108.建国から八カ月~十カ月(春)、首刈り将軍
信秀がのんきに結婚式を挙げている頃、エド国の南東ではイニティア王国軍と東方諸国連合軍が激戦を繰り広げていた。
城に籠って守勢に回っているのがイニティア王国軍――とは名ばかりの旧ドライアド諸侯軍。
その城を落とそうと城壁に攻撃を加えているのが、東方諸国連合の盟主たる現ラシア教教皇エヴァンス・ホルト・エン・ブリューム率いるエルドラド教国軍である。
「ラシアの神の名の下に、敵に裁きを与えよ!」
エルドラド教国の軍中、四頭の巨馬に牽かせた台座の上からラシア教皇エヴァンスが、頬の肉を揺らしながら怒鳴り声を上げた。
その指揮に従って、投石機からは人の頭ほどの石が飛び、破壊槌が門を打ち破ろうと前進する。
「殺せーっ!」
「異端者どもを皆殺しにしろぉ!」
戦場の声はかくも激しい。
活躍するのは攻城兵器のみならず、夥しい数の兵士が雲梯を城壁にかけて城を攻め立てていた。
しかし、なんたることか。
攻撃を始めて一週間が経とうとも、城が落ちる気配は全くない。
これにより、エヴァンスの機嫌は段々と悪くなっていく。
そもそも城攻めにエルドラド教国軍しか参加していないのは、教皇の威光を示さんがため。
城を守るのが大砲を持たないドライアドの残党であることを知ったエヴァンスが、他の諸国軍に参加しないよう働きかけていたのだから、その機嫌の悪さも当然のことといえよう。
このままでは教皇としての面目は丸つぶれ。
そのことがエヴァンスの怒りを十倍せしめていたのである。
「この愚図どもが! 今日までの無様はなんだ! 相手はたかがドライアドの残党だぞ!」
城からそう離れていないエルドラド教国の陣営にて、とうとう教皇エヴァンスの怒りが爆発した。
旧ドライアド諸侯軍が弱兵ばかりなのは有名。
されど、攻めきれないどころか、自身の軍の被害の方が甚大であるのは一体どういうことか。
幕舎に集められた将軍たちに向かって、エヴァンスは額の血管を怒張させ、口汚い言葉で罵り、憤懣やるかたなしといった様子である。
「しかし教皇猊下――」
「言い訳はいらん! 次に口答えする者があれば誰であれ打ち首にするぞ!」
取りつく島もないとはまさにこのこと。
エヴァンスの暴虐さに、将軍たちは「ひぃ」とばかりに口をつぐみ、視線を下げる他はない。
だが、これは将軍たちに反論をさせないためではない。
どのような反論が来るかがわかっていたからこそのエヴァンスの言葉であった。
(こうまで城を落とすのに手間取る原因。それは、戦の経験などないエルドラド教国の兵士の、あまりの弱さゆえだ。
ドライアド諸侯軍は確かに弱兵揃い。しかし、エルドラド教国の兵士たちは、兵としての体すら取れてはいなかった)
さて、どうするか。
怒りをぶちまけてある程度の落ち着きを取り戻したエヴァンスは、思案した。
やがて、一つ閃いて各将軍たちに言う。
「よいか、これより褒賞は三倍だ。さらに一番乗りを果たした者には金貨五十枚。敵将の首を討った者には、どのような身分の者であれ爵位を与える。無論、軍を率いた将軍にも莫大な恩賞を与える」
兵士たちは皆貧民である。
なればこそ、金という獲物を目の前にぶら下げれば、貧民たちは飢えた狼となり、命の限りを尽くすだろう。
命は金で買えるのだ。
「おおお!」
「それならば、必ずや勝てましょうぞ!」
将軍たちは意気盛んとなり、その日の軍議は終わった。
翌日、エヴァンスの考えの通り、エルドラド兵たちは目の色を変えて戦いに臨んだ。
あまりにも弱すぎたエルドラド兵士は、なんとか対等にドライアド兵士と戦えるようになっていたのである。
両軍の戦いは凄愴を極めた。
弱兵対弱兵。
しかし、いかに弱兵同士であろうとも行きつくところは人の死。
城壁の上にも下にも屍は積み上がり、壁を滴る血は滝のごとく大地を流れる血は川のごとく、戦場ならば当たり前の無惨極まりない有様が広がっていた。
そのような戦いの中のこと。
先に音を上げたのは旧ドライアド王国の諸侯軍であった。
「もう嫌だ、いくら待っても援軍は来ない! このままでは死ぬだけだ!」
「相手は後方に万全の兵が控えているというのに、こっちは援軍の影すら見えないぞ! 俺たちは見捨てられたんじゃないのか!」
敵の攻撃が止んだ夜、とうとう末端の兵士たちの蓄積された不満が噴出したのである。
