107.建国から五カ月~七カ月(冬)→八カ月(春)、結婚 2
そこはジハルの屋敷の居間。
昼の眩しい陽の光が障子を透り、淡い加減となって部屋全体を照らしている。
その光の中でジハルは囲炉裏の前に座り、火をじっと眺めていた。
(フジワラ様との婚姻か……願ってもないことだ)
ジハルの口角が小さな弧をつくった。
つい先日決まった、信秀と自身の部族の者とを婚姻させようという話を思ってのことである。
自身、どのようなことがあろうとも信秀についていくという固い意思を持っている。
信秀のためならば、命さえ捧げようとする気概もある。
ゆえに、たとえあの時、北の森の六部族から婚姻者を出そうということになっても、ジハルは何も言わぬつもりであった。
(町は一見すれば安定しているが、その歴史は浅く、何がきっかけとなって瓦解するかはわからん。ただでさえフジワラ様より多大な信頼を得ている我が部族が、これ以上、他の部族を押しのけようとすれば異種族間の和を乱すことになりかねない)
思い起こされるのは、かつてのサンドラ王国の南にあった町。
あの町にも多くの種族が暮らし、そして裏切りが起こった。
今となっては裏切りの確かな理由など不明であるが、その理由の一つには信秀と抜きん出て親密であった己が部族の存在があるのではないかという気にさせられる。
だからこそあの時と似た状況にある今、信秀の命令以外のことで積極的にするような行動をするつもりはない。
しかし、六部族は婚姻の話をこちらに譲った。
それまさしく願ってもないこと。
信秀との婚姻を、決して望まなかったわけではない。
信秀に対し誰よりも忠節が深いからこそ、常に隣にありたいという思いがある。
ふふふ、とジハルは笑みを浮かべながら、火箸で囲炉裏の炭をつつく。
だが、まだ喜ぶのは早い。
信秀との婚姻を成功させるには、越えればならない二つの関門があるのだ。
すなわち、こちらが勧める婚姻者の心と信秀の心である。
「族長、護衛隊長が参りました」
襖のすぐ向こうから聞こえた下女の報告。
ジハルが通すように命じると襖が開き、下女の後ろからある女性が入室する。
その者こそ、一つ目の関門。
「よくぞ来たな、ミラ」
ジハルは立ち上がり、にこやかな笑みを浮かべて、ミラを迎えた。
信秀の護衛の長を努め、常にその傍にいる者――ミラ。
彼女こそ、己が主に相応しいと見込んだ女性である。
「さ、座りなさい」
「はい」
ジハルが再び囲炉裏の前に腰かけ、ミラはその斜め前に座った。
なお、ミラには今日の本当の要件を教えてはいない。
ただ、久しぶりに落ち着いて話が聞きたい、と伝えただけである。
ジハルは、囲炉裏に吊るされたヤカンを手に取って椀に湯を注ぎ、それをミラに差し出して言う。
「どうだ、最近の調子は。警護の任務はうまくいっておるか」
「常と変わりありません」
「うむ、そうか。つまり平和ということだな。しかし、油断はせぬように。いつ何時であろうとも注意を怠るな」
「はっ、心得ております」
きりりと引き締まった眉と、揺らぎのない双眸。
ミラには凛然という言葉がよく似合う。
しかし言い換えれば、それはお堅いということ。
そのような者に、なんと切り出せばいいものか。
難しい娘だとジハルは思った。
「日本語の勉強はどうだね」
「……私にはあまり向いていないように思います」
肩を落とすようにしてミラは答えた。
ジハルも彼女の答案は見たことがある。
ミラは自身の名前をいまだに『ニラ』と書くほどに不出来。
されど恥ずかしいことではない。
依然として日本語を自在に操れるのは、唯一アザードのみ。
それ以外の者は、皆まだまだといえる。
「まあ、誰しも向き不向きはある。お主に与えられた役目はフジワラ様の警護。日本語についてはゆっくりと覚えていけばよい」
「そう言っていただけると助かります」
一拍の呼吸。
ここが話の区切りと見たのか、ミラが手元の椀に口をつける。
ジハルもまた椀を手に取って、湯で喉を潤した。
(前置きはこの辺りでいいだろう)
互いの椀が床に置かれれば、話はとうとう本題へと移る。
「時にどうだ。お主もいい歳だ。好きな男の一人や二人はいるのかの?」
「は……?」
言葉の意味をすぐには理解できなかったのか、ミラは困惑した表情を見せた。
しかし時間が経てば、その顔は仄かに赤色を帯びていく。
初心な娘。
潔癖ともいうべきか。
ミラの浮いた話など、ジハルはこれまで一度も聞いたことがない。
(これならば誰彼と好き合っているということもあるまい)
ジハルは心中でホッと安堵のため息を吐いた。
