15 後からホノボノ
アーバプランの始業時間は八時半。生駒が奴隷調教的発想と言っていた朝の体操が終わると朝礼が始まる。中道朱里が紹介されたのはある日の朝礼でのことだった。
「大阪府立恵比寿高校から京都工芸繊維大学に進みまして……」
そんな自己紹介に生駒は驚いた。
ほぼ十年ぶりに会った同級生の顔を見つめた。
朝礼が終わるとすぐに声をかけた。
「おはよう、生駒です」
「中道です。よろしくお願いします」
「覚えてないか?」
「は?」
「エビ高三年七組」
朱里は、そうですけど、と少し不安げに生駒を見つめた。
生駒はどぎまぎした。同僚達の好奇の目が気になったからだけでなく、朱里が高校時代の面影を見つけられないほど変わっていたからだった。きちんと化粧をして魅力的だった。
「ああっ!」
朱里の顔が一気にはじけ、白い歯を見せた。
「生駒くん!」
生駒はほっとした。と同時に、懐かしさとうれしさがこみ上げてきた。朱里の笑った顔が高校時代の思い出の笑顔と同じだったからだ。
朱里は、たまたま再会した生駒の引き立てもあって、アーバプランの社員達にすぐにうち解けた。プライベートな集まりにも顔を出すようになり、そのままコナラ会のいわば準メンバーになった。
「ちょうど同じころに、蛇草さんが担当した千日銀行の支店計画も進んでいたんだ。向こうの担当者が赤石さんだった」
生駒は記憶を手繰り寄せるように話す。
「ああ、そうだったな」
と、柏原も遠いところを見るような目をして応える。
生駒は朱里の出向以降の出来事を、昔話も自慢話も織り交ぜていく。
柏原も負けてはいない。仕事を請けていた弁護士というだけでなく、社内の様々なことに首を突っ込んでいたのだ。むしろ人間関係のエピソードを次々に思い出すのは柏原の方で、生駒が、なぜそんなことを知っているんだ、という顔つきになることも多かった。
しかしやがて、普段なら誰もまともに取り合わない昔話も底をついた。
優がメモをとるペンの動きも止まった。
「ね、蛇草さんっていつもあんな感じ? 単に、ノブと仲が悪いだけ?」
と、優が現在進行形の話題に引き戻す。
「いつもじゃないけど、むかつくことを言うよなぁ。あいつなりの懸命さと受けとれるときもあるけど、辟易することも多いな」
生駒は少し考え込んだ。
「ま、仲が悪いというより、親しくはないということかな」
「相手が生駒だからじゃなくて、誰に対してもあんな感じなんだ。僕にだって」
柏原にくってかかることもある。
「そういう人っているよね。自己中心的な人」
と、優が納得したが、柏原がちょっと違う、と解説する。
「たぶん、どこかに弱さがあって、攻撃的になるってことだろ」
「あ、分かる分かる、そういう人、いるいる」
生駒はほんの2時間ほど前の、蛇草の言葉を思いだいた。蛇草がかつて、朱里のことを想っていたとしても、今、なぜあれほどまでに。
「それからさ、いまさらの質問やけど、朱里さんってずっと独身?」
優の目は光っていた。
生駒は、自分の目がちょっと遠いところを見ていたと恥じた。
「結婚したって話は聞いていないな」
だいたいわかったわ、これ見て、と優がノートを開いて見せた。
「概要のメモ。ポイントはこんなところかな」
メモは簡潔だった。
生駒は自分達の話していたことが、わずかそれだけの内容だったということに、軽いショックさえ覚えた。
「今日来ていなかった人のプロフィールはこれでいい?」
別のページを開いて見せた。
竹見沢、紀伊、上野の名がある。
紀伊孝はコナラ会に柏原のゲストとして参加。M建設の大阪本店勤務で現在は三重県の建築現場に単身赴任中。五十一歳とあった。
上野月世は広告代理店に転職したが独立し、現在はフリーのデザイナー。バツイチで子供なし。大阪市城東区在住の五十一歳とあった。
「うん、このとおり。じゃあ、ユウ、友人相関図みたいなのを作らないか。誰が誰を好きやったとか」
「もう十分。ちゃんと頭には入ったよん」
「そういうな」
「それに、そんなことを紙にしてしまうと、それがさも今でも真実であるかのようにひとり歩きするやん。昔の話なんやから、今の推理にどれだけの意味もないと思う」
「はっきり言い切ってくれるやないか。そうでもないかもしれないぞ。現に、朱里は俺の古い古い、つまり高校の級友やけど、俺たちは関心を持ってるやないか。なっ。だからあいつに関連することくらいは記録しておいてもいいと思うぞ。それを知らなかったら、おまえの推理にハンディになる」
生駒はいい思いつきだと詰め寄った。
