10 なりゆき
生駒は頭の中を整理するようにゆっくりと話し始めた。
「朱里が発見されたのは、大峰山系にある行者還岳。登山道が急な崖を横切る格好になっているところがあって、相当危険なところらしい。あいつはその百メートルくらい下に倒れていた。発見されたのは、八月九日の夕方。通りかかった送電線の保守作業員が警察に通報したそうだ。身元はすぐに分かった。あいつはリュックを背負ったまま倒れていて、中に免許証があった。警察では、いわゆる死亡推定時刻は発見された日の一週間ほど前という判断をしたらしい」
一週間とな、と佐藤がつぶやく。
「具体的に言うと、警察は八月四日の日曜日か五日の月曜日と考えている。月曜日の午後に山仕事の人が、登山道の入り口に朱里の車が停めてあったのを見ている」
「もう一回言ってくれ。ギョウジャガエリ? どんな字を書く?」
柏原が近畿地方の道路マップを出してきた。
「貸せ」
奈良県にある大峰山の主峰である山上ヶ岳よりわずかに南、近畿最高峰の八経ヶ岳との中間地点にある。標高一五四六メートル。どちらかといえば大峰山系ではマイナーな山らしく、地図には小さな文字で記されてある。
「奥駈けというのを知ってるやろ。修験道の行者が何日もかかって吉野から熊野まで大峰を縦走していく修行」
「ああ」
「そのルート沿いにある。ただ、この山だけを目指して下から登る人は少ないらしい。いわば縦走の通過点やな。もともと大峰山は、上高地や立山のように行楽気分でサンダル履きの人が押しかけるということはないから、朱里もなかなか見つからなかったんやろう」
柏原が道路マップに目を凝らしている。
「下から行者還岳に直接登るルートは、通常、天川村の河合という集落から川迫川渓谷を遡って、大川口というところから登り始める。昨日、登山ブックで勉強してきた」
生駒は後ろの棚に置いていたバッグから、山登り用の地図とガイドブックを取り出した。行者還岳の登山ルートを説明してあるページを開いて、隣に座っている恵に回す。
「朱里は大川口から神童子谷に少し入った狼横手というところに自分の車を停めていた。ということで、今言ったルートで登ったと推察されるわけや」
生駒は、新しく頼んだジントニックを口に入れて、ピスタチオを割った。
「これまでのところで、質問はあるかな?」
「その崖のところを歩いていたのは確かなんだな?」
柏原が聞く。
「警察の判断では」
弓削も質問してくる。
「急なところなんですか。お手軽ハイキングコースではないようだけど」
「ああ。行者還岳には登ったことはないけど、その奥の弥山や八経ヶ岳には登ったことがあるから、だいたい感じはわかる。そもそも行者還岳の名前の由来は、険しすぎてあの役行者もひき返したからということらしい。現在のルートはそれほどでもないようやけど。とはいえ、決して楽ちんなコースではない」
「ふーん。どうかなあ……。自殺であれ、殺人であれ、その山にどんな意味があるんだろ」
そう言いながら弓削がガイドブックを隣に回す。
生駒は大阪からの車のルートやバス便や行者還岳周辺の説明をした。雑談めいた内容のおかげで、皆の酒が進んだ。ガイドブックが生駒の手元に戻ってきた。
「次は遺書について説明しようか」
弓削や恵が座り直した。
「遺書は机の上に置いてあった。プリントアウトされたもので、元の原稿はノートパソコンにワードで保存されていた。自筆の署名のない遺書なんて、証拠にはならないそうやけど」
生駒は話題が深刻になりすぎないよう、あえてくだけたものの言い方をした。
「自分の将来に自信がなくなった。両親や仕事のパートナー、親しくしてくれた友人に申し訳ない。というようなことが書いてあったらしい。で、友人の代表として、俺の名前が挙がっていた」
「なに! ちょっと待て。遺書におまえの名前があったのか」
柏原がいかつい顔にふさわしい、大きな目を剥いた。
ポーズだ。すでに話してある。
「警察から聞いた。さすがに、弟さんに遺書の中身を詳しく聞くのはどうかと思ったんで」
「うーむ」
「それ以上は知らない」
「そうか……。これはえらいことになったな。おまえは朱里が死ぬ直前に会い、そして遺書で名指しか……」
「そう。でも、妙な言い方するなよ」
遺書に生駒の名前が出ていたことは、メンバーたちはすでに警察から聞いていたらしく、柏原ほどの反応はない。柏原と鶴添だけが唸っていた。