とりあえず第一の関門は五分ほど開いたと言っていいだろう。
「と、突然、何をおっしゃるのですか!」
普段の毅然とした態度とは打って変わったその姿。
慌てるミラの様子がとてもおかしく、そして微笑ましい。
若き者の色恋は老人の楽しみだ。
若き者が愛を育むことは、すなわち未来を築くことを意味する。
部族の者は皆、我が子だと思っているジハルである。
嬉しくないわけがない。
だが、今はそのような享楽に耽る時でもない。
「実はな、今日は一つお主に頼みたいことがあって呼んだのだ」
残り五分の門を開かせねばならない。
それすなわち、ミラが信秀の妻となることを承知するかどうか。
無論、ミラがどうしても嫌だというのならば、そこまでの話になる。
信秀がもしミラのことを好ましく思っていたとしても、無理やりの婚姻は望まぬことであろう。
ゆえにジハルは、お願いするように優しい声で言葉を続けた。
「――ミラよ。フジワラ様と夫婦になってはくれんか」
ミラはビクリと肩を震わせ、石のように固まった。
反応はいまいちといったところか。
しかしジハルも、伊達に今日まで族長をやって来たわけではない。
これまでに幾つもの若い男女の仲を取り持ってきた。
その数は知れず、あまりに張り切りすぎて、「おせっかいはやめてください」と迷惑がられたこともしばしばあるくらいだ。
「確かにあの方は人間だ。されど、お前もわかっているだろう。我らはあの方になんの恩返しもできていない」
ジハルがミラの顔を覗き込むように、語りかける。
するとミラは顔をわずかに背けた。
この話題を避けたいという意思が、ミラの態度からは見てとれる。
(まさか、脈がないということなのか……?)
そんな一縷の不安が、ジハルの眼前に大きく分厚い関門を幻視させた。
「もしや、お主はフジワラ様のことが嫌いなのか?」
「い、いえ、そ、そうでは……」
嫌いか否か、その是非を問うてみれば、煮え切らぬ答え。
嫌いでないというならば、なんだというのか。
こういった時、やはり多くの恋の仲立ちをしてきた経験がものをいう。
ジハルはしばし考えて、ははーん、と合点がいくように頷いた。
「さてはお主。フジワラ様に断られると思っておるな? ははは、心配はいらぬ。儂の見立てでは、フジワラ様はお主のことをかなり気に入っておるようじゃ。
それとも何か? 実はフジワラ様は男好きなのでは、という噂を信じているのか? ならば、その心配も無用のことぞ。
確かに儂も一時期疑ったこともあったがの。なんのことはない。ちょっとした機会に尋ねてみれば、女人が好きだと力説されてしまったわ」
安心させようとした軽口。
しかし、信秀は女性が好きだと言うと、ミラの顔はいっそう赤くなったように感じる。
「どうした、何故黙っておる。嫌なら嫌とはっきり言ってもらわねば、こちらも判断に困る」
「その……あの……」
何かを言おうとして、しかし唇を噛んだミラ。
あまりの歯切れの悪さに、ジハルも眉をひそめるしかない。
(実直なミラならば、婚姻を望まないならば望まないと言うはず。だというのに、何故こうも語ろうとしないのか。
仮にフジワラ様に対し好意を抱いていた場合、それが恥ずかしいということも考えられるが、ここまでその思いを口にしないというのもおかしい)
考えても答えなど出ず、いっそう眉間に皺を寄せて悩むジハル。
だがその時、天啓のようなものがジハルの脳裏に閃いて、中央に寄せた眉が大きく開いた。
まさか、としか思えないありえない考え。
ジハルは、信じられぬ、とでもいうような口ぶりでそれをミラに尋ねる。
「お前、もしかしてもうフジワラ様と既にできておるのか……?」
瞬間、ミラの顔は熟れたトマトよりも赤くなって俯いた。
もはや答えはいらない。
ミラが口にせずとも、その反応でわかるというものだ。
つまりは肯定。
信秀とミラは既に結ばれているということ。
しかしそれは、ジハルにとってあまりにも予想外すぎる答えである。
「い、いつからだ……!」
問いつつも、ジハルは自身の声が震えていることに気づいた。
何故このように動揺しているのか。
その理由はわからない。
「そ、その、さ、三年ほど前から……」
「さ、三年……そんなに……」
知らなかった。
全くもって知らなかった。
そしてジハルは理解した、部族の大事を知らなかったゆえに己は動揺していたのだと。
「し、しかし、儂はそんな話聞いてはおらぬぞ。フジワラ様の周囲にはお前の他にも常に部族の者がついているはずだ」
「……あの者たちには、誰にも漏らさぬようにとお願いしていました」
