117.眠れぬ夜
砂漠へ向かい、帆船で化け物と戦い、黒い湖に呑まれ、リアレイトへ。
一日の出来事があまりに多すぎて、全然整理が付かない。
結局俺は、かの竜に踊らされている。
砂漠へ向かったのだってそうだ。アレが単なる砂煙だと知っていたなら、わざわざ行かなかったかもしれない。帆船を操っていたのがシバの偽物だと知っていたならあれほど気が狂うこともなかったかもしれない。芝山が生きていると知っていたならあれほど苦しまなかったのかもしれない。
かの竜が俺を狙う本当の理由は何なのだろうか。
あのとき魔法陣の文字を書き換える隙を作ってしまった、それだけでこんなにも追い詰められなければならないのだろうか。
金色竜を従えているから?
自分を助けてくれなかったという理由だけで、テラと同化する俺を敵視するだろうか。
本当はもっと見えないところに理由があって、それを悟られぬようじっと息を潜めているのではないか。
そう考えると、寝るに寝られなくなってくる。
身体は疲れ切っているはずなのに、頭は妙に冴えていた。暗がりの中で目を開けて、ノエルの寝息を聞く。余程疲れているのだろう、時折いびきを掻いている。無防備に寝ているノエルは、こうしてみると単なる子どもだ。常に反発してくる棘の塊のような小生意気な彼も、誰にも言えない悩みを抱えて必死に生きている。無理せず誰かに相談すれば良いのに。そこまで思って、俺は同じことが俺にも言えるなと苦笑いした。
時計は深夜の2時を回っていた。
おもむろに起き上がり、キッチンに向かう。冷蔵庫には確かお茶が入っていた。少し喉を潤せばスッキリして寝られるだろうかと、ぼんやりした頭を抱えながら歩いて行くと、リビングが少し明るいことに気が付く。常夜灯の下、ソファに座ってスマホを弄っている美桜が居たのだ。
「何してんの」
声をかけると、美桜はビクッと身体を揺らす。
「凌! び、びっくりした。トイレ?」
スマホの画面を消されると、美桜の顔が急に見えにくくなる。
「いや、眠れなくて」
「そうなんだ。私も」
ネグリジェ姿の美桜は、どこか妖艶だ。
「少し、話さない?」
美桜が言うので、俺は「いいよ」と返事し、彼女の隣にゆっくりと腰を下ろした。
「疲れたのに、何で眠れないのかなって。寝てしまえば楽なのに」
美桜の声は力なかった。
「今日は凌と一緒だから眠れると思ってた。毎日毎日、“向こう”でどうしてるんだろうってそればかりで。ただの高校生だった凌を巻き込んでしまったことへの罪悪感で、押し潰されてしまいそうだった。凌は私とは違う。私みたいに小さい頃から行き来してて、離れるに離れられないわけじゃない。私があなたを見つけなければ、無意識下で干渉するだけの一般人のままだったかもしれないのに。巻き込んでしまった。しかも、“救世主”だなんて。望まなければ良かった。私が全部悪い。私が誘わなかったら、声をかけなかったら。あなたを“向こう”で見かけたのを気のせいだと思っていたら。……苦しいでしょ? 逃げたくなるわよね、きっと。苦しくて苦しくて苦しくて、私を恨んでいるわよね?」
両手で頭を抱える美桜。
泣いているのだろうか。暗くてよく見えない。
背中に手を当て、そっと擦る。ネグリジェの生地がやたら柔らかい。
「こうなったのは別に美桜のせいじゃないから。何度も言ってるけど、俺が決めて、勝手にこうなっただけだから。美桜は何も心配しなくていいんだよ」
この言葉が彼女に何を思わせたのか。美桜は突然の俺の肩にもたれかかった。寝間着用のTシャツにしがみつき、頭を肩に擦りつけてくる。
「嘘。無理しなくて良いのに。私の前では本当のことを言ってよ」
「嘘じゃないって。なんで嘘を吐く必要があるんだよ」
そうだよ。嘘じゃない。隠していることはあるけれど。
「怖いの」
「え?」
「怖くて怖くて。本当は逃げ出したい」
シャツを掴む力が強くなる。