「そこまで言うか。このセンチなおっちゃんは」
「それでかたづけるな」
「だってさ、書くほどのことはないと思うよ。えっと、ノブがアーバプランにいたころには、蛇草さんと赤石さん、今、関西にいる人の中ではこのふたりが最も頑張ってたんやね。竹見沢さんもまんざらじゃなかった。弓削さんは誰とでも仲がよかったから、特に朱里さんにご執心だったかどうかはわからないということやね。後の人は無色透明」
「透明……」
「でも朱里さんは、誰にも特別な興味を示さなかった。恵さんはとにかく、おふたりさんが知っている限りでは、なにも起こらなかったということよね」
生駒は唸った。
「ほら、言葉にすると、くだらない話やん」
「うーん、くだらないか」
「そうよ」
「おまえの言い方は味も素っ気もないな。もっと、その、んー、男と女の心のあやというか、表面には決して出さない秘めた思いとかをだな、そういうものをきちんと把握して……」
「何を言ってるのん。やめてよ。ふたりとも、酔ったん? 本人から聞くならとにかくも、ふたりが昔に見た亡霊のような記憶を土台にして、論理的推理なんて、できないやんか」
「俺のよき思い出は亡霊かい!」
「生駒、まあ、いいじゃないか。おまえ、おもしろがってるだろ。僕らはユウの言う亡霊を後ろに従えているんだから、いざとなりゃそれを召還して使役したらいいさ。いや、背後霊かな」
「ところでユウ、生駒が朱里とどういう関係だったか、聞いておかなくていいのか?」
柏原が笑いをかみ殺していた。
「げっ、なにを言いだすんや!」
「さっきから、聞いて欲しそうにしてたからな」
「アホなこと言うな!」
ことさら大声を出したが、優が笑っていないことに気がついた。
「悪い。ふざけすぎた」と、柏原が口元に笑みを残したまま謝った。
「ううん、いいよ。そんなこと、意味がないから。ノブは犯人じゃないし」
「ちょっと酔ってきたかな。ふと思ったんだ。あの頃の朱里、ちょうど今の優くらいの年齢だったんだろうなって」
柏原が頭をかいた。
「はいはい、じゃ次は女性陣のことを教えて。今はいいおばさんの、当時はピチピチの女の子」
「恵と上野さん? しかしピチピチってのはやな」
「はいはい。でも私はピチピチやん。じゃ、聞くよ。朱里さんが女性グループの中のどういう立場で、どう思われていたのか」
了解、とは言ったものの、生駒が思い出す具体的な出来事はあまり多くはない。
朱里のしっかりとしたものの考え方に、他の女性達は無意識のうちに少し距離を置いていたかもしれない。
ただ、朱里自身は人を見下すようなことはなく、出向社員であることを差し引いても、能力をひけらかすこともなかった。
残業を終えて、キタやミナミのパブで飲んだり、休日には同僚達と六甲山へハイキングに行ったり奈良公園まで足を伸ばしたりして、ごく普通につき合っていた。
「朱里は上野さんと、特に仲がよかった。あいつが出向してきたプロジェクトの、こちらの担当が上野さんやったから」
それだけではなく馬が合ったのだろう。
そのときの仲の良さは、現在も継続しているようだ。仲間として、友として、相談相手として。
しかし、朱里と恵との関係については、生駒はどんな印象も持っていなかった。
「こんなことがあったぞ」と、柏原が後を引き取った。
「覚えているか? 藤尾って女性。あの子は最初、朱里の扱いに戸惑っていた。朱里が出向してきて、最初の世話を一番若い女子社員のあの子がみることになった。いわゆるオリエンテーション。仕事の仕組みや日常のこまごましたルールを教えることになった。具体的にいえば、かかってきた電話のとり方や内線電話の回し方とか、経費伝票の付け方といった庶務的なことだろう。ところが朱里の態度の中に、自分は出向社員なので、必要なこと以外は興味がない、という気持ちがあるのを感じたと言うんだ」
「はあ? なんで、おまえがそんなことを知ってるんや?」
「僕が湯沸室に行ったとき、藤尾が草加に訴えていた。どうにかしてくれって。草加は、あなたは淡々と教えたらいいのよ、って諭していた。ここで楽しく暮らすか、イライラしながら過ごすのかは、あの人の問題だからって。僕は、草加もなかなかいいことを言うと思ったな」
「へえ、おまえが湯沸室にまで進出してたのも驚きやけど、恵もきちんと後輩をしつけてたんやな」
「そう。で、そこへ上野さんもやってきた。彼女は、それとなく私からも注意しておくといった」
「転校生が溶け込めなくて、いじめられたという感じ?」と、優。
「いや、そうじゃない。最初だけの話。すぐに仲良くなってたから」