「なんと……」
そのような重要な件が、族長である己の耳に届いていない。
今までそんなことはなかった。
「すみません……」
ジハルに正対すると、瞳を合わさずに頭を地につけるミラ。
ジハルは茫然とミラの頭頂部を眺めるのみである。
一秒、二秒。
備え付けられた柱時計のチクタクと時間を刻む音だけが響いた。
やがて一分が過ぎようという頃、半ば放心しつつあったジハルも自分を取り戻し始める。
確かに驚きはしたが、ミラたちの行動はよくよく考えてみれば、むしろ喜ぶべきことのように思えたのだ。
かつて己が部族のゴビは信秀を裏切った。
だが今日、部族の者は信秀のために、己を裏切ったとまではいかぬまでも部族の不文律を犯した。
これが何を示すのか。
「いや、よいのだ。むしろ儂は嬉しく感じておる。お前たちがフジワラ様に真の忠誠を誓っておる証拠ではないか」
寂しくはある。
部族とは家族ともいえる絆で結ばれており、己はその家長。
しかし現在、部族の者たちは信秀とも決して切れない絆ができていたということなのだろう。
(今まではどこか己だけがフジワラ様と結ばれているような気がしていた。皆、変わっていくのだな)
部族という垣根を越えつつある同胞たちを思い、ジハルは微笑んだ。
それは部族の父としての温かい笑みである。
「頭を上げよ。婚姻の話、受けてくれるな?」
ゆっくり持ち上げられたミラの頭。
その唇から、「はい」という小さく恥じらう声が一つ聞こえた。
◆
【D型倉庫】にて、信秀がカトリーヌとサッカーに興じていた時のこと。
にやにやとした顔でその場に訪れたのは、ジハルであった。
何用であるか。
そんな問いを口にするまでもなく、信秀は理解した。
ジハルの後ろには、面も上げずに恥ずかしそうにするミラがいたからである。
まあつまりジハルの顔は、昨夜はお楽しみでしたね、というものだ。
とうとう関係がばれてしまったということなのだろう。
こうとなっては信秀も観念せざるを得ない。
「フジワラ様、少々お話したいことがありまして」
「ええ、こちらも報告したいことがあります」
ちょうどいい機会だ、と信秀は思った。
もともと結婚について、いつかはと考えていたことである。
躊躇する理由はなく、うぬぼれでなければ、ミラ自身もそれを望んでくれているように思える。
こうして信秀とジハルは互いにいきさつを語り、ミラは終始俯いたまま婚姻の話が進められたのであった。
あっという間に冬が過ぎて、春が訪れる。
まだまだ寒かったものの、いつまでも籠りきりでいるわけにはいかず、人々は冬眠から目覚めた動物たちのように活動を開始した。
また、すぐ南東においては旧ドライアド王国貴族と東方諸国連合軍とが激しい戦いを繰り広げており、その激戦の模様がポーロ商会並びにその他の商会からフジワラ郷に逐一送られて来ていた。
信秀とミラの婚礼の儀が執り行われたのは、そんな春の中ことである。
中門(人間居住区画と異種族居住区画を繋ぐ門)のすぐ横に備え付けられた壇は、早朝より美しく飾り付けられ、午後には儀礼兵が立ち並び、観衆がこれでもかと詰めかけた。
「フジワラ様は本当に獣人と結婚するつもりなのか?」
「今日までの獣人の扱いを見ていれば、別に不思議なことでもないだろうよ。それにだ。逆に考えてみれば、フジワラ様の性癖こそが今の獣人たちの扱いを生んだのではないか?」
「ああ、なるほど」
集まった人々が今日の婚礼について口々に噂した。
人間の王が獣人と結婚する。
人々には、まさかそんな、という驚きがあったものの、これまでの獣人に対する厚遇を考えれば信じられないということもない。
むしろ、これまでの獣人に対する厚遇は信秀がその色香に溺れたためであったのだ、ともなれば納得もいく。
やがて進行役のレイナが「静粛に」と言って場を静めさせると、神官役のオリヴィアが壇上に登り、檀の横の音楽隊が曲を奏でた。
いよいよ新郎の入場である。
中門からカトリーヌに乗った信秀が登場すると、人々はどよめき、それから拍手を送った。
権力には媚びるもの。
そのことを、フジワラ郷に来るまでの苦難の日々がよく教えてくれたし、フジワラ郷に来てからの信秀の気前の良さに、ここでよいしょをしておけば、何かいい目に遭えるという打算もあった。
「おめでとうございます!」という声が雨のように降り注ぐ中、のっしのっしとカトリーヌは壇の下にまでたどり着いた。
ここで信秀はカトリーヌの背から下りて壇上へ行くのだろう。
誰もがそう思った瞬間のことである。
意外や意外、あろうことかカトリーヌは、そのまま信秀を下ろさずに壇上に登った。