「本当は臆病で泣き虫なのに、誰にも弱音を吐けなくて。――普通って何だろう。私にとっての普通はレグルノーラで戦うことで、魔法を使ったり剣を振るったり、竜とお話ししたり。けど、それは日常じゃなくて非日常で、凌も芝山君も須川さんも単に巻き込まれてそれが日常になりつつあるだけだって、最近になってようやくわかってきた。誰かに助けて欲しいなんて、どうやって言えば良いのかわからないまま大きくなって、飯田さんにも……全部は言えない。私と違う日常を送っている人には、何も相談できない。生きていくことがこんなに苦しいなんて。私は孤独で、誰とも分かち合えない秘密を持っていて、それを共有するために凌を巻き込んでしまったんじゃないかって思うと、私ってなんて恐ろしい女なんだろうって。自分の気持ちを整理できないばっかりに誰かを貶めるなんて、……最低よね。こんなに酷いことをしているのに、凌に嫌われたくない。怖いの。大事な人が離れていくって、そう思うだけで怖くて怖くて逃げ出したくなる」
心なしか美桜が震えている気がして、俺はゆっくりと彼女の頭を撫でた。長く柔らかい髪の先っぽまでゆっくりと撫でてやると、落ち着いてきたのか力が抜けていく。
虚勢を張っている、という表現がしっくりくる。
常に強がっていないと生きていけない。だからこそ、周囲にもトゲトゲしくなる。
「凌は……怖くないの?」
「え?」
「“救世主”なんて呼ばれて、周囲に期待されて。逃げ出したいって思わないの?」
「それは……」
こういうとき、何て答えれば彼女は納得するだろう。
少しだけ間を置いて、
「怖いなんて、考える余裕もなかった」
すると彼女はふと身体を起こし、俺の顔をまじまじと見始めた。
「感情なんかより、もっと大きなモノに支配されていて、とにかく必死だった。逃げたら楽だとは思ったけれど、結局逃げようが立ち向かおうが結果は一緒。だったら、やり遂げた方が良いのかもしれないって。葛藤は……当然あった。けど、葛藤しようが何をしようが、やるべきことは変わらない。ならば、もう答えは出てるよな」
俺の顔が、彼女にはどう映っていたのだろうか。
彼女は今にも泣き出しそうな顔で、ただただ俺を見上げている。涙を堪えて口をへの字に曲げた美桜の、こんな表情を俺は見たことがない。
「我慢、してる?」
「してない。大丈夫」
「本当に?」
「本当」
大粒の涙が彼女の頬を伝う。
腕で涙を拭い取り、彼女はまた潤んだ目で俺を見つめている。
そっと伸ばされた彼女の手が、俺のTシャツの裾を引っ張って、それからまた、彼女は俺の肩にトンと額をくっつけた。
「シンは……寝てる?」
「テラ? さぁ。どうだろう」
「分離、できないの?」
「どうして」
「キス……したいかなって」
心臓が激しく鳴った。
ゴクリと生唾を飲み、鼻で大きく息をする。
「不安で押し潰されそうになるの。やっと戻って来たのに、凌が今にも消えてしまうんじゃないかって苦しくなる。凌を感じたい。抱きしめたい。でも、凌の中にはシンが居るし。無理なら」
美桜が最後まで言い切らないうちに、俺は美桜を押し倒していた。
ソファに転げた美桜は、驚いた様子で俺を見上げている。
「シンが見てるかも」
常夜灯に照らされる美桜。眉をハの字に曲げて、口を歪めている。
「構わないよ」
俺はゆっくりと彼女に覆い被さって、唇をそっと重ねた。
秘密を持った者同士。
惹かれていくのは当たり前というか。
彼女の唇と自分の唇が合わさって、それから身体のいろんなところが触れあって。
抱き合って、重なり合って、絡み合って。
彼女が本当はどうだとか。
俺が本当はどうだとか。
二人の気持ちの前ではそんな垣根、最初からなかったみたいに求め合って。
今、別の部屋でモニカが寝てるのに。ノエルが寝てるのに。俺の身体の中にはテラが入りっぱなしなのに。
どこか脳の奥深くで、テラが何か喋っているような気はしていた。けど、そんなもの俺には聞こえない。
理性とか。
常識とか。
倫理とか。
そういうのはもう、どうでもいい。
ただ、美桜のことが好きで好きで好きで。
自分の喪失感を埋めるように、とにかく美桜を求めた。
彼女の吐息だけが頭に響く。
興奮していく。
自分が自分でなくなっていくように、ただただ本能のままに彼女を求めて。
