44.ミラとミレーユ 1
ある日の午後のことである。
ミラが、昼食を載せた盆をもってミレーユの部屋を訪ねた。
襖を開けると、ミレーユは畳の上で目を閉じて座っている。
またか、とミラは思った。
ミレーユは旅館の一室に閉じ込められて以後、なにをするでもなく、ただジッと座っているだけ。
朝も昼も晩も変わらない。
動く時といえば、食事をする時か、厠に行く時か、風呂に入る時くらいなもの。
端から見れば、とても生きているとは思えず、それはまるで人形のようであった。
「食事だ」
「すまない」
ミレーユが目を開けて一言だけ礼を述べた。
互いに必要最低限の言葉しか交わさないのは、いつものことだ。
ミラが机の上に盆を置くと、ミレーユは使い慣れていない箸を手に取った。
その指はどちらが箸なのかわからないほどに細い。
いや、指ばかりではない。
肉は痩せ、骨は秀で、目は窪み、ミレーユの姿はまるで幽鬼のようである。
「……ちゃんと食べているのか」
ミラが、ミレーユの有り様を見かねて、遂に最低限以外の言葉を口にする。
「心配してくれるのか?」
啜っていた味噌汁の椀を置いて、ミレーユは尋ねた。
その口許には、微かな笑みを携えて。
ミラはその微笑にドキリとした。
儚さの中にある美しさ、ともいうべきか。
触れば壊れてしまいそうな脆弱さは、その微笑によく映え、言い様のない艶やかさを演出していた。
「……」
「……」
互いに目を見つめて沈黙する。
やがて口を開いたのは、ミレーユであった。
「ああ、食べている。それはお前も知っているだろう」
時折他の者に代わってもらうこともあるが、基本的にはミラがミレーユの世話を行っているのだ。
それゆえ、ミレーユが食事をとっていることは、ミラ自身がよく知っていた。
「ならば、今のお前の姿はなんなのだ」
食事はしっかりとっているのに、ミレーユは日増しに痩せ衰えていく。
これはもう異常という他なかった。
「さあな」
そうミレーユは答えたが、ミラにはミレーユが異常の原因を知っているように思えた。
「お前が死ねばフジワラ様が困るんだ。なんとかしろ」
「ふっ、なんとかしろと言われてもな。こればかりはどうしようもない」
これ以上、何を言っても無駄だろう。
ミラはもう何も言わず、部屋を去っていく。
今日も変わらない。
食事をし、用を足し、垢を落とし、黙想する。
昨日と同じことを、ミレーユは今日も繰り返すのだろう、とミラは思った。
◆
ミレーユは、静かに座りながら女獣人のことを考えていた。
その名はミラ。
名乗られてはいない。
ただそう呼ばれているのを聞いただけだ。
ミラの振る舞いを思い出す。
その所作の一つ一つが体の理に適っており、無駄というものがない。
相当の修練を積み、体の使い方を熟知しているのだろう。
――と、そこまで考えて、ふっと自嘲した。
戦いなんてものは、もうどうでもいい。
強さになんの意味もないことを知った。
いかに鍛えようとも、どうにもならないことをミレーユは今回の戦いで嫌というほど理解したのである。
弱者にも強者にも等しく訪れる死。
目を閉じれば、散っていった多くの者の死がまぶたの裏に浮かぶ。
ただそれを、ミレーユはジッと眺め続けていた。
やがて夜となる。
ミレーユの耳に襖の開く音が聞こえた。
「食事だ」
ミラの声であった。
目を開けて、ミラが机に置いた膳を覗く。
「今宵は品数が多いな」
米に、魚に、馬肉。飲み物には駱駝の乳。
さらに果物もあった。
とても捕虜に出す食事ではない。
「……お前のことを報告したら、精のつくものを、と言われた」
「そうか。少しばかり痩せたくらいで、こんなうまそうな食事が出るのなら、いっそのこと寝たきりになってやろうか」
「おい!」
「冗談だ」
クックッと笑うと、ミラは怒ったように立ち上がり部屋を出ていった。
やがて食べ終わり、暫くしてミラが食器を片付けにやって来る。
ミラが何も言わずに、食器の乗った盆を持って出ていこうとしたところ、ミレーユの口が自然と動いた。
「待て」
ミレーユは自分でも何故呼び止めたのかわからなかった。
だが、呼び止めたのならば仕方がない。
ただ口が動くままに任せた。
「お前の名前はなんという」
「……ミラだ」
名前は知っていた。
だが、その口から聞きたいと思っていた。
「私の名前はミレーユだ。少し似ているな」
名前は少し似ている。
いや、名前だけではない。
女でありながら、武を振るうところがよく似ているとミレーユは思っていた。
他の女の獣人もそうなのかと考えもしたが、何人か見たところ、どうやらミラだけが特別らしい。
「どうした」
名が似ていると言われ、あからさまに顔をしかめたミラに対し、ミレーユは尋ねた。
「私の名は母さんが付けてくれた誇り高い名だ。人間の名と一緒にするな」
「人間が憎いか」
「ああ憎い。八つ裂きにしてやりたいくらいに憎い」
「この町の長も人間ではないか。フジワラは憎くないのか?」
「……」
ミラは僅かに押し黙り、そのまま部屋を出ていった。
ミレーユはしばらくミラが出ていった襖を見つめていたが、やがて瞑目し黙想を始めた。
翌日も、そのまた翌日も、ミレーユはミラに話しかける。
何故こんなにもミラのことが気になるのかはわからない。
だが不思議なことに、ミラと話し始めてから、ミレーユの体の衰えは止まっていた。
「私は何もかも失った」
「獣人達から何もかも奪ってきたくせに、どの口が言う」
「お前も奪われたのか」
「ああ、お前達人間に土地と母を奪われた」
「そうか。そして今度は私達の番か」
ミラは答えなかった。
ざまあみろ、の一言でも口にすればいいのに、それをしなかった。
そしてミラは食器をもって去っていく。
ミラがいなくなればミレーユはもうやることもない。
再び目を閉じて、誰かの死を省みるだけだ。