「お、おいっ」
悲鳴にも似た声は信秀の口から出たもの。
信秀の制止もカトリーヌには届かない。
神官役であるオリヴィアも、おろおろと狼狽する表情を覗かせていた。
ようやくカトリーヌが止まったのは壇の中央、オリヴィアの真ん前である。
信秀がその背から下りると、すぐに場はざわめいた。
それは何故か。
神官の前に二人の男女――いや、男と牝。
まるで今から婚姻を結ぶ、新郎新婦の体をなしていたからである。
「ま、まさか……!」
「もしかして、フジワラ王の結婚相手はあの聖獣なのか!?」
「さすがフジワラ王だ! 俺たちの予想のはるか斜め上をいきやがる!」
もちろん、そんなわけはない。
すぐ後には、中門より純白のドレスを身に纏ったミラが、ジハルに付き添われて歩いてきたのだから。
これにより人々の中にはホッとした空気が流れた。
獣人が信秀の結婚相手ということに、皆いかがなものかという思いがあったが、さすがに獣よりはマシである。
だが、事態はそう簡単にはいかない。
「お、おい……あの聖獣、花嫁が来たというのにどこうとしないぞ……?」
「まるで自分こそがフジワラ王の花嫁に相応しいと言わんばかりに居座っている……!」
「な、なんという愛だ……! それほどまでにフジワラ様のことを……!」
信秀が何を言おうとも頑として聞き入れようとせず、カトリーヌは信秀の隣の席を譲ろうとはしなかったのだ。
これには、神官役のオリヴィアも口を大きく開けてあっけに取られていた。
やがて大きな拍手が巻き起こり、カトリーヌを応援する声が観衆の中から聞こえてきた。
「俺はあの聖獣を応援するぞ!」
「種族の壁を越えた美しい愛じゃないか!」
人々の思考は、獣よりも獣人の方がマシ、という考えから、どのみちどちらも人間でないのならどちらでもいいじゃないか、という考えに変わっていたのである。
そんな観衆たちの思いを知ってか知らずか、壇上では依然として両者の争いが続いている。
なんとかしてカトリーヌをどかそうとする信秀と、巌のようにピクリともせずその場に居座るカトリーヌ。
この光景は、いつまでも続くかに思われた。
だが、かたくなであったカトリーヌを説得したのはミラである。
カトリーヌの首筋を撫でながら、そっと囁くようにミラは言った。
「大丈夫、お前のご主人様をとったりはしない。ただほんの少しだけでいい。私にもフジワラ様……ノブヒデ様を愛する時間を分けてほしい」
誰がそれを聞いたのか、染み入るような言葉だった。
カトリーヌは「グエ」と一声鳴くと、自ら退き、信秀の隣はミラに譲られた。
これにて一件落着である。
誰もが、そう思った。
されど、そうは問屋が卸さない。
カトリーヌが向かった先は、もう一方の信秀の隣――空いている反対側。
もっと詰めろとばかりにカトリーヌはグイグイと信秀を押し、遂には左からミラ・信秀・カトリーヌの順に三人がオリヴィアの前に並ぶ結果となったのである。
顔を合わせる信秀とミラ。
二人はくすりと笑い合い、こうして二人と一匹での少し変わった結婚式が始まった。
「フジワラ王、貴方はミラを妻として永久に愛することを誓いますか?」
オリヴィアが問えば、信秀が「誓います」とはっきりした声で答える。
この時オリヴィアの口からラシアの神の名が出なかったのは、事前から決められていたことだ。
「ミラ、貴女はフジワラ王を夫として永久に愛することを誓いますか」
「誓います」
同じくミラも愛を誓い、続いてオリヴィアが戸惑いながらカトリーヌの方を向く。
「ええと、そちらのあなたも誓いますか」
「グエエ!」
オリヴィアの必死のアドリブ。
カトリーヌが元気よく答えるが、あいにくとオリヴィアはラクダの言葉など理解できないため、まあいいやとばかりに話を進めた。
「これにてお三方は結ばれました! 私、オリヴィア・フォーシュバリ・ドライアドが今日の誓いの証人であり、またこの場にいる者たちもまた証人です! この婚姻が、人と獣人たちとの懸け橋とならんことを!」
オリヴィアが空に向かって美しい声を叫ぶと、ワッという割れんばかりの歓声がフジワラ郷にこだました。
ここに大陸史上初めて、人間の王と獣人の后が誕生したのである。
春の空には花火が打ち上げられ、音楽隊が曲を奏でる。
中門からはケーキが運ばれて、人々は食べたこともない甘味に酒がなくとも酔いしれた。
今日という日を大いに祝う人々。
その日、人間と獣人の距離が少しだけ近づいた。
前回の誤字脱字の方はまだ確認できていません
連絡くださった方、すみません