「ふうん」
「推測だぞ。彼女達は、自分の方が、朱里よりもここでは先輩だし、優位なんだ、ということを互いに確認したかったということじゃないかな」
優はまた、フウン、だ。
「彼女らにとって、朱里との関係は試行錯誤だったとも言える。同年代の若い女性同士だし、仕事上でもプライベートでも、ライバル意識というか負けられないというか、そんな気持ちがあったに違いない。実際、朱里が優秀だし、それになんていうか、ちょっと目立つ女の子だったし。それにたぶん、生駒が朱里に親しく接していたことも関係していたんだろ」
「まさか、それはないやろ」
「でも、勘違いするなよ。気持ちの行き違いは朱里が入ってきたほんの最初だけ」
優が生駒を横目で睨んでから頷いた。
柏原がさっと話題を変える。
「それから、草加のことは生駒も知ってるだろ」
「ん?」
「ちょっと気まずい雰囲気になってたこと。陰口を言われたり……」
生駒は驚いた。
「おまえなあ、それも知らなかったのか。頼りないやつだな。そんなことだから……」
「だから、なんだ」
佐藤恵、当時は草加恵。
確かに、彼女は性格が明るすぎるくせに、変に正義漢。しかも、男から見れば、仕草がいじらしい。
「他の女性達からみたら、なんというか、いろいろとな、気にくわないわけだ。わかるだろ」
柏原は優に気を使ったのか、具体的な陰口の内容については言葉を濁している。
「へえ。そのことを佐藤さんは知ってたんか?」
「もちろん。おまえだけだろ、なにも知らんのは」
「フン、俺は昔からシャイでおぼこいからな、で、まさか朱里もいじめる側?」
「まあまあ」
「実は、数年前、草加に聞いてみたことがある。でも、もう昔のことだからって、言葉を濁された」
「おい、おまえの話はよくわかんぞ。意地悪事件の主犯は、朱里、上野、藤尾、あるいは他のやつの誰か、という謎かけか?」
「謎じゃない」
「じゃ、なんだ」
「亡霊のような昔話の続きさ」
「はあ?」
「さすがにこれは、想像でものを言ったら、それこそ先入観に囚われてしまうかもしれないからな。ただ、藤尾は違うと思う。草加が会社の打合せ室で泣いてたとき、付き添ってやってたから」
「げっ! おまえ、そんなことまで見てたんか。俺は全然知らんぞ。おまえ、いったいアーバプランに、なにしに来てたんや!」
「ヘン。おまえだけだ、のんきなのは。以上、亡霊の出る幕は終わり」
優が柏原の最後の言葉ににこりとした。
「つまりさ、朱里さんはちょっと男性陣にチヤホヤされてた。それを気にくわない人もいた。かわいくて正義感の強い恵さんは、いじめにあってた。何かが爆発するほど険悪な雰囲気でもなかったけど、お姉さん格の上野さんが、事務所内の女性陣の規律を保っていた。ということね。ありがちな光景ってところかな」
「そう。ありがちな話」
「ね、ところでさ。柏原さんは恵さんのことを草加って旧姓で呼ぶやん。朱里、上野さん、藤尾。みんな呼び方が違うのね」
「ん、そういや上野さんと草加だけか。旧姓で呼ぶのは」
生駒は、皆が名前で呼ぶのは朱里だけだ、と思った。
「上野さんはバツイチだったよね」
「そう。えっと結婚当時の苗字は……」
優はもう、生駒に聞いてこない。しかし、柏原も、
「んーと、相手の男の名前は……、ハハ、忘れた。でも、ひどい男で、五年我慢して離婚したらしい。幸いというか、子供もできなかったようだし」
「ふん。おまえも覚えてないやんけ」
柏原は喉が渇いたとビールを飲み、なんだぬるいな、という顔をする。
優がつぎつぎに話題を変えていく。
「その女性陣の中で、職種はどういう分担?」
「朱里と上野さんは設計。男性社員に混じって、頑張っていた。草加と藤尾は総務。後は全員、短期的に来ていた助っ人で、みんなの下働き」
「お、もうひとつ。亡霊を思い出したぞ。朱里と竹見沢が、ん?」
優があからさまに、またか、というような顔をしていた。
「なあ、ユウ。俺達もあのころは、それなりに若者らしく誰かを好きになったり、いがみ合ったり、悩んだりしてたんや」
「まるで思春期やったような言い方」
「そう。思春期の続き。今でもそうかもしれない。ただ、少年少女時代の思春期より……」
「引っ付いたり離れたりの話はもういいって!」
優にそう言われて、生駒は自分のことさら青い、そしておぼろな青春時代を傷つけられたような気がした。
なんというタイミングか、オルカには森田公一とトップギャランの歌が流れていた。
「青春時代が夢なんて、後からほのぼの思うもの……」か。