警察が、蛇草を含めたメンバーに、朱里と自分の関係について根掘り葉掘り聞いたのだろうと思うと、生駒は少し不愉快な気分になった。
佐藤がするどく口を開いた。
「自殺に見せかけるために、犯人が偽の遺書を書いた。ところが、その遺書の中に生駒の名前が出てくる。これは、どういうことになる? 朱里と生駒の関係を知っているやつ、そして最近、生駒が彼女に会ったことを知っているやつ。それは誰か、という問題か」
厳しい顔をして聞いていた弓削が声をあげた。
「ちょっとちょっと、それは僕のことを言ってるんですか? 確かに朱里さんは、生駒さんに会って相談するつもりだと言ってました。でも」
「ハハ、誰もおまえだとは言ってない」
弓削がむきになって言いつのる。
「久しぶりに会った仲間同士で、最近誰それに会ったとか、あいつはこうしてたとか、なんて噂するのはよくあることですよ。生駒さんは誰にも話してませんか? 僕はあれから、赤石さんに朱里さんと会ったことを話したかもしれませんよ。忘れましたけど。その程度の状況証拠と違いますか。お願いですから、僕がその遺書を書いたのかもしれないと聞こえるような言い方は、やめてくださいよぉ」
最後はおどけた口ぶりになった。
恵の表情がほぐれる。柏原も笑った。
しかし、すぐに両手で顔を洗うようにさすりながらつぶやいた。
「引っ掛かる。弓削も生駒も、朱里と親しい交友があったわけではないのに、たまたま連続して会ったすぐ後にこの事件だ。そして遺書には、生駒の名前。どういうことなんだ。いずれにしろ佐藤さんが言うように、生駒と朱里との接点を知っている人間がその遺書を書いたのかもしれない。妙なことになってきたな。生駒の高校の同級生か、コナラ会メンバーか……。おい、生駒、彼女は高校時分の友達と今も付き合っていたか?」
「いや。卒業以来、そんな話は聞いたことがない」
生駒もそのことを考えていた。昨晩は卒業名簿を見ながら、推理メモを作り始めようかとさえ思ったくらいだった。もちろん思い留まってはいたが。
「ちょっと、待ってよ。コナラ会メンバーの誰かかもしれないって言うの?」
恵が、ことの成り行きに異論を挟んだ。
「もし自殺じゃなかったらとか、もし遺書を書いたのは朱里さんじゃなかったらとか、もしそれが犯人だったらとか。さっきから、もしかっていう話ばかりじゃない。それに、いくら仮定の上とはいっても、こんな話をするの、後ろめたい気がするわ」
柏原は唸ったままだ。生駒が代わりに言った。
「恵、最初に言ったように、俺たちには正確な情報はほとんどない。あるのは俺が朱里の弟から聞きかじってきたことと、なにか引っ掛かるという気持ちだけなんや。真実は、自殺なのかもしれない。そうであれ、なんであれ、本当のことを知りたい。だから考えようとしている。できるだけ論理的思考で。俺たちには完璧な推理なんて、そもそもできない。それは警察や検察の仕事。ただ推理の結果によっては、朱里の親御さんに連絡した上で、警察にも知らせようと思っている。友人が考えたこととして。それで警察がもう一度真剣に調べてくれたらそれでいい。そういうことや」
「わかった。話の腰を折って悪かったわ」
「よし。ところで、くどいようですが皆さん、今日はお代わりの注文があまりありませんね。いかがです? 腹は減っていませんか。草加、おなかは空いてないか? 赤石、鶴添さん、今日も変なチーズあるけど、どう? おいしいんだけど、ちょいと硬いんだな、これも」
生駒の話し方に真剣味がありすぎたのだろう。柏原がおどけた調子で場の気分をほぐそうとしている。
この店では、柏原がひとりで酒もつまみも作る。いくら手の込んだものはないとはいっても、いっせいに何人もが注文すると時間がかかる。
柏原が黙々と注文をこなしているうちに、鶴添が蛇草に話しかけて雑談を始めた。これをきっかけに、恵の小さな笑い声さえ聞こえるほど、和んだ雰囲気が漂った。佐藤がコナラ会メンバー犯人説を唱えて、弓削に話しかけている。それを赤石が聞いている。
今日の参加者が、メンバーの半分にも満たないことで、気が楽なのだろう。
「さあ、第二ラウンドを始めよう。呼びかけ人の生駒が再度チューターをするか?」
「いや、やっぱり元弁護士先生に任せる。酒を作ったり、進行役をやったりで手間をかける」
生駒も、この推理会議を意識的に楽しもうという気になっていた。幸い、互いに疑心暗鬼になって微妙な沈黙が続く、というシーンはまだない。