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24 硬直した三つの星

 生駒の事務所に上野が訪ねてきた。

 入ってくるなり、小さな紙袋を押し付けてきた。しゃれた万年筆が入っていた。

「ミラノのお土産。それで朱里のことだけど、どういうことなの?」

 ぎごちなく椅子に座った上野。以前の朱里がしたように、部屋を眺め回したりはしない。


「崖から? 恐ろしいことだわ……」

 肩を震わせた。疲れきった顔をしている。

 生駒はメールや電話では言えなかったことを丁寧に説明した。


「ということで、上野さんにも協力して欲しいんです」

 退職後、生駒は上野にくだけたものの言い方をすることが多い。

 先輩ぶったところがなく穏やかな話し方をする上野は、誰からもなごみ系の女性だと思われている。

 朱里と比べて華やかさやチカリと光るものはないのだが、いつのまにか場に溶け込んでいる、そんな存在だと生駒は思っていた。


「もちろんよ。なにをすればいい?」

「まず、朱里が自殺したと仮定して、なにか心当たりは?」

「心当たり……」

「朱里とたまに会ったりしてたんですか?」

「うん」

「なにか気になることはありませんでしたか?」

「思いつかないわ。というより朱里が自殺するなんて、とても信じられない」

「じゃあ、殺されたと仮定したら?」

「うそでしょ! とんでもないことよ。朱里が殺されるなんて。あなたも知っているでしょ。あの子はとてもいい人よ。まさか殺されるなんて……」

 突然、涙声になった。

 生駒は、上野からなにも聞き出すことはできないのではないかと思った。この女性は自己主張の強い人ではない。場に溶け込んでいるというのは、逆の言い方をすれば、存在感が薄いということである。今も朱里の死に際して、それがたとえ殺人事件だったとしても、自ら行動するとは思えない人だった。


「じゃあ、怒らないで。みんなに聞いていることだから。上野さんのアリバイを教えてください。八月四日、五日のです」

 恵から聞いていたことだったが一応は確かめた。

「アリバイ? ああ、そういうことね。四日から恵とヨーロッパ旅行だったの。昼ごろに関空から飛行機」

「じゃ、三日は?」

「一日中家にいたわ。旅行に備えていろいろ準備。朝一番だけは出かけたけど。実はね、赤石さんと会ったのよ。パソコンのソフトを貸してもらったの」

「へえ、そうなんですか」

「うん。本当はさ、彼が鳥取に行くっていうから、一緒に行きたいって言ってみたんだけど、あんまり乗り気じゃなかったみたいだし。旅行前だから、おとなしくしておけっていうことね」

 そういって、ほのかに微笑んだ。


「わかった。じゃ、これ読んでみて」

 上野は目の前に置かれた紙を覗き込み、朱里の遺書をゆっくりと目で追った。読み終えて目を上げると、困ったような視線を生駒に向けた。

「なんて言ったらいいのか……」

「俺も最初にこれを見たとき、なんともいえない気分になった」


 上野は目を落とし、ハンカチを出して鼻の上から押さえた。そして目をつぶった。生駒は腰を浮かせ、上野の肩に手を置いた。薄い白いブラウスを通して温かさが伝わってきた。

「今度はこれ」

「なに?」

 弱々しい声に、恐れに似た戸惑いがあった。

 相当のショックを受けているはずだった。電話で朱里は殺されたのかもしれないと伝えたときの、息をのんだ声がまだ生々しく耳朶に残っていた。

 生駒は笑ってみせた。

「知らないかな? あるブログをプリントアウトしたものなんやけど」


 上野は読み始めたが、すぐにまた下を向いてしまい、知らないわ、と小さく首を振った。

「ごめん。辛いときにしょうもないことを聞いて。こないだも、蛇草さんに怒られた」

 生駒はそれらの紙をクリアフォルダに戻す。顔を上げた上野の目が赤かった。


「こないだっていうのは、オルカにみんなで集まったってとき?」

「そう。佐藤さん夫妻と弓削、蛇草さん、鶴添さん、赤石さんが参加してくれた」

「あら、竹見沢さんは?」

「用があるって」

「へえ、一番興味ありそうだのに」

「まあね」

 生駒の顔に、そして上野の顔にも小さな笑みが浮かんだ。


「それで、みんなのアリバイはどうだったの?」

 上野は目頭を押さえてから、無理に茶目っ気を出したというように聞いた。生駒は順番に解説した。

「ふーん、そうなの……」

「もう一度聞くけど、なにか、朱里のことで気になったことはないですか」

 上野は改めて考えているようだった。そしてなにかを言いかけて止めた。

「あ、言いかけて止めないでくださいよ」

「たいしたことじゃないわ」

 生駒は黙って上野の言葉を待った。


「直近で朱里と会ったのは七月の始めごろだけど、元気そうだったわ。実はね、一緒に山登りに行こうと誘われてたのよ。最近、山登りは彼女のちょっとしたブームだったみたいで」

