15.隠れ家
サワサワと耳心地よく葉のこすれる音がする。
小鳥のさえずりが高いところから響き、風が肌を掠める。
マイナスイオンたっぷりの濁りっ気ない空気が、肺の中に満たされていく。
――森の中だ。
目を開ける前に直感的にそう思った。思えるくらい、はっきりとした森の気配がした。
「凌、大丈夫?」
名前を呼ばれて顔を上げると、私服のままの美桜がいる。いつもなら、“こっち”に来ると服装を変えるのに。
マジマジと見つめる俺の視線から逃れるように、彼女はそっと顔を逸らす。
「街から離れたところだったから上手く飛べるか心配だったけど、心配要らなかったみたいね」
窓のすぐそばまで迫った木々は、ここが通い慣れたレグルノーラ中心部とは違う、全く別の場所なんだと知らせてくれる。
繋いでいた手は、いつの間にか離れていた。
「ここくらいしか、思いつかなかったから」
美桜の声がよく響く。
屋根組の構造がむき出しの、天井が高い丸太作りのロッヂだった。所々に煉瓦が組まれていて、隅には暖炉や煙突もある。一部二階建てなのか、手すりや階段も目に入った。
「ここは?」
眼をキョロキョロさせる俺に構わず、彼女は慣れたように室内を動き回る。
あまり綺麗な場所じゃない。しばらくの間誰も住んでいなかったとすぐにわかる廃れ具合だ。よく見ると、蜘蛛の巣が張ってあったり、枯れ葉が床の角に溜まっていたりする。
美桜は手当たり次第窓を開け、換気し始めた。隣にも部屋があるようで、そちら側のドアも開け放している。
一人取り残され、仕方なく室内を探索する。
木でくくりつけられた飾り棚に、手作りの工芸品や手芸品、ドライフラワーの飾られた瓶がある。古めかしい暖炉のそばに行くと、大きな背もたれのある椅子や一枚板の低い木製テーブルが、寂しそうに鎮座していた。
ほこりを被って白っぽくなった写真が壁に飾られている。手で拭き取ると、見覚えのある女性と子供が写っていた。
「何見てるの」
トゲのある声がして振り向くと、美桜が苛立った表情でこちらを見ている。
「な、何って。写……写真だよ。これ、美桜とお母さん?」
見られたくなかったのか。思ったが、もう遅かった。
彼女はどうして見たのとばかりに怒りをあらわにして、俺の手首をグイと引っ張った。
他にも写真はいくつかあったが、それらをじっくりと見るのは不可能だった。色あせ青っぽくなった写真の背景に、日本のものらしい建物がチラチラ写っていたのがものすごく気にかかったのだが。
「凌に手伝って欲しいって言ったじゃない。忘れたの」
俺には見せたくなかった、見せる予定じゃなかった、そんな素振りだ。
確かに、無理やり武器をこっちに持ってこさせるよう俺が誘導したわけで、彼女にとってそれは本意じゃなかったのだから仕方ないのかもしれない。
美桜は自分のことを全部話したように見せかけて、本当は何も話しちゃいない。
写真を見られたくないのも、自宅マンションでの話の中に本当のことがいくつか抜け落ちているからじゃないのかなんて、要らない詮索をしてしまう。
だが、今はそんなことにいちいち引っかかっている場合じゃない。彼女が俺の忠告を快く……かどうかはわからないが、とりあえず聞いてくれた、そっちのほうが重要だ。
美桜は窓際に置かれた大きめのテーブルを布で綺麗に拭いて、チョークのような物で直径1メートルほどの円を描き始めた。彼女の性格がそのまま表れたような、実に美しい円だ。その中に、もう一つ円を描き、真ん中に三角を二つ、小さな円に頂点がくっつくように、上下逆にして重ねて描く。大きな円と小さな円の間に、レグルの文字でグルッと一周分言葉を綴り終えると、彼女はふぅとゆっくり長いため息をついた。
「魔法陣?」
テーブルに身を乗り出して尋ねると、
「ええ」
と彼女は静かにうなずく。
「“それぞれの世界”から物体を転送させるには、ちょっと“力”が要るから。普段は頭の中で“イメージ”すれば何とかなるけど、物体の量によっては、こうやって魔法陣を描いた方が効率がいいの」
へぇと、相づちは打ったものの、イマイチ理解できない。
“二つの世界”は結局、どういう関係なんだろうか。
“裏の世界”、つまり“レグルノーラ”がどこにあるのか、俺には皆目見当がつかない。
あり得ない能力、あり得ない生物、あり得ない科学技術。あり得ないことだらけで、“夢”だ言われた方が納得するくらいだ。
異次元なのか。異世界、なのか。
並行世界という概念があるのは知っている。同じような、表裏一体の世界が存在するらしい。途中までは一緒なのに、どこかで分岐して違う道をたどってしまった、もう一つの未来がある世界。もしかしたら“レグルノーラ”は、それに近いのかもしれないと思っていたのだが、それとも少し違うようだ。
