後編
ところがその翌日、素晴らしい娘がいつもの待ち合わせ場所である果樹園の林檎の樹の下へ行くと、素晴らしい娘の復讐心は気まぐれな鳥の翼のようにどこかへすっ飛んでいってしまいました。素晴らしい娘は自分がピーターを言い負かすところを想像しながら屋敷の玄関からずっと歩いてきたわけなのですが、どういうわけか林檎の樹の下でおやつの包みを片手にニッコリと微笑んでいるピーターの姿を見ると、自分がきのう一日かけて考えていたことが、どうでもいいことのように思えてきたのです。
ピーターは素晴らしい娘の姿を自分の視界に認めると、ますますニッコリとして素晴らしい娘に挨拶しました。
「やあ、今日もいい天気だね。こう日照りが続くと小麦や大麦が駄目になっちまうから、そろそろ雨が降ってくれなきゃ困るってうちの父さんなんかは言ってるけどさ。でもそうするとぼくはきみに会えなくなるからね。今日は特に晴れてくれて良かったよ。きのうあんな別れ方をしたから、ずっと心配してたんだ」
(まあ、ピーターったら……)
素晴らしい娘はすっかり嬉しくなって、ピーターの手を自分から握りしめました。そしてふたりは手を繋いだまま、森の散歩道を歩いていったのです……。
6
けれどもこの日、素晴らしい娘とピーターが湖までの散歩へ出掛けたのは、もしかしたら間違いだったのかもしれません。いいえ、もしも正しい間違いという言葉遣いが許されるなら、今日ふたりに起こった出来ごとがそうであったといえるのかもしれません。
ふたりはまるで恋人同士のように手を繋ぎながら、楽しい話をして笑いあっていました。途中、道を横切る蟻んこが何十匹となく列をなしていましたが、素晴らしい娘はわざと踏みつけることなどはせずに、ぴょんとその列を飛び越えました――素晴らしい娘は蟻んこの小さな生命のことなど本当はどうでも良かったのですが、ただ愛するピーターに気に入られたくてそうしたのです。それから樹の上に大きな蜘蛛の巣があるのも無視しましたし、ひらひらと綺麗な模様のアゲハ蝶が目の前を横切っても、いつものように「早く捕まえて!」とピーターをせかすこともしませんでした。
素晴らしい娘はただじっとピーターの赤いほっぺの横顔を見つめ、こんなことを考えていたのです。
(ピーターは頬が真っ赤で、その上歯抜けでもあるけれど、よく見るととても端整な横顔をしているわ。それにわたしが問題にしたいのは、外見上のことなんかじゃないの!一番大切なことはピーターがわたしに近い、とても素晴らしい魂を持っているっていうことなんですもの。わたし、ピーターにならきっとどんなことでもしてあげられるのに違いないわ。ええそうよ!自分のこの赤い命を差しだすことだって!)
素晴らしい娘があんまり力をこめて自分のことを眺めやるので、ピーターはすっかりどぎまぎしてしまい、素晴らしい娘の手を握っている手のひらが、じっと汗ばんできてしまったほどでした。それでじっと汗ばんでいるのが彼女にとって不愉快じゃないといいけどな、などと考えていました。
ふたりの会話は絶好調といっても差し支えないくらい、とても弾んでいましたし、そのうちにピーターは素晴らしい娘に何かしてあげたいような気持ちになってきました。
(素晴らしい娘はどうしてこんなに素晴らしい娘なんだろう。学校には彼女みたいに上品な女の子はひとりもいないし、その上彼女の笑い方といったら、まるで赤ん坊みたいに無垢なんだもの。彼女のことをもし自分ひとりだけのものにすることができたとしたら、どんなにか幸福なことだろう)
そしてピーターが素晴らしい娘の美しい横顔に見とれながらそんなことをぼんやり考えていると、うしろの森のしげみのほうで、何故かニワトリの声が聞こえてきたのです。
「コッコッコッ、コケッコ」
