前の景色が段々と下へとずれているのだから。
「まさか、この石垣も沈んでいるのか……っ!」
己の視線がゆっくりと下がっていく。
それは自身が立つ石垣もまた、下部から泥となって沈んでいることを意味していた。
「ああ……」
もはや、どうしようもない。
町を囲む石垣が無くなるということは、町の終焉に等しかった。
その意味を理解した若族長は力なく、崩れ落ちるように、その場に膝をついた。
砲兵らの指示を乞う呼びかけが聞こえる。
しかし、若族長は胸元のペンダントを握りながら、途方に暮れるばかりであった。
ちょっと終わらなかったです。
次回はもうちょっと早く更新できるように努力します。