夏の木陰4
「サラ」
返事がない。
「サラ!」
パソコンの前から動きもしない。もう夜の七時を回っている。サラはあれからずっとこの場所を動かず、お昼も食べずにパソコンを使っていたらしい。
「サラ!」
ヘンリーは、我慢できずにサラの肩を叩いた。びくりと肩が震え、やっとこちらを向いた。
「パソコンは終わりにして。もう夕食の時間だ」
「もう少し」
「だめだよ」
厳しい顔でサラを見下ろす。
「でも、」
「だめだ。いいかい、サラ。お父さんは、きみも知っての通り、療養中でいない。だから、この家では、僕が当主代理だ。ぼくの言うことがこの家でのルールなんだ。わかるかい? サラは、夕飯の時間だから、パソコンは終わり!」
ヘンリーは、一語一語を区切って、きっぱりと言い放った。
「……。あとで、また使ってもいい?」
「今日はもう終わり。でも、明日の朝ご飯をちゃんと食べた後ならいいよ」
サラは、未練がましくパソコンにちらりと目をやったが、頷いて電源を切る。ヘンリーも、表情を緩めて微笑んだ。
「サラは、夢中になると何もかも忘れてしまうんだね。インドでは、どんなふうに暮らしていたの?」
「このパソコン、スペックが低すぎるの」
一瞬、ぎゅっと唇を引き締める。
サラと話していると、こんなことがよくあった。聞こえているはずなのに、聞いていない。頭の中が常にいっぱいで自分の内側にしか注意が払えないのだろう。でも、ここで怒ってはダメだ。まずは、サラの話を聞かなきゃ。
しゃべらせて、僕の質問が聞こえるくらいには、隙間を作ってもらわないと。
ヘンリーは、一呼吸おいてから言った。
「結構前のだからね。最新のものが欲しいなら買っていいよ」
確か、前にマーカスとスミスさんがそんな話をしていた気がする。そろそろ買い換えた方がいいとかなんとか。僕は、自分のノートパソコンがあるし、ここのを使うことがなかったから忘れていたけれど。
「新しいを買ってもいいの?」
サラは珍しく大声を上げた。そんなサラの様子にヘンリーは驚きながらも、妙に納得して言った。
「サラは、パソコンが欲しかったんだね。スミスさんに頼んでおいたらいい。希望に沿ったものを選んでくれるよ」
「自分で作る。インターネットで部品を買ってもいい?」
「パソコンって、自分で作れるの?!」
「自分で作らないと、スペックが足りなくて」
「それじゃあ……」
何て続けよう? サラはいつもヘンリーの予想を超えたことを言い、ヘンリーは返答につまってしまう。
「そうだな、明日サラは、必要な部品を調べて、書き出しておいて。それから僕がマーカスに言って注文してもらう。それでいい?」
「ありがとう。ヘンリー」
サラは、嬉しそうに笑ってくれた。
「今日はパソコンで何をしていたの?」
「ソフトを作っていたの。でも、スペックが低すぎてうまく動かなくて」
専門用語を並べて、とうとうと語り始めるサラ。
ヘンリーには何のことやらさっぱり判らなかったが、一生懸命にしゃべっているその姿を見ているだけで、なんだか嬉しさがこみ上げてきた。
「これは、私の権限を越えておりますので、お父様にご相談下さい」
執事であるマーカスは、ヘンリーの差し出した明細書を見て驚愕した自分をごまかすように咳払いし、努めて冷静に返答した。
「そうなるよね。やっぱり。僕も目を剥いたよ」
ヘンリーは、唇をへの字に曲げて苦笑いしながら言った。
「ええと、ロンドンに電話するべきかな? それともスミスさん?」
「スミスさんでしょう」
日常的な買い物ならマーカスの、高額な買い物の場合は、父の許可がいる。父が倒れてからは、父の秘書であるジョン・スミスに連絡して父に許可を取ってもらうのが常だった。
ジョン・スミスは三十代半ばのいかにも有能といった感じの男だった。いつも丁寧で無駄がない。だが、冗談を言うこともなく私事を一切口にしない、いつも事務的なジョン・スミスは、ヘンリーには苦手な相手だった。
ヘンリーは、空を仰いで目をぎゅっと閉じた。
サラ、がっかりするだろうな。さすがに、子どものおもちゃに使える額じゃないもの。
とてもあの秘書を説得できるとは思えなかった。
ヘンリーは、のろのろと半ばあきらめ顔でジョン・スミスに電話して、サラの望みを話した。
『それで、お幾ら程ですか?』
「二万五千ポンド(約四百万円)」
『わかりました。こちらから注文しますので、明細をメールで送って下さい』
驚いた様子もない淡々としたスミスの返事に、逆にヘンリーの方が意外だった。
「父には聞かなくても?」
『サラお嬢様のことは、一任されております。許容範囲です』
「ありがとう。サラも喜ぶよ」
ヘンリーは狐につままれた気分で電話を切った。
「二つ返事でOKだったよ」
ヘンリーは電話を置くと、嫌そうに顔をゆがめて、ソファーに身を投げ出した。
「気にくわないな。スミス氏は、僕よりサラのことを良く知っているみたいだ」
口を尖らせて眉をしかめる。
「悔しい」
こんな坊ちゃんは初めてだ。
とても優しいのに、どこか淡泊でひとに執着しない大人びた面のあるヘンリーの、年相応の子供っぽい表情を見て、マーカスは、くっくっと咽喉を震わせて笑った。
「お嬢さんに、直接お聞きになればいい。傍にいらっしゃるのですから」
「そう簡単にいかないんだよ。サラは」
「大丈夫ですよ。美味しいお茶と、ケーキがあれば」
ヘンリーはちらりと時計に目をやる。四時近かった。
「ああ、もう、そんな時間か。図書室に運んでくれる? スミスさんに負けないように、親交を深めてくるよ」
ヘンリーは、大きく伸びをして立ち上がった。
「サラは、またランチを食べていないんだろう? サンドイッチも付けておいて。あ、それからサラはベジタリアンだよ。サラの分は、ハムとベーコンは抜きで。僕は食べるけどね」
家庭教師の時間を減らしてもらおうかな。ランチくらい一緒に食べたい。
平日は、半日みっちり家庭教師が来るため、ゆっくりサラと過ごせない。サラは、ヘンリーがいないランチタイムには食事に手をつけないらしかった。算数をサラに教えて貰えば、その分の時間を削って、ランチタイムをのばせるはずだ。
もっとサラのことを知りたい。もっと一緒にいたい。
ヘンリーにとってサラは、平凡で常識的な日常を叩き壊してくれる未知の何かだった。その不可思議さに、ヘンリーは完全に魅了されていた。