どうやらそのニワトリはオスのニワトリらしく、ピーターと素晴らしい娘のうしろで突然に「コケコッコー!」と大声で鳴きだしたのです。これにはふたりともびっくりしてしまいましたが、ピーターは(どうしてこんなところにニワトリがいるんだろう?)と驚いて後ろを振り返っただけでした。ところが素晴らしい娘はそのニワトリの叫び声を合図とするかのようにすっくと立ち上がると、湖のほとりの大きな石を両手でつかみ、逃げていこうとするニワトリを追いかけ、石を何度も振り下ろして、ニワトリのことをぶち殺してしまったのです!なんという恐ろしいことでしょう!素晴らしい娘はお洋服がニワトリの爪で引き裂かれたり、自分の腕が引っかかれて傷ついたりしても、一向にかまいませんでした。どうしてもこのニワトリを殺したいと、そう強く思いました。何もニワトリがピーターと自分の楽しいお喋りを邪魔したとか、そんなくだらないことが理由なわけではありません。素晴らしい娘はただそのニワトリを殺したかったのです。殺したあとに毛を全部むしりとって、普段は白い羽毛に覆われている肌が本当はどうなっているのか、それを調べたかったのです。そしてニワトリが血を流して死んでしまったあとに、まるで気でも違ってしまったかのように、その白い羽毛を爪を立ててむしりとりはじめました――ピーターが素晴らしい娘の隣にきて、彼女の頬をぴしゃりと強くぶつまで、素晴らしい娘は何故か正気に戻ることができませんでした。
「エディア、しっかりするんだ!どうしてこんなことを……ニワトリが可哀相だとは思わないのかい!?このニワトリがきみに対して一体何をしたっていうんだっ。きのうのことといい、この哀れなニワトリのことといい、きみは本当に頭がどうかしてるよ。そうだ。きみは本当はちっとも素晴らしい娘なんかじゃない。本当はとても恐ろしい、ひどく残酷な娘だよ!」
素晴らしい娘は茫然自失として、自分の血に汚れた両手を見つめ返していましたが、ピーターが死んだニワトリを連れていこうとするのを見ると、こう問いかけました。
「……そのニワトリ、どうするの?」
自分でもひどく渇いた、変てこな声だと思いました。まるで自分の声ではないかのようでした。
「このニワトリはきっと飼われていたのが森に迷いこんできたんだ。このあたりから一番近い農家といえば、プレイスさんの農場だからね。ニワトリがいなくなったかどうかを聞いて、もし違っているようなら、このニワトリはぼくが焼いて食べる」
その時、素晴らしい娘はピーターが恐ろしい顔の表情をするのを初めて見たと思いました。いつもはあんなに優しくて柔和な表情しか見せたことのないピーターが、本気で怒っていたのです。
素晴らしい娘はたまらなく惨めな気持ちで、泣きながらロンシュタットのお屋敷へと帰ってゆきました。ニワトリが死んでしまったことはちっとも悲しいことではありませんでしたが、ピーターに嫌われてしまったことは、たまらなく悲しいことだったからです。
7
お屋敷へ帰りつくと、ばあやや侍女たちがこぞって、一体どうしたのか、何があったのかと素晴らしい娘に向かって詰め寄りました。けれども素晴らしい娘は一言も口を聞かず、ばあやと侍女が何かと口うるさく言いながら手の甲や腕に残るニワトリの引っかき傷の手当てをするのに任せました。そして新しい洋服に着替え終わると、人払いをして、自分は極めて気分が優れないから自分の部屋で食事をすると侍女のひとりに言いつけました。
具合が悪い、と一度口にだしてそう言ってみると、なんだか本当に具合が悪くなってきたように、素晴らしい娘には感じられました。そして夕暮れの窓辺に腰かけると、どうしてこんなことになってしまったのだろうと、悲しく自分を責めました。
(わたしは今度こそ本当にピーターに嫌われてしまった……素晴らしい娘であるはずのこのわたしが。それにそもそもどうしてこんなことになってしまったのだろう?そうよ。あんなところにニワトリがやってきたのがいけないのよ。わたしは蟻の行列を避け、精緻な美しい蜘蛛の巣も無視し、綺麗な羽のアゲハ蝶も存在しないかのようにふるまった……それなのにどうして?どうしてわたしはニワトリを無視することができなかったんだろう?ピーターのいる目の前であんなことをすれば、嫌われてしまうということはわかっていたはずなのに……ピーター!ああ、ピーター!あなたに許してもらえるのなら、わたし、どんなことだってするわ。わたしはもうピーターと知りあう前の自分には戻れない。ピーターに会うことが許されずにこの屋敷の中でまた同じことを繰り返していかないといけないのだったら……わたし、いっそのこと気が狂って死んでしまいたい!)