上官たちの「援軍が来るまでの辛抱だ」などという口先だけの言葉は、もう通用しない。
何人か斬って捨てて強制的に黙らせるのも手ではあるが、それはさらなる不満の蓄積を生む。
この一大事にドライアドの将軍たちは頭を悩ませた。
兵士たちは知らぬことであるが、レアニスから彼らに与えられた命題は、七月までただひたすらに耐え忍ぶこと。
あと二カ月以上もあるのだ。
士気の低下は著しく、明日にでも兵士たちは白旗を振って投降するかもしれない、絶望的な状況。
しかし降伏だけは絶対にできない。将軍以下、軍の高官たちは、レアニスによって、家族が人質に取られているのだから。
将軍たちは話し合い、ある作戦を決めて、兵士たちには一日だけ待つようにと説明した。
その一日で何が変わるのか。
取るべき手段は限られている。
翌朝、空も白いうちから城の門前には、馬上の騎士があった。
たった一騎。
されどその騎士は、エルドラド教国の歩兵部隊が三百歩の位置まで前進してくると、その眼前に躍り出た。
「遠からん者は音に聞け、近くば寄って目にも見よ! 我こそはドライアド最強の騎士クリストファー・バーナーなり! 匪賊共よ! この俺と槍を交える度胸はあるか!」
エルドラド教国軍に対する一騎討ちの申し出。
これこそがドライアドの将軍たちの作戦であったのだ。
兵の士気がそがれた時、それを奮い立たせるのは強き将の存在。
その白羽の矢が立ったのが、金色の髪が眩いクリストファー・バーナー。
三十に達して間もない若者であり、容貌群を抜いた偉丈夫であったが、秀でていたのは姿ばかりではない。
槍の腕前は万夫不当と言われ、ジョストと呼ばれる一対一の馬上槍試合においては一度たりとも敗れたことのないドライアドきっての猛将である。
しかし、エルドラド教国軍から聞こえたのは「わはははは!」という笑い声。
「ドライアド最強の騎士が聞いて呆れるわ! ドライアドがイニティアに敗れた時、お前はどこにいたというのだ!」
エルドラド教国軍の歩兵部隊を率いる隊長が、クリストファーを嘲笑した。
これには皆大笑いである。
その通りだといわんばかりに、罵声やからかいの声が飛びかった。
だがクリストファーは何食わぬ顔で言う。
「レアニス様こそが真の教皇猊下であり、ゆえに我らは敗れた! 神に抗う不届き者どもよ! 己が正しいと思うのなら、その槍で我が槍を見事砕いて見せよ! 神は正しき者にこそ勝利をくださることだろう!」
「はっ、おもしろい! 隊長、この私めがあの思い上がりに少々稽古をつけてやりましょうぞ」
隊長の隣にあった全身甲冑を身に纏った騎士が、馬を進めた。
その者、歩兵隊の副隊長であり、手に持つ獲物はランスと呼ばれる円錐型の馬上槍。
「我が名は、ライアン・スタンリッジ! 我が無双の槍を受けてみよ!」
馬を勢いよく駆るライアンの手から、えいや! と突き出されたランス。
クリストファーはそれをひらりと躱し、敵ではないとばかりに、ライアンを馬から叩き落した。
「命まで取ろうとは思わん」
ライアンの喉元に槍先を突き付け、涼しい顔で告げるクリストファー。
惚れ惚れするような騎士っぷりである。
クリストファーが片手を上げると、後方の門より兵士が数名やって来て、ライアンは捕虜として連れていかれた。
これを邪魔する者はいない。
敗者をいかに扱うかは勝者の権利であり、騎士の習いであったからだ。
「さあ次は誰だ!」
クリストファーは槍先をエルドラド教国軍に向けた。
その気勢に当てられて、おおう、とエルドラドの兵士たちに動揺が走る。
しかし槍の穂先が向けられたのは軍にあらず、大将旗。すなわち現ラシア教皇エヴァンスへの挑発だ。
すると新たに現れた者がある。
「儂の名を知っておるか!」
白髭を蓄えた、六十は超えているだろうと思われる皺くちゃな顔。
されどその五体は年齢を感じさせないほどに大きい。
手にある両刃の手斧は、馬上で扱うには少々長さが足りない。
「名乗られよ!」
「儂の名はグレッグ・ボードルソン! 先代の教皇猊下様より仕えて三十年、いまだ儂の腕は錆びついてはおらぬぞ! はぁッ!」
名乗り終わると共に、グレッグの手から投げられた手斧。
しかしクリストファーが厚手のガントレットでそれを弾き飛ばす。
その間にもグレッグは腰の長剣を抜き、両者の馬が交錯した。