円の中心部、二つの三角形が重なったところに手を置くよう促され、俺は恐る恐る右手を差し出した。
「で? どうするの」
テーブルの向こう側にいる美桜を見たが、もう既に何かが始まっているようで目を閉じてしまっている。
真似をしろってことだろうか。
渋々目を閉じ口をひん曲げていると、
「右手に力を込めて」
美桜はまた、抽象的な言い方をしてくる。
力ったってどうすればいい。よくわからないが、右手に集中し思いっきり力を入れてみた。血管が浮き出てピリピリと腕が痛くなるようなイメージだ。
「そう、その調子」
何がその調子なのかもわからず、俺はただ、テーブルの上に置いた手にじっと神経を傾けた。
美桜はレグルノーラの言葉で、なにやらボソボソと唱えていた。
未だレグル語が理解できない俺は、般若心経を聞いているような微妙な気持ちで、集中力を途切れさせないようにするのが精一杯だった。
やがて目の前がパッと明るくなり、魔法陣に沿って光の柱が立っているような映像が、脳内に浮かび上がった。目がくらんでしまいそうなくらい強い光を感じ、閉じていた目を更に強くつむる。
「出でよ!」
急に美桜が叫ぶ。
俺はビクッとなりながらも、目を開けないよう、手から力が抜けないよう、必死に耐えた。
そうこうしているうちに、手のひらに変な感触が伝わってくる。
もっこりと、何かがテーブルから迫り出てきたのだ。
何だ。
気持ち悪い。だが、ここで力を抜いたらダメだ。
右手の高さが不自然に上がる。鉄っぽい長細い物の感触がどんどんはっきりとしてくる。ん? これはもしかしたら、さっき美桜の部屋で触った……。
「目、開けていいわよ」
光がまだ微かに残っている。
魔法陣全体がボヤッとした黄色に包まれて、それが少しずつ薄まっていく。
手の下にあったのは、やはり美桜の部屋のクローゼットで見た、武器の山だった。なにがどうなっているのか、とにかく見覚えのあるそれらは、確かに魔法陣から迫り出て、“この世界”へと戻ってきたのだった。
試しに一つ手にとってみる。やっぱり間違いない。あそこにあった本物の銃だ。
「どういう……カラクリ?」
いろんな角度から銃を眺めていた俺に向かって、美桜はフッと短く息をついた。
「魔法。転送魔法、みたいなもの、かしら」
ホントかよと、目の前で見せられても――まぁ目は瞑っていたのだが、全く納得できていない俺に、彼女は仕方なさそうに説明し始める。
「魔法陣をゲートに見立てて、“二つの世界”を結ぶのよ。凌から力を借りたのは、私だけじゃ一気に運び込める量を超えていたから。一つ一つ運ぶだけなら、魔法陣がなくったって問題ないんだけど」
へぇと、また俺は、納得できたようなできていないような顔でうなずいてみせる。
結果的に、銃や剣が転送されてきたものの、自分が力を貸したっていう実感は湧かない。感謝されているんだかどうだかも、よくわからない。
第一、本当に魔法のようなモノが存在するのかどうか未だに理解できていないのだ。“裏の世界”の存在は何となく認めるとして、魔法、だなんて。非科学的にもほどがある。もっと理屈がはっきりした技術だったら納得できそうなんだが。
「何、ボーッとしてるの。運ぶの手伝って」
美桜に言われて、ハッと顔を上げる。テーブルの上の銃をいくつか腕に抱えて、アゴで合図している。
ハイハイと生返事して俺も剣を何本か抱えたが、思ったより重量感がある。レプリカじゃないんだから、こんなもんなんだろうけど。
さっき美桜が窓を開けに行っていた奥の部屋に、くくり付けの物置棚があった。そこに丁寧に銃や剣を置いていく。銃だけでもかなりの量だったため、二人で三回ほど往復し、やっと運び終えた。扉の代わりにつけられたカーテンを閉めて、とりあえずの作業を終了する。
「こんな鍵もかからないような場所に、物騒なもん大量に置いといて大丈夫なのかよ」
元の部屋に戻りながら俺は美桜に尋ねたが、彼女は大丈夫と口角を上げるばかり。
「ここ、レグルノーラのどの辺か、わかってる?」
「いや」
わかるわけがない。
レグルノーラの全体像は、初めて“この世界”に連れてこられたとき、ビルの屋上から見せられたアレが最初で最後だった。確か、中心部には巨大なビルが建ち並んでいて、その周りにヨーロッパ風の街並みがあって、それから街を囲うように森があり、更にその向こうに砂漠があったはずだ。