素晴らしい娘は侍女の運んできた食事には手もつけず、夜着に着替えるとベッドにもぐりこみ、ただひたすらピーターのことを考えて、涙に暮れました。そして素晴らしい娘はこの夜から、恐ろしい夢にうなされるようになったのです……ピーターと別れた日に見た夢は、こんな内容の夢でした。
素晴らしい娘はロンシュタット屋敷の食堂のテーブルにいて、いつものようにひとりぼっちでした。けれどもいつもなら、素晴らしい娘の来る前に整っているはずのお料理が、一皿もテーブルの上には乗っかっていません。おかしいな、と思って素晴らしい娘がもう一度よくテーブルの上を見てみますと、小さな白いお皿の上に、ちょこんとチーズが一切れ乗っかっています。まさかこれが自分の食事だとでもいうのだろうかと、素晴らしい娘はばあやを呼ぼうと思いました―― と、その時、一匹の汚らしいねずみがどこからともなく現れて、皿の上のチーズをかっぱらっていったのです。素晴らしい娘は激怒しました。汚らしい子ねずみの分際で、ロンシュタット家の食卓の上に乗っかるとはなんという身分知らずなねずみだろう……このことは素晴らしい娘にとってたまらなく許しがたいことでした。それでねずみの奴を追いかけて、屋敷内を部屋から部屋へ駆け抜けてゆくと、ふと、自分の知らない部屋があることに気づいたのです。おかしいな、と思って入ってきたドアを振り返ると、そのドアから大きなねずみが――そのねずみは素晴らしい娘と同じくらいの背丈のねずみでした――のっそりとやってくるではありませんか。素晴らしい娘は失神して、その場に倒れこみました。
(暗 転)
素晴らしい娘が次に夢の中で目を覚ますと、恐ろしい光景が目の前にはありました。その部屋の中には二匹のまるまると太った夫婦のねずみがおり、チュウチュウと何か囁きあっているのです。
<このニンゲンをどうしよう?>
<そうだね。まずは全体を火であぶって、焦げだらけになったところで、塩やこしょうで味つけして食べることにしましょうか。美味しいかどうかはわからないけれど、まあひとつ試しに……>
この二匹の夫婦ねずみの会話を聞くと、素晴らしい娘は檻の一番隅のほうへと走って逃げました。そうです。二匹のねずみたちは人間並みに大きくなっており、素晴らしい娘はといえば、ねずみ並みに小さくなって、檻の中に閉じこめられていたのです。
カチャリ、とねずみ捕りの檻の扉が開くと、不気味なねずみの大きな手が、素晴らしい娘に向かって差しのばされました……。
「きゃあああ――!」
がばり、と素晴らしい娘がベッドの上に身を起こすと、あたりは漆黒の闇に包まれていました。
素晴らしい娘は汗びっしょりで、はあはあと荒い息をつぎながら、
(今のは夢だったんだ……)
と思いました。
そしてもう一度眠ろうとして枕の上に頭をのせると、今度は目が冴えてしまって、なかなか寝つかれませんでした。それにもう一度眠ってしまったとしたら、あの恐ろしい夢の続きを見はしないかと怖くもあったので、素晴らしい娘は夜明けまで眠るまいとしてがんばり続けました。それからようやく夜明けの曙の光が窓辺に差しこんだ頃になって、再び深い眠りにつくことができたのです(そのあと夢は何も見ませんでした)。
素晴らしい娘はこの夜から重い病気を患うようになり、絶え間ないひどい頭痛と熱と吐き気に苦しめられ続けました。けれども素晴らしい娘は恐ろしい夢を見ることが怖くてたまらなかったので、なるべく眠らないようにしなくては……とがんばり続けました。
医者は素晴らしい娘の両腕の傷跡を見て、動物から何か黴菌をもらったのではないかと診断しました。そして診察のあとに注射を一本打ち、「少しの間様子を見ましょう」と言って帰っていきました――医者は薬も服用するようにと置いていきましたが、素晴らしい娘はそんなものはききっこないと、自分自身でよくわかっていました。そしてもう自分は死ぬのだと、気が狂って死んでしまうのだと、心からそう信じこんでいたのです。