結果はグレッグの胸元に槍を一刺ししたクリストファーの勝利。
哀れ、クリストファーの後ろを走っていく馬の背に、グレッグの姿はなかった。
「ご老体、血は流れども肉を抉ったのみ。死にたくなければ動かぬことだ」
大地に横たわった老将軍グレッグにクリストファーは告げた。
胸部の鎧を貫かれてなおグレッグに息があるのは、クリストファーが手心を加えたゆえのこと。
鎧を貫く勢いで繰り出した槍を、骨を砕かずに留めたのはまさに神業である。
「さあ次は誰だ! それとも多勢にて我をなぶって見せるか! それもよかろう! 我は騎士として、さらにはラシアの敬虔なる信徒として、この命尽きるまで戦い抜いてくれようぞ! さあ匪賊共よ、存分に恥を晒すがいい!」
クリストファーの大喝。
己が正当なラシアの信徒であることを唱えることで、相手にも誇りある対応を迫ったのだ。
こうとなっては、教皇エヴァンスは配下の将をもって、一騎討ちに応じる以外に道はない。
この戦いは、真の教皇を決める戦い。
体裁というものが何よりも大事であるのだ。
「ぐうう……! 誰か、あの異端者を討ち取ろうという者はおらんのか!」
エルドラド教国軍の大将旗の下、台座の上で立ち上がり様子を窺っていたエヴァンスは、怒り任せに御者を鞭で打ちすえながら叫んだ。
こののち配下の手練れが三名挑んだが、いずれもクリストファーに土をつけることはできず、以後は誰一人として挑もうとする者はなかった。
もはやエヴァンスにはどうすることもできない。
あとは、クリストファーが門前からいなくなるのを待つのみといったところ。
だが、十日が過ぎようともクリストファーは門前に構え続けていた。
恐るべき気骨の士である。
クリストファーが立ちはだかる限り、エルドラド教国の軍は動くことができず、エヴァンスは仕方なく救いを外に求めた。
『勇将求む』
これを東方諸国連合の各軍に通達したのである。
数日後、各国軍の腕に覚えのある者たちが招集され、軍本部となる巨大な幕舎にて一堂に会した。
言うまでもないことであるが、後方支援に当たっていたサンドラ王国赤竜騎士団団長ミレーユも、一人の武人としてこの会合に参加している。
「英雄たちよ、よくぞ集まってくれた。
既に門の前を見たであろう。クリストファーなる憎き賊将が我が軍の侵攻を阻んでおる。私は礼儀という者をわきまえている。多勢にて捻りつぶすのは容易であるが、一対一の勝負を望むのであれば受けて立たずにはおれん。
そこで諸君らを呼んだ。誰ぞ、かの賊将を討たんとする者はいないか」
集まった各国の武将たちに、簡単にではあるが現在の状況を語ってみせるエヴァンス。
これを聞いたある武将は言う。
「クリストファーといえば、ジョスト(一対一の馬上槍試合のこと)にて負けなしといわれた百戦錬磨の騎士ですぞ。ドライアドでも最強と名高い戦士。簡単にはいきますまい」
ざわりとしたさざめきが、幕舎の中を支配した。
強者は強者を知る。
見せかけばかりのドライアドにあって、クリストファーなる本物の武人がいるという話はここにいる多くの者が耳にしている。
「腰抜けどもめ! いいだろう、それならばこのエヴァンス・ホルト・エン・ブリューム自らが命に代えてもあの異端者を打ち倒して見せようぞ!」
ガタリと椅子から立ち上がって、エヴァンスは吠えた。
勿論はったりである。
エヴァンスにそのような考えは毛頭ないし、この場にいる将軍たちもそれは理解している。
しかし、実際にエヴァンスが腰を浮かして見せれば、その場にいる者たちは止めざるを得ない。
万が一があってはならないし、武名を轟かせた騎士としてエヴァンスにこうまで言われるのは恥以外の何物でもなかったのだから。
こうして、さらに二名の武将がクリストファーに挑むことになったが、奮戦むなしくも敗れ去り、旧ドライアド諸侯軍の捕虜となった。
◆
その日もクリストファーは門前にありながら、思考を巡らしていた。
(既に七名の敵将を生け捕りにした。このままあと一ヵ月と少し、いけるだろうか)
圧倒していながらも、クリストファーの内心は不安でたまらなかった。
東方諸国連合軍にはまだまだ猛将たちが控えている。
実力では劣るつもりはないが、連戦のうちに傷を負わないとも限らない。
そうなれば、終わりだ。
己以外に立ち向かえる者はいない。