――『都市を囲う森は魔物の巣窟よ。だけど、砂漠の侵食を防いでくれる生命線でもある。レグルの人間は、この狭い世界の中で、魔物と砂漠の侵食、そして悪魔に怯えて生きている』
ということは、ここは。
「……もしかして」
そこまで言うと、美桜はもうわかったわよねと小さく笑う。
「“都市を囲う森”の中にあるのよ。この小屋は」
「え? ちょ、ちょっと待って。じゃ、魔物の」
そこまで口にしたところで、突然、
「クォォーン」
という獣の声が辺り一面に響き渡った。
軋むような、喉に引っかかるような声に、俺は慌てふためいて尻餅をついた。尻の骨が床材に当たって、ものすごく痛い。うずくまり腰を触る俺を見て、美桜は楽しそうに目を細めた。
彼女には妙な余裕があった。
ロッヂの入り口ドアを開け放って外に出ると、こっちへおいでと俺を手招きする。
自分で言ったんじゃないか、“魔物の巣窟”だって。今だって、変な獣の声が聞こえていたというのに、丸腰で森の中へ出ようとするなんて無茶だ。
尻込みしている俺を、彼女は早く早くと急かした。
全く気が乗らないが、仕方なくよいしょと立ち上がってついて行く。
基礎を少し高めに組んだロッヂからは、階段で地面に降りた。中は薄汚れているが、外観は殆ど痛んではいないようだ。誰かが定期的にメンテナンスをしているのかもしれない。
美桜はサンダルで、俺はスニーカーで、草の上をざくざくと歩いて行く。
最初の頃は、“あっち”の服装そのままにこっちに飛んできていたのが、最近は飛ぶ場所によって微妙に服装が替わっているときがある。
例えば最初の数週間は、教室から飛ぶと上履きのままレグルノーラを歩き回っていた。それが、いつの間にか外履きに履き替えるようになっていたのだ。“向こう”では、腕の刻印を見られたくなくて、だんだん暑くなってきたのに長袖を貫いていたのが、今はちゃんと半袖のTシャツになっているし、美桜の部屋にいたんだから靴下のままのはずが、ちゃんとスニーカーを履いている。
こういう些細な変化は、もしかしたら俺自身の“干渉能力”とやらがそれなりに上昇しているからなのではないかとなんとなく良い方向に捉えているが、美桜にしたら呼吸するのと同じくらい意識していないことなのかもしれない。
林道を進んで数分経ったところで、美桜は急に立ち止まった。
「どうしたんだよ」
「――シッ。静かにして」
人差し指を立てて俺の行動を牽制しながら、美桜はゆっくりと周囲を見回した。耳をそばだて、チラチラと森の奥の様子を覗っている。
何の気配を探ってるんだ、そう思ったとき。
バッと辺りが暗くなり、背後からガサゴソッと尋常ではないくらい大きな音が降ってきた。
何ごとだ。
俺はとっさに両手で頭を覆い、縮こまった。同時に変な声を上げてしまったが、その声の大きさに恥じている場合じゃない。
心臓はバクバクと、うるさいくらい強く動いている。
大きく黒い影が俺の真上に覆い被さった。
そして、また獣の声。空気をつんざくような声。
美桜は……、美桜はどうしているのだろうと顔を上げると、彼女は微動だにせず大きな影の方をにこやかに見つめている。
何が、いるんだ。
両耳を塞ぎ、恐る恐る振り返った。
――竜だ。
翼竜だ。
この間、ライルたち市民部隊の大人たちが乗っていたのより、少しだけ小さいくらいの、首の長い、黒い竜がいる。
木々の間をすり抜け、やっと出した首をもたげ、俺たち二人を見下ろしている。
大きな赤茶色の目がギョロリと動いて、俺の顔をまじまじと見ていた。
眼球一つがバレーボール大くらいある。
本能で怖いと思ったのか、足がすくんで動けない。
「リリィ、彼は私のお客さんだから、怖い顔しちゃダメよ」
美桜は親しげに、黒い竜に向かって話しかけた。
リリィ、それがこの竜の名か。そういえば、ライルの竜も名前で呼んでいた。
「凌も、怖がらなくていいのよ。この子は私の竜だから」
「ハァ?」
私の……? どういう意味だ?
首を傾げている俺のことなんて全く気にする様子もなく、美桜はまた竜に話しかけた。
「リリィ、サーシャは? サーシャは一緒じゃないの?」
竜は声も上げず、くねっと首を傾げている。
人間の言葉が理解できているのかどうか。美桜の言葉には耳を傾けているように見えるのだが。
と、今度は竜が顔を出したのとは別の方向から、ガサガサと細かい音がする。サクサクサクッと、草を分で歩くような音と共に、
「あたしならここだよ、ミオ!」
活発そうな少女が一人、茂みの中から声を上げた。
俺たちと同い年くらいか、少し上くらいの黒人の少女。
「サーシャ」
美桜は少女の名を呼ぶと、安心したように顔をほころばせていた。