医者がやってきたのは素晴らしい娘が病気になって三日目のことでしたが、二日目の夜、素晴らしい娘はこんな夢を見ました――その夢は素晴らしい娘がお父さまとお母さま、それからばあやの四人で馬車に乗りこむところから始まります。馬車に乗りこんだ時、素晴らしい娘はとても上機嫌でした――お父さまとお母さま、それにばあやと四人で馬車に乗ってどこかへ行けるだなんて、こんなに嬉しいことは滅多にあることではありません。けれども、馬車が最初はゆっくりと ――そして段々に速くなっていくのにつれて、素晴らしい娘は何か様子がおかしい、ということに気づきはじめました。最初のうち、素晴らしい娘はとても上機嫌で、色々なことをお父さまやお母さまやばあやに話して聞かせていました。話の内容はすべてピーターに関することで、ピーターがいつも学校でどんな授業を受け、どんな友達とどんな遊びをして休み時間を過ごしているか、また自分がどんなにピーターのことを愛しているかということまで、ピーターについて思っていることをすべて、素晴らしい娘はお話していました。すると、お父さまは何も言わずに顔の表情を曇らせ、お母さまはしくしくと泣きはじめるのです。ばあやに至っては「なんてことでしょう!」と目尻から涙をこぼしながら呟く始末でした。
やがて馬車が止まると、御者台にいる御者がこう言いました(馬車に乗った時、その御者はヴラマンクさんだったのですが、今は素晴らしい娘の全然知らない男にすりかわっていました)。
「あんたたち、一応念のために言っておくけど、その娘は絶対助からんぜ。なにしろその娘は重度のミミズ病なんだからな」
(ミミズ病?)
素晴らしい娘は訳もわからずに病院の診察室に通され、医者は聴診器も何も使わずに、素晴らしい娘の顔を見るなりいきなりこう言いました。
「まことに残念ですが、娘さんの病気は近代の医療によってでは手の施しようのない、ひどい悪性の病気です。一度かかったが最後、十中八九まず直りません。娘さんの病名はミミズ病です。ミミズ病をご存じですか?」
素晴らしい娘のお母さまとばあやとは、感極まったかのように大声ですすり泣いて抱きあい、お父さまは何も言わず、ただ沈痛な面持ちで帽子を握りしめています。
医者は話を続けました。
「ミミズ病というのは、脳がミミズによって冒される病気で、段々ミミズの量が脳の中で増殖していきます。そして最後には……わかりますね?鼓膜を突き破って耳からそのミミズが飛びだしてくるのです!」
医者のこの話を聞き終わると、素晴らしい娘はショックのあまり、その場に気絶してしまいました。
(自分はミミズ病なんだ……これは絶対に治らない病気なんだ)
素晴らしい娘は夢の中で絶望し、また現実の世界で目覚めてからも絶望しました。
ベッドの上から窓を見やると、激しい雨と風とが、強く屋敷の窓という窓を打っているのがわかりました。遠くのほうでは神鳴りが近づいてくる音が聞こえ、稲光が何度も素晴らしい娘の寝室を青く照らしだしていました。素晴らしい娘は自分の刑罰の時がとうとう近づいてきてしまったのだと思い、自分はもう駄目だと思いました。
(神さま……わたしはもう駄目です。どうか、わたしのこれまでに犯してきてしまった罪を、どうかすべてお許しください。わたしは生きている間に本当にたくさんの悪いことをしてきました……神さま、わたしはピーターの言うとおり、ちっとも素晴らしい娘などではないのです。本当はとても悪い、ひどく残酷な、恐ろしい娘です。本当に本当にどうかわたしのこれまでにしてきてしまったことをお許しください。神さま、わたしは自分が川で溺れさせて死なせたねずみに、心から謝ります。わたしは今熱と頭痛でとても苦しいけれど、きっとねずみも同じくらい――いいえ、わたし以上に苦しかったと思います。それからミミズ――ミミズにも謝らなくちゃ……ミミズ病だなんて絶対に嫌だもの。神さま、どうかわたしのこれまでに犯してきてしまった罪をお許しください。わたしはミミズに対してもたくさんの罪を犯してしまいました。神さま、どうか神さま……)
素晴らしい娘はうわ言で何度も許してください、許してくださいと言いましたが、神さまはまだ素晴らしい娘には悔い改めるべきところがあるとお考えになられたのでしょう。病気になって三日目の夜、素晴らしい娘はこんな夢を見ました。
素晴らしい娘は真っ黒に塗りつぶされた闇の中で、どうしても身動きをとることができません。十字架にはりつけにされたイエスさまのように、手や足が動かないのです。これは一体どうしたことだろうと素晴らしい娘は思い、首をきょろきょろと右と左にまわしてみて、あたりの光景にぎょっとしました――なんと!大きな闇色をした蜘蛛たちが、自分のまわりをとり囲んでいるではありませんか!
<この娘をどうしようか……?>
<もちろん決まってるさ。食べるのさ>
<でもどこから……?>
<そうさね。まずは首と胴体を切り離してみることにしようかね。首と胴体を切り離してもニンゲンというのは生きているのかどうか、ひとつ試してみようじゃないか>
<そうしよう、そうしよう>
大きな黒蜘蛛たちはゆっくりと移動しながら、素晴らしい娘に近づいてきます。蜘蛛たちが手や足を動かして移動するごとに、巣が微かに揺れ、その微弱な振動が素晴らしい娘にも伝わってくるのでした。
(ああ、もう駄目……)
その時、一体何が起こったのか、素晴らしい娘には理解できませんでしたが、とにかく何かが起こったということだけは事実なようです。素晴らしい娘は風に舞う木の葉のように、ひらひらとどこかへ落ちてゆきました……。
(暗 転)
次に素晴らしい娘が夢の中で目を覚ますと、そこもまた真っ暗な闇の中でした。その上、また手と足が縛られてでもいるかのように、少しも動かすことができないのです。
もしかしたらまた蜘蛛たちが……と素晴らしい娘は不安になりましたが、あたりを見回してみても、そこに蜘蛛たちの不気味な姿はありません。
(これは夢なんだわ。わたし、まだ夢の続きを見ているんだわ。どうしよう。とにかく早く目を覚まさなくちゃ。何か恐ろしいことの起こる前に……)
素晴らしい娘は心の底から恐ろしかったので、夢なら覚めよ、目よ覚めよ、と何度も何度も繰り返し心の中で念じました――けれども結局なんの効果もありませんでした。そして素晴らしい娘がもしかしてこれは現実なのではないだろうかと疑い始めた頃、闇のずっと奥のほうで、ニワトリの声がしてきたのです。
(コッコッコッ、コケッコ)
(コッコッコッ、コケッコ)
(コッコッコッ、コケッコ)
どうやらニワトリは一羽だけではないようで、闇の中にくぐもった反響を響かせながら、段々にこちらへ近づいてくるようでした。そして素晴らしい娘が気づいた時には、何十羽というニワトリが、素晴らしい娘のまわりをとり囲んでいました。
(わたし、このままニワトリに殺されるんだわ)
「コケコッコー!」
一羽のおん鳥が白い翼を広げてそう叫ぶと、それを合図とするかのようにニワトリたちがいっせいに身動きのとれない素晴らしい娘に向かって飛びかかってきました。素晴らしい娘はぎゅっと目を閉じると、肉を引きちぎられる痛みと衝撃に耐えることを覚悟しました――が、痛みというものは一切ありませんでした。
次に素晴らしい娘が両目をそっと開けてみると、ニワトリは一羽を残していなくなっていたのです。あの大勢のニワトリたちはただ、素晴らしい娘の着ていた素晴らしいドレスを引き裂いただけで、素晴らしい娘の体には、傷ひとつ負わせはしなかったのです。
素晴らしい娘は最後に一羽だけ残ったおん鳥と目があうと、
(これはわたしの殺したニワトリだ)
ということが、動物的直感によってはっきりとわかりました。そしておん鳥は立ち去り際に、ニワトリ語でこう言い残していったのです。
「ワタシハアンタヲ許スヨ。
ぴいたあニ免ジテネ」
『ソウソウ。ぴいたあニ免ジテネ』
と、闇の奥深くで別のニワトリがもう一度おん鳥の言ったことを復唱すると、おん鳥は白い羽毛を何枚か残して、闇の中へと消えてゆきました。
ドレスをニワトリたちにびりびりに引き裂かれて下着姿になった素晴らしい娘は、これで自分の犯した罪はすべて許されたのに違いないと、ほっと胸を撫でおろしました――けれどもそうではなかったのです。何故なら、夢がなかなか覚めないからです。素晴らしい娘は夢の中で、何故夢が覚めないのだろうと不思議で仕方ありませんでした。そしてあることに気づくと、ぎくりと全身を強張らせました。
(わたしがいじめた生き物は、これが全部ではなかったはずだ。あとは何がいたっけ?蟻にトンボに蝶々にバッタ……)
するとその時、軍隊が足並みを揃えて行進してくるかのような音が、素晴らしい娘の耳の中に轟いてきました。
(まさか……)
素晴らしい娘が目を上げると、暗闇の上空には毒々しい鱗粉を撒き散らしながら蝶々が飛びかい、トンボのうなり声もどこか遠くのほうから聞こえてきているようでした。