しばらくして正面の軍がやかましくなり、クリストファーも意識をそちらへと向けた。
寄り手の軍より一騎が駆けてくる。
一騎討ちの新たな相手だった。
目を凝らして見てみれば、槍の代わりに一回り長い剣を握った、黒い髪、黒い鎧の女。
女であるということに思うところあって、クリストファーはわずかに眉を動かしたが、すぐに考えを改めた。
戦時において男女などは関係ない。
勝か負か、生か死か。ただそれだけだ。
クリストファーは馬の腹を蹴って、女のもとへと駆けつける。
ややあって両者相対し、互いに手綱を引いた。
「俺の名は知っていよう。今更名乗る必要もあるまい。お前はなんと言う」
まず口を開いたのはクリストファー。
これに黒い鎧の女が答える。
「アカリ・タチザワ」
「首刈り将軍か」
カスティール王国の精鋭部隊――哭奇隊。
その将軍アカリ・タチザワについてはクリストファーも耳にしていた。
荒くれ者たちを暴力で束ねる、女将軍がいるという話だ。
異名は首刈り将軍。
敵も味方も、自身の意にそぐわない者は等しくその首を刎ねることからつけられた名だという。
「相手にとって不足なし」
クリストファーは不敵な笑みを浮かべて、槍を構えた。
すると剣を空高く掲げるアカリ。
なんだ、と思ったのも束の間、アカリの後方より砂塵が舞った。
敵軍より一部隊が動き始めたのである。
旗印はカスティール王国の紋章。
つまり、アカリが自身の部隊を動かしたのだ。
「貴様、一騎討ちの作法を蔑ろにする気か!」
「私には関係ないことだ。軍を止めたければ私を倒すことだな。もっとも、私は逃げさせてもらうが」
言うが早いか、アカリはくるりと馬首を返して、軍のいない彼方へと駆け去ろうとする。
アカリのまさかの行動に、一瞬あっけにとられたクリストファー。
しかし、自身もすぐに馬を走らせた。
追いつけないわけはない。
一日ごとに馬だけは変えていた。
どれも名馬であり、今日乗っていた馬も駿馬である。
加えて、己は馬に乗って育ったといってもいい。
対してアカリの乗馬は、それほどでもなかった。
あとは追いつき、討ち取るのみ。
クリストファーは自身の馬に呼吸を合わせながら、アカリの背を追った。
その途端――。
「なに!?」
クリストファーの視界がずるりと沈んだ。
いや、と思い直す。
沈んだのは己の馬だ。
「落とし穴か!」
クリストファーが乗る馬の両前足が、ズブリと深みにはまっていた。
さほど大きくない穴。それゆえに見抜けなかったのだ。
これを好機と見たか、馬を翻したアカリが迫ってくる。
クリストファーが選んだのは、槍を投げつけて敵の機先をずらし、その間に馬を捨てて窮地から脱すること。
穴とそこにはまった馬を盾にすることで、クリストファーはアカリと距離を取り、第一刀を避けることができた。
隙をついて、小柄が飛んできたが、それもガントレットで弾きおおせた。
クリストファーはすぐさま立ち上がり、腰の剣を抜いて万全の態勢をとる。
するとアカリも馬を下りた。
「馬上の優位を捨てるか」
「生憎とこちらの方が得意なんでな。それより足元には気を付けた方がいいぞ」
「……ふん、しらじらしい」
落とし穴が誰の仕業であるかは明らかだった。
卑怯者め、と罵りたいところであったが、それどころではない。
互いに構えてみればよくわかる。
この女は強い、とクリストファーは思った。
既に馬が抜け出し、空となった穴。
それを挟んで向き合っていた両者は、じりじりと横にずれながらも、互いの距離を少しずつ詰めていく。
もはや互いが一歩踏み出せば必殺の間合い。
両者の踏み込みは同時であった。
「せいやっ!」
クリストファーの口から発せられた裂帛の気合。
瞬間、クリストファーは振りかぶった剣を、上段に打ち込んだ。
アカリがそれを横にいなして斬り込んでくるが、クリストファーの絶技の神髄は恐るべき速さの重心移動にある。
どんな態勢からでも、間髪を入れずに重心を移動させることにより、最速にて必殺の二撃目を放つことができるのだ。
秒という単位すら遅く感じられるような速度で放たれた、クリストファーの切り返し。
これには、さすがの首切り将軍も攻撃を取りやめ、剣を盾にして後ろに跳躍することしかできない。
だがこの時、戦慄していたのはクリストファーの方である。
(切り返しは完璧なタイミングだったはずだ。何故あれを避けられる……!?)