こんなこと、許されるわけがないってわかっているのに、俺は自分を止めることができなかった。
脳が痺れる。
今まで感じてきたどんな感覚よりも気持ちいい。
彼女とひとつになる。
それがどういうことなのか、わかっているようでいないようで。
離れたくない。
壊したくない。
守りたい。
今後自分が消えてしまうかもしれないのに。
いや、消えてしまうのは間違いないってわかってるのに。
どうして俺は求めてしまうんだろう。
どうせ消えてしまうなら、大切なモノなんかなくしてしまえば良いのに。
こんな風に美桜と繋がってしまったら。
死ぬのが怖くなるじゃないか。
「死なないで」
腕の中で美桜が言う。
「死なないでよ。私の側から居なくならないで」
俺の心を見透かすように、彼女はそう続けた。
「昔話は昔話に過ぎないんだって思いたい。いくらシンがあの金色竜だったとしても、凌が救世主だったとしても。死んだら元に戻れないじゃない。二つの世界が平和になっても、凌が居ないんじゃ私、生きていく意味がない。だからお願い、死なないで。絶対に、死なないって誓って」
美桜、君はなんて健気で、無垢で。
「誓う」
そして俺はなんて、残酷で冷徹な。
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「あと三日、ですか?」
モニカが目をぱちくりさせる。
「なんとも残酷ですね。その間に何ができるでしょう」
強い日差しが朝から差し込み、リビングはやたらと眩しかった。
朝食を片付けながら、モニカがう~んと何度も唸り、それを間近で聞かされたノエルはげんなりと肩を落としている。
「半竜人のアレはあながち夢ってわけでもなかったって、証明されてる気がする」
黒い湖の底で古賀に言われた一言が、今になって刺さってくる。
「“こっち”でも古賀が同じことを言っていたとなると、冗談ってわけでもなくなりそうだな。要するに、カウントダウンは始まってるという意味で良いんだよな?」
「凌の言う通り、とにかくあと三日。夏休みが終わるまでの間に、古賀先生たちかの竜側が“表”のどこかで何か行動を起こそうとしているらしいのよ。本当はゲートを閉じている場合じゃないのかもしれない。私たちの知らないところで、かの竜はいろんなことを仕掛けているのかも」
美桜も神妙な面持ちで、手元の皿を洗っている。
「けどさ、何をしようとしているのか、全然わからないって不気味だな」
ノエルが言うと、皆一様に顔をしかめた。
台拭きでダイニングテーブルを拭く手を止め、俺もしばし考えにふける。
そう、わからない。相手の考え、相手の実体、相手の戦闘力が何もわからない状態で、俺たちは戦わなくてはならない。
まるで“悪魔”の正体もわからず、闇雲に戦っていた頃のような気持ち悪さがある。まぁ、“悪魔”に関しては、原因はわかったものの、その全てを解明できたわけではないのだが。
「一度……、集まってみたらどうでしょう。救世主様のお仲間と、ゲートの監視に協力している裏の干渉者たちを一箇所に集めて、情報交換をしてみるというのは?」
モニカが言うと、美桜は何度か頷いて、
「そうね。その方が良いのかも。本当は“向こう”で話し合いたいところだけど、モニカもノエルも干渉者じゃないし、シンと同化した状態の凌が“向こう”に行けるのかもわからないからそれは多分無理だろうし――。“こっち”で時間を調整して早急に打ち合わせるべきね。ゲートの状態含め、今どこで何が起きているのか全部把握しないと、多分勝てない」
昨夜語った不安を、美桜は微塵もにじませなかった。
スイッチの切り替えが上手いと言うべきか、それとも人に感情を探られないようにするのが上手いと言うべきか。
いつもと同じように凜として、ハキハキと動いている。
「芝山君たちとも連絡取ってみるわ。それから協会にも飛んでみる。なんだか途轍もなく、嫌な予感がするのよね……」
夏期休暇の後期補習や部活が行われている学校内で、彼らが何を企むのか。果たしてそれは臆測通り学校内で起きるのか。
かの竜が未だほんの少ししか手の内を見せていないような気がして、俺はふと身震いした。