「へえ! それで?」

「うん。そのときは日にちはそのうちってことで、行き先だけ決めて……。お互い、忙しくて」

「行き先って?」

「比良山……」

「へーえ」

「一応はね。でも、大峰山も候補のひとつだったわ。大普賢岳か弥山から八経ヶ岳のコースで……」

「へえー。ちょっと待って。ね、大峰山行きはどっちの希望?」

「朱里よ」

 妙な具合になってきた。

「行者還岳は?」

「ギョウジャガエリ? どこそれ?」


 生駒は説明してやった。

「ふうん。その山は、話に出なかったと思うなあ。ちゃんとは覚えてないけど」

「そうですか。で、ふたりでいろいろなところに行ってたんですか?」

「ううん。私、山登りはしたことないの。で、朱里に誘われて、今度行こうかって……」

 また涙声になった。

「ねえ、生駒くん。朱里が自殺するなんて……、新しい会社に燃えていたし。なんていうのか、それに……、あの子は負け犬タイプじゃないのに」

「うん。でも、今のところ、なにも証拠らしいものはないんです。警察は自殺の線でほぼ固まってしまったようだし、俺たちはこうして知り合いに意味もなく聞き込みするだけ。はっきり言って、なんら進展していない」

「コナラ会メンバーが怪しいって、本当なの?」

「いや。ただの仮定。俺の名前が遺書に出ていたからというだけのこと」

 上野は考えているようだった。

「ねえ、さっきのブログ。はがきが来たって、それまだある?」

 生駒は、ない、と答えた。

「そう……」


「同じものかどうかわからないけど、私にも来てたのかもしれないわ。友達だから安心して見ろとかなんとか」

「あ、それそれ。やっぱり。上野さんにも来てたのか。それで、見た?」

「ううん、なんだか、うさん臭くて」

「そうか……」

「さっきのがそうなの?」

 生駒は再びファイルを開いた。

「で、これ誰?」

 上野が一枚ずつ目を通し始める。

「わからない」


 生駒は、誰にそのはがきが来ていたか、そして朱里のパソコンにウェブサイトとして保存されていたことを説明した。

「じゃ、朱里じゃないの? あなたや私や弓削君たちに共通する女性の親しい友人といったら」

「まあね。内容が事実やったら」

「あっ、そうか。事実だとは限らないわけね。でも、自分が誰か、当てて欲しいんでしょ?」

 生駒はもどかしかった。


 ブログの作者が朱里であることは、ほぼ決まったようなものだったが、依然として違和感があったし、本人にそれを確かめようもない。

 しかも、ブログの作者が分ったところで、事件の解決に結びつくわけでもなさそうなのに、こんなものにすがらなくてはいけないことが腹立たしかった。


「わかったら私にも教えてね。それから、なにか私にできることはない? 調査のお手伝いとか」

 生駒は、なにかあれば連絡すると約束した。

 そして、できたら中道隆之くんに朱里のことを話してあげたら喜ぶんじゃないかな、引越しを手伝ってやればもっと喜ぶだろうとも伝えた。

 それからしばらく沈黙気味な時間を過ごして、上野は帰っていった。


 生駒は蛇草に電話を掛けた。

 蛇草は追悼会議の誘いがあったときに考えたことを、いらついた声ながらも、こう説明してくれた。


 まず喫茶店でのこと。

 気になることがあった。竹見沢のテンションがやけに高かったことだ。いつものことだと言えなくもないが、葬式の後であんなにはしゃぐというのは変だ。

 それに正直なところ不愉快だった。


 蛇草は朱里が自殺したとは最初から考えていなかったという。

 刑事の訪問を受けたとき、強烈な違和感を持ったからだ。遺書に生駒の名、というのはおかしい。書くとするなら竹見沢か赤石だと思ったからだという。蛇草は朱里が竹見沢の教室に足繁く通っていたことを知っていたのだ。


「どうして知っていたんですか」

「鶴添から聞いていたからや」

 竹見沢は、鶴添の診療所で持病の肝臓病の治療を時々受けているという。診察後、無駄話もするそうだ。

「すると、一番怪しいのは誰か。竹見沢。おまえもコナラ会のときのことを覚えてるだろ。竹見沢の態度の馴れ馴れしさ」

 蛇草は鶴添を追悼会議に同席させ、ストレートに竹見沢を追及するつもりだったというのだ。


「それなら、追悼会議のときに、その話を出してくれたらよかったのに」

「まあな。でも、おまえもそれくらいのことはわかっているんやと思ってた。朱里のことを最もよく知っている、生駒くんが誘ってくれるんやからな」

「また、へんな言い方を」

「でも、そうやろ。ところがどうや、あの会議の内容は。責めるつもりで言ってるんじゃないから気にするなよ。おまえからは竹見沢のタの字も出なかった」

 生駒は驚いていた。

 同時に、自分に真剣味が足りなかったのかもしれない、とも思った。

「男と女の関係なんて、いつどうなっているか、わからんからな」

 蛇草が柏原と同じような台詞を口にした。もう歯に衣着せる気はさらさらないようだ。

「俺はあいつを疑っている」


 生駒が言葉を捜していると、また蛇草の不機嫌そうな声が聞こえてきた。

「しかし、なぜあいつが朱里を殺す必要があったのか。大学教授がスキャンダルを恐れて? どうもしっくりこないやろ。相手が生徒ならスキャンダルやろうが、いわゆる不倫程度じゃな」