その背中にジワリとしたものが滲んだ。
クリストファーは絞るように剣の柄を両手で握りなおし、構えを小さくする。
突きを主体とした、最短を狙う構えである。
(避けられるのならば、避けられない剣を放てばいい)
そう思って再び放った剣は、しかしまたしても剣でいなされ躱された。
どれだけ突こうが払おうが、中空を舞い散る花びらのように、アカリはひらひらとしてまるで手ごたえがない。
目の前の女は超絶した剣の技法と、動くもの全てを捉えきる驚嘆すべき目を持っていたのだ。
「ぐっ」
やがて一瞬の隙をつかれ、アカリの剣がクリストファーの頬をかすめた。
クリストファーは相手を遠ざけるように横一文字に剣を払い、自身も後ろへと跳ぶ。
互いに距離を取り、仕切り直しとあいなった。
両者隙を窺い、ピリピリと張り詰めるような空気が流れる。
クリストファーが頬に受けた傷は、肉を裂き、頬から首元まで真っ赤に染まっている。
重傷とは程遠い傷。
されど、流れ出る血と焼けるような痛みはクリストファーに命の危機を感じさせていた。
(面白い……!)
己の頬に傷をつけた目の前の女は、まごうことなき強敵。
そのことがクリストファーの身体を奮起させたのだ。
これまで圧倒的力量差で敵を下してきたクリストファーである。
初めて目の当たりにした己よりも強いかもしれぬ相手に、もはや自身の役割などどこに求めようもない。
内にあるのはただ一つ。
武芸者として目の前の相手と存分に戦い、見事討ち果たしてみせんという一心のみ。
(俺は越えて見せるぞ、目の前の壁を!)
どくりと高鳴る心臓。
血流が巡り、クリストファーの強い意志を全身へと運んだ。
それを受け取った細胞の一つ一つが、目の前の難敵に勝利し生を掴もうと凄まじい力を発揮する。
「はあ!」
気合一閃。
クリストファーのが新たに繰り出した剣は最短最速でありながらも、驚くべき重さを秘めていた。
続けざまに一撃、二撃、三撃。
圧倒的暴力の連続である。
剣撃は暴風と化して、いなす間すら与えずにアカリの剣にぶつかった。
これには、先ほどまで涼しい顔をしていたアカリの表情も、苦し気なものへと変わっていく。
この時、クリストファーの勝利は目前であったといえよう。
だが――。
(勝てる……!)
そう思って次に放った一撃はしかし、わずかな鈍さを含んでいた。
この極限ともいえる戦いにおいて、それはあまりに致命的。
クリストファーは自身の体の変調と共に、一瞬で理解した。
「毒か」
そう呟いたとき、既にクリストファーは胸を貫かれていた。
あの頬をかすめた一刀。
あの瞬間、既に勝負は決していたのだ。
アカリの剣に塗られた毒は、頬から入り、血流によって全身を巡り、五体の機能を不完全のものとしていたのである。
ドッと音を立てて崩れ落ちるクリストファー。
アカリはその首を両断し、それを手に軍へと帰っていく。
これぞまさに首刈り将軍の本領発揮であった。