蟻たちは闇と同一化してでもいるかのように、素晴らしい娘をぐるりととり囲んでいます。やがてバッタとキリギリスの合図によって素晴らしい娘は蟻の軍隊にかつがれてゆきました。そして素晴らしい娘がこれから自分はどのような場所に運ばれ、どのように残酷な復讐をされるのだろうと泣きながら思った時、ようやく素晴らしい娘は目を覚ますことを許されたのです。
素晴らしい娘が泣きながら目を覚ますと、そこには心配そうな表情で素晴らしい娘のことを覗きこんでいる、お父さまとお母さま、それにばあやの顔がありました。お母さまは両手を胸のところで組みあわせるとわっと泣きだし、「おお主よ……」と何度も何度も呟いていました。お父さまは何も言わずに、ただぎゅっと素晴らしい娘のことを抱きしめてくれ、素晴らしい娘は自分がまだ夢を見続けているのではないかと、そんな気がしていました。そしてばあやがヤグルマギクの花束を自分に手渡してくれた時に、ようやくこれがまぎれもない現実であるということがわかったのです。
ばあやは何も言いませんでしたが、そのヤグルマギクの花束がピーターからのものであるということが、誰に何を言われなくても素晴らしい娘にはわかっていました。
ふたりで野原を散歩していた時、素晴らしい娘はピーターにこう聞いたことがあったからです。
『この花の名前はなんていうの?』
『それはヤグルマギクっていうんだよ』
素晴らしい娘はある晴れた午後の日のことを思いだし、感動に胸が焼きつくかのように熱くなるのを感じました。素晴らしい娘はお父さまの体にしがみつき、ずっと長いこと泣き続けました。するとお母さまも素晴らしい娘に抱きついて、もらい泣きするかのように涙を流し続け、とうとうお父さままでが、黙って頬を涙で濡らしていました。
親子は三人で、互いに互いの体を抱きしめあいながら、ずいぶん長いことそうしていました。
8
素晴らしい娘はそれから一週間と経たないうちにすっかり元気を回復し、外へ遊びにゆく許可も得ることができるようになりました。お父さまはまたすぐに外国へと旅立っていかれましたが、素晴らしい娘はお父さまが自分のことをどんなに愛してくださっているかを深く知っているので、もう以前ほど寂しいとは思わなくなりました。お母さまもこのごろは体調の良い日が続いているのらしく、素晴らしい娘と一緒にお食事をしてくださることが多くなりましたし、素晴らしい娘はとても幸福に毎日を過ごしていました。
そして素晴らしい娘をとりわけ幸福にさせたもの――それはピーターの存在でした。素晴らしい娘はヤグルマギクを見た瞬間に、すぐにこう直観したのです。『ピーターは自分のことを許してくれた』のだと。
自分はあんなにもひどい、残酷な、恐ろしいことをしたのに、ピーターはそれを目の前でつぶさに見つめていたのにも関わらず全部許してくれた――そう思うと、素晴らしい娘の小さな胸は、幸福のときめきにしめつけられんばかりでした。
今日、たった今これから、素晴らしい娘はピーターに会いにゆきます。
片手におやつの入ったバスケットを持ち、まるでバレリーナのように軽やかな足どりで、ロンシュタットの敷地内にある庭という庭の生垣を通りすぎ――そしてとうとう果樹園の林檎の木の下にピーターの姿を認めた時、素晴らしい娘の胸は歓喜という歓喜によってはちきれそうなくらいにどきどきと脈打っていました。
ふたりは林檎の木の下で出会うと、互いに互いを抱きしめあい、手と手をぎゅっと握りしめあいました。
「どうか、こんな罪深いわたしのことを許してちょうだいね、ピーター。わたし、本当にお馬鹿さんの悪い子だったわ……いいえ、どうかわたしに最後まで言わせてちょうだい。わたし、今度という今度こそは本当に心の底からわかったの。わたしには素晴らしい娘なんていう名前がちっとも似合わないんだってこと…… でもせっかくお父さまとお母さまがつけてくださった名前ですものね、これからは見せかけだけじゃなくて、本当の素晴らしい娘になれるようにって、心からそう思うの。ねえピーター、わたしが本当の素晴らしい娘になるためには、あなたの助けがどうしても必要なのよ。これからもわたしと、ずっとお友達でいてくださる?」
「もちろんだよ」とピーターは素晴らしい娘の鳶色の大きな瞳を覗きこみながら答えました。「ぼく、あのあとずっと後悔していたんだよ。女の子の顔をぶつだなんて、どんな理由があるにせよ、しちゃいけないことだった。きみが病気になったって玄関番の人から聞いて、すごくつらかったよ……エディアが早く良くなりますようにって神さまに毎日お祈りもした。そのためにならぼくはどんなことでもしますって神さまに誓ったんだ」
素晴らしい娘はピーターのその言葉を聞くやいなやたまらなくなって、ピーターの頬に感謝のキスを雨あられと降らせました。そしてふたりは手をつなぎあったまま、森への散歩道を歩いていったのです。道すがら、ピーターはビリーとジョージととっくみあいの大喧嘩をしたと、素晴らしい娘に話して聞かせました。女の子の顔をぶつ勇気はあるのに、ガキ大将と戦う勇気はないだなんてそんなのはおかしいと思い、ふたりに立ち向かっていったけれども、結局惨敗してしまったと、そうピーターは告白しました。
「だけど、あいつらと喧嘩してみて良かったよ。ビリーもジョージもぼくがあんまりしつこく食らいつくので、最後にはぼくのことをもう絶対にいじめないってそう約束したからね。ぼく、エディアが病気になったって聞いた時、こう思ったんだ。自分にはどうしてこんなに力がないんだろうって。そしたらね、ずっと考えているうちに答えが見えてきたんだ。これからぼくはうんと勉強してえらい学者か何かになろうと思う。まだはっきりとはわからないけど、きみはお嬢さまだから、ぼくはとにかくうんと勉強してうんと偉くならなくちゃ駄目なんだってそう思うんだ」
「とても嬉しいわ」と素晴らしい娘は頬を染めながら答えて、それから今度は自分のことを話しはじめることにしました。病気で寝込んでいる間に、自分が見た恐ろしい夢のことや、悔い改めて神さまに心から祈ったこと、そしてお父さまが外国で電報を受けとり、すぐに帰ってきてくださったことなど……。
「ピーター。夢の中であのおんどりが……わたしが殺してしまったあのおんどりが、わたしに向かって本当にこう言ったのよ。<ピーターに免じてわたしのことを許す>って。ねえピーター、あなたはこんな話、信じてくださるかしら?」
「信じるよ」とピーターは言いました。「ぼくはあのあとプレイスさんの農場へいって、こう聞いたんだ。鶏小屋から脱走したおんどりはいませんかって。そしたらプレイスさん、病気になったのが一羽逃げだしちまったっていうから、もしかしたらこのおんどりじゃないですかってぼくは聞いたんだ。そしてその時にぼくはちょこっと嘘をついた。すぐそばの道端で死んでいたのを見つけたってそう言ってね。そしたらプレイスさん、わざわざ運んでくれて悪いけど、それは病気のやつだからどこかへ捨てるなり埋めるなりして始末してれっていうからさ、ぼくはプレイスさんに言われたとおり、近くの土手に穴を掘ってそこにおんどりを埋めた。ぼくはおんどりを食べてあげ
ないと可哀相な気がしたけど、何せ病気だったっていうからね……」
湖の前まで辿り着くと、ふたりは苔むした倒木に腰かけ、おやつを食べながら、そのあとも色々なお話をし続けました。
「ねえピーター。あなたは本当に心からわたしのことを許してくださる?あんなにひどい、残酷な恐ろしいことをしてしまったわたしのことを?」
ピーターは許す、と言葉で答えるかわりに、素晴らしい娘の可愛らしい薄桃色の唇に、許しのキスをしました。
ふたりは、つい十日ほど前にここで別れたばかりなのですが、その時と今とでは、天と地ほどの違いがあるかのように感じられていました。素晴らしい娘はピーターのことを以前よりもずっと頼りがいがあって男らしくなったように感じていましたし、ピーターは素晴らしい娘が病気を克服したあとで、以前よりもずっと女らしく、ふくよかになったように感じていました。
ふたりは辺りが薄暗くなって、かえるたちが夕べの合唱をはじめるころになってもまだその場所にいましたが、この時、ふたりの間を邪魔するものは何ひとつありませんでした。
終わり