 まだ生駒はまともな反応ができないでいた。


「あるいは俺の思い過ごしで、他に誰か怪しいやつがいるのか」

 自問する蛇草の声はますます暗い。

「理由はいくらでも思いつく。そしてその理由の中に、具体的な犯人像を伴うものがあって、ピタリと照準が合うやつがいたら、それが誰であれ、俺が」

 受話器から、どろりとしたものが耳の中に入ってきたように感じた。


「ちょ、ちょっと待ってください。直接行動に出る前に教えてください」

「ああ。それがおまえじゃなかったらな。そんなところでいいか?」

「また、そんな。あっ」

 すでに電話は切れていた。

 生駒はげんなりした気分になった。

 鶴添に電話する気は失せていた。そしてもうその必要もない。


 今、耳にした不機嫌な声。

 いつもの声。

 その声に精気を吸い取られたかのように、生駒はがっくりと椅子に落ち込み、束の間、呆然と意識をさまよわせた。


 いつから蛇草の竹見沢への憎悪は、あれほど大きくなっていたのだろう。

 同僚としてアーバプランに勤めていたころは、そうではなかった……。

 いや、よく考えると、そもそも彼らは同じ指向性を持っている者同士というわけではない。

 偶然に同じ会社で働くことになったのであって、表面的に仲良く見えてはいても、それは同僚という枠の中にいるときだけのことであって、縛るものが外れて十年も経つと、性に合う合わないがはっきりしてくるのも仕方のないことなのだ。

 とはいえ、平常時ならギクシャクすることはない。誰にでも気に入った相手とそうでもない相手はいるが、それなりに折り合いはつけられるものなのだ。


 ところが今回、朱里の死という衝撃と、さらに疑問が、しかも身内のコナラ会メンバーが、という仮説が目の前に提示された。

 難なく押さえ込まれていた憎悪が、これをきっかけに表面に染み出てきても不思議ではない。

 追悼会議をひとりは用があるからと欠席し、もうひとりはその男を糾弾するつもりで参加してきたのだった。


「犯人捜しか……。コナラ会のメンバーなあ……」

 この事件の主要な登場人物かもしれないと思ってはいたものの、そもそもそれは、希薄としか言いようがない思いつきだった。

 むしろ、メンバーの潔白を証明することになるだろうという楽観的な確信さえあった。

 中に犯人がいるかもしれないなどと、一瞬たりとも本気で考えてはいなかったのに。

「蛇草さんだけじゃなく、案外、みんな……」


 生駒は、自分の側からしか物事を見ていなかったことに気がついた。

 自分の思いだけでメンバーをリードし、朱里の死の真相に取り組んでいる気でいたことに気がついた。

 そして、メンバーをヒアリングの対象にしか見ていなかったことにも気がついた。


 彼らも生駒と同様に、朱里の死の真相は知らないはず。

 しかし、それぞれに蓄積してきた感情があり、何らかの思いや意図があって追悼会議に出席してきたという、当たり前のことにようやく思い至った。


 壁に貼ったコナラ会の写真が目に留まった。

 出会って二十年以上にもなり、各々五十を超えようという歳の男や女たち。


 長いため息が出た。

 朱里をめぐる三つの星。

 つまり赤石、蛇草、竹見沢。

 彼らは互いに牽制しあうだけでなく、いつしか敵対する相手となっていたというのか。

 見かけ上は硬直して、あるいはバランスを保って動かない星。


 しかしその間の空間に、目には見えない力を及ぼしあっていたのだ。

 その力をかき乱していた朱里。

 竹見沢に足繁く通い、最近は赤石にも急接近していたという。

 その様を、後ろから見つめる蛇草。

 そして弓削は、その関係の中でどんな位置にいるのだろう。


「くそう……」

 生駒は机に肘を突いて両手で顔を覆った。

 疲れが肩の上にのしかかっていた。

 目を閉じると、まぶたの裏に様々な情景がめまぐるしく映し出された。

 それらは質感の伴わない断片的なイメージがフラッシュしているようなものだったが、やがてその中のひとつ、些細な出来事が一連の繋がったシーンとして浮かび